■ Novels


恋の色
 歌声で目が覚めた。スローテンポなピアノの音色が、開けっ放しの窓から上がり込む。
 天気はいいらしい。眩しい陽射しをカーテンが懸命に遮っている。
 時計の針は10時丁度を指している。
 起きて最初に日めくりカレンダーを1枚破る。すぐに挫折するかと思ったが、なんとか3分の2くらいまで薄くできた。
「男は魂」
 カレンダーに書いてある『今日の格言』を読み上げる。意味がわからないが、「魂」を「ソウル」と読んだらキムチが食べたくなった。
 カーテンを開けると、案の定快晴の下、ベランダで洗濯物がはためいていた。いつの間にか親が上がってきて干したようだが、それすら気付かず爆睡していた。窓が開いていたのもそのせいか。
 そして洗濯物の向こう側、道路を挟んだ向かいの家で、女の子がピアノを弾いていた。
 セミロングの黒い髪、少し痩せぎみの体型、背は自分のマイナス10センチくらい。顔は見えないが、鼻の高い綺麗な顔立ちなのを知っている。服装はいつもと同じ味気ないオレンジ色のジャージ。それだけが爽やかな空気にそぐわない。 
 大宮家の一人娘の清香さん。「清香」と書いて「さやか」と読ませるのが今風なのかはわからないが、清らかに香る女の子に育っているので、親御さんの思いは成就したと言っていい。
 向かいの家だから仲がいいかというとそうでもなく、幼なじみですらない。
 元々あった古い家屋が取り壊されたのが三年前。その後、空き地で建設工事が始まって、大宮家が引っ越してきたのが去年の春。
 丁度高校の入学式に合わせたのだろう。今では自分と同じ学校の制服を着て、同じ学年色のバッジをつけている。
 家族的な近所付き合いが少しだけあるものの、それほど深くもなく、年齢的なものもあって自分もほとんど清香さんとは話していない。
 血液型も知らない。好きな食べ物も知らない。どこの中学校だったのかも知らない。彼氏がいるのかも知らない。
 知っているのは夜寝るのが早いこと。ピアノが上手なこと。初めは控えめに歌っているのに、だんだん声量が上がってくること。それくらい。
 それにしても、綺麗な歌声だ。
 ジャージの天使。
 そんな中二病っぽいあだ名をつけて、けれども実際にはそんなあだ名で呼ぶことも、話しかけることもなく、お互いに認識はしているが意識はしない、そんな関係がこれからも続いていく。
 この一年ちょっとと同じように。
 そんなことを思いながら、一度両腕を上に伸ばして、少し出遅れた今日という日を始めることにした。

 急変の前触れはなかったとしか言いようがない。
 特にすることもない日曜日。昼過ぎに駅前のゲームセンターを訪れ、ボタンが4つのシンプルな音ゲーに没頭すること3時間。
 財布が軽くなったのでそろそろ帰ろうと店を出た瞬間、目の前の光景に数秒間立ち尽くした。
 あれだけ天気が良かったのが嘘のように、いつの間にか外界は分厚い雲が空を覆い、冷たい雨がアスファルトを打ち付けていたのだ。
 本来ならビニール傘の金も惜しいのだが、そういう次元の降りではなかったので、やむを得ず隣のコンビニで傘を買う。この突然の雨に、まだ残っていただけでも僥倖だろう。
 午前の暖かさが嘘みたいな冷たい風に、身を震わせながら家路を急ぐ。
 その途中で車のタイヤが水を撥ね、ズボンが汚れた時には、今日はもう終わったと思ったものだが、家に辿り着くともっと悲壮な顔をした女の子がいた。
 大宮家の清らかに香る一人娘が、ずぶ濡れになって軒先で震えていたのだ。
 文字通りの濡羽色の髪から頬を伝う滴は涙のようにも見え、紫に変色した唇が痛々しい。濡れた服が肌に張り付き、自分の体を抱きしめるようにして立ち尽くしている。
 それを見て咄嗟に考えたのが、いかにあの子に気付かれずに自分の家に入るかだった。
 清香嬢のことは好きか嫌いかと言われたら好きな部類だったが、この状況で話しかけるのは面倒に思えたし、気の利いた解決を提示できるとも思えない。
 所詮、物語の主人公にはなれないタイプだ。
 話しかけるより駅に戻る方が気楽に感じたので、踵を返そうとした刹那、不意に顔を上げた清香嬢と目が合った。
 無感情。すがるような目でもなければ、驚くでもなく、恥ずかしがるでもなく、ただ向かいの家の同級生を視認しただけの瞳。
 仕方なく、近付いて話しかけた。
「どうしたんだ?」
 思えば、声をかけたのはいつ以来だろう。始業式のすぐ後に校門でばったり会って、軽く会釈をした記憶があるが、それより以前は思い出せない。
「鍵がなくて。持って出かけたと思ったんだけど……」
「親は?」
