らしい、というのは人伝に聞いた話であり、実際に僕が初めて女性を見たのは五日前の夕方だった。
その日僕がスクールに行くと、教室の隅の方に人だかりができていて、好奇心が声になって飛び交っていた。
その中心にいるのは、どうやら僕が密かに想いを寄せている子のようだったので、僕は無造作に机にカバンを放り投げると、自らの存在をアピールするように大きな声で何の話かと尋ねながら、その輪の中に入っていった。
「今旅のマジシャンが来ていて、毎日公園でマジックを見せてくれるのよ」
そう答えてくれた少女は心ここにあらずと言った様子で、顔は僕の方を向いていたが、その眼は自分の記憶を見つめているようだった。
自分が話題の中心になっているからか、彼女の顔は紅潮しており、いつもより早口に紡がれる言葉はとても弾んで聞こえた。
僕はそんな彼女を見て、まるで苦い薬を飲んだ後のような不快感を覚えた。
彼女とは仲の良い友達であったが、これまで彼女が僕の気持ちを知ることはなかった。
彼女は僕個人に対して、今のような弾んだ声を出したこともなければ、明るい笑顔を向けてくれたこともなかった。
それが──僕が僕だけのものにしたい彼女の姿が、まったくの他人によって引き出され、このように皆に対して振舞われるのに、僕は苛立ち以外の何物も覚えなかった。
それは子供じみた嫉妬だった。僕はそれに気が付いていたが、だから何だというのだ。
僕はそれを抑える術を持ち合わせてなければ、抑える必要も感じなかった。
だから僕は、初めからまるで親の仇に会いに行くように、敵対心だけを抱いてその公園を訪れた。
この町で一番大きなその公園は、ロベリアの青紫とユキヤナギの白に彩られ、すっかり春の色に染まっていた。
公園の先に、今はもう観光名所と成り下がった古い闘技場があり、僕たちには何の感慨もないそのレンガ造りの壁を観光客が物珍しそうに眺めて往く。
彼らの脇では、町の住人が日光浴でもするかのように、春の陽射しの下をゆったりと歩いている。
まだ茶色い部分を多く残した芝生の上では、僕よりも幼い子供たちが、ちょうど僕がそうであったように仲間たちとベースボールを楽しんでいる。
そして、サクラの桃色に囲まれた公園随一のフリースペースに、その女性は立っていた。
僕が辿り着いた時、すでにこの日何度目かのマジックのショーが始まっていたらしく、まるで壁のような人だかりが女性の姿を隠していた。
三十人──いや、四、五十人はいる。僕の好きな子の話では、初めて現れてからまだたったの2日しか経っていないというのに、なかなかの量の観衆だろう。
僕は大人たちの隙間をすり抜けるようにして前に出て、とうとう女性と対面した。
その第一印象は何と言えば良いのだろう。ゾクッとするような寒気が走ったが、それが嫌悪なのか好奇なのかは自分でもわからなかった。
女性はぶかぶかの黒いシャツに、やはりぶかぶかの黒いズボンを穿き、まるでカラスの羽のように艶光りした大きな黒いマントを着けていた。
今時そんなマントを着けるのは、古い宗教家くらいなものだ。僕は女性の姿を奇異に思ったが、仮にも彼女は芸人である。人と違う、変わった衣装を着けるのは不思議なことではない。
だが、髪と瞳が衣装と同じような黒だったのには、眉をひそめずにはいられなかった。日の光に時折白く光る真っ直ぐに伸びた黒髪は、間違いなく話に聞く遠い東の国の者の証だ。
肌が僕たちよりやや黄色がかっているのも、その証明に力を貸している。
女性は顔を険しくして立っている僕に気が付くと、穏やかに微笑んで見せた。ほのかに化粧をしていたが、それがなくても顔立ちの整った美人だとわかる。
歳はまだ若い。僕よりいくつか年上のようだが、二十は過ぎてないようだった。
