直径１メートルの円。その中は完全な闇に覆われていて、何一つ瞳で認識できるものはなかったが、天井の厚みくらいは月明かりで見ることができた。
思っていたより遥かに分厚い。５０センチ……いや、７０から８０センチくらいある。
「こんなに厚かったんだ」
まるで他人事のようにミランが言った。さしもの彼女も、表面を見ただけでその厚みまではわらかなかったらしい。
けれど、ある程度厚いことを知っていたから、わざわざ上位魔法を使ったのではないのだろうか。普通の天井ならば、手間をかけなくても、例の「最もレベルが高いヤツ」で簡単に穴を空けられたはず。
そう思って尋ねると、ミランは真剣な瞳で首を横に振った。
「この石には魔力が込められているから。あんなレベルの魔法じゃ、穴を空けるのは無理」
「あんなレベル……」
俺は思わず息を飲んだ。基本魔法の最も高位にして、魔法剣をあっさりと消滅させてみせた魔法ですら、彼女には「あんなレベル」なのだ。
上位魔法の威力は、もはや俺では計り知れない。
「暗いね……」
彼女はかすかに微笑んで穴のそばで身をかがめた。そしてその中を覗き込む。刹那、少女が表情を険しくした。
心臓がドクンと一つ高く鳴った。ミランがこういう顔をするときは、大抵嫌なことが起きる。
「どうした？」
彼女の隣で同じように身をかがめると、少女は足元の闇を見下ろしたまま言った。
「声が聞こえる……」
「声？」
俺は耳をそばだてた。すると、確かに穴の中から低い呻き声のようなものが聞こえてきた。
ミランがギュッと俺の服を握った。見ると、眉をひそめて不安げな顔をしている。珍しいことだ。
ミランは俺の視線に気が付いたようで、目が合うと恥ずかしそうに俯いた。
「幽霊とか、苦手」
言われて初めてわかった。やはり彼女の方が頭の回転が速い。
どんな経緯でかは知らないが、この神殿はこの地面に埋まったのだ。当然、中にいた人々も生き埋めになったはず。
「墓を掘り起こしたようなもんだな」
俺はできるだけ陽気な声で言った。こういうとき、誰か一人でも自信に満ちた態度でいると、周りが安心するものだ。
ミランはほっと息をついて笑った。
一応付け加えておくが、俺も怖い。
「中に行ってみる？」
ミランがちらりと俺を見て聞いてきた。ひんやりとした空気が、すえた匂いを孕んで昇ってくる。俺が小石を投げ入れると、遥か下の方で音がした。とりあえず空間になっているのは確かだ。
「いや、やめておこう。これ以上何かをすると、俺たちが空けたのがバレる」
ミランは真顔で頷いた。
朝起きて作業現場に行ったら、忽然と大きな穴が空いていた。俺もミランもそういう筋書きで進めようとしている。明朝は皆に混じって大いに驚いて見せるつもりだ。
これ以上この土中の神殿に対して何かをすると、俺たちがやったと気付かれる可能性が高くなる。それだけは避けたかった。
俺はミランを伴って立ち上がった。その時、ふと先程の話が途中になっていることに気が付いた。
ミランが魔法で友達を殺した。もちろん、初めて聞く話である。
かつてエルザーグラのギルドマスターは、俺に少女が魔法を嫌う理由をこう話した。
「普通のヤツらがミランに期待するのは強い魔力だ。あいつの両親も、街の人間も、学院のヤツらも、全員がそうだった。あいつはそれが嫌でしょうがなかったんだ」
ミランは魔法師としての能力を買われているが、例えばそれは同じくらい強い魔法師がいれば、ミランである必要はないということである。
ミランはそれが嫌だった。そう聞いていた。
もちろんそれもあるのだろう。あのギルドマスターが嘘をつくとは思えない。
だが、理由はそれだけではなかったのだ。
俺は続きを知りたかったが、今さら言う気にはなれなかった。あまりにも重い話だ。タイミングを逸して尋ねられるものではない。
そんな俺の心中を知ってか知らずか、少女は俺に背を向けたまま、囁くように言った。
「さっきの話は……また今度、ちゃんとお話します」
「ミラン……」
少女は俺を振り返った。穏やかな笑顔を浮かべていた。
だが、次の瞬間、少女は表情を厳しいものに変えた。同時に、俺を突き飛ばして自らも飛び退く。
俺はその場に尻餅をつきながら、先程まで俺の居た空間を何かが横切るのを見た。
「な、なんだ！？」
そこにあったのは、黒い物体だった。いや、生き物だ。丸い。長細い球だ。大きさは１メートルくらいだろうか。
表面は毛で覆われているようでもあり、煙の塊のようでもあった。目はどこにあるのかわからない。そもそも存在するかもわからない。
ミランはすでに臨戦体勢を取っていた。俺も素早く立ち上がって剣を抜く。
黒い球はブルッと震えてから俺の方に襲いかかってきた。それほど速い動きではない。
俺はそれを躱すと、剣で斬り捨てた。何かふんわりとした、クリームの塊を切ったような感触がした。
黒い球は再びブルッと震えてそのまま消滅した。
「な、なんだったんだ？」
見ると、ミランが同じ物体と戦っていた。今度は２ついる。
ふと穴の方を見ると、同じ物体が次から次へと、まるで泉に湧き出る水のように出てきていた。
「ミラン、撤退だ！」
少女は襲いかかってきたヤツに強力な蹴りを放つと、大きく頷いて駆け出した。
蹴られたヤツは３メートルほど吹っ飛んだが、死んではないようだった。
「ミラン、あれはなんだ？」