「電話したら、夜になるって」
 状況を整理するとこうだ。
 清香嬢は鍵を持たずに家を出て、突然の雨に濡れて帰ってきたら両親は出かけてしまい、中に入れなくなってしまった。駅に戻るにも傘が無いし、すでに濡れすぎていてどうにもならない。
「それは、大変だな」
 ひとまず共感の意を示しながら、次に打つべき手を考えた。「じゃあ、俺はこれで」と言って帰るのは下の下。一度家に戻ってタオルを持ってくるのは下の中。
 下の上は、家に招いて母親に後を押し付ける。これが一番ましに思えた。
「とりあえず、うちに来る? 親がいると思うから、まあ適当にあったまって、帰って来るまで待つ?」
「迷惑じゃなければ、是非」
 清香嬢はそう即答した。特に親しくもない同級生の家に上がるのは、本来あまりしたくない選択肢だろうが、この子ももう打つ手が下の中くらいしか残されていないのだ。
 ずぶ濡れの同級生を伴って自宅のドアに手をかける。
 母親になんと言って頼もうか。そんなことを暢気に考えていたが、次の瞬間、まさかの展開がそんな気楽な思考を吹き飛ばした。
 ドアに鍵がかかっていたのだ。
 想定外だった。こんな面倒なことになるなら、もう一時間、ゲームセンターにいるべきだった。
 一度小さくため息をついてから、同級生を振り返る。
「大宮さん、嘘をつく気はなかったんだけど、鍵がかかっている」
「須賀君も鍵を持ってないの?」
「いや、鍵はあるけど、家に誰もいない」
「別にいいけど」
 少し眉根をひそめて、清香嬢が怪訝な顔をする。
 それを見て気が付いた。家で二人きりになることを意識しているのは自分だけで、この子はまるで気にしていない。つまり、自分が意識していることを悟られたら、あらぬ勘違いを招く恐れがある。
 だから、余計な心配は廃棄して、「確かにそうか」と独りごちて鍵を開けた。
 親に押し付ける計画も没になり、下の上案は下の中くらいまで降格したが、ロードできるセーブポイントは存在しない。
「お邪魔します」
 先ほどより幾分明るい声でそう言って、安堵の表情を浮かべた清香嬢が入ってくる。
 今日は運が悪い日なんだ。そう諦めるしかなかった。

 さて、女の子を家に上げたものの、どうしたらいいのかまったくわからなかった。5秒間、頭をフル回転させた結果、脳裏に浮かんだのがエロマンガのワンシーンだったので、その選択肢は速やかに投げ捨てる。
「とりあえず、どうしたい?」
 直接聞いてみる。下手な案を提示して裏目に出るより、少々情けないが、清香嬢が今望んでいることを確実にこなした方がいい。
「髪を乾かして、できれば服も変えれると嬉しいけど……」
「俺のジャージでもいい? オレンジじゃないけど」
 失敗した。何を口走っているのか。
 先日何かの動画で見たキャラのように連呼したい。失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した……。
 案の定、清香嬢は驚いた目で俺を見た。綺麗な黒い瞳に、部屋を覗き見している変態の姿が映っている。
 死にたい。
 どうすれば死ねるかを考え始めた時、清香嬢が小さく笑った。
「黄色の水玉パジャマでもいいけど。とりあえずドライヤーを借りるね。どこ?」
 呆然と洗い場を指差すと、清香嬢はもう俺の方は見ずにそっちへ歩いて行った。
 しばらく動けなかった。黄色の水玉は、自分がいつも着ているパジャマの柄だ。
 こっちが向こうの普段着が目に入ってきて、特に興味はないがなんとなく覚えているように、向こうもこっちの服を見ていて、覚えている。
 時々ピアノを弾く清香嬢を見ていながら、自分も見られているとは考えたことがなかった。
 いや、それよりも──。
 それよりも重要なのは、今の会話を清香嬢がそう切り返してきたことだ。
 見られているのはしょうがない。お互い様だから気にしていないと言ったのだ。
 その瞬間に、自分の中で決定的な何かが変化した。理由はわからないけれど、面倒なだけだったこのイベントが、綺麗な色を帯びた。
 清香嬢と、そして清香嬢の中にいる自分のことが気になり出した。
 奇妙な胸の高鳴りを抑えられず、自分の部屋に駆け上がる。
 そしてクローゼットから学校指定のジャージを引っ張り出して1階に戻ると、さっきまで聞こえていたドライヤーの音が止まって、ちょうど清香嬢が出てきたところだった。
「これ、ジャージ。何かあったかい物でも入れるよ」
 返事も待たずにジャージを押し付けながら、内心で自分の吐いた言葉にどぎまぎした。いつからそんな気の利いたことが言えるようになったんだ?
