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国道1号線
 星のない夜の闇の中に、前を走るトラックの二つの赤いテールランプが、ユラユラと揺らめいている。
 そのランプは時々赤く強い光を放つも、一定の距離に変化はなく、位置も大きさも微動だにしない。
 俺自身も、せいぜいそれが赤く光る度に、反射的にアクセルにかかった右足をブレーキに移動させるくらいで、大きな動きはなかった。
 左右は防音壁だか防風壁だかに囲まれていて、時々その隙間から町の灯りがちらりと見える他に変化はない。
 道はしっかりと舗装されていて、80km/hという高速度で走りながらも、震動はほとんど感じない。
 一切その様子を変えない景色。つまりは、猛烈に眠いということだ。
「ぐあぁぁっ、眠ぃー!」
 叫び声が、エンジン音に溶けて消える。俺は1秒ほど目を閉じてから、再び前を見た。
 景色に変化はない。いや、いっそ完全に停滞してくれていた方がましと思われる、微妙に揺れる赤の光。
 次は2秒の瞬きに挑戦しようかと思って、やめた。いくらバイパスで、いきなり前の車が停止したりすることがないとはいえ、危険だ。
 代わりに俺は、半開きの目で助手席を見た。
 俺の隣で、可愛い女の子が、シートベルトを握り締めるようにして眠っていた。
 大学1年、19歳で、子供っぽい顔立ちをしているが、免許も持っていて車の運転もできる彼女は、根沢洋子という名前で、俺の恋人殿である。
 大学に入ってから知り合い、付き合い始めてからもうじき8ヶ月になる。その間にしたことと言えば、デートと食事とキスとエッチくらい。
 ……全部か。ふぅ。
 その洋子が、少し微笑みの浮かんだ、幸せそうな顔で眠っていた。
「……くー」
 …………。
 くー、じゃねぇ!
 横浜に遊びに出た帰りである。みなとみらいで朝から遊んだ後、山下公園経由で中華街まで歩いて、ディナー。
 まあ、ディナーと言っても、その言葉に似合った豪華さはなく、ごく庶民的な価格のもので済ませたが、日頃食べ慣れないものを食べるというのは、何か高級さを感じさせた。
 そして今、家に帰るべく、国道1号線を西に向かって走っている最中なのだが……眠いのだ!
 箱根を越えたときは、運転に集中していたこともあって、眠さを気力が凌駕していたのだが、そこを越えた途端、ふっと根詰めていたものが切れて、眠さが俺を蝕み始めた。
 そして、洋子の方も同じだったらしく、今日一日の遊び疲れも相重なって、沼津に入る頃にはすでに沈没していた。
 しかし、なんだ。お願いだから、助手席で寝ないでくれ!
 俺は乾いた目をしぱしぱさせながら、再び前方に目を遣った。
 相変わらず揺れ続けるトラックのランプと、一定間隔に立ち並ぶライト。一体このバイパスはいつ抜けるのだろう。
 ほとんど走ったことのない道ゆえに、不安が募る。実は俺たちは異次元の無限ループに入ってしまって、同じところをグルグル回っているのではないだろうか、とか……。
 そろそろ限界を感じ始めたとき、ふと左右の防音壁がなくなって、代わりに木々が黒い枝葉を広げて生い茂り始めた。
 闇の中に鬱そうとしてそびえ立つ木々。それが、強い風にあおられて揺れていた。
 ……余計に眠い。
 前方の下り坂から対向車のライトに照らされて、俺は思わず目をつむった。そして、もう開きたくないという誘惑を打ち消して目を開ける。
 トラックの赤が笑っていた。
 あー、もうダメ。次に待避所が見えたら、停まって寝てやる。
 そう思った刹那、
「大丈夫? 榎本君」
 隣で俺の名を呼ぶ洋子の声がした。もう開いているのか閉じているのかわからないような細い目で隣を見ると、いつの間に起きたのか、洋子が心配そうな瞳で俺を見つめていた。
「眠そうだね」
「眠いよ。誰かさんが横でぐーぐー寝てくれるし」
「大変だね」
「お、お前だよ、お前!」
「気のせいだよ」
 ぜ、絶対に気のせいじゃない!
 なんて心外なことをいう子なんだ。俺は力いっぱい反論した。
「お前、さっき『くー』とか寝息立てて寝てたじゃねーか!」
「私にはそんな記憶は一切ないよ」
「それはお前が寝てたからだ!」
「きっと榎本君、自分の寝息を聞いたんだよ」
 嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ!
