■ Novels


想い出たち
 外でリリンと風鈴が鳴った。網戸の向こうからけたたましい蝉の声が、ひっきりなしに聞こえてくる。
 一台の古い扇風機が首を左右に振って、風がフローリングの床を舐める。
 今年もまた夏が来た。
 俺は一度窓の外に目を遣って、しばらく突き抜けるような青空を眺めてから、テーブルの上のアルバムを開いた。

『1997年春』
 そう書かれた小さな紙がまず挟んであるそのページには、他に4枚の写真が貼られていた。
 懐かしい校舎の壁から乗り出すように、両手を広げる満開の桜の樹の下で、セーラー服姿の彼女がにっこりと笑ってピースしていた。
 その時は気にならなかったけれど、今改めて見てみると、その笑顔はどこかぎこちなくて、少し無理して笑っているように見えた。
 それはきっと、その時はまだ知らなかった本当の彼女の笑顔を、後になって知ったから。
 この頃付き合い始めたばかりの俺たち二人。彼女はまだ少しだけ俺のことを警戒していた。
 そんな彼女の写真が2枚と、愛想笑いを浮かべながら、同じようにぎこちなくブイサインしている俺の写真が2枚。
 写真写りが悪いから嫌だと言ったのに、彼女がどうしても撮るんだと言って聞かなかったのを覚えている。
「私だけなんてズルいわ。北崎君も撮らないと、私拗ねちゃうんだから!」
 なんだかよくわからない彼女の説得の仕方が新鮮で、付き合い始めてから初めて知った彼女の一面の、ほんの一つだった。

 俺は苦笑しながらページをめくった。

『1997年修学旅行にて』
 うちの学校は修学旅行が初夏にあって、広島に行った。
 俺と彼女は同じ班で、二日目の自由見学のときも一緒に見て回った。
 もっとも、一緒にと言っても他の連中も一緒で、修学旅行の間中ずっと茶化され続けたのを覚えている。
 原爆ドーム、厳島神社、錦帯橋、極楽寺、縮景園……。
 おおよそ、班で回った場所の数だけ、俺たち二人の写真があって、今度は二人で並んで写っていた。
 撮ってくれたのはもちろん友人たちだが、「手を繋げ!」「肩を抱け!」「キスしろキスしろ!」と茶化すもんだから、逆に意識してしまった俺たちは、どの写真でも50cm以上離れて立っている。
 少し残念だったけど、真っ赤になって俯いている彼女も可愛かったからよしとした。

(そういえば……)
 ページをめくろうとして、頭の隅を写真にはない想い出がよぎった。
 この修学旅行のとき、俺は初めて彼女と手を繋いだ。
 今思えば、たかが手くらいと思うのだけれど、初めて触れた彼女の手の冷たさと柔らかさに、手の平がじっとりと汗ばんだのを覚えている。
 彼女は、俺がどれだけ緊張していたかわかったらしいけど、その時は何も言わなかった。
「あの時の徳久君、すっごく可愛かったよ」
 後日、面白そうに俺にそう告げた彼女の笑顔が眩しかった。

『1997年夏・鷹巣』
 ページ1ページ分の写真は、夏の陽射しに輝く海を背景に、地味なワンピースの水着姿で、恥ずかしそうに両手を前で組み合わせている彼女だった。
 そうだ。
 夏休みに入ると、俺たちは二人きりで海水浴に出掛けた。一泊二日、泊まりがけでだ。
 彼女に告白したときと同じくらいの勇気を振り絞って、俺は彼女を誘った。
「泊まりで海に行かないか?」
 それの意味することを、彼女は彼女なりに理解して、そして、真っ赤になって俯いた。
 俺がドキドキしながら黙って見つめていると、彼女はしばらくもじもじしながら、視線をあちこちに彷徨わせてから、小さく、
「はい」
 と、丁寧な言葉で返事したのを覚えている。
 俺は喜びと同時に、とてつもない不安を感じていた。まだキスさえしたことのない俺が、一気に最後の一線を越えようとしている。大丈夫なのだろうか、と……。