「ありがとう」
 いつもより高い声でそう言った清香嬢を背に、台所へ向かう。
 棚から自分がいつも使っているマグカップを取り出して、冷蔵庫から牛乳を出して注いだ。
 それをレンジにかけながら、改めて冷静に「今」を分析してみる。
 ほとんど話したこともなかった向かいの天使が、今自分の家にいて、しかも二人きりだ。つい数時間前は、ゲームセンターで一人でゲームをする日常だった。
 二人きり。
 元々清香嬢のことは親に押し付けるはずだったのに、今となっては親に帰ってきてほしくない。それは二人でいたいからか、変に誤解をされて、その誤解を解くのが面倒だからかはよくわからない。
 その答えを出すには時間が短すぎた。
 チンとレンジが音を立て、ほとんど同時に清香嬢がやってきた。
「さすがにちょっと大きい」
 長い袖を子供じみた動作で見せて、まだ少し青ざめた顔で無邪気に笑う。
 着替えたからといって、冷えた体が温まったわけではない。ぶるっと肩を震わせるのを見て、反射的に言った。
「これ、飲んで。俺、部屋の暖房をガンガンに入れておく」
「あっ、うん。ありがとう」
 清香嬢が驚いた顔をする。
 挙動不審だったろうか。だけど、この非日常の事態を華麗に乗り越えられるほど多くの経験をしてきていない。少々の不格好は許してほしい。
 階段を上る前に一度だけ振り返った。
 ブカブカのジャージを着て、清香嬢が牛乳を飲んでいる。自分のジャージを着て、自分のマグカップに口をつけて──。
 服は別になんでもよかった。カップもどれでもよかった。それなのに、無意識に自分のものを選んでしまった。
 自分がどんな顔をしているのか怖くなって、急いで階段を上がった。

 つまりはすべて自業自得で、やましい気持ちの一切ない善意の結果発生したこの状況を、清香嬢は内心どう思っているのだろうか。
 暖房を入れた自分の部屋で、自分のジャージを着て、自分のベッドの上で、自分の毛布にくるまって、清香嬢が座っている。
 さっき見せた清香嬢の驚きの表情は、勢いに対するものかと思っていたが、そうではなかった。同級生の男子が、自分の部屋に招いたことに驚いていたのだ。
 散らかっていないのは幸いだったが、それでもマンガしか入っていない本棚と、無造作に放り出されたゲーム機、横向きに押し込まれたCD類、勉強している痕跡のない勉強机は、あまり胸を張って女の子に見せられるものではない。
 冷静に考えれば、場所はリビングでもどこでもよかった。
 恥ずかしさ半分、椅子に座って何を言おうか考えていると、窓の外を見ていた清香嬢が先に口を開いた。
「ちょっと新鮮だったのは、須賀君の部屋から私の部屋がどう見えるのかわかったことかな」
 想像だにしなかった一言に、はっとなってベランダの向こう側に目を向ける。今はカーテンが閉まっていて中は見えないが、部屋の持ち主にはどの範囲が見えているのか推測できるのだろう。
「まじまじと見たことはないから」
 余計な言い訳に聞こえたかもしれない。それでも名誉のためにそう言うと、清香嬢は可笑しそうに目を細めた。
「わかってるって。お互い様だし」
