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屋上からの景色
 ある春の日の帰り道、清美はふと、校舎の屋上に一人の男子生徒が立っているのに気が付いた。
 校門まで歩き、風に舞い散る桜の花びらを見上げた時、偶然目にしたのである。
 清美は目の良い方ではあったが、その生徒は辛うじて男子とわかるだけで、学年はもちろん、どんな顔をしているかもわからなかった。
 男子は屋上の手すりに両肘を乗せて、じっと北の景色を見つめていた。
 その方角には一番最寄の駅とその周囲に広がる街があり、さらに北の駅には公園の緑といくつかのマンション、そしてその側に全国でもトップクラスのM大学の広大な敷地が広がっている。
 もちろん、彼はたまたま身体を北に向けているだけで、実は何も見ておらず、考え事をしているだけということも十分に考えられた。けれど清美は、彼は何かを見つめている、そんな気がしたのだった。
「どうしたの? 清美」
 ふと呼ばれて視線を下げると、クラスメイトが二人、明るい顔をして立っていた。万理と沙々菜だ。
 明るい顔をしているのは、もちろん今日の授業が終わってようやく帰れるからである。その心境は清美も同じだった。
「うん。あそこに、誰かいるなって思って」
 清美が指を差すと、万理と沙々菜は無言で屋上を見上げた。
 男子は先程と変わらずじっと北の景色を見つめていた。校庭には他にも彼を見上げる者があったが、彼はまったく足元を見なかった。
「ああ、あれ、1年生の吉城って子よ」
「よしき? 名前?」
「苗字よ。大吉の吉に、城って書くの」
 万理の話だと、彼は今年話題になっている生徒らしい。沙々菜は清美と同じく彼を知らないようで、興味深げな顔でクラスメイトを覗き込んだ。
「勉強ができるの?」
 何で有名なのだろうと思い、清美はそう尋ねた。万理は明るく笑って言った。
「うちに来るような子は、みんな勉強はできるって。飛び抜けていいわけでもないみたいよ?」
 清美の高校は、県内でも有名な進学校だった。M大学へ行く生徒も多く、時に『M大付属』などと呼ばれたりもする。
「じゃあ、運動ができるの?」
 清美は首を傾げて聞き直した。万理はやはり首を振った。
「運動ができる子は、うちなんて来ないって」
「じゃあ……」
 言いかけた清美を制して、万理は軽く親指で彼のいる屋上を指差した。
「あれよ。あの子、入学してからずっと、毎日ああして授業後に屋上に行ってるのよ」
「ふーん。それでか……」
 清美はもう一度屋上に目を遣った。確かに、毎日屋上に上ってああしていれば、話題にもなるだろう。それが元でいじめられたりしてなければいいが。
 清美はそんなことを思って、かすかに顔をゆがめた。
 その時、沙々菜が思い出しように胸の前で手を打った。大きな音に驚いて振り返った二人に、沙々菜は嬉しそうに早口で言った。
「吉城って、どっかで聞いたことあると思ったら、あたしたちが1年の時に3年だった先輩にいたじゃん! ほら、すんごい勉強ができるって有名だった!」
 清美は記憶の糸を手繰り寄せ、ようやく思い出した。
 吉城恵。確かに清美が1年の時に、そういう名前の女子生徒が存在した。常に校内トップで、全国統一模試でも2位になったことがあるらしい。
 清美は「いたいた」と頷いたが、万理は知らないらしく、首を傾げて尋ねた。
「私、覚えてない。それでその先輩は、結局どこ行ったの? M大?」
 彼女がどこに入ったかまでは清美も知らなかった。ただ、あの先輩のことだ。M大など足止めレベルだろう。
 そう思ったのだが、急に声を潜めた沙々菜の言葉に、背筋が凍り付いた。
「何言ってるの? 吉城先輩、センターの後事故に遭って、結局どこも受けられなかったのよ」
「……え?」
 清美は思わず息を飲み、万理も露骨に眉をひそめた。自分たちも3年だ。あまり他人事に思えなかった。
「まあ、そういう運のない人もいるって。さ、帰ろ帰ろ!」
 暗くなりかけた空気を払拭するように元気に笑って、沙々菜は二人の背中を押した。
 清美は押されるがまま校門を出たが、もう一度だけ屋上を振り返った。
 男子生徒は微動だにせず、先程と同じ格好でじっと北の方を見つめたままだった。

 それから3日が経った曇天の金曜日、清美は屋上へ続く階段を上っていた。
