■ Novels


いのちのひかり
 すでに夜の帳が降りてから随分長い刻が経ち、街はひっそりと静まり返っている。近隣の家々の明かりも消えて、時折、すぐ脇の細い道路を自動車が走り抜けるエンジン音が聞こえてくる。
 真っ暗な空にはただ月だけがぽっかりと浮かび、それを彩る星は一つも出ていない。いや、星が宇宙から無くなる筈がない。ただ、都心の光に掻き消されて、本来のその美しい光を遮られているに過ぎない。
 そんな一面の黒の中で、この部屋の蛍光灯の白が目に眩しかった。それが、まるで虚ろの海にたゆたう一隻の小舟のように、ゆらゆらと揺らめいている。
 部屋の向こうには冷たい空気が張り詰め、別次元の空間が広がっている。階段にも一階のフロアにも闇が蔓延り、一歩足を踏み入れれば、もう二度と帰って来られないような、闇に呑み込まれてしまいそうな、そんな感覚が家中を包み込んでいる。
 俺は、しかし敢えてその中に身を投じ、隣の部屋のドアの前に立った。
『美希子のへや』
 そう書かれたドアのプレートは、もう4年か5年か前に、俺が妹の美希子にあげたものだ。その『美希子』の文字の上に、マジックで大きく『みーこ』と書いてある。あまり達者でないその文字は、美希子が自分で書いたものだ。
 平仮名の方が可愛いからと、美希子は言っていた。そして、彼女は自分で作ったその呼び方をひどく気に入っているので、俺もいつの頃からか、妹のことを「みーこ」とそう呼ぶようになっていた。
「みーこ。起きてるか?」
 コンコンとドアを2回ノックすると、静寂の間に音が戻った。
 ドアの隙間から光が見えないので、この部屋にも闇が巣くっているのは間違いない。けれど、俺がもう一度みーこの名を呼ぶと、中から妹の小さな小さな声がした。
「お兄ちゃん?」
「ああ。入るぞ」
 確認を取らずにドアを押し開いた。みーこの部屋の中は案の定黒がその猛威を奮い、目が慣れるまでしばらく、妹の姿さえ確認できないほどだった。
 けれど、みーこが明かりを点けていなかったのに、勝手に俺が点ける訳にもいかない。俺は目が慣れるまでしばらくドアの前で佇み、それからゆっくりとドアを閉めて部屋に入った。
 部屋の隅っこのベッドの縁で、みーこは膝を抱えて座っていた。表情は暗くて良く読み取れないが、少なくとも笑ってはいない。左腕で自分の膝をしっかりと胸元に抱き寄せ、右手で何かを指折り数えている。視線はその右手にあり、俺が近くまで来てもみーこは顔を上げなかった。
「何を数えてるんだい? みーこ」
 俺はみーこの前に立ち、無感情にそう尋ねた。無感情というと語弊があるかも知れない。憐れみや同情、そんな、恐らくみーこが望んでいない感情。それを俺は認めたくなくて、自分で無感情だと思い込んだ。
 みーこはやはり顔は上げずに、ただ何度も何度も指を開いては折り、開いてはまた折り曲げながら、やがてぽつりと短くこう答えた。
「17」
「17?」
 思わず俺が聞き返すと、みーこは身体を丸めたまま小さく頷いて、もう一度繰り返した。
「うん。17だよ、お兄ちゃん」
「そうか……。17か……」
 俺は深く溜め息を吐きながら、何も言わずにみーこに背を向けた。
 今みーこを見てしまったら、きっと俺は泣いてしまう。だから、闇色の天井を見つめて、ぐっと涙を堪えた。
 17……。
 17はみーこの歳だ。来年高校3年生になる。
 ……いや、なる筈だった。そしてみーこは、今高校2年生の筈だったが、しかし彼女は今、学校へは行っていなかった。
 俺は大きく息を吸い、それをゆっくり吐き出すと、再びみーこの方を見た。
 みーこはいつの間にか俺の頭を見上げており、まったくそれを予期していなかった俺は、みーこと目が合った瞬間、思わず驚きに肩をすくめた。
 そんな俺を見て、みーこが面白そうに口元を綻ばせた。
「どうしたの? お兄ちゃん」
「な、何でもないよ」
 俺はなるべく平常心を装いながら、そっとみーこの髪を撫でた。みーこは目を閉じて、嬉しそうに微笑んだ。
「なあ、みーこ」
 呼び掛けて、みーこの頭から手を離す。それからみーこが目を開いて俺を見るのを確認すると、やはり無感情にこう尋ねた。
「17、ちゃんと数えられたか?」
 みーこは初めどういう意味だか解らなかったらしく、しばらく首を傾げていたが、その内自分の中で俺の言葉の定義付けが完了したのか、年相応の深い頷き方をして、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「うん。みーこ、17、ちゃんと数えれたよ」
「そっか……」
 俺は反応に困って狼狽えた。それをみーこがあんまり心配そうに見るものだから、俺はみーこに顔を見られたくないと、無意識の内に彼女の小さな身体を抱き締めていた。
「お兄ちゃん?」
 困ったような、恥ずかしそうな呟き声。俺はそれには答えず、ただみーこの温もりを感じながら、気が付くとこう口走っていた。
「みーこ。これからどこかへ行こうか」
 言った本人が一番驚いた。何か考えあっての発言ではなかった。
 けれどみーこは何も考えず、或いは何も考えられずに、嬉しそうに、
「うん。どっか、行こ……」
 そう俺の耳元ではしゃいで、俺は、
「ああ。二人で、出掛けよう……」
 みーこに気付かれないように、静かに涙を零した。