 優しい瞳。血色の戻った唇はツヤツヤとして、そこから紡ぎ出される声の響きに胸が高鳴った。
「大宮さんは、ピアノが趣味なの? 土日は大抵弾いてるけど」
 無難な話へ持って行く。
 話題の選択としては間違っていなかったようで、清香嬢は明るい表情のまま答えた。
「せっかく前の家から持ってきたし、趣味って言えば趣味かな。小さい時からやってるし」
「コンクールとか? よく知らないけど」
「小学生の時はね。中学で合唱部に入って、最近は歌うのが好きかな」
「歌、上手だもんな」
 ああ、意識しないとこんなにもさらっと相手を褒められるのかと、自分で少し感心した。
「聴いてるの?」
「聴こえてる。声がどんどん大きくなるの、自分で気付いてないの? 今日も大宮さんの声で目が覚めた」
 清香嬢が微かに顔を曇らせる。
「迷惑にならない時間に弾いてるつもりだけど」
「迷惑とは言ってない。そう聞こえたならごめん」
 すぐに謝ると、清香嬢がほっと息を吐いた。どうやら気を悪くしたわけではないようだ。
「趣味っていうと、須賀君は音楽鑑賞? ほら、入学式の日に……」
 そこまで言って、清香嬢は言葉を切り、珍しく慌てた顔をした。
「別に意識して覚えてたわけじゃなくて! ほら、私中学がこっちじゃなくて知り合いもいなかったから、向かいの男の子が物理的に一番近かったって言うか、それだけだから!」
 まとめるとこういうことだ。
 1年の時、清香嬢とはクラスが同じだった。入学式の日に自己紹介があって、特に何も考えずに趣味は音楽鑑賞と言ったのを、清香嬢は覚えていた。けれどそれは、気になった相手だからというわけではなく、唯一知っているクラスメイトだったからという理由で、他意はないと。
 内容はどうでも良かった。ただ、動揺した清香嬢を見たら、逆に少し落ち着けた。
「音楽鑑賞は無趣味の代名詞だろ」
「クラシックとかは聴かないの? 全然興味無し?」
 そう聞くということは、清香嬢は少なからず興味があるのだろう。
「曲とタイトルが一致するのは『悲愴』くらいだな」
「悲愴……」
 よくわからない反応。
 いずれにせよ、この話題はダメだ。自分がついて行けない。
「こっちに来る前はどこに住んでたの?」
 さらっと話を変える。清香嬢も特に気にした素振りを見せずに話についてきた。
 それからしばらく、出身地の話をしたり、中学時代の話をしたり、今の授業とか、部活のこととか、何気ない話で盛り上がった。
 ふと冷静に、自分はこんなにも上手に女の子と喋れたのかと思った。クラスでもほとんど女子とは話さず、そもそも口数も多い方ではない。
 けれど、たぶん9割は清香嬢のおかげだろう。質問には答えてくれるし、逆に質問してくれるし、相槌のテンポもいいし、共感もしてくれる。
 知り合いのいない高校ですぐに馴染めたのも、ひとえにこのコミュニケーション力の高さゆえだろう。
 饒舌に話す清香嬢を眺めながらそんなことを考えていると、ふっと一息ついてから、清香嬢が穏やかな声でこう言った。
「須賀君は話すのが上手だね。良かった」
 一瞬──ほんの一瞬、不思議な感覚に囚われた。
 話すのが上手?
