■ Novels


何気ない二人 〜6月20日の午後〜
 まったくかったるい。
 俺はそう思いながら車のドアを開けた。途端に、もわっとした熱気が溢れ出す。
 今そこは、さながらサウナのような空間だった。ドアが開かれ、車の中は外と繋がっているはずなのに、ドアのあった場所に見えない壁を感じる。
 足を一歩踏み入れるまでに、実に30秒の時を要した。
 エンジンをかけると、まずエアコンを入れようと思って、やめた。
 窓を開けると、ゆっくりとアクセルペダルを踏み込む。
 ブロォオオオォォォン……。
 車は動かない。
 ほら見ろ。車だって嫌がってるじゃないか。
 そして見下ろした左手の端に、輝くPの文字。
 なるほどね。

 彼女から電話があった。
 遊びに行きたいから迎えに来てくれとのことだ。
 確かに多少距離はあるが、いつもは来るなと言っても自転車漕いでくるヤツだ。
 足でも怪我したのかと心配になって聞いてみると、
「暑いから、自転車で行きたくない」
 まったく、すっかりお嬢様気分か?
 もっとも、それで迎えにいく俺も俺。
 まあ、今日は彼女と居たい気分だからいいだろう。後でゆっくりとお礼はしてもらおう。

 絶対に冷房なんて入れてやるものかと思っていたけれど、結局彼女の家に着くまでに根負けした俺は、窓を閉めて冷房のスイッチを入れた。
 なんか、無駄に汗をかいた感じ。
 冷房を入れた時、ふと助手席に自分の鞄が置いてあるのに気が付いた。前にそのまま彼女の家に行ったら、
「私より、鞄を助手席に乗せて走りたいんだね? しくしく。私より鞄の方がいいなんて……」
 などと、わけのわかんないことを言いながら、俺が鞄をどかす前にさっさと後部座席に乗り込みやがった。
 まったくいただけない。
 赤信号で止まったとき、鞄を後ろに放り投げた。
 ああ、そういえば今日、CDを一枚買ってきたっけ?
 投げたばかりの鞄を引きずり戻して、買ってきたCDを取り出すとプレイヤーにかけた。
 信号が青になった。

「槇原敬之は好き?」
 助手席の彼女に聞いてみる。
 曲には疎い彼女でも、さすがに槇原くらいは知っていたらしく、
「好きな方だね。でも、貴方より好きじゃないよ」
 何か違う。
 俺は『冬がはじまるよ』という曲をかけた。俺が槇原敬之の中で一番好きな曲だ。
 生憎彼女はこの曲を知らなかったけれど、構わない。今知ればそれでいい。
 槇原の言葉を借りるなら、
『君は気付いていない しゃべり方少しずつだけど僕に似てる もっともっと変えてしまいたい』
 俺が好きなものを、彼女も好きになってくれたら嬉しい。
 だから俺は、自分の好きな曲をかけるのだ。二人のために。

♪髪をほどいてみたり 突然泣き出したり わくわくするような オドロキを抱えながら♪

 彼女は黙って曲に耳を傾けている。
 俺の好きなものを、必死に知ろうとしてくれているらしい。
「ふわぁ〜あぁ……」
 いや、違ったようだ。
「俺、この曲に出てくる二人がすごく好きなんだ。ほのぼのしてて、なんかいいよね」
 彼女はちらりと俺の方を見た。そして、いつもの意地悪な瞳で言う。
「じゃあ、突然泣き出すから、わくわくしてね」
 こういう娘だ。
 あっ、でも、ちゃんと曲を聴いててくれたんだ。
 すぐに機嫌がUターンして戻ってくる。俺も単純な男だ。

♪冬がはじまるよ ホラまた僕の側で すごくうれしそうに ビールを飲む横顔がいいね♪

「すごく嬉しそうにビールを飲むこの子、なんか可愛いよね」
「そうだね。私もビール飲むの好きだから、可愛いかなぁ」
「どうかな? 君がビールを飲んでるときは、俺も飲んでるから……」
「そうだね。貴方はアルコールに極端に弱いから、私の横顔を見てる余裕なんてないか。もったいない」
 自意識過剰なヤツめ!