 3日前、クラスメイトの話を聞かされてから、どうしても彼が気になってしょうがなかったのだ。
 清美は元々好奇心旺盛で、人見知りもしない方だった。いくら相手が男子とは言え、自分より年下の子に声をかけることなどどうってことはない。まして、この好奇心を満たすためならなおさらだ。
 屋上への扉を開けると、強い風が吹きつけた。雨風ではないので心地良いが、少し寒い。
 彼はやはりそこにいて、じっと彼方に目を向けていた。思っていたよりも背が高い。清美も160あるが、そのさらに10センチは高そうだ。まだ高1だというのに。
 清美はもっと少年っぽい人物を想像していたので、少し驚いた。
 ノブから手を放すと、思いの外大きな音を立てて扉が閉まり、吉城がゆっくり振り返った。顔は歳相応に幼く、頬にはにきびがある。
「こんにちは」
 清美は笑顔で声をかけて彼に近付いた。先程の扉の音に驚き、声がわずかに上ずっている。
 吉城は少年らしい屈託のない笑顔を見せた。
「こんにちは、先輩」
 彼はちらりと清美の胸元を見て挨拶を返した。セーラー服のポケットのところに付けてある校章は緑色で、3年生を表す。ちなみに、彼のは1年生の黄色だった。
 吉城が爽やかにお辞儀したのを見て、清美はまたもや驚いてしまった。もっと取っ付きにくい人物を想像していたのだ。
 「何の用?」と冷たくあしらわれるくらいの覚悟をしていたので、清美は内心でほっとすると同時に、まったく本人と違う人物像を勝手に描いていたことを申し訳なく思った。
「3年の岡崎清美よ。よろしくね」
「1年の吉城拓也です。知ってたかも知れないけど……」
「名前は初めて知ったわ」
 清美は彼の隣に立つと、北の景色に目を遣った。
 6階の高さから見る街は小さく、人は点のように映った。遠くには緑の地帯があり、M大の校舎が見える。
「私、もう3年だけど、ここに来たの初めて。街がこんなふうに見えるのね」
 清美が目を輝かせると、拓也は楽しそうに笑った。
「俺、ここから見る風景が好きなんですよ」
「どんな景色だったとしても、吉城君はここに来てたでしょ?」
 清美はいたずらっぽくそう言いながら、手すりの下の一段高くなっているところに足を乗せて、顔だけで拓也を見た。
「どうして?」
 拓也はその言葉が意外だったのか、探るような目で清美を見た。清美は可笑しそうに笑って答えた。
「だって、入学してからずっとここに来てるんでしょ? だから、ここから見える景色に意味があるんじゃなくて、ここから見るっていう行為に意味があるんじゃないかって思って」
「難しいこと言いますね」
 拓也は清美から視線を逸らせて空を見上げた。その表情には満足げな笑みが浮かんでいる。もちろん、清美の言ったことは理解していたし、しかもそれは正解だったのだ。
「俺に声をかけてくる人、多いんですよ。まあ、こんなことしてれば当たり前だけど。面倒だからさっきみたいに言うと、みんな納得してくれるんですよね。岡崎先輩が初めてですよ、さらに突っ込んできたのは」
「迷惑だった?」
 清美が不安げな顔をすると、拓也は先輩にそうさせたのが申し訳ないと言わんばかりに大きく首を振った。
「そんなことないですよ。ちょっと嬉しいんですよ、理解してもらえて」
「そう……」
 清美はほっと息を吐いてから、M大の方に目を向けた。構内の様子は見えないが、恐らくまだたくさんの人が残っているのだろう。
 清美は大学生活を見聞きしたことはないが、よく想像したことはあった。清美の中でそこは、常に明るい活気に満ち、男女が交友し、遊びも勉強もすべてが自由な楽園のようなところだった。
 そしてその度に、早く高校を卒業して大学に入りたいと思うのだ。ここは勉強ばかりで面白くない。
「吉城君は……違ったらごめんね。前にこの学校にいた、吉城恵さんの弟なの?」
 できるだけ自然に、清美はそう切り出した。
 それは拓也には衝撃的な一言だったらしい。驚いたように目を丸くしてから、小さく息を吐いて歳に不相応な大人びた微笑みを浮かべた。
「岡崎先輩は、他の人と違って、俺のことをよく調べた上でここに来たんですね。俺に興味があるんですか?」
「あなたの言っている意味とは違う意味でね」
「冗談ですよ」
 拓也は可笑しそうに笑った。
 なるほど、この子ならば少々おかしな行動をしていてもいじめられはしないだろうと、清美は安堵の息を洩らした。