 まるで意味がわからなかったけれど、それを考える時間を清香嬢は与えてはくれなかった。
「そういえば、明日の小テストなんだけど……」
 すぐに次の話をし始める。
 まあいいか。
 その時はそう思った。

 ふと時計を見ると、部屋に来てから2時間が過ぎていた。2時間というと映画1本分くらいの時間だ。
 よくもこれだけの時間、飽きもせず、気まずくもならずに、今日ほとんど初めて話すような女の子と会話が続くものだ。自分に少し感心する。
 親は帰ってこない。さっきメールがあって、兄の下宿先に行っているらしい。帰りが遅くなるから、夕飯は勝手に食べてくれとのことだった。
 すでに毛布は被っていない清香嬢が、ふと思い出したように言った。
「そう言えば私、須賀君の部屋に来て一番驚いたことをまだ話してなかったんだけど、聞いてもいい?」
 内容は改まっていたが、表情は柔らかいままだった。大した話ではなさそうだったので、気軽に答える。
「いいけど」
「あれ、何?」
 実際に、大した話ではなかった。
 清香嬢が指差したのは、床に転がしてあるバランスディスクだった。肩幅ほどのプラスチックの円盤で、上に乗ってバランスを取る器具だ。
「バランスディスクだけど」
「それは見ればわかるけど、なんていうか、あれだけこの部屋の中で浮いてる気がして」
 もっともな疑問。他にスポーツ用品は何もないし、そもそも運動が好きではない。
「1月くらいの『今日の格言』に、『何事もバランスが大事』って書いてあって、勢いで買ってみたっていうか、そんな感じ」
「今日の格言?」
「ああ、あのカレンダーの」
 壁の日めくりカレンダーを指差すと、清香嬢はベッドから立ち上がってカレンダーの前に立った。
「意外。こういうの、好きなの?」
「なんとなく」
「今日のも覚えてるの?」
「男はソウル」
 つい韓国風に言ったら、清香嬢が突然堪え切れなかったように笑い出した。
「あははははっ! 本当に覚えてるんだ! しかもソウル!」
 笑い転げる同級生をぽかんと見つめる。穏やかな笑顔は何度も見ているが、こういう姿は珍しい。
 そんなこっちの驚きなどお構いなしに、今度はバランスディスクを見て、とうとう座り込んで壁に手をついた。
「しかもバランスって! そうじゃないでしょ! あははははははっ! 須賀君、面白い! バランスが大事って言われて、バランスディスクを買うとか! ウケる! あはははははっ!」
 ツボったらしい。
 バカにされているのかなんなのかよくわからないが、大笑いする清香嬢は新鮮で、嬉しさすら覚えた。
 ひとしきり笑ってから、清香嬢が興味深そうにバランスディスクに足をかける。
「あっ、気を付けて……」
 腰を浮かせてそう言ったのと、バランスディスクをナメてかかった清香嬢がバランスを崩したのはほとんど同時だった。
 咄嗟に伸ばした腕に、清香嬢の肩が収まる。
 ほんの2秒。
「ごめんごめん! 意外とバランスが要るんだね、これ。バランスは大事! あははははっ!」
 何事もなかったかのように、また大笑いしながら清香嬢はディスクに足をかけ、今度は上手にバランスを取って見せた。
 大したことではないのに、どこか得意げな表情。
 腕に残った柔らかな感触と体温。
 何も言えずにいると、満足したのか清香嬢がディスクから降りて、やにわにこう言った。
「須賀君、今日は楽しかった。私、そろそろ帰る」
「えっ?」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 窓越しに向かいの家を見ると、1階の部屋に明かりが点いていた。
「いつの間に帰ってたの?」
 驚いて質問する。
 驚いたのは自分が気付かなかったことでも、清香嬢が気付いていたことでもなく、清香嬢が気付いていながら帰らなかったことにだ。
「1時間くらい前かな。まだいいかって思ったけど、あんまり遅いと心配させるし」
 平然とそう答える。
「ジャージはまた洗って返すね」
「あっ、そのままでいいよ」
「濡れた服に着替えて帰れって?」
「ああ、そうじゃないけど……」
 動揺によくわからないことを口走る。
 清香嬢は特に気にする様子もなく、濡れた服を入れた袋を手にした。
 部屋のドアを開けて玄関まで送る。
 あまりにも呆気なく、この不思議な時間が終わってしまう。どこがクライマックスだったのかわからないまま流れるエンドロールのように、清香嬢が最後の言葉を吐いた。
「今日はありがとう。本当に助かった」
「困った時はお互い様で」
「うん。じゃあ、また明日!」
 笑顔でそう言って、ためらいもなく去っていく細い後姿。
 言い知れぬ喪失感。
 寂しさと安堵の入り混じった奇妙な感覚に囚われたまま、やがてドアを閉めた。

