授業内容は国語である。
直接魔法とは関係なく、講師もすでに老齢の域に達した、魔法の使えない男が教えていたが、識字率の低いウィサンの若者にとっては最も大切な授業の一つだった。
魔法を用いる段において文字が読める必要はないが、書物を読むために文字は欠かせない。
所長であるタクト・プロザイカは、単に魔法が使えるだけでなく、魔法の使われ方や、魔法の限界を学ぶことにも力を入れていた。
魔法が危険なものであると同時に、自分の生徒たちに正しい使い方をして欲しいがためである。
それゆえ研究所では、魔法に関する数多くの書物を読むことと、それらの複製を自分たちの手によって量産することを若者たちに課していた。
もっとも、早く魔法を使いたくて仕方のない若者たちには、上の者の意図に反して国語は退屈以外の何者でもなかった。授業というのは得てしてそういうものである。
それは、魔法に関しては真面目一辺倒の見習いの少女にも同じことだった。
いや、少女の場合は他の者とは少し色を違えた。
周りの若者たちがわからなくて退屈なのに対して、彼女には簡単すぎて退屈だったのだ。
師に言われて受講しているが、内容は極めて基本的なことであり、少女がまだ魔法を独学で勉強していたときに覚えた域を出なかった。
「ん……」
思わず出そうになったあくびを堪えて、ユウィルは半眼で机に置かれた本を取った。
分厚い本だが書いてあることは対したことではない。
この本を読破することがこの授業の1年間での目標だったが、ユウィルはすでに何度も読み終えていた。
本は『最後の魔法』というタイトルの物語だった。
生まれつき魔力の強い若者が、得意になって魔法を使い過ぎたために世界のバランスが崩れてしまう話である。
若者は自分の住む世界を愛していたが、魔法に憑かれていたためにその使用をやめることができなかった。
使えば使うほど崩壊していく世界。そんな中で若者は一人の少女に恋をする。
そしてその少女が自分の魔法によって危機にさらされたとき、彼は自らに二度と魔法を使えないようになる魔法をかけ、その力を封印した。
その後二人は結婚して、末永く幸せに暮らしましたという結末だが、魔法を志して研究所に入り、ようやく文字を覚えて読むことができた本の内容がこれでは、彼らはショックに違いない。
事実ユウィルも、初めて読んだときにはなんだか胸の重たくなる思いがした。
気が付くと本を枕にして眠ってしまっていたユウィルだったが、不意に室内が慌ただしくなって目を覚ました。授業が終わったようである。
「相変わらず余裕でいいな、お前は」
いきなり頭上から刺々しい言葉を投げられると同時に、先程まで枕にしていた本の上に、さらにもう一冊本が積まれた。
見上げると3つほど年上の青年が、何とも不愉快そうにユウィルを見下ろして立っていた。
「これ、片付けておけよな」
彼はぞんざいな口調でそう言うと、そのまま席を去ろうとした。
ユウィルはむっとなってすぐに呼び止めた。
「な、なんでいつもあたしが片付けなくちゃいけないの?」
「お前、見習いだろう」
彼はまったく悪びれることなく笑った。彼がユウィルに片付けを押し付けるのは、何も今日に始まったことではなかった。
そして、本来はまだ研究所に入れない13歳の少女を気に入ってないのは彼だけではなかった。
「あ、じゃあついでに俺のも頼むわ」
「私のもお願いね」
口々にそう言いながら、一緒に授業を受けていた者たちがユウィルの机に本を積んでいく。
こうなるともはや何を言っても無駄だった。結局最後に片付けるのは見習いの務めなのである。
ユウィルは周りから洩れる忍び笑いに耐えながら、両手で5冊の本を持ち上げた。
本はずっしりと少女の細い腕にのしかかったが、何とか運べそうだった。
ところが、まるでそれを待っていたかのように、さらに2冊の本が積まれて、ユウィルは重たさに耐え兼ねて本を床に落としてしまった。