 拓也はまた遠くの景色に目を遣って、その表情から笑みを消して答えた。
「そうです。その恵の弟です。先輩は3年生だから、姉を知ってるんですね」
「名前だけね。あと、頭が良かったのに大学に行けなかったことも……。それと関係があるの? 吉城君が毎日ここに来てるのは」
 拓也はその質問に直接答えはしなかった。代わりに遠い目をして語り始めた。
「姉は、よくここに来ていたそうです。姉は学校が嫌いでした。勉強も嫌いでした。そんな姉が、唯一好きだったのがこの場所だったそうです。よく俺に学校の愚痴を零しながらこの屋上の話をしてくれました」
「それでここに?」
「姉がどんな景色を見てたのか、その景色を見ながら何を考えてたのか知りたくて……」
 清美は首を傾げながら、気楽な気持ちで尋ねた。
「聞けばいいじゃない。仲が悪いの?」
 拓也は寂しそうな顔をした。
「聞けたらそうしますよ。仲は悪くなかったです」
「そう……」
 何か複雑な事情があるのだと思い、清美はそれ以上聞くのはよした。代わりに明るい声で問いかける。
「それで、何かわかってきた?」
 拓也は清美を見て、自虐的な微笑みを浮かべた。それから溜め息をついて首を振った。
「まだ1年だから。3年になればちょっとは何かわかるかも知れないけどね」
 そう答えてから、拓也は真っ直ぐ清美を見つめて言った。
「先輩、質問です」
「な、何?」
 突然子供っぽい言い方をされて、清美は素っ頓狂な声で聞き返した。拓也はそんな清美が面白かったのか、少しだけ笑ってから質問した。
「先輩は学校好きですか?」
「学校は嫌いよ?」
 清美は即答した。
「でも友達は好き。学校で友達といる時間も『学校』って言うなら、そんなに嫌いじゃないかもね」
「じゃあ、勉強は?」
「嫌い」
 やはりきっぱりと言って、清美は笑った。
「嫌いだけど、しなくちゃね。学生だから」
「それは義務なんですか?」
 1年生は難しい単語を使ってきた。清美は少し考えたが、結局首を横に振った。
「放棄したければできると思うわ」
「先輩は勉強が嫌いなら、どうして放棄しないんですか? みんながしないから?」
「吉城君は放棄したいの?」
 清美は卓也の言葉に、彼は勉強を放棄したいのだと思ってそう尋ねた。
 拓也は静かに首を振って否定した。
「違います。俺は別に勉強は嫌いじゃないし。自分に知識が付いていくのは、結構面白いと思うから」
「優等生の回答ね」
 一切の皮肉も含めず、本当に感心して清美は言った。勉強に対して肯定的な生徒を初めて見たのだ。
 清美はますます拓也のことがわからなくなったが、ひとまずそれは置いておき、先程の質問に答えた。
「みんながそうするのもあるけど、私が放棄しないのは大学に行きたいからよ。今の苦しみは、すべて大学で楽しむためのものだって割り切ってる」
 毅然として言った。
 確かに清美は勉強が嫌いだった。けれど、自分の描く憧れの大学に入るためには仕方のないことなのだ。ここで勉強を放棄して、狭い範囲の遊びに甘んじるより、ここはひたすら我慢して大学を楽しんだ方がいい。絶対にその方がいい。
 清美はそういう信念を持っていた。だから勉強しかない毎日にも耐えられた。
 清美の答えに、拓也は不安そうな顔をした。それは今にも泣き出しそうで、清美は胸が締め付けられる思いがした。
「先輩は……もし大学に落ちたらどうするんですか?」
「あっ……」
 思わず清美は声に出して呟いた。
 拓也は清美と姉を重ねているのだ。きっと吉城恵は、清美以上に割り切っていた。実際、清美のように勉強ばかりの毎日を大学のためと割り切っている生徒は多いのだ。
「考えたこともないわ」
 清美は素直にそう言った。
 実際、どこにも入れない可能性など考えたことがなかった。清美は模試でM大合格に60%の判定をもらっていたし、それより低い大学はすべて80%以上だった。
 たくさん受ければ必ずどこか受かる。誰でも受かる大学などいくらでもあるのだ。
 そう、物理的に受けることさえできれば。
「たぶん、浪人するか……うん、浪人ね。働くことは考えられないわ」
 清美は『就職』という単語を思い浮かべた瞬間、すぐにそれはないと考えた。
 就職はいつでもできる。けれど、遊ぶのは若い内だけだ。