「頑張ってね! 私が助手席に座ってる限り、榎本君は眠さとは無縁だよ!」
 うぅ……。
 いつもだったら、ここでちょっかいの一つでもかけてやろうものだが、生憎今の俺には、助手席にある綺麗な太股に左手を伸ばすのすら億劫に感じられた。
「お前、俺が元気になったら絶対に犯してやるからな」
「な、何故!? 私は何も悪いことしてないよ!」
「嘘だ……嘘だ……」
「ひどいや、しくしく……」
 あ、嘘泣きを始めた。
 まったくもって、見ていて飽きない子だ。
 ふと、前方のトラックが左ウインカーを出して、バイパスを降りていった。
 変化の兆し。俺にはそれが、まるで夜が明けたような出来事に思えた。
 大きく空いた車1台分の車間を詰めると、今度は先程とは違うトラックの赤色の光が俺を出迎えてくれた。
 そしてそれが、ユラユラと小さく左右に揺れる。
 このトラックの運転手、かなりやばいぞ。
 そう思った刹那、
「榎本君、大丈夫?」
 と、不安げな声がした。
「おう、大丈夫だぞ」
「でも、車が揺れてるけど」
「前のトラックだろ? そうとうテンパってるみたいだな」
「……っていうか、揺れてるの、この車だと思うけど」
 ゴゴゴゴゴ。
 突然あの、車線の上のでこぼこを踏む特有の音がタイヤから伝わってきて、俺は慌ててハンドルを握り直した。
「なるほど。つまり、罠だったというわけか?」
 俺が意味不明な呟きを洩らすと、洋子が首を傾げてから唇を開いた。
「榎本君、運転代わろうか?」
「いや、いい。さっきまで寝ていたヤツには任せられない」
「寝てないよ」
「寝てたじゃんか」
「じゃあきっと、寝てた分だけ、榎本君より安心だね」
 なんだかもっともそうな意見が出た。しかし、今度は助手席で俺が沈没して、そのまま天国という可能性もある。
 やはり洋子にハンドルは任せられないと、俺は話題を逸らすことにした。
「今お前、自分が寝てたことを肯定したな?」
 一瞬の言葉の隙をつく。しかし、洋子は平然としていた。
「一概にそういう事実がなかったとは否定できない一般的な可能性論を述べただけだよ」
「……は?」
「意味は私もよくわかんない。眠いから」
「お前って、本当に面白いな」
「榎本君ほどじゃないよ」
 ……そうなのか?
 何やら心外なことを聞いた気がした。
 右へ左へ、少しだけ曲がりくねったバイパスの道を過ぎると、再び左手に町が広がった。
 もっとも、広がったというだけで、決してそこに辿り着いたわけでもなく、車線が増えるでもなく、信号の一つもない道に変化はなかったのだが、それでも、無限ループ説が否定されただけでも嬉しかった。
「夜景、綺麗だね」
 窓から外を眺めながら洋子が言った。俺はその横顔にドキドキしながら、
「防音壁で、ほとんど見えないけどな」
 と、思わず口走ってから後悔した。女の子はロマンチックなのが好きだったっけ?
 案の定、洋子がつまらなそうな顔をした。
「榎本君は、つまらない星から、女の子の夢を駆逐するために派遣された、サラリーマンなんだね」
 ……なんだそれは?
「いや、夜景よりも洋子に見とれてたんだよ。ははは」
 乾いた笑いが虚しく響く。
 洋子はしばらく無表情でいてから、ふっと微笑んで前を向いた。
「夜景よりも防音壁に見とれてたんだ」
「そんなことないってば」
「もういいもん。拗ねてやる。寝てやる。くー」
「寝るなって! お前、三島から静岡まで爆睡してただろ。いや、静岡を越えてなお寝てたな」
「由比の辺りで、海が見えたね」
「嘘だ! お前はそれを、知識として持ってるだけで、絶対に見てなかったはずだ!」
「うぅ。榎本君は私を信じてくれないんだ」
 再びしくしくと嘘泣きを始めた洋子に、俺は自信を持って答えた。
「俺は自分の眼で見たものを信じたい」
「ところでさぁ」
「っていうか、人の話を聞けって!」
「ふふふ」
 ダメだ……。
 そうこうしている内に、いつの間にか道がバイパスを抜けた。
 前方に開ける町。久しぶりに見るガソリンスタンドの看板と、コンビニエンスストア。
 どうやら俺は、洋子との話にしばらく眠さを忘れていたらしい。今も、そんなに眠くない。
 隣を見ると、洋子がにこにこしながら外を見ていた。昔俺が、助手席からあまり俺の方を見ないでくれと言ったのを、忠実に守ってくれているようだ。
