■ Novels


消えゆくもの 生まれくるもの
 あの懐かしい、潮の香りのする風が、服の袖を揺らしていった。
 俺は駅を下り、額に手をかざして空を見上げた。
 初夏の眩しい陽射しが、町を照らし付けている。
 昔より少し暑いと感じたのは、俺が弱くなったからでも、地球温暖化のせいでもないだろう。
 立ち並ぶビルとマンションの隙間に、あの頃よりも随分低くなって広がる空。
 生暖かい、湿り気を帯びた風が、窮屈そうに暑さを山の方へと押し運んでいる。
 この町もだいぶ変わった。
 俺はそう思いながら、ふと降り立った故郷の地を歩き始めた。

 色あせた商店街は、すっかり活気を失って、時折風雨に打たれたシャッターの汚れが目についた。
 その店の前を、携帯電話を片手に、スーツ姿のサラリーマンが、忙しそうに歩き去っていく。
 以前来たときより多くなったように感じる、黒い電線の上に、地上に居場所を失った鳩が数羽、退屈そうに空を眺めて首を傾げていた。今でも彼らが群をなし、空を旋回する光景が見られるのだろうか。
 バス停に並ぶ学生たちを避けるようにして、俺は商店街を抜けて角を曲がった。
 そこには、懐かしい景色と、真新しい営みが、奇妙なバランスで混在していた。
 昔ながらの木造家屋を見下ろすようにして立つ、クリーム色のマンション。老いた夫婦が散歩している神社の横には、広いアスファルトの駐車場があった。
 そして、そこから少し歩いたところに立つ俺の母校には、見覚えのない、綺麗な体育館があった。
 ここも変わったな……。
 たぶん、俺が小学生だった頃の先生たちは、もうここにはほとんど残ってないだろう。もしくは、まったくか。
 俺はそんな郷愁に駆られてから、小さく笑った。
 なにも変わったのは町だけじゃない。
 この町を出てからの十数年の間に、俺も変わった。
 大人になり、会社に勤めるようになった。
 そして、最愛の人と結婚して、子を授かった。その子も今年から小学生だ。下の子も幼稚園に入園する。
 すべては時の中に移ろい、変化していく。それは、決して不思議なことではないし、悲しむようなことでもない。
 形を失ったすべてのものは、それに関わった者たちの心の中に、思い出として輝き続け、新たな世代の、新しい営みを育んでいく。
 昔の景色という殻を破って、生まれてきたものたちの……。

 かつて俺が住んでいた家は、その周囲の幾つかの家とともに、大きな駐車場になっていた。
 その駐車場のフェンスの横を通りながら、ふと中を覗いてみると、小さな子供が、父親に手で支えてもらいながら、ふらふらと自転車に乗っている姿が見えた。補助輪を取り終えたばかりなのだろう。
 俺の子供も、もう少ししたら、あるいはそろそろ、あの子のように一人で自転車に乗るのだろう。
 子供の頃、初めて自転車に乗れたときに感じた喜びと、親として交通事故を心配する心が入り交じる。
 俺は、ゆっくりとかつて暮らした場所を通り過ぎ、遠く前方にそびえる建物に目を遣った。
 かつて俺の通った高校。そしてその向こうに広がる海。
 今年もまた、昔のように海水浴客で賑わうのだろうか。
 夏休みの部活の帰りに、友人たちとよく繰り出した、あの種類の豊富なかき氷屋はまだ残っているのだろうか。
 海は綺麗だろうか。
 気が付くと、俺の足は海の方へ向かっていた。
 学校に行けば、あの国語の先生に会えるだろうか。
 俺が高校生だった頃、美人で有名だった英語の先生は、まだ美人でいるだろうか。
 いくつもの思い出が胸の中をよぎる。
 あの日と変わらぬ、この果てしなく青い空の下に……。
Fin