「あっ!」
膝をつくユウィルの足元でバサバサと本が散乱し、笑い声があがった。
「あーあ、ユウィルいけないんだ! 大切な本を」
「…………」
少女は何も言わずに、ただ唇をかんで本を拾い上げた。
魔法を使えば簡単に持ち運びできるのだが、ユウィルは使わなかった。以前、夏の暑い日に、魔法を使って涼んでいてタクトに叱られたからだ。
夏は暑いものであり、本は重いものである。そんな当たり前のことを崩すために、危険を伴う魔法を気安く使ってはいけない。
少女は『最後の魔法』という本の内容は理解できたが、そこから何も学び取れなかったのだ。
手を痺れさせながら一冊ずつ机に置くと、ユウィルは立ち上がって汗を拭った。
机の上には7冊もの本がある。4冊と3冊に分けて持って行こうと考え、ユウィルは再び4冊の本を抱え上げた。
すると、
「おい、これくらい一気に持って行けよ」
誰かが笑ってそう言って、机の上にあった残りの3冊を少女の腕に積み上げた。
「あっ!」
ユウィルはバランスを崩し、斜めに傾いた本の塔の上部が崩れて、再び床の埃が舞った。
「あはは! ユウィル、お前学習能力ないんじゃないのか?」
「やめとけやめとけ。見習いなんだからしょうがないだろ」
自分よりも年上の青年たちにからかわれるのが悔しくて、ユウィルは立ち尽くしたままとうとう瞳に涙をあふれさせた。
もちろん、それくらいで罪悪感を感じるような者なら、初めからいじめたりはしない。
むしろ嗜虐心をそそられたように、彼らはニヤニヤといびつな笑みを浮かべた。
ユウィルの目から涙がこぼれ落ちて、見るに見かねたのか、ついに横から彼らを制止する声がかかった。
「あんたたち、もうそれくらいにしてやりなさいよ」
はきはきとした少女の声だ。ユウィルが涙を拭って顔を上げると、赤毛の娘が床に落ちた本を拾い上げていた。
「シェラン……」
「ほら、ユウィルも泣かないの。泣いたって余計に笑われるだけよ?」
シェランに言われて、ユウィルはうな垂れたまま小さく頷いた。
シェランはユウィルより3つ上の魔法使いである。決して力が強いわけでも頭が良いわけでもなく、むしろ成績は悪い部類に入ったが、研究所の中でも特に人気のある娘だった。
顔は美人ではなかったがいつも明るい表情をしていて、周りに爽やかな印象を与える。それに明朗な口調にも好感が持て、嫌味もなく、誰にでも平等なところもまた彼女の魅力に一役買っていた。
そんなシェランに止められては、彼らも引かないわけにはいかなかった。彼女に嫌われてまでもユウィルをいじめることに価値がないからだ。
シェランはユウィルの肩を小さく叩いてから、4冊の本を抱え上げた。
「ほら、手伝ってあげるから、後はユウィルが持って」
「あ、うん……」
3冊くらいであれば小さなユウィルでも持ち運ぶことができる。
少女は本を持つと、すでに部屋を出ようとしていた先輩の隣に小走りに並んだ。
「あの……ごめんなさい……」
廊下を歩きながらユウィルが謝ると、シェランは可笑しそうに顔を緩めた。
「どうしてユウィルが謝るのよ」
「だって……」
言いかけてユウィルは悲しそうに俯いた。
別に意味があったわけではない。少女が単に拗ねているだけなのは明白だった。
シェランはため息を吐いて肩をすくめたが、何も言わなかった。
同じ階にある書庫に本を収めると、シェランは汗を拭っているユウィルに明るい声で言った。
「ねぇ、これから一緒にクレープ食べに行かない?」
先程の授業が午前最後の授業である。ちょうど昼になるからとシェランがそう提案すると、ユウィルは驚いたような顔をした後、興味深げな眼差しを向けた。
「あの、クレープってなんですか?」
「えっ? 知らないの?」
シェランが聞き返すと、ユウィルは大きく頷き、説明をせがむように彼女を見上げた。