  *  *  *

 闇の中に二人で並んで、誰もいなくなった家のドアに鍵を掛ける。
 この家には、俺とみーこの二人しか住んでいない。両親は、いない。多分どこかで生きているとは思うが、そんなことはもはや俺にもみーこにもどうでも良いことだった。
 車のドアを開けると車内灯が灯り、淡いオレンジの光が俺とみーこの足下に影を作った。
 俺はみーこが助手席のドアを閉めるのを確認してからエンジンをかけた。
 風の吹き抜ける『外』という世界の中で、この『車の中』という空間は、一種の家のように不思議な安心感を与えてくれた。みーこも俺と同じらしく、シートベルトを握り締めて、柔らかく微笑んでいる。
 俺はアクセルを踏んだ。
 主要道に出ると、周りの車のライトと街灯の光が眩しかった。そして無数のエンジン音が辺り一帯を覆っていたが、人の気配は感じられなかった。ひどく無機質な、車という鉄の塊の他に、動くものは何一つ無かった。
「みーこ。どこか行きたい所はないか? お兄ちゃん、みーこの行きたい所なら、どこへだって連れてってやるぞ」
 ハンドルを握り締め、前方に目を遣ったまま、俺はみーこにそう問い掛けた。もとより行き先などなかったので、もしもみーこに行きたい場所があるならそこへと思ったのだ。
 みーこは助手席のドアの窓から外を見たまま、すぐに答えた。
「遠く……」
「遠くか……」
 何とも抽象的な答えに、俺は苦笑を禁じ得なかった。
「遠くって言っても色々あるぞ。みーこはどんな所に行きたい?」
 みーこは今度は「う〜ん」と唸り声を上げ、しばらく考えてから、やにわに俺の方を見て言った。
「山がいい。暗くて、静かで、人がいない所」
「そうか……」
 それ以上、俺は何も言わなかった。
 一度だけちらりとみーこの方を見ると、みーこは再び窓枠に肘を掛けて、窓から外を眺めていた。ライトの白が線になって流れていくその様を、退屈そうにじっと見つめていた。
 俺はそんなみーこを横目に眺めながら、小さな、みーこに聞こえないくらいの溜め息を吐いた。そして胸に鋭い痛みを覚えながら、みーこの事を考えていた。
 それを知ったのは、もう何年も前のことだった。
 みーこは……俺の妹の美希子は、脳に微かな障害を持って生まれてきた。それは本当に微かなものだったので、親も、俺も、周りも、そして妹本人さえも、誰もそのことに気が付かなかった。
 他人と決定的な差が現れ始めたのは、みーこが小学校の高学年の時だった。それでもみーこは、他人よりも少しだけ頭が弱い程度で十分生活出来たので、中学校にも進学した。
 けれど、中学校を卒業することは出来なかった。
 中学校を中退したみーこは、それでもまだ元気で明るい女の子だった。俺と一緒にいる時はいつも笑顔だったし、悲しい時は泣き、腹の立つ時は怒った。稚拙なものの考え方と言動、それさえ除けば、感情豊かな、ごく普通の女の子だった。
 だから俺も、親も、みーこを愛し、慈しみ、そして可愛がった。
 あの日、あの一言が、俺の鼓膜を震わすまでは、少なくとも……。
「残念ですが娘さん、20歳までは生きられないでしょう」
 担当医のその一言を、俺とみーこは偶然にも病院の廊下で耳にしてしまった。俺は愕然となり、みーこは自分のことよりもむしろ、突然動きを止めた俺のことを心配していた。
 苦しくても平穏な、そんな小さな未来が、闇に閉ざされた。
 それから数週間後、両親が忽然と姿を消した。
 娘を愛しているから、だからあまりの辛さにいれなくなった。
 そんなのは詭弁に過ぎない。自分を正当化するための適当な言い訳だ。
 俺はみーこを愛している。心から愛し、心から彼女の生を祝福してあげたい。だから、ずっと彼女と共に生き、そしてやがてその時が訪れるまで、ずっと側にいてあげようと、二人っきりになったその日、心に誓った。
 それからみーこは生きた。死の宣告から3年、みーこは何事もなく生きてきた。
 そんなみーこの様子が、最近少しだけおかしくなった。一人でいる時はいつもぼーっと空を眺め、夜はああして一人で膝を抱えては自分の生きてきた月日を数え、時には深く溜め息を吐き、時には涙で目を腫らし、まるで自分の死期を悟ったかのように、或いは病が進行してしまったのか、みーこは不可思議な言動を繰り返すようになった。
 それでもまだ、俺の言葉にはしっかりと受け答え出来たし、日常生活には何の問題もなかった。ただ、それでもやはり悲しかった。
 何もかもが悲しかった。
 何もかもが悔しかった。
 何もかもが恨めしく、何もかもを憎みたかった。
「お兄ちゃん?」
 不意にみーこの声がして、俺は現実に引き戻された。
 知らぬ間に、俺は山道を走っていた。
 出発してからすでに三時間以上走り続けている。
 辺りには人影はもちろん、車すらなく、街灯の一本も立っていない。
「みーこ……」
 俺が速度を緩めてみーこを見ると、みーこはひどく虚ろな表情で、しかしはっきりとこう言った。
「お兄ちゃん。どうして泣いてるの?」
「えっ?」
 みーこの言葉に、俺は初めて自分が泣いていることに気が付いた。そして、俺が自分でも今気が付いたということを悟ったのだろう。みーこがまた窓の方を見て、力なく呟いた。
「ひどいよ。みーこ、まだ生きてるのに……」
「…………」
 あまりのその言葉の重みに、俺は何も言えなかった。余計に涙が溢れてきて、視界がぼやける程だった。
 みーこが、自分が若くして死ぬと言うことを知っていたという事実に、あの日の医師の言葉を理解していたという事に、そして、知っていながらそれでも強く、決して投げ出さずに生きてきたみーこに、俺は掛けてやる言葉が見つからなかった。
「ごめん……みーこ……」
 震える声は、もはや言葉にならなかった。
 それでもみーこは「うん」と頷き、俺を見て小さく微笑んでくれたから、俺はただ「ありがとう」と、心の中で礼を言うしか出来なかった。