背は、東洋人は皆そうだと聞いていたことがあるが、あまり高くなく、僕と同い年のスクールの仲間たちより低いくらいである。
けれど雰囲気はすっかり大人のそれで、子供と大人がバランスよく混在した魅力的な女性だと言っていい。
気が付くと、まだマジックの一つも見ていないのに、その容姿と彼女の息遣い、作り出す空間に惹き込まれている自分がいた。
僕は慌てて首を振った。僕の好きな子も、そして周りにいる大人たちもこの雰囲気に飲み込まれたのだ。
ある者は高揚し、ある者は恍惚とする周囲を見て、僕はある種の宗教めいたものを感じ、思わず拳を握って掌に爪を突き立てた。
せめて僕だけはしっかりしなくてはいけない。その意味を考えることなく、本能的にそう思った。
「初めて見るわね。来てくれてありがとう」
不意に女性が笑いかけてきて、僕の前に束ねたカードをすっと突き出し、それをイチョウの葉の形に広げた。
枚数からするとトランプのようだ。白い縁に囲まれた赤い背景の中に、東洋のドラゴンか、巨大な蛇のような絵柄が五十余枚、すべてのカードに同じように描かれている。
「一枚引いて、私には見せずに周りの人たちに見せてちょうだい」
僕たちの言葉を流暢に喋りながら、その異国の女性はやはりにこにこしながらそう言った。
僕はその雰囲気に気圧され、思わず半歩後ずさったが、意を決してカードを一枚引いてみた。
それはハートの2だったが、すぐにそれを戻して別のカードを引いた。
「あまり好きな数じゃなかったから」
首を傾げたマジシャンにそう口走ったが、本意は違った。表側も全部同じである可能性を、まず否定しようと考えたのだ。
次に引いたのはスペードのKだった。どうやら普通のトランプらしい。
「今度はあなたの好きなカードだったかしら?」
女性は僕の行動に気を悪くすることなく、むしろ楽しそうにそう言った。同時にそれは、僕が何を引いたのか知らないという主張でもあったのだろうが、信憑性はなかった。
この女性はすでに僕がスペードのKを引いたことを知っているかも知れない。けれど、どうやって?
僕はその問いの答えを持ち合わせてなかったから、黙ってカードを周りの信者たちに見せると、抜いたところとは違う場所にカードを入れた。
女性はカードを束ね、数回シャッフルしてからそれを僕に手渡した。
「あなたも切って」
言われるまま、僕はこれでもかというほどシャッフルした。
「ああ、そんなに切られるとわからなくなってしまうわ」
女性が慌てたようにそう言って、周囲がどっと沸いた。それも演技だ。
僕がカードの束を返すと、女性はそれを右手で受け取り、何度か右手と左手を行き来させてから自分の前で広げた。
そして小さく息を吐いてから、すっと一枚を引いて自分の斜め上に掲げる。
「これでしょう」
それは紛れもなく僕が引いたスペードのKだった。僕の稚拙な抵抗など物ともせず、女性はあっさりと僕の引いたカードを当てて見せたのだ。
周囲から沸き起こる拍手に、女性は丁寧にお辞儀をして見せた。
僕は、素直には喜べなかった。直接当事者になったからかも知れないし、あるいは初めから敵視していたからかも知れない。
とにかく、僕は何か騙されたような、恥をかかされたような気分になったのだ。
「すごいね。まるでタネがわからなかった」
お世辞然とした言い方をすると、女性はついに僕の感情を悟ったらしい。一瞬氷の人形のように表情を消すと、まるで心を覗き込むように僕の瞳を見つめた。
けれど、本当に一瞬のことだった。
すぐにまたあの清楚にして妖艶な微笑みを浮かべると、まるで不出来な弟を諭す姉のように優しい声を出した。
「マジシャンは魔法使いよ? 誰にでもできることを魔法とは言わないわ」