「そっか。確かに東の方じゃあまりないかもね。ウィサンにもクレープ売ってる店なんて一軒しかないし」
研究所の中央にある移動用の“フライトサークル”が混んでいたので、シェランはその周りにある螺旋階段を降りながらクレープの説明をした。
「クレープっていうのは、小麦粉と牛乳と卵で作った生地を薄く円状に焼き上げて、そこにクリームとか野菜とか果物とかを乗せて、こうやって包んで食べるの」
手振りを交えながらクレープの魅力を伝えると、ユウィルは新鮮な驚きに目を丸くして、今にも涎でも流しそうなほどに瞳を輝かせた。
そんな少女の素直な反応に、シェランはいらずらっぽく笑った。
「食べてみたくなった?」
ユウィルは髪が揺れるほど大きく頷いた。
クレープは西方ではパンと同じように人々の主食として食べられていたが、元々が一地方の民族的な食べ物だったために、あまり広くは流布していなかった。
それを東方の湖の国に広めに来た男は、街の中心からやや外れた通りに屋台を出していた。
「こんにちは」
店の前に立ち、シェランが明るく声をかけると、店長の若い男は顔に貼りついているようなにこにこした微笑みで答えた。
「あ、いらっしゃい。いつもありがとう」
どうやらシェランはお得意様らしい。
「今日はお友達を連れてきたの」
シェランに紹介されて、ユウィルは照れながら頭を下げた。たかがクレープを買いに来ただけなのに、遣いで城に行く以上に緊張した。
「いらっしゃい。お嬢さんはどんなのが食べたいのかな?」
気さくに話しかけられて、ユウィルは困ったような微笑みを浮かべると、隣に立つ先輩魔術師に目を遣った。
「あたしはハムとチーズに野菜の挟んであるやつ」
慣れた感じでシェランが注文して、ユウィルはそれを聞きながら、先輩の頼んだ「ハムとチーズに野菜の挟んであるやつ」を想像した。
ハムは好きだし、チーズも好きだし、野菜も好きだから何も問題ない。
「じゃあ、あたしもそれで」
ユウィルがありがちな注文の仕方をすると、すぐにシェランが「えーっ!」と不服そうに唇を尖らせた。
「同じのじゃつまらないわ。あたしの半分あげるから、ユウィルは違うのにしなさい」
「え、あ、あの……どんなのがありますか?」
慌てながらユウィルが店長に尋ね、シェランはそんな後輩の姿に小さく笑った。
一生懸命な少女に好感を持ったのか、店長も常連の娘と同じように頬を緩めると、「そうだねぇ」と呟いてから商品の解説を始めた。
「まあ、小さな店だから、それほど種類もないけど、大きく分けると、サンドイッチ系とクリーム系がある。あと、この季節はないけど、冬になるとアイスクリームのクレープも出てくるんだよ」
「アイスクリームですか!?」
温かい生地に冷たいアイスを挟むのが想像できなかったのか、それとも単にアイスクリームが好きなのか、ユウィルが大きな声を出した。
店長が満足そうに頷いて、シェランが笑いながら付け足した。
「そうそう。あたしはアイスがお勧めね。また冬になったら食べましょう。今はクリームにしなさい」
いつの間にかクリーム系に決定していることにユウィルは思わずジト目になってシェランを見上げた。
「シェラン、クリームのが食べたいなら、そう言えばいいのに」
「べ、別にあたしはそういうつもりで言ったんじゃないわよ。ただユウィルが甘いのが好きかなって」
わざとらしくそう弁明して笑顔を見せた。
そんな彼女の様子が可笑しくて、ユウィルは小さく笑った。シェランはただ人柄がいいだけでなく、人間的にも面白味のある娘なのだ。
「ならこの季節はイチゴとバナナがいいね。定番だけど」
笑いを堪えるように店長が言って、シェランが不服そうな顔をした。
「えー、もっと変なのはないの?」
恐ろしいことをさらりと言って退け、ユウィルは慌てて「それでいいです」と声をあげた。
「はいはい。じゃあ、すぐに作るからちょっと待っててね」