♪冬がはじまるよ ホラまた僕の側で 小さなTVの中の 雪にはしゃぐ横顔がいいね♪

「俺、小さなTVの中の雪にはしゃぐこの子、好きだな」
 曲の最後のサビで、そんなことを言ってみる。すると、彼女が言った。
「じゃあ、今度私もはしゃぐよ」
 やっぱり何か違うだろ?
「いや、それって普通、意図的にするもんじゃないだろう」
「う〜ん。そんなこと言われても、今更別に雪なんかにはしゃげないから」
「寂しいねぇ。俺は雪を見るととても興奮するよ」
「はしゃいでないじゃん」
 あっ、信号が赤だ。

♪たくさんの君を知ってるつもりだけど これからも僕を 油断させないで♪

 曲が終わって、次の曲が始まるまでの間に、彼女が言った。
「ねぇ。私のこと、たくさん知ってる?」
 う〜む。
 言われてみて、少し考える。
 それから、
「まだまだかな? もっともっと色んな君を知りたいね」
 ちょこっとだけHな含みをもたせて言ってみる。ドキドキしてる自分が可愛かったり。
 彼女は「そっか……」と呟いた後、窓枠にもたれて、助手席の窓から外を見ていた。
 無表情で、内心が全然読めなかった。照れていてくれると嬉しい。
 俺はその横顔をもっと見ていたかったけど、ダメだった。
 信号が青になった。
 ブロオォォン……。
 車が走り出す。
 彼女が言った。
「じゃあ、まだ油断させなくてもいいね?」
「はぁ?」
 思わず素っ頓狂な声をあげると、彼女は窓から外を見たまま、自分の発言がさも可笑しそうに笑った。
「突然泣くから、油断しちゃダメだよ」
 もう、わけわからん。
「ラジャー。常に気を付けてるよ。君が泣かないように」
 窓に映った半透明の彼女が、今度は嬉しそうに笑うのがわかった。

♪今 君がこの雪に気付いてないなら 誰より早く教えたい 心から思った♪

 次にかかった『北風〜君にとどきますように〜』という曲を、彼女は黙って聴いていた。
 俺は無言で車を走らせながら、さっきまでの、何気ない二人を思い返していた。
 そして、いつもの交差点で右折したとき、不意に彼女の一言が心をよぎった。
「じゃあ、今度私もはしゃぐよ」
 俺が、「俺、小さなTVの中の雪にはしゃぐこの子、好きだな」と言ったとき、そういえば彼女はそう言った。
「じゃあ、今度私もはしゃぐよ」
 そっか……。

♪明日もしこの雪が積もっているなら 小さく好きだといっても 君に聞こえない♪

 じっと窓の外に顔を向けたまま、曲に耳を傾けている彼女に、俺は囁いた。
「ありがと……好きだよ……」
 生憎、今二人の間を流れていった曲とは違って、その言葉は彼女に聞こえてしまったから、彼女はちらりと俺の方を見て、柔らかな微笑みを浮かべた。
「ねっ」
「な、何?」
 やっぱりドキドキしてる自分が可愛い。
 彼女は世界で一番素敵な笑顔で言った。
「どうしてこれから夏になるってのに、『冬がはじまるよ』とか『北風』がかかってんだろうね。可笑しいよね」
 …………。
 こんな娘だ。
 ぐすっ。

 槇原敬之の曲に、『No.1』という曲がある。

♪今までで一番素敵な恋をしようよ もうこんな僕でいいかななんて思わない 世界で一番素敵な恋をしようよ とりあえずそれが僕らの目標♪

 車が俺ン家の車庫に戻った。
 大好きな彼女を乗せて。
Fin