それっきり、女性は僕の方を見ようとはしなかった。
物を当てるマジックや、コインやカードを増やすマジック、鉄の棒を曲げたり、ハンカチをすり抜けさせるマジック。
決して派手さはなかったけれど、その数の多さとテンポの良さ、そして女性のトークに場は大いに盛り上がり、やがて日暮れとともにショーは幕を下ろした。
僕は彼女の前に置かれた箱に、ハンバーガーが買える程度のコインを投げ入れると、憮然としたまま女性を見上げた。
不思議なことに、彼女はこれまで決して見せなかった、余裕のない表情で僕を見つめていた。
怒ったような、悲しそうな、すがるような、何かを訴えかける眼差し。けれど、それが何なのかは僕にはわからなかったし、興味もなかった。
ただ僕は、彼女を絶賛しながら多くの金を投げ入れていく大人たちを見て、彼らのようにはなりたくないと強く思った。
それはスクールで抱いた嫉妬心の延長だったかも知れないし、子供特有の大人に対する反抗心だったかも知れない。
「今日は面白かった。また来るよ」
僕が言うと、女性はまるで喉から声を絞り出すように「ええ」と答えて、商売道具を片付け始めた。
僕は一度だけ振り返ると、そのまま岐路に着いた。
それが、今から五日前の話である。
それから僕は、スクールもそっちのけで公園に通った。
神秘的な美人のマジシャンが、明るく楽しいマジックを披露してくれるとあって、観衆は日に日に増えていった。
中には僕のように何度も通っている者もあったが、僕は彼らとは決定的に一線を画した。
僕は、恐らく周囲からは熱狂的なファンに見えただろう。毎日のように現れては、最前列で真剣な眼差しを向けているのだから。
事実、時折やってくる僕の恋する少女は、自分の好きなものを同じように好きになってくれた喜びを感じているのか、いつもよりフレンドリーに話しかけてくれた。
僕はそれが嬉しかったが、満足はできなかった。
僕と少女の間を流れる和やかな空気は、黒髪の女性によって作り出されたものだ。言ってみれば、これを喜ぶことは、女性の披露した恋のマジックに翻弄されている過ぎない。
どんなに不思議で楽しいマジックも、ひどく合理的な手段によって作り出されているように、今の僕と少女の仲も他人が組み合わせたパズルでしかない。
僕はパズルは自らの手で、一から作り始めたい。
だから、僕はそれを壊すためにここにいる。周囲の信者たちとは、明らかに来ている目的が異なるのだ。
けれど、女性のマジックは完璧だった。じっくりと見れば見るほど、本当に物理的に説明できない魔法を使っているように見えて、僕はひどい焦りを覚えた。
それは僕の信念が崩れていく焦りだ。
歯に引っかかった小骨が取れないように、どうしても納得のいかないことが解明できない苛立ち。
そして、次第にそれを受け入れるしかないと、心が萎えていく諦め。
その日の夕暮れ、ショーの終わった後、僕は爪をかみながら突っ立っていた。
一昨日降った雨のせいで随分散ってしまったサクラに囲まれたそこには、僕と女性しかいない。
彼女は荷物をまとめながら、決して僕と目が合わないようにしていた。
その表情は険しく、必死に感情を抑えているように見えたが、何も言ってくることはなかった。
僕を疎んじているのだろう。望むところだ。
僕も何も言わずに公園を後にした。
少し早足で歩いていると、先に帰っていった集団が見えた。割と頻繁に見る者たちだ。
何事もなく隣を通り過ぎた時、低い男の声が僕の耳に飛び込んできた。
「それにしても、あの女の子、なんだか最近元気がないな」
僕は思わず足を止めて振り返ったが、声は僕に対して発せられたものではなかった。
僕は彼らに気付かれないよう再び歩き始めて、ふと彼の言葉を胸の中で反芻した。
元気がない?