営業スマイルなのか地顔なのか、にこにこしたまま店長は慣れた手つきでクレープを焼き始めた。
ユウィルは背伸びしながら物珍しげにその様子を眺め、楽しそうに顔をほころばせていた。
「いい匂い」
「そうね。匂いもいいけど、実物はそれ以上に美味しいわよ」
シェランが解説すると、店長が生地を伸ばしながら「ありがとう」と笑った。
「美味しかったら、シティア様にも食べてもらお」
楽しそうにそう言ったユウィルに、店長が「おや?」と首を傾げた。
「シティア様って、この国の王女様じゃないのかい?」
「そうです」
事も無げに答えるユウィルに付け加えるように、シェランが口を開いた。
「この子、シティア姫の友達なんですよ」
店長は驚いたように眉を上げてから、嬉しそうに笑った。
「一地方の食べ物だったクレープを世界的な食べ物として広めたのは、どこかの王女様だっていう話だよ。この国の王女様に気に入ってもらえれば、うちももっと繁盛するね」
店長はまるで夢物語でも話すかのようにそう言ったが、残念ながらウィサンの王女は国民に不人気であり、とてもではないが影響力を持っているとは思えなかった。
シティアと仲の良いユウィルだったが、客観的に彼女の人気を知っていたので、店長の話に思わず苦笑したが、「そうですね」と明るく笑った。
「しかし、あのお姫様がクレープねぇ。想像できないわ」
シェランがシティアを思い出しながら呟いた。
まだユウィルがウィサンに来る以前に、シェランは何度かシティアを見たことがあったが、正直なところ魔法使いに対して敵意剥き出しの彼女を好きになれなかった。
直接話をすればそうでもなかったかも知れないが、シティアはシェランが初めて嫌いになった人間だった。
もちろんそれは昔の話であり、シティアはユウィルと出会い、かつての悪評が嘘のように丸くなった。
けれど、民を前にする機会が少ないこともあってか、市民から見たシティアの印象は悪いままだったのだ。
「シェランも、会えばわかるよ。シティア様、笑うとすごく可愛いんだよ」
少女があまりにも楽しそうに言うので、シェランはそれ以上何も言わなかった。元々他人の悪口を言うのは好きではない。
「はいよ、お二人ともお待たせさん」
やがてクレープが焼けて、店長が二人に出来立てのクレープを渡した。
「熱いから気を付けてね」
「ありがとう」
シェランが二人分の代金を支払い、クレープを受け取った。
「あ、シェラン。お金……」
慌ててお金を出そうとしたユウィルを押し止めて、シェランは無理矢理クレープを突きつけた。
「いいからいいから。それじゃ、また来るわね」
「ええ。お待ちしてますよ」
にこにこと穏やかに笑い続ける店長に手を振って、二人は屋台を離れて歩き出した。
「いい人だったね」
夏の陽射しの下を汗をかきながら、ユウィルが笑った。
ローブに着いているフードを被っているので、直射日光は防げるが暑いことに代わりはない。
「でしょう。あたしも気に入ってるのよ」
「シェラン。そんなこと言ったらフェザールが可哀想だよ」
フェザールとはシェランの恋人である。ユウィルは会ったことがないが、人気者のシェランを一人占めできる男として、研究所の若者にだいぶ嫉妬されているらしい。
「それはそれ、これはこれよ。ほらユウィル。クレープ食べてみなさいって」
シェランに笑われて、ユウィルは熱々のクレープにかぶりついた。
柔らかな生地の触感と、香ばしい匂い。それにクリームの甘さがマッチしていて、ユウィルは思わず表情を明るくした。
「あ、美味しいです」
「でしょー」
満足そうに頷いて、シェランも自分のクレープにかぶりついた。
それから二人はしばらく食べながら歩いていたが、やがて通りに置かれているベンチに並んで腰かけた。
ベンチにはひさしがついていて、通りと比べるとだいぶ涼しい。