 ページの端を摘み上げて、俺は目を閉じて深く息をした。そして、あの夜のことを思い出して、思わず笑ってしまった。
 結局その夜は、ドキドキしながらキスをして、裸になったまでは良かったけれど、初めて見る女の子の身体を前に、どこをどうしてよいのかわからず、あたふたしている内にイッてしまった。
「ご、ごめん……」
 ひどく落ち込んで謝った俺を、彼女は小さく笑って抱きしめてくれた。
「いいよ。今度は上手にしようね」
 俺たちは抱きしめ合って、深いキスをした。
 二回目は……やっぱり上手にできなかった。

『1997年秋』
 一面の赤はカエデである。
 彼女が、紅葉を見ながら温泉に入りたいというので、二人で信州の方に出掛けていった。少し年寄りくさい気もしたけれど、それが俺たちなんだと思った。
 この時の俺たちはすっかり仲良くなって、一緒に手を繋いで歩いていた。もう彼女の小さな手の平にドキドキしたりはしなかった。
 俺たちは何気ない会話を楽しんで、何気ない時間を過ごした。
 だから、この日もたくさんある楽しかった想い出の中に埋没して、写真がなければ特に印象の残らない旅になっていたかも知れない。
 彼女は景色や温泉を楽しんでいたけれど、俺は彼女と二人でいることを楽しんでいた。それは、何も温泉地である必要はなかった。
 その日の夜は、当然のように身体を重ねたが、そのときはもう昔みたいな新鮮さは感じなかった。もっとも、昔よりも確実に仲良くなっている二人は強く感じていたが。

 また幾つかの小さな想い出たちがアルバムの中に敷き詰められていて、そして、二人は新年を迎えた。

『1998年元旦』
 合格祝いも兼ねて、俺たちは初詣に行った。その時の彼女の晴れ着の写真が3枚ほど貼ってある。俺のものはない。
 帰り道で、15日後のセンター試験を頑張ろうと、軽く手を握り合った。
「絶対に同じ大学に行こうね!」
 俺たちはそう誓って、頷き合った。

『1998年2月』
 笑顔の二人がいるのは、大学の校舎前だった。この写真は、合格発表の日に撮ったものである。
「やったね、徳久君!」
 願いが通じたのか、俺たちは見事同じ大学に合格することが出来た。
 すごく嬉しかった。彼女のことが好きだったから、またずっと一緒にいられる喜びに胸が躍った。
 大学に入れば、高校時代よりも行動の幅が広がる。二人で何かのサークルに入って、同じことに情熱を傾けるのもいいかもしれないし、旅行三昧もいいかもしれない。
 一緒に大学に行って、一緒に講義を受けて、一緒に学食で昼食を摂って……。
 そんなささやかで幸せな毎日が、春から俺たちを待っている。
 俺は嬉しさのあまり、同じように合格に喜ぶヤツらの前で、思い切り彼女の身体を抱きしめた。彼女はびっくりしたような声をあげたけれど、すぐに嬉しそうに俺に抱き付いてきた。

 それが、俺たち二人の最後の想い出だった……。

 アルバムはそこで終わっていた。
 その先には何もない、開いてもただ真っ白なページが続いていた。
 彼女は、俺を置いて死んでしまった。
 どうしてそんなことをしたのかわからないけど、あの晩、彼女は女友達と合格祝いをした。そして、酔った勢いで、同じように酔っぱらった先輩の車で家に送ってもらった。
 ……もらうはずだった。
 運転手を含めて女の子が4人乗っていたその車は、センターラインを勢い良く飛び出して、ちょうど対向車線を走ってきたトラックと正面衝突し、見るも無惨な姿になり果てた。
 4人とも即死だった。

 俺は溜め息を吐いてアルバムを閉じた。
『二人の想い出・1巻』
 そう書かれた彼女の丸い文字の上に、涙が染みになった。
 “2巻”がないのに、初めからここに“1巻”と書いた彼女は、まさか自分が死ぬなんて思ってなかったはずだ。俺と二人で、“10巻”も“20巻”も、想い出を作ろうとしていたはずだ。
 俺は一度固く目を閉じ、彼女の名を呟いてから、大きく首を左右に振った。
 もう泣いてはいけない。
 いつまでもここにいてはいけない。
 だって、俺は生きているから。
 だから、いつまでも想い出に縛られていてはいけない。
 そのために、俺は今日、決意したんじゃないか!