僕にはそうは見えなかった。むしろ僕の気力がなくなるにつれて、彼女は元気になっているようにさえ感じる。
彼女は僕が打ち拉がれるのを見て、優越感に浸っているはずだ。
誰かが負ければ、必ず他の誰かが勝つ。
僕が負け続けている今、彼女が、少なくとも僕のことで心を傷めるような理由はないはずだ。
家に帰った僕は、その夜、月明かりに照らされる青白い天井を見つめながら、昼間のマジックを思い出していた。
彼女のマジックは実に百種類はある。大掛かりなものは見たことがないが、もしもそういうものもレパートリーに存在するならば、その数はもはや計り知れない。
客を絶対に飽きさせないように、毎回必ず初めて見せるマジックを取り混ぜる。それがなくなった時が、恐らく彼女がこの町でのショーを終える時だろう。
一回のショーは大体一時間ほどで、彼女はその間に二十から三十のマジックを見せる。
その中には、定番商品とでも言うのだろうか、毎回必ず見せるマジックもあり、初めに僕に見せたトランプのカードを当てるのもその一つだった。
僕はそれを思い返す。
あれから何度も見てきたが、彼女は──当たり前だが一度も間違えることなくカードを当てて見せた。
まず引かせ、自分が切り、相手に切らせ、カードを取り出す。
その一連の流れの中に、彼女がカードを見るようなシーンは一度もなかった。
相手に渡すときすでに、カードの枚数が一枚足りなくなっている可能性も考えたが、彼女が素早く隠すようなこともなかった。
完全に八方手塞がりだ。けれど、僕にはもう、あまり時間が残されていないように思われた。
明言はしてないが、彼女はじきにここを経つ。
彼女が来てから、すでに一週間が過ぎていた。たった一人のマジシャンがマジックを見せ続けられる、ギリギリの長さだろう。
だから僕は、一か八かの賭けに出ることにした。
翌日の昼過ぎ、抜けるような青空の下で、女性の周りにはいつものように人だかりができていた。
僕はやはりその最前列にいた。
彼女は凛として立っていたが、僕を意識しているのは確かだった。それが証拠に、時々ちらりと僕を見ては、余裕のない表情を浮かべた。
それでも、焦ってないはずはないのに、彼女は絶対に失敗をしなかった。それはあたかも、魔法の存在を証明するように。
けれど、本当に魔法の使える者など存在するはずがない。僕は決意を固めるように、ぐっと拳を握った。
いよいよカードのマジックが始まって、一人の女性がカードを束に戻したとき、僕はあの日以来、初めて彼女に声をかけた。
「ねえ、マジシャンのお姉ちゃん」
彼女はビクッと怯えたように肩をすくめたが、すぐにいつもの笑顔に戻って僕を見た。
「どうしたの?」
「今日は僕が切ってみたいんだけど、いいかな?」
そう言いながら、僕はすっと手を差し出した。
カードを選んだ女性には、できるだけ屈託なく片目を瞑ってみせる。女性は怪訝そうにしたが、反対はしなかった。
マジシャンは真っ直ぐ僕を見つめていたが、やがてふぅと長い息を吐いて笑って見せた。
「いいわよ。いつも来てくれるものね」
そう言いながら、彼女はいつものようにカードを切ろうとした。刹那、僕は昨夜思い浮かべた賭けに出た。
「お姉ちゃん、良かったら先に切らせて」
それが僕の賭けだった。
彼女がどうやってカードを当てているかはわからないが、初めにカードを切るときに何かしている可能性が極めて高い。
もちろん、彼女が平然と僕にカードを渡し、それでも言い当ててしまう可能性もあった。
その時は「さすがだね」と拍手すればいい。それだけで済む。
僕が余裕の表情で見上げると、彼女は僕から視線を逸らせて、憂いに満ちた瞳を悲しそうに伏せた。
「ごめんね。魔法には手順があるから」
次に顔を上げた時、彼女はもう明るく笑っていたけれど、僕はそれで満足だった。
彼女がどう思ったのかはわからない。それでも、少なくとも僕はそれで満足だったのだ。
「ううん。無理言ってごめんなさい」