  *  *  *

 もはや舗装さえされていない細い細い道を登り、林立する木々を掻き分けるようにして車は山道を突き進んでいった。
 そしてどれくらい登ったろう。もはや辺りには木しか無くなった狭い空間に車を止めて、俺とみーこは車外へ出た。
 途端に吹き付ける冷たい風と、身にまとわりつく凍て付く空気に、みーこがぶるりと一度肩を震わせ、
「寒いよ、お兄ちゃん」
 と、悲しそうな声を上げた。
 俺は車に常時積んである毛布を取り出し、それをマントのように妹の身体に巻き付けた。みーこは「ふかふかだ〜」と喜んでいた。
 虫の音と、木と、闇だけがあった。それでも辺りは明るくて、俺は不意に空を見上げて──
 ……驚きに目を見開いたまま、呆然と、立ち尽くした。
「あっ!」
 みーこもまたそれに気が付いたらしく、俺と同じようにしてぽかんと口を開いている。
 見上げたそこに、空があった。
 大きな月と、輝く無数の星々に彩られた美しい空が、まるで手の届きそうな程低い所に広がっていた。
「こ、これは……」
 感嘆の声が洩れた。
 初めて見る光景だった。神秘的とか、もはやそんな俗っぽい言葉では決して語れないような、美しい、どこまでも美しい星空が、今にも落ちてきそうに、俺たちの頭上に、静かに、広がっていたのだ。
「綺麗……」
 みーこがうっすらと瞳を輝かせて呟いた。
 みーこの瞳に星の光がキラキラと反射して、やがてそれが、光の滴となって頬を流れ落ちた。
 もはやどこかもわからない山奥に、いや、もはや本当に地球上の場所なのかも怪しいこの幻想的な世界に立って、俺とみーこは二人きりで、ずっと、ずっと、この美しい星空を見つめ続けた。
「……いきたい……」
 星が囁くようなみーこの呟き。
 視線を移すと、みーこはボロボロと涙を零し、唇を震わせて、泣きながら、もう一度、
「いきたいよ、お兄ちゃん……」
 そう、悲しそうに、苦しそうに、もどかしそうに、呪うように、憎むように、でも、夢はいつかは醒めるのだと、すべてを悟り切ったように、小さな声を洩らした。
 そしてみーこが瞳を閉じたその時、
「あっ!」
 空に、白い流線型を描きながら、一つの小さな星が流れ落ちた。
「お兄ちゃん?」
 みーこの声。
 俺は不思議がるみーこの身体を思い切り抱き締めて、耳元で囁いた。
「帰ろう、みーこ。家に帰ろう。そして、二人でずっと暮らそう。いつまでも生きよう。俺がみーこを守ってやるから。だから、みーこ。お前はずっと俺の側で笑っていろ。なっ」
 みーこは俺の胸の中で大きく頷いて、嬉しそうに言った。
「うん。帰る。お兄ちゃんと一緒に。みーこ、お兄ちゃんが好きだから。ずっと、ずっと一緒にいようね。ずっと、ずっと、ずっと……」
 ずっと、みーこと一緒にいたい。
 小さなこの生命。
 生まれてきて、そしてただ悲しみだけを残して消えて行くなんて、そんなこと、たとえ神様が許しても、俺が許さない。
 みーこは俺が守り抜くから……。

