『 リンの誕生日 』



(注) 前作『リンのうた』とは別の世界観の、ごく普通のリンとマスターの話です。

 起きたっていうと、少し語弊があるかもしれない。昨日の夜はあんまり眠れなかったから、寝たり起きたり、夢の狭間をたゆたいながら迎えた朝6時。
 12月27日。今日はわたしの誕生日だ。
 マスターを起こさないように静かにベッドから出ると、冷たい冬の空気に思わず一度身震いした。このままベッドに戻ってぬくぬくした世界に戻りたい気持ちを懸命に堪える。
 マスターは毎日頑張って働いているのに、1日のほとんどを気ままに歌って過ごしているだけのわたしが、マスターが2番目にわたしを必要としている朝の時間にさぼるわけにはいかない。
 カーテンの隙間から外を見ると、まだ暗いけどいい天気だった。向かいの家の屋根に昨日の雪が少し残っている。
 マスターはだらしなく眠っている。全然気の利いたことができない情けないマスターだけど、せめて今日くらいは素敵なサプライズを用意してくれるに違いない……と思う……あんまり自信ないけど……なくなってきた……無理かも……。
 ため息を一つついて、服を着替えた。


 朝ご飯の準備をしていたら、マスターがとても眠たそうに起きてきた。
「おはよう、リン……」
「おはようございます」
 いつもより高いテンションで言いそうになるのをぐっと我慢した。
 マスターは朝はいつも眠い。だから、あまりハイテンションで接して嫌な顔をされても悲しいので、マスターに合わせて抑揚のない声で言う。
 余談だけど、朝が弱いわけではないと思う。単に寝るのが遅いだけで、毎日わたしと同じ時間に寝れば、もっと元気に朝を迎えられるはずだ。
 もちろん、自分の時間が夜にちょっとしか取れないマスターに、やりたいことを昼の間に好きなだけやれるわたしの生活を押しつけるわけにはいかない。
「マスター、今日は何の日か知っていますか?」
 テーブルを挟んでパンをかじりながら何気なく聞いてみる。
 マスターは一度ちらっとカレンダーを見てから答えた。
「12月27日は、1227年の日だな」
 また、何かよくわからないことを言い出した。この思考回路が人の斜め上を行くのはマスターの数少ない魅力の一つだと思うのだけれど、理解してくれる人は少ないし、今日はあんまり嬉しくない。
「1227年の日ですか……」
「鎌倉時代に六波羅探題が設置された記念日だな」
「そうですか……。勉強になります……」
 ちょっとしょんぼりして視線を落とすと、マスターは少し困った顔をして、それっきり食べ終わるまで何も言わなかった。
 いけない。マスターを困らせちゃったと反省したけど、今日だけは許してもらおう。
 そのままもぐもぐ食べていると、先に食べ終わったマスターが、食器を流しに片付けてから、わたしの髪をくしゃっと撫でた。
「嘘だよ、リン」
 顔を上げたらマスターはもう歯を磨きに行った後だった。
 ああ、ちゃんとわたしの誕生日だってわかった上でからかっただけなんだ。
 現金にも、わたしの気持ちはそれだけで一気に回復した。
 嘘だと言った対象が、ロクハラタンダイが設置されたのは1227年じゃないということに対してだと知ったのは、だいぶ後になってからだった。