僕はそれ以上は何も言わずに、女性が先に切ったカードを受け取り、何度か切ってから返した。
彼女がカードを言い当てると、僕は彼女のショーを見始めてから初めて拍手を送った。
もちろんそれは、皮肉でしかなかったが。
それからショーは何事もなく続けられたが、いつもと雰囲気が違うのは明白だった。
マジシャンが勝者から敗者に変わったのだ。それを周りも感じ取っている。
人々はようやく夢から覚めたのだ。長く続いた霧が晴れるように。
宗教じみたショーは終わった。明日からはようやくいつもの日々が訪れる。
僕は優越感に浸りながら公園を後にした。
けれど、僕を勝者のまま終わらせてくれるほど、神は不平等ではなかった。
まるで犯罪者が必ず一度現場に戻るように、僕は何かに導かれるように公園に戻った。
その理由を聞かれたら答えようもないが、多分彼女のいない、昔のままの公園を見たかったのだろう。彼女がいないことを確認したかったのだろう。
けれど、僕の期待に反して、マジシャンはサクラの花びらの積もるベンチの隅に座っていた。
深く項垂れていて表情はわからなかったが、舞い散る桃色の花びらの中で、彼女の存在は何とも儚く霞んで見えた。
僕の胸を、不快なもやもやが煙のように覆った。長年の夢が達成された後に感じる喪失感とはまた違う、罪悪感めいたものだ。
何気なく近付いてみると、僕の足音が聞こえたのか彼女は首だけ上げて僕を見た。
彼女は──あの笑顔の素敵だったマジシャンは、まるでいじめられた子供のように、陽光に煌めく滴を零して泣いていた。
彼女の潤む黒い瞳が僕の姿を写した瞬間、僕は無意識の内に駆け出していた。
無我夢中で駆けながら、声にならない呻きを漏らした。
僕は一体何をしていたのだろう。何が彼女を悲しめたのだろう。
それが単なる勝ち負けの問題でないことは、如何に幼い僕にも理解できた。
僕たちは夢を見ていた。
彼女の作り出した夢だ。
それはとても楽しい夢だったが、やはり夢は夢でしかないことを僕は知っていた。夢に漬かり切ってしまうのは現実逃避に他ならない。
だから僕は、それに気付かずに夢の中へ堕ちていく大人たちや、僕の恋する少女を助けたいと思った。
けれど、夢はいつか覚める。そのことに、僕は気付かなかった。
思えば、果たして本当に誰も気付いていなかったのだろうか。
冷静になって考えると、誰もがそれを夢とわかっていながら楽しんでいたように思える。
僕のつまらない正義感が、彼らを夢の世界から強制的に叩き出してしまったのだ。
そして──嗚呼、僕は一人の女性の人生を狂わせてしまったかも知れない。彼女はマジシャンとしての誇りと自信を、僕のせいで失くしてしまったかも知れない。
どちらが勝者とか敗者とか言う問題ではなくて、初めから僕は一方的な加害者だったのではないか?
僕は大きく頭を振った。
そんなことはない。有り得ない。
僕のような子供が、一人の大人の人生を変えるほどの影響力を持っているはずがない。
僕みたいなつまらない人間を、誰もまともに取り合おうとするはずがない。
僕は、そうやって自らを卑下することで、心の平穏を保とうとしていることに気が付いていた。
けれど、それの何がいけない。
人は常に誰かを傷付けながら生きているのだ。
傷付けることの何がいけない。傷付けた責任から逃れようとして、何がいけない。
それは人の性だ。世の中の常だ。
彼女はきっと、明日には平気でマジックを披露している。
たとえこの町でなかったとしても、どこかの町で、今日のことなんてまるで気にせず、僕のことなど忘れて、いつも通りに笑っている。
そうに決まっている。
僕は急に吐き気がして立ち止まり、胸を押さえた。
ふと顔を上げると、真っ赤な夕陽がまるで血のように雲を赤く染め上げていた。
僕は激しい眩暈を覚えながら、吸い込まれるようにそれを見つめていた。
やがて赤が消え、漆黒の闇が空を埋め尽くすまで、彫像のように立ち尽くしていた。
Fin