「フリーターっていう選択肢はありね。でも、せっかく3年間勉強したんだから、やっぱり浪人してまた来年受けるわ。あなたのお姉さんも浪人してるんでしょ? あ、もう今年から大学生か」
 清美はこのすぐ後に、この発言を後悔した。
 ひょっとしたら、沙々菜は知っていたのかも知れない。あるいは、他の誰かに聞けばわかったはずだ。
 それを拓也の口から言わせてしまったことを、清美は悔やんだ。
「姉は……死にました。卒業してすぐにです。なんのために生きてきたかわからなくなったって、遺書にはそう書いてありました」
 拓也の目に涙が輝いた。あれからもう1年も経っているが、まだその悲しみから抜け出せないらしい。本当に姉が好きだったのだろう。
「ご、ごめんなさい……」
 清美は思わずもらい泣きをして、鼻をすすって謝った。そういう可能性はこれっぽっちも考えてなかったのだ。
「いいんです。姉は弱かったんです。でも、俺は怖いんです。もちろん、世の中には浪人生はたくさんいます。でも、その大半は高校時代に遊んでいたか、あるいは本当に入りたいレベルの高い目標があるヤツです。頭も良くて勉強ばかりしていて、別に大学なんてどこでも良かったのに浪人しなきゃいけなくなるなんて……」
「そうね……。うちの生徒はみんなそうね……」
 清美は手すりを握って身体を後ろに倒した。そして少し晴れてきた空を見上げた。
「でも、私は大丈夫よ。国語の小橋先生が言ってたわ。浪人経験も悪くないって。浪人時代は辛いけれど、その経験は必ず後で生きるって。何事も経験だと思えば、前向きに捉えられるんじゃない? もちろん、実際になってみないとわからないし、浪人なんてする気もないけど」
 拓也はその答えにほっとしたように息を吐いた。
「岡崎先輩は前向きですね。安心しました」
 清美は何も言わなかった。
 心の中では、恵が後ろ向き過ぎただけだと思ったけれど、彼女は自分よりもずっと大変な思いをしてきたのかも知れないし、弟の前でそう口にするのは酷だ。
 清美が何も言わなかったから、しばらくの沈黙の後、拓也が言った。
「姉は、ここから何を見ていたんでしょうね」
 清美は改めて景色を見た。
 暮れかかった群青色の空。走っていく列車。信号の青と赤。車のライト。見下ろすともう帰宅部生はほとんどおらず、県内最弱のサッカー部がグラウンドで練習をしていた。
 遠くには立ち並ぶマンションと、その中にある個々の営み。M大は悠然としてそこにあり、木々の中には桜の桃色が混じっている。
 恐らく恵の見ていた風景。けれど、彼女はこれを見ながら、清美とはまったく別のことを感じていたはずだ。
「私にはわからないわ。もう3年だけどね。きっと、誰にもわからないのよ」
「そうですね……」
 少し不満げでがっかりしたような、でもどこか安心したような複雑な微笑みを浮かべて、拓也は清美を見た。答えを求める気持ちと、それを決して知りたくない気持ち。その二つが彼の中で葛藤しているのだろう。
「明日からもまたここに来るの?」
 清美が明るい声で尋ねると、拓也は「どうでしょう」と首を傾げてからもう一度景色に目を遣った。
「今日こうして先輩と話ができて、結構満足しました。俺は先輩と話すためにここにいたのかも知れない……」
 清美は小さく笑って、彼の背中を軽く押した。
「ロマンチックなこと言わないの」
 拓也は照れたように笑った。
「でも、こうしてお話したのも何かの縁かも知れないわね。私は吉城君のお姉さんにはなれないけど、相談には乗るわよ? 先輩として。良かったら気軽に話しかけてね」
「はい、ありがとうございます」
 初めのように丁寧にお辞儀をした拓也と握手を交わして、清美は鞄を握り直した。
「それじゃ、私はもう帰るけど、吉城君は?」
「俺はもう少しここにいてから帰ります」
「せっかく誘ってるのに」
 冗談っぽく言うと、拓也は悪ガキのような笑いを浮かべて答えた。
「じゃあ今度は俺から誘いますよ」
 そういう冗談は嫌いではなかった。もちろん、本気で言う男は嫌いだったが。
「期待してるわ。それじゃあね」
「はい。また明日」
 軽く手を振って、清美は拓也に背を向けた。
 春の風は一段と強くなっていた。なびく髪を押さえながら、清美は扉の前で一度だけ振り返った。
 拓也はじっと北の景色を見つめていた。手すりに肘をついて、初めて見たときのように。
 清美は扉を開けると、今度は音を立てないように静かに閉めて階段を下りていった。
Fin