 そういうわけで、その日は一日わくわくして過ごして、夜はハンバーグカレーを作ってマスターの帰りを待っていた。
 量は少なめにしてある。マスターがケーキを買って帰ってくることは暗黙の約束だから、別腹じゃないマスターのために余裕を残しておいてあげないといけない。
 そんなふうにそわそわしながら、今か今かとマスターを待っていた。
 けれど、午後8時、いつもの時間に帰ってきたマスターは、いつも通り手にカバンを持っているだけだった。
「お帰り……なさい?」
 思わず首をかしげる。
「ただいま、リン。今日は何か変わったことは?」
「別に……何も?」
「ミクは?」
「今日は来てないけど……」
 困惑するわたしに気が付いたマスターが、靴を脱いでから不思議そうにわたしを見上げた。
「どうかした?」
「いえ。今日はハンバーグカレーです」
「そうか。それは素敵な食べ物だな。3大Japanese Foodに推薦したい」
「そうですね」
 気のない返事が漏れる。
 すれ違い際、マスターはそんなわたしの頭をポンと叩いて少し不機嫌そうに言った。
「今日のリンはちょっと冷たいな」
 わたしも、ちょっとカチンと来た。
 けど、何も言わなかった。ひょっとしたらケーキはともかく、カバンの中にプレゼントが入っていて、マスターはせっかくプレゼントを買ってきたのにわたしが冷たいから気を悪くしてしまったのかもしれない。
 それだとわたしが悪い。
 やきもきしながらテーブルを準備して、お風呂上がりのマスターと向かい合って座る。
 マスターはカレーの時はいつもそうするようにビールを飲みながら、今日はあまりわたしの方は見ずに、黙々と食べていた。
 わたしも俯いてもぐもぐ食べていると、少しずつ怒りが収まってきて、今度は悲しくなってきた。
 そういう、滅多にない沈黙の夕食を終えた後、とうとうわたしは言った。
「マスター、今日は何の日か知ってますか?」
 わたしが真剣な目をしていたからか、マスターはうーんと頭を捻った後、自信なさそうに言った。
「初めて会ってから8ヶ月記念……とか?」
「全然違います。もういいです。わたしここで泣いてますから、しばらく放っておいてください!」
 それ以上の会話をシャットアウトするように強く言って、わたしはテーブルに突っ伏して泣くことにした。
 えんえん泣いている間、マスターは本当にわたしを放っておいて、お皿を洗ったり、それが終わると奥で誰かと電話して、それも終わるとパソコンを起動して何事もないようにインターネットを始めた。
 仕方なくわたしもお風呂に入ってパジャマに着替えて、歯を磨くとさっさとベッドに潜り込んだ。
 最後の最後まで心のどこかでプレゼントを期待していたけれど、最後の最後まで何もなかった。
 もう暇をもらおう。
 さよなら、マスター。
 もちろんそれは冗談だけど、明日荷物をまとめてマスターを慌てさせてやろうとか思っていたら、いつの間にか眠ってしまった。


 翌朝、いつものように目覚まし時計より早く目が覚める。目覚まし時計に起こされるとマスターも一緒に起こしてしまうから、なるべく先に起きて止めるようにしている。
 隣を見るとマスターがいなかった。トイレかなと思って半身を起こしてぼんやりしていると、今日は早起きのマスターが嬉しそうにやってきた。
「おはよう、リン。誕生日おめでとう!」
「…………」
 何か言い出した。
 わたしは半眼でマスターを見て言った。
「マスター、わたしの誕生日は昨日です」
「いや、今日だろ? 27日」
「今日は28日です」
 びしっと指差したデジタル時計の日付が27日になっていた。少し固まってから携帯電話を手に取ると、これも27日になっていた。
「マスター、昨日の夜、わたしが寝てからわざわざ全部変えたんですか?」
「言っている意味がよくわからんが」
「昨日、1227年の日とか言ってたじゃないですか」
「じゃあ、1日が48時間になったんだな。はいこれ、誕生日プレゼント」
 にこにこしながら綺麗な包みを押し付けてきた。憮然としたままリボンを解くと、中にはハーモニカが入っていた。
 楽器は一通りなんでもできるから、1曲吹いてみる。低くてよく響くいい音がした。
「ありがと……」
「あんまり嬉しそうじゃないなぁ」
 マスターは釈然としないわたしの頭を楽しそうにぐりぐり撫でた。
「これ、いつ買ったんですか?」
「昨日だが」
「じゃあ昨日くれればよかったじゃないですか」
 唇を尖らせて上目遣いに睨むと、マスターはしれっと手を振った。
「前日にあげる意味がわからん」
 ベッドからのそっと起き上がって玄関に行き、郵便受けから新聞を取る。開くとそれは昨日の新聞だった。
 ここまで手が込んでいると、呆れを通り越して感心してしまう。
 さっとご飯を作って二人で食べる。マスターは今日は朝から嬉しそう。
「リンは誕生日が来ても14歳だな」
「そうですね。誕生日は誕生した日であって、歳を取る日じゃないです。ちなみに昨日です」
「面白いことを言うな。人間とエルフの恋みたいに、どんどん容姿や体力の差が開いていくな」
「そうですね。でも一緒に過ごした時間が変わるわけじゃないです。ちなみに昨日です」
「リンは可愛いことを言うな」
 変なテンション。この無茶苦茶な状況を無理矢理押し通そうとしているのだろう。
「ハーモニカはギターを弾きながら吹けるから、今日マスターが帰ってくるまでに、何か1曲練習しておきます」
「足でパーカッションもやるんだな。さすがは俺のリン。一味違う」
「やりません。やれませんから。今日は早く帰ってきてください」
「善処する」
 そんな、いつの間にかわだかまりのないいつもの朝。
 仕事に行くマスターを見送ってから電話機を見たら、これも27日になっていた。後で説明書を見て設定を直さないとと思う反面、なんだか本当に今日が27日の気分になってきた。
 ハーモニカを吹いてみる。思わずにんまりしてしまうわたしはきっと単純なんだろう。
 つけたテレビが今日の運勢を言っていた。
「12月28日水曜日、今日の運勢、ランキング1位はやぎ座です。やぎ座のあなたは……」
 まあ、いっか。