 だから、消えないで。
 いつまでも。
 その想いと。
 愛と。
 心。

 忘れないで。
 月日と。
 この名と。
 夢と。
 生命を。

  *  *  *

 川が流れていた。
 一級河川だ。大きいけれど、水は淀みなく澄んでいて、手を浸すとひんやりとした感触が気持ち良かった。
 俺は手を洗い終えると、急いでみーこの許へ戻った。
 近くの河原。
 風が気持ち良かったから、みーこが寄りたいと俺にせがんで、山からの帰りに二人で立ち寄ったのだ。
 空は白み始めているが、朝日はまだ昇っていない。
 時々堤防の上を犬の散歩をするおじさんたちが歩いて行ったが、ここまでは誰も来なかった。
 俺とみーこは土手の上に腰を降ろして、互いに肩を寄せ合っていた。
「ねえ、お兄ちゃん……」
 囁くようなみーこの声。
 俺は川を見つめたまま答えた。
「何だ?」
「風、冷たくて気持ちいいね」
「ああ。少し寒いけどな」
「…………」
 みーこは押し黙り、次に口を開いた時は違うことを言っていた。
「ねえ、お兄ちゃん……」
「何だ?」
「みーこ、生まれてきて良かったんだよね?」
「……当たり前だろ。怒るぞ」
「……ごめんなさい……」
 すぐそこから、川のせせらぎが聞こえる。
 街はまだ動き始めていない。時々堤防の上を車が駆け抜けていく。
「ねえ、お兄ちゃん……」
「何だ?」
「朝日、まだかなぁ……」
「もうすぐだろ……あっ!」
 答えるが早いか、東の空にかかった雲が朱に染まり、そこから真っ赤な太陽が、まるで母親の胎内から出てきたばかりの赤ん坊のように、ゆっくりと姿を現した。
「ほら、見てみろみーこ。朝日だぞ」
「…………」
 みーこはしばらく黙っていたが、不意に困ったようにこう言った。
「ごめんなさい。良く、見えないよ……」
「みーこ?」
 俺が訝しがってみーこを見ると、みーこは俺の肩に顔を乗せたまま、瞳を閉じて俯いていた。
「当たり前だろ、みーこ。目を開けなきゃ、前は見えないぞ。ほら、みーこ」
 俺はみーこの肩を抱き、小さな身体をそっと朝日の方に向けた。
 それでもみーこは瞼を閉じたまま、ただ体重を俺の身体に預けるだけだった。
「みーこ?」
「ねえ、お兄ちゃん」
「何だ?」
「今、どんな風か解説してよ」
「みーこ……」
 俺はみーこの身体を抱き締めたまま、涙でぼやける景色をしっかりと見据えた。
「よし、良く聞けよ、みーこ。まず、東の空に真っ赤な朝日があるぞ。ちょうど親指と人差し指で輪を作ったくらいの大きさだ。雲がたなびいてて、下っ側が太陽よりも少し薄めの赤に染まってる」
「うん……」
「こっから見える橋……ほら、国道の大きな橋だ。あそこを今、大型バスが走っていった。まだ時間は早いけど、国道はそれなりに混んでるぞ」
「うん……」
「堤防の上をおじいさんとおばあさんが歩いていった。多分散歩だろうな。おじいさんの方が杖をついてたぞ」
「…………」
「みーこ? 聞いてるか?」
「うん……」
 みーこはそう頷いて見せるも、まったく身体を動かそうとはしなかった。そして首を前に傾けたまま、熱っぽく俺に呼び掛ける。
「ねえ、お兄ちゃん……」
「何だ?」
「ありがとう」
 俺は泣きながら、強く、強くみーこの身体を抱き締めた。
「な、何だよ、みーこ。他人行儀だなぁ。礼なんて、いいんだよ」
「うん……」
「みーこ……」
 俺が呟くと、みーこは、
「他は?」
 と、声だけで俺にせがんだ。
「えっ?」
「他には何が見えるの?」
 俺は再び顔を上げたが、もはや涙で目には何も写らなかった。