美味しそうにクレープを頬張っている少女の横顔を眺めながら、ふとシェランは表情から微笑みを消して低い声で言った。
「ねえユウィル。ユウィルは明るくて面白くていい子なのに、どうして研究所では自分を押し殺しちゃうの?」
「えっ?」
唐突にそう言われ、ユウィルは驚いて先輩の顔を見上げた。
面と向かって「明るくて面白くていい子」と言われた恥ずかしさはあったが、それ以上に後半の内容に対する思いが強かった。
「あたし、別にそんなつもりはないけど……。だってほら、シェランともこうして普通に喋るし」
「あたしとは、ね」
シェランに言われて、ユウィルは口を噤んだ。彼女の言う通り、「シェランとも」ではなく、シェランと他に数人の友達にしか少女は心を開いてなかった。
「どうしてなのかしらね。堅苦しい雰囲気が合わないからかしら?」
シェランが空を仰ぎながら尋ねた。もっともその尋ね方は、そうではないとわかっている尋ね方だった。
研究所は国家施設であり、タクトもどちらかというと厳格な人間である。国の関係者も多かったし、シェランの言う堅い雰囲気があるのは事実だった。
そしてそういう空気が、まだ13歳の元気で活発な少女に合わないのは明白であり、ユウィルが心を閉ざしている原因の一つであるのは間違いなかったが、決してそれが一番の理由ではなかった。
ユウィルはシェランに答えを導かれるように首を横に振った。
「シェランは……話しやすいから……」
「それだけ?」
シェランが聞き返すと、ユウィルは黙り込んで俯いた。自分でも良くわかっていないのかも知れない。
シェランはユウィルの陰鬱とした気持ちを吹き飛ばすように明るい声で言った。
「ユウィルはさ、自分が見習いで、特別に研究所に置いてもらってる自分に引け目を感じてるのよ、きっと」
「引け目……ですか?」
「そう」
断言して、大きく頷く。
「あたしは、もちろん強制じゃないけど、ユウィルがみんなの本を運ぶことくらいしてもおかしくない立場だって思ってるわ。ユウィルは嫌かも知れないけど」
シェランの意外な言葉に、ユウィルは唖然となった。
けれど返す言葉がなく、何も言わずにクレープにかぶりついた。
シェランは「でもね」と優しい口調で言って続けた。
「だからって、それで卑屈になることはないと思うし、引け目を感じることはないと思うの。見習いだからしてもおかしくないことと、見習いでも他の子たちと同じ立場でいていいことってあるじゃない」
「それはそうだけど……」
シェランの言うことはもっともだったが、ユウィルにはその境目が難しかったし、どのように振る舞い分ければいいのかわからなかった。
少女がそう言うと、シェランは諭すような眼差しを向けた。
「まずユウィルは何の見習いかって考えることね」
「何のって……魔法使いの、ですよね?」
「そうよ。じゃあ、もちろん先生と生徒の違いはあるけど、魔法使いのタクト先生と、魔法使いのあたし。ユウィルは立場的にどれくらいの差がある? どんなふうに見てる?」
ユウィルははっとなって顔を上げた。
「あの、あたし……ごめんなさい。シェランのこと、友達としてしか見てませんでした」
しゅんとなって俯いたユウィルに、シェランは慌てて手を振った。
「ううん、それを悪いって言ってるんじゃないの。ただ、タクト先生はすごい魔法使いだから尊敬する。他の生徒たちは文字も読めないし魔力も弱いから、それほど尊敬できない。そのくせユウィルは自分が見習いだっていう態度でいる。矛盾してる。それじゃ、ユウィルがみんなに嫌われちゃってもおかしくないわ」
「そう……ですね。あ、もちろん、別にみんなのこと、そういう目では見てないけど……」
軽蔑はしていないが、尊敬してないのは確かだった。
タクトは尊敬していたが、他の生徒たちは尊敬していない。シェランとは友達だから話をするが、他の人には見習いだから話しかけにくい。