 彼女のことを忘れるわけじゃない。
 彼女を好きでなくなるわけじゃない。
 でも……。
 それでも、俺は歩いて行かなくてはいけない。
 俺の時間は止まってないから。
 だから、前を向いて歩き出そう。

 パチパチパチ。
 燃え盛る炎の中に、俺は大事な想い出を投げ込んだ。
 ゆっくりと、時間をかけて作り上げてきた二人のアルバムが、たちまちにして燃えていく。
 『二人の想い出・1巻』の文字が、茶色く、そして黒くなって消える。
「さようなら……」
 俺は、ぽつりと呟いた。

「徳久さん?」
 ふと後ろから名前を呼ばれて、俺は振り向いた。
 玄関の方から、心配そうに俺を見つめる女の子が一人。
 大学で知り合った俺の後輩だ。何故だかわからないけど、俺になついている。
 そして昨日、大学のグラウンド脇で告白された。
「美織ちゃん……」
 美織ちゃんは、今にも泣きそうな顔をして俺のところに駆け寄ると、不安げに俺を見上げた。
「徳久さん、どうしたんですか? 涙の跡が……」
「なんでもないよ……」
 気が付くと、俺は美織ちゃんを抱きしめていた。
「の、徳久さん!?」
 ひどく驚く。それはそうだろう。美織ちゃんとはずっと仲が良かったけれど、付き合い始めたのはつい昨日ことだ。
 それでも美織ちゃんは、そっと俺の背中に手を回すと、グッと俺の身体を抱きしめてくれた。
「好きです……徳久さん……」
 くぐもった声が、胸の中から聞こえた。

 足下から、パチパチと木材の燃える音がする。
 俺はその音を聞きながら、美織ちゃんにそっとこう言った。
「ねぇ、美織ちゃん」
「はい……」
「二人でアルバムを作らないか?」
「アルバム……ですか?」
「写真が嫌いじゃなかったらでいいけど……。これから二人で……ゆっくりと……想い出を作っていこう……」
 涙が零れた。
 胸が熱くなって、俺は、力一杯美織ちゃんの身体を抱きしめた。
「はい! 写真撮るの大好きです!」
 美織ちゃんが言った。そして泣いている俺を見上げて、きっと気になっただろうに、どうして泣いているかは聞かないで、ただ元気にこう言った。
「覚悟してくださいね、徳久さん。アルバム、2ヶ月に1冊は買わせますよ!」
 俺は、2年半ぶりに笑った。

『2000年7月』
 記念すべき1枚目の写真は、美織が撮った俺の写真だった。
 そして2枚目は、俺が撮った美織の写真。
 俺の家の前で、二人で写った写真は撮れなかったけど、慌てることはない。
 時間はたくさんあるのだから……。
 笑顔の二人がそのアルバムの1ページ目を飾った。

 さようなら……。
 俺はここから歩いていきます。
 美織と二人で、未来へ。

 アルバムはやがて灰になった。
 もちろん、彼女との想い出は、俺の心の中にまだ宝物として大事に取ってあるけれど、それでも、“これまで”よりも“これから”の方がずっとずっと大事だから。
 だから……。
「どうしたんですか? 徳久さん。ちょっとおかしいですよ」
「いや、何でもない」
 俺は美織の手を取って歩き始めた。
 美織が少し照れながら、それでも嬉しそうに俺を見上げる。
 俺は、自然と笑みが零れた。

 新しい二人の想い出が、未来へと続く長い道のりを、ゆっくりと今歩き始めた……。
Fin