 話が合うというのか、気が合うというのか。
 俺は礼を言おうと思ったけれど、恥ずかしかったからやめた。代わりにため息なんかを吐いてみる。
「はぁ……。お前がちゃんと起きててくれれば、もっと楽に運転できたのにな」
 ちらっと、洋子が俺を見た。もう出会ってから日が長いが、上目遣いに見られると、未だに少しドキドキする。
 大きな瞳と、整った目鼻立ち。それから、その下の薄い唇がそっと開かれて、高くも低くもない、落ち着いた声が俺の耳をなでた。
「素直じゃないね」
「な、何が?」
 あたふたしながら俺が聞くと、洋子はいたずらっぽく、それでも澄み渡った微笑みを浮かべて答えた。
「榎本君、照れると鼻を触る癖があるんだよ。気付いてないよね」
「えっ?」
 言われて初めて、自分が無意識に鼻の頭をつまむようにして触っていることに気が付いた。
 慌てて放すと、洋子がにっこり笑った。なんだか悔しい。
「よく観察してるな」
 皮肉混じりにそう言うと、洋子の口から意外な言葉が返ってきた。
「好きだからね」
「…………」
「あなたのことは、誰よりもよく知ってるつもりだよ」
 思い切り動揺してしまった俺は、久しぶりに見えたコンビニに入りそびれてしまった。
 赤信号で一度停まると、俺はなるべく洋子の方を見ないようにして、どぎまぎしながら言った。
「そういうことは、声に出して言うもんじゃないぞ」
 そして、思わず鼻をかきそうになって、慌てて手を引っ込める。
 この世の中でもっとも愛する人に、心の底から愛されているということ。そんな幸せ。
「でも……ありがとう……」
 最後の方は、切れ切れになってしまったけれど、俺もそんな恥ずかしいことを口走って、鼻をかいた。
 信号機が青に変わる。
 洋子が柔らかな微笑みを浮かべて俺を見た。
「ねぇ……」
 からかわれるのだろうか。俺はドキドキしながら答える。
「な、なんだ?」
 洋子は、少し俯いて、それから決意したようにはっきりとこう言った。
「眠いから寝てていい?」
 …………。
 …………。
「だ、だめだっ!」
「ケチ」
「ケチじゃねぇ! お前のせいでコンビニに入りそびれたんだ。ずっと起きてろ」
「榎本君の不注意だよ。私のせいじゃない」
「いいや、お前のせいだ。お前が俺を……」
 不意に、ものすごく恥ずかしいことを言いそうになって、俺は言葉を切った。
 洋子がいたずらっぽく聞いてくる。
「俺を?」
 どうしても聞きたいらしい。
 俺は大きく息をしてから、少しだけ洋子の目を見つめて答えた。
「誘惑するから」
「…………」
 まさか本当に答えるとは思ってなかったのか、今度は洋子の方が恥ずかしそうにして目を逸らした。
 ちょっと優越感。なんだか久しぶりに勝った気がする。
「榎本君は、きっとくだらない星で生まれたロマンチック屋さんで、社会に不適応の烙印を押されて地球に左遷されてきたんだね」
「……もっと素直に喜べないの?」
「うぅ……」
 なるほど。こいつにも恥ずかしい言葉というのはあるらしい。
 洋子は困った顔をしてから、深く目を閉じた。
 しばらくの沈黙。
 そして、
「……くー」
「ね、寝るなっ!」
「うぅ。榎本君が寝かせてくれない」
「誤解を招く発言をしないでくれ」
「みんなに言いふらしてやる。榎本君が寝かせてくれなくて、私は寝不足なんだって!」
「俺も同じだ」
「わかった! これはきっと不眠プレイっていう、新しいエッチ技法の一つなんだね? SM系の」
「ち、違うって」
「榎本君はエッチな人だから」
「だから、違うってば!」
「はぁ……。眠い……」
「寝るなっ!」
 そんな、他愛もない会話をしながら、車が国道1号線を走り抜けていく。
 眠たさは……なくもないけど、洋子との会話が楽しいから、あまり感じない。
 好きな人と二人で、何か一つのことをしている実感。そんな幸せ。
 いつの間にか、月にかかっていた雲が消え、夜空に星が輝いていた。
 優しい光がうっすらと白く包み込む街並み。
 静かにたたずむ夜の中を、一握りの確かな幸せを乗せて、俺たち二人の時間が駆け抜ける。
 ゆっくりと、長く、いつまでも。
 まるで、やがて訪れる光に包まれた明日へと続くように、道は俺たちの前にどこまでも、果てしなく延びていた。
Fin