でも他の生徒たちと同じ教室で同じ授業を受けている。
なるほど、確かにシェランの言う通りかもしれない。
「あたし……どうすればいいですか?」
「そうね。尊敬できない人間を尊敬しろっていうのも無理な話だし」
「そ、そんなことは……」
慌てて否定しようとしたユウィルを、シェランは笑って制した。
「いいのよ、ユウィル。あたしは友達なんだから、無理しなくたって」
「……はい」
肯定するのはシェランを尊敬できないと言っているように思えて仕方なかったが、本人がそういうふうに受け止めてないようなのでユウィルは大人しく頷いた。
少女が納得したのを確認すると、シェランは話を続けた。
「さっきのさ、本の片付けくらい見習いのユウィルがするのはおかしくないって言ったけど、だからってその方法まで一々指図されることはないと思うのよ」
ユウィルは本の片付け自体に対しては反抗したが、その後の理不尽ないじめに対しては何も言わなかった。
「片付けには素直に従って、その後は反抗すれば良かったんですか?」
先程のことを思い出しながら、教えを請う態度でユウィルが真面目な瞳を向けると、シェランは申し訳なさそうに首を振った。
「そういう局所的な話をしてるんじゃなくて、すべてにおいて、見習いだからしてもおかしくないことと、見習いでもしなくていいことを考えてってこと。答えを慌てないで、ユウィル」
「はい……」
ユウィルは涙目で頷いた。
まだ13歳の幼い少女は、心のどこかでシェランが無条件で自分に味方してくれることを望んでいた。
けれど、それでは根本的な解決にはならない。
友達であるシェランに諭されるのはなんだか責められているようで悲しかったが、ここでふてくされてしまったらそれまでである。
ユウィルは改めて、自分が大人たちの中にいることを実感した。タクトがユウィルに基礎授業を受けさせたのには、そういう人間的な教育もあったのかも知れない。
「よく、考えてみます」
鼻をすすって答えると、シェランはそっとユウィルの髪をなでた。
「ごめんね、ユウィル。私はもちろんユウィルのこと好きだし、あなたの味方よ。でも、あの子たちの敵でもない。あの子たちも本当は優しいの。ただユウィルに嫉妬してるだけ。友達のあたしですら、ユウィルにはだいぶ嫉妬してるんだから」
「シェランも?」
「当たり前よ、ユウィルはすごいんだもの。でもあたしは、ユウィルのいいところをたくさん知ってるから仲良くできる。あの子たちだって、もっとユウィルのこと知ればきっと仲良くできるわ」
「そう、なのかな……」
自信なさそうにユウィルが呟き、シェランは少女を支えるように笑った。
「大丈夫よ。なんてったって、ユウィルはこの街で一番捻じ曲がってた人に気に入られたくらいなんだから」
「シ、シティア様は捻じ曲がってなんていません!」
唇を尖らせたユウィルに、シェランが優しい眼差しを向けた。
「みんなだってそうよ。性格の悪い人をタクト先生が研究所に入れるはずがない。だから、安心して」
もう一度頭をなでられて、ユウィルは涙を拭って頷いた。
「でも、あたし、もうみんなに嫌われちゃってます。今さら、仲良くできるでしょうか……」
シェランの言うことは頭では理解できたが、どうしても不安が先に立った。元々ユウィルはウィサンに来る以前から魔法一辺倒に生きており、あまり友達が多い方ではなかった。
ただでさえどう友達を作ったらよいのかわからない上に、自分を嫌悪している人間とどのように付き合っていけばよいのだろう。
しかしシェランはあっけらかんと、ユウィルの不安を吹き飛ばした。
「今さらって、ユウィルはまだ研究所に来たばかりじゃない。少なくとも、この国のお姫さまが5年もの長い間に街中に根を広げちゃった悪評を覆すよりは遥かに簡単ね」
シェランの言葉に、ユウィルはシティアの顔を思い出した。