 部屋に戻るとそこはすっかりいつもの日常だった。
 つい先ほどまで同級生の女の子がいたとは思えない静寂。
 何気なくベッドに座って毛布にくるまってみる。いつもと変わらない温もり。微かに甘い香りがしたのは、きっとそうあって欲しいという自分の夢想だ。
 腹が減っている気がするが、何かを作って食べる気にはなれなかった。
 かと言って、パソコンを立ち上げる気力もなければ、マンガを読みたいとも思わない。
 虚脱感。
 今何をしたいかと聞かれたら、あの子ともっと話がしたい。声が聞きたい。笑顔が見たい。
 自分で言っていて気持ちが悪い。あまりにも一方的な感情。
 ぐるぐると、少ない思い出が繰り返されて、くだらない妄想ばかりが膨らんでいく。
 ああ、これを「恋」と呼ぶなら、恋とはなんて汚い色をしているのだろう。
 ごろりと横になる。
 清香嬢は最後に「また明日」と言った。それは、明日ジャージを返すという意味だろうか。
 それ以上の深読みは危険だ。それは自分の勝手な都合で、大抵暴走してひどい目に遭う類のものだ。
 明日ジャージを返してもらって、そしてまた、前にいつ話したのかすらわからないような遠い遠い関係に戻る。
「はぁ……」
 腕に残ったわずかな感触。
 初めて触れ合ったあの時、あの子はなんとも思わなかったのだろうか。クラスメイトと二人きりで、男の部屋で、ジャージを借りて、まったく何も意識しなかったのだろうか。
 醜い。それは、意識してほしいという利己的な欲望だ。
 外で目が合った時から一貫して、あの子が自分を異性として意識したような素振りは一度もなかった。どう都合よく解釈しても、クラスメイトから友達の一人にランクアップした程度だ。
 やめよう。これ以上あの子の一挙一動に曲解を当てはめるのは、客観的に見てあまりにも情けない。
 のそりと起き上がって椅子に座る。
 ふと目をやると、向かいの部屋の電気が点いていた。清香嬢もいつもの日常に戻ったようだ。
 気分を入れ替えて、明日の小テストの予習でもするかと思ったその時、外から微かなピアノの音が聞こえてきた。
 ベランダに出て見てみると、カーテンは閉まっているが、清香嬢が窓を開けてピアノを弾いている。
 珍しいことだ。
 近所迷惑になるからか、そもそも夜はピアノを弾かない。まだそこまで遅い時間ではないとは言え、それでもわざわざ外に音が漏れるように窓を開ける必要はない。
 静かに耳を傾けると、状況がカチリと音を立てて符合した。
 自分が唯一タイトルとメロディーの一致する曲。
 これを今このタイミングで、窓を開けて弾いているのは、自分に聴かせている以外には考えられない。
 お礼のつもりだろうか。
 いや、あの子は自分で自分のピアノをそこまで上手だとは思っていない。自分の演奏がお礼になると考えるのは不自然だ。
「知ってるとは言ったけど、別に好きとは言ってないんだけどな」
 一人ごちて部屋に戻る。
 好きではないが知っている唯一の曲が、特別な曲になりそうだ。それが二人にとってであれば格段に嬉しい。
 一つ思い出した。
「須賀君は話すのが上手だね。良かった」
 清香嬢が呟いたあの一言は、もちろんお世辞ではないだろうし、謙遜でもないだろう。
 実際に、今日は上手に話せたと思う。けれどそれはあの子のおかげだ。
 それと同じことをあの子も感じていたとしたら?
 そして、最後の「良かった」は何が良かったのだろう。
 あの時の不思議な感覚の正体がわかった。疑問に思ったのは前者ではなく、付け加えられたこの「良かった」の一言だったのだ。
 自分勝手な憶測は好きではないが、それでも想像させてもらうなら、清香嬢は振る舞い以上に緊張していた。そして自分は、あの子のその緊張を解きほぐせた。
 特に意識してしたことではない。それでも二人が同じことを思ったのなら、それはつまりこういうことだろう。

 ──馬が合う。

 明日の朝、時間を合わせて話しかけてみよう。
 心のどこかで、挨拶が面倒だからと登校時間をずらしていた習慣を見直して、一緒に家を出てみよう。
 それを今日の恩義の押し付けみたいに取られてしまったら、その時は元に戻せばいい。
 そのリスクはある。けれど、最悪の結果ばかりを想像して、面倒を避け続ける生活は終わりにしよう。
 いつか変えるなら、今しかない。最近テレビのCMでも、しきりに「今でしょ!」と言っている。
 ピアノの音はいつの間にか聴こえなくなっていた。ひょっとしたら親に怒られたのかもしれない。
 勇気を出すと決めたら、途端に明日の朝が待ち遠しくなった。
 気が早いと思いながら、日めくりカレンダーを1枚破る。
 明日の格言。
『大抵のことは上手くいく』
 いい言葉だ。
Fin