走りながら尋ねる。ちらりと背後を振り向くと、鈍足ながらも確実に、ヤツらは俺たちを追ってきていた。
ミランは大きく首を横に振った。
「わからない。でも、魔法でしか倒せない気がする」
俺の剣は魔力を帯びた剣だ。エルフからもらったものである。
剣の効力は斬った相手を眠らせるものだとミランが鑑定したが、今問題なのは、それがどんなものであれ魔力剣であるかどうからしい。
ミランは一度振り向くと、例の光の魔法を放った。陣を描く早さから見て、オリジナルのものだろう。それは進路を変えることなく、真っ直ぐ物体を包み込んで消滅した。
だが、黒い球はどんどん湧き出てくる。これでは切りがない。
小屋に飛び込むと、別のパーティーの人間が数人立っていた。朝はまだだが、早く起きてしまったのだろう。
「お前たち、どこに行ってたんだ？」
一人が訝しげな顔で聞いてくる。二人ともまだ寝巻きを着けている。
俺は剣を抜いたまま低い声で言った。
「神殿の方から何か来た。仲間を起こして戦ってくれ」
俺はそれだけ言うと、仲間の許に駆けた。
「お、おい！」
先程の男が呼び止めるや否や、黒い球が小屋の中に入り込んできた。
少しして男の悲鳴が聞こえてきたが、俺はそれを見ていなかった。
「おい、お前ら、どこ行ってたんだ？」
いつから起きていたのか、俺が部屋に戻るとインタルがにやにやしながら声をかけてきた。こちらもまだ寝巻きのままだ。
「敵が来た。早く着替えろ！」
俺はそう言いながら、クレスを蹴り起こす。
少年はまだ夢の中にいるような顔をしていたが、俺とミランを見てすぐに着替えた。外から争う音が聞こえてくる。
「何があったんだ？」
とうとう部屋に入り込んできた黒いのを斬り捨てて、インタルが聞いてきた。彼の剣も魔力剣だ。１５年も探検家を続けていれば、それくらいは手に入る。
俺はこれまでにあったことを簡潔に説明した。もちろん、ミランが魔法を使ったことも隠さずにだ。
「なるほどな」
外に飛び出しながら、インタルが楽しそうに言った。クレスは改めて驚いたようにミランを見ている。
小屋の中は黒い塊に覆われていた。通常の剣が効かないのだ。止むを得まい。インタルがまとめて３匹斬り捨てると、その下に血まみれになった探検家が転がっていた。すでに息はない。
「うっ……」
後ろでクレスの呻き声がした。死体を見るのは、少なくともこのような惨いのを見るのは初めてらしい。
可哀想だが、ここは乗り越えてもらわなくてはならない。
「クレス。お前の攻撃は通用しない。戦おうとせず、避けることだけを考えろ！」
俺は叫びながら足元に忍び寄ってきた１匹に斬りつけた。やはり音も立てずに消滅する。
「おいエリアス！ 女子供は俺に任せて、お前は依頼主のとこに行け！」
突然、インタルの大きな声がした。
こういう場合、まず依頼主を守るのが探検家の鉄則だ。この状況を、自分たちが依頼主に危害を加えるために作ったのではないと証明するためでもあるし、依頼主にもしものことがあれば依頼料を支払ってもらえなくなったり、場合によっては罪を問われることもあるためだ。
俺がアームダンのところに駆けつけると、すでに他の戦士が彼を守っていた。インタルより年上と思われる、赤い髪の男だ。手には魔力剣を持っている。
彼は俺の剣を見ると、にやりと笑った。
「エリアスだったな。この場所は狭くて不利だ。アームダンを連れて外へ行くぞ」
依存はなかった。
戦士が学者の手を引き、俺はそれを援護しながら外に飛び出した。
生きている者はすでにすべて外に出ていたらしく、迫ってくる黒い物体と戦っている。だが、圧倒的に不利な状況だった。数が違いすぎる。
「こいつらには魔法しか効かない！ マジックアイテムを持ってないヤツは援護に回れ！」
俺は大声でそう言いながら、赤毛の戦士とともにアームダンを伴って仲間の許へ駆けた。
周りを見ると、魔法師の姿がなかった。どうやら殺られてしまったらしい。
俺は思わず舌打ちをした。本当に生命が危なくなれば別だが、ミランは魔法を使えない。もはや使える状況ではない。
「しかし、お前らどこ行ってたんだ？ 俺にはお前らがこいつらを引き連れてきたようにしか見えなかったが」
そんなことを言われて、横を見ると小屋に戻ったときにいた男が俺を睨み付けていた。一緒にいた者の姿は見えない。
疑いたくも、恨みたくもなるだろう。俺が答えに貧していると、インタルが豪快に笑った。
「こいつらは恋人同士だ。真夜中に何しに外に行ってたかなんて、野暮なことは聞くなよな！」
男は見た目以上に若いのか、たじろぎながら俺の顔を覗き込んできた。
俺は彼以上に恥ずかしかったが、場を丸く収めるためだと思って頷いて見せた。
「まあそういうことだ。丁度事の最中だったから、逃げてくるのが大変だったぜ」
俺が開き直ってそう言うと、男は真っ赤になって「すまん」と謝り、インタルはさらに大きな笑い声を上げた。
彼の向こう側にいる少女に目を遣ると、インタルの笑い声はともかく、俺の話は聞こえてなかったらしい。真剣な瞳で黒いヤツと戦っている。
俺はほっと胸を撫で下ろしながらも、彼女を見て赤くならずにいられなかった。
丁度、探検家の一人の悲鳴じみた声が轟いたのはその時だった。
「な、なんだあれは！？」
俺は声の主の指差す方を見て、絶句した。
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