王女は今までの評判をなくそうと、地道に焦らず、時には叩かれ、罵られて泣きながら、それでもあきらめずに頑張っている。
ユウィルは自分よりも3つか4つくらい上の、まだ子供と呼んでもおかしくないくらいの人間数人に嫌われているだけだが、シティアは王女という立場にありながら、この国の老若男女すべての人間から冷たい目で見られている。
それを思えば、確かにシェランの言うとおり、自分の悩みなどちっぽけなものに思えてきた。
「そう、だね……。うん、わかったよ、シェラン」
ユウィルは大きく頷いて、それから元気良く笑って見せた。
「ありがとう。あたし、頑張ってみる」
シェランはまるで改心した妹でも見るかのような眼差しで、優しく微笑んだ。
「うん、頑張って。何かあったらあたしに言って。ユウィルが正しければ守ってあげるから」
シェランは常に正しい者の味方だ。
ユウィルはなんだか嬉しくなって、クレープの最後の一片を口に放り込んだ。
その隣でシェランは一瞬驚いたような顔をしてから、すぐに真面目な顔をした。
「ねえ、ユウィル」
「う、うん……」
突然のシェランの変貌に、ユウィルは唖然となって彼女を見た。
また何か怒られるのではないかと思ったが、そうではなかった。
いや、怒られたには違いないのだが……。
「クレープ、取っておいてくれなかったね……」
「あ……」
「あたしはちゃんとこうして半分……もないけど、残してあったのに」
言われて少女は、シェランの手にちゃんとハムとチーズ付きで残されたクレープを見た。
「あ、ご、ごめんね……」
慌てて謝ったが、シェランは許してくれなかった。
「いいもん。じゃああたしもこれ、ユウィルにあげない」
ぷいっとそっぽを向き、シェランは大きく口を開けた。
「ああっ! シェラン、あたし……」
ユウィルは思わず手を伸ばしてそれを止めたが、間に合わなかった。
とても一口で入るとは思えない量のクレープを口に入れて、シェランは勝ち誇ったように口をもごもごと動かした。
ユウィルは涙目で拗ねたようにシェランを見上げた。
「ひどい……。あたし、食べたかったのに」
「ユウィルだって残してくれなかったじゃない」
口の中のものを全部胃に流し込んでから、シェランが平然と言い放った。
「そ、それはそうだけど……」
シェランはお姉さんなんだから、くれたっていいのにとユウィルは思ったが口には出さなかった。
けれど、シェランにはお見通しだったようだ。
「まあまあ。また食べに来ればいいじゃない。美味しかったでしょ?」
尋ねられ、ユウィルは嬉しそうに頷いた。
「はい! やっぱり今度シティア様も連れてきます」
その言葉に、シェランは少し考える素振りをしてから、目だけ真剣な笑顔で言った。
「そうね。じゃあその時はあたしも呼んでね。お姫様だから、クレープくらいはおごってくれるでしょう」
彼女が何を考えていたのか、なんとなくだがユウィルにはわかった。
シェランはシティアを嫌っている。その彼女が、自らシティアに会いたいと言ったのだ。
きっと後輩を諭したことで、自分も変わらなくてはいけないと思ったのだろう。
シティアもシェランも、二人とも大好きなユウィルにはそれがすごく嬉しかった。
そして恐らく、ユウィルのことも他の生徒たちのことも好きなシェランも、いじめられて拗ねていた後輩が前向きになってくれたことが嬉しかったはずだ。
「シティア様の笑顔を見たら、きっとシェラン惚れちゃうから、あたしフェザールに恨まれるかも……」
「そうなるといいわね」
小さく笑って、シェランは立ち上がった。
「さ、まだ午後の授業までは時間あるけど、そろそろ戻ろ」
「あ、うん!」
元気良くユウィルも立ち上がって、歩き始めたシェランの背中を追いかけた。
夏の陽射しを受けて、二人の少女たちは眩しそうに目を細めた。
遠くにそびえる研究所の向こう側に、透き通るような青い空が広がっていた。
Fin