 だから俺は、みーこと同じように目を閉じて、心のままに、思い付くままに風景を語った。
「堤防の上をバイクが走っていった。その後ろをでっかいトラックが、バイクを追い掛けるようにして走っていった。自転車に乗っていた女の子は若かったぞ。みーこと同じくらいかな?」
「うん……」
「青空の下を鳩が二羽飛んでいった。それから……それから……」
「お兄ちゃん……」
 みーこが弱々しく俺を呼ぶ。
 俺は力強く頷いた。
「何だ?」
「……ありがとう」
 涙が、止まらない。
 悲しくて、ただ悲しくて……。
「ああ。気にするな。何も気にするな。俺はお前が好きだから。心の底から愛してるから。だから何も気にするな。いいな?」
「うん……」
「よしっ!」
 俺はみーこの髪を撫でたが、もはやみーこが俺の手の感触を受け止めてくれているかは分からなかった。
「お兄ちゃん……」
「何だ?」
「みーこ、生まれてきて良かったんだよね?」
 同じ質問。
「あ、当たり前だ……怒るぞ……終いには……」
 俺は、さっきと同じように答えようとして、出来なかった。
「ごめん、なさい……」
 みーこの身体が冷たい。
 どれだけ抱き締めても。
 どれだけさすっても。
 どれだけ愛しても。
 どれだけ願っても。
 どれだけ祈っても。
 どれだけ信じても。
「みーこ、生まれてきて良かった。お兄ちゃんの妹で、幸せでした……」
「みーこ!」
「ねえ、お兄ちゃん。他に何が見えるの?」
「……っ……!」
 俺は勢い良く顔を上げた。
「空は青いぞ。昨日と同じ色だ。そう言えば分かるよな?」
「…………」
「遠くに駅の高いビルが見える。昨日や一昨日とまったく同じだ」
「…………」
「朝日はもう赤くない。白く輝いてるけど、また夕方には赤くなる。間違いない」
「…………」
「いつもと同じ朝だ。いつもと同じ、いつもと何も変わらない朝だぞ、みーこ」
「…………」
「みーこ、みーこっ!!」
 俺はもはやピクリとも動かないみーこの冷え切った身体を抱き締め、声を上げて泣いた。
「約束……したのに……。ずっと一緒にいるって……みーこ、そう言ったのに……」
 俺の声に、しかしみーこはもう答えない。
 みーこはもう笑わない。
 みーこはもう怒らない。
 みーこはもう泣いたりしない。
 みーこはもう俺と話をしてくれない。
 みーこはもう、ここにはいない。

「約束……ずっと……いるって……」

 人の生命の数だけ星の光はあるという。
 そしてその生命の潰える時、星は、流れ落ちるのだと。
 あの時、俺の見たものがみーこの生命だったかなんて分からない。
 でも、あの星空は、溜め息が出る程美しく、そして、あまりにも儚かった。

 誰にも知られずに消えていった小さな生命。
 でも、
 その生命の輝いていた日々を、
 俺は決して忘れないから。
 この、いつもと何も変わらない空の下で、
 俺はずっと生きていくから。
 だから美希子。
 君も、思い出の中で、
 いつまでも、
 ずっと、いつまでも、
 明るく笑っていて欲しい。
 俺の前に続く、この長い長い道の途中で、
 後ろから、
 優しく支えていて欲しい。

 そうして、また、
 二人で歩いていこう。
 春も、
 夏も、
 秋も、
 冬も、
 昨日と同じように、
 明日も、
 いつか、この道の終わるまで、
 いつまでも、
 二人で歩いていこう。

 ありがとう。
 さようなら。
 そして、
 これからも。
 いつまでも。
 いつまでも……。
Fin