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リアス、雨中の争乱
降り続く雨。リアスのスラムに壊滅的な被害をもたらした雨に、ついに人々は立ち上がる。敵は自分たちに市民権を与えないリアス七家の貴族。そんな貴族の少女セリシスと、彼女を愛するスラムの子供たちを描く。

 六の月二十八の日。恐らくこの日を生涯忘れることはないだろう。
 街壁に向かって歩きながらウェルスは思った。
 前を行く桃色の髪の純粋な少女は、この後、ほんの1時間後くらいのリアスの街を見てどう思うだろうか。
 自分たちに裏切られて、どう感じるだろうか。
 悲しまないだろうか。
 怒るだろうか。
 自殺とかしないだろうか。
 それとも、案外大丈夫だろうか。
 許してくれるだろうか。
「じゃあ、行くね」
 街壁の前で足を止めて、何も知らないセリシスがウェルスたちを見て不安げに手を差し出した。
「しっかり私につかまって。身体にしがみついててもいいから」
 二人はその言葉に甘えて、セリシスの柔らかな身体をしがみつくように抱き締めた。
 セリシスは二人がしっかりとつかまったのを確認すると、目を閉じて念じるように呟いた。
「浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け……」
 凝力石が淡い碧に輝いて、ゆっくりとセリシスの身体が浮かび上がった。
 そしてそのまま街壁を越えて、人目のつかない街の片隅に降り立つ。
「ふぅ」
 セリシスは小さく息をついた。魔法は本当に使えるというだけのレベルなので、少し使うだけでひどく疲れる。
 ウェルスとヒューミスは深呼吸しているセリシスから離れると、ぐるりと一度辺りを見回した。
 リアスの街。
 生まれたときから見上げ続けた街壁の中に、ようやく入ることが出来た。
 充実感とともに、怒りが込み上げてきた。
 街の中に入る。たったそれだけのことが何故自分たちには許されていないんだろう。どうして入れさせてもらえなかったのだろう。
「セリシス」
 ウェルスがそっと呼びかけて、セリシスは笑顔で振り向いた。
「何……ぐっ!」
 鳩尾に、ウェルスの拳がめり込んだ。
「ど……どう、して……?」
 セリシスは痛みのあまり苦しげに呻くと、そのまま気を失って地面に倒れた。
 少しだけ涙が零れた。
 二人はもうためらわなかった。ここまで来た以上、もうやるしかない。たとえどんな結果が訪れようと。
 大好きな少女に恨まれようと。
 生きるために。
「行こう。二人で街門を開けるんだ」
 二人は頷き合って、そして南門へと走り出した。今、その向こう側にスラムのほぼすべての人が集まっている南門へ……。

 そして、戦いは始まった……。

  *  *  *

 セリシスは、ただならぬ喚声に意識を取り戻した。
「う……んん……」
 身体を起こすと、腹部が少し痛んだ。
「痛っ!」
 反射的に鳩尾を右手で押さえる。服の上からなのでわからないが、痣ができているかも知れない。
「ウェルス……どうして……」
 先程ウェルスに殴られたのを思い出して、セリシスは暗い顔をした。
 彼らは一体、何をしたかったのだろう。
 このまま、密かに街で暮らす気なのだろうか。
 他のみんなをスラムに残して?
 それは有り得ない。
 なら……。
「わあぁっ!!」
 再び喚声が上がって、セリシスははっとなった。
 もう夜だというのに空が明るい。
 慌てて振り向くと、街のところどころから真っ赤な炎が空に向かって揺らめいていた。
 もくもくと立ち込める黒い煙。甲高く響き渡る悲鳴。
「な……に?」
 セリシスは驚きのあまり、腹部の痛みも忘れて立ち上がった。
「何? 何が起きてるの?」
 ぞくりと、背筋に悪寒が走った。
 干魃にやられて他国と戦争を始めた北の王国の話が思い起こされる。
「まさか……嘘だよね……」
 セリシスは力なく笑った。
 それからゆっくりと歩き出す。
 街の方へ。
 ゆっくりと……。
 しばらく歩くと、不意に背後から声をかけられた。
「セリシス!」
 聞き覚えのある声。先程セリシスに気を失わせたウェルスだ。
 セリシスは無言で振り返った。
 ウェルスは小走りにセリシスの許へやってくると、
「街に行っては危険だ」
 と、セリシスの手を取った。
「さっきの場所に戻って。あそこにいれば安……」
「どういうこと……?」
「えっ?」
 ウェルスの言葉を途中で遮り、彼の手を払い除けて、セリシスは冷たい瞳で尋ねた。
「どういうことなの? ウェルス。返答次第では、いくらウェルスでも許さないわよ……」
「…………」
 ウェルスは言葉を失った。
 セリシスが怒ることは予想していたものの、いざこうして面と向かって聞かれると答えるのがはばかられた。
「これは……」
「これは?」
「これは、七家の貴族に対する戒めだ!」
 答えたのはウェルスではなかった。
「イェラト」
 二人の声が重なった。
 イェラトはゆっくりと二人に近付くと、セリシスを見て続けた。
「これは、今まで俺たちを街に入れなかったばかりか、人権まで無視し続けてきた七家の貴族に対する復讐だよ。セリシス、お前にもな!」
 怒りに彩られた言葉とは裏腹に、イェラトの瞳は少しだけ悲しみに揺れていた。
 セリシスはそれに気が付いたが、ウェルスは気付かなかったらしい。
「イェラト!」
 怒気を孕んだ声をイェラトに叩き付けた。
「セリシスは関係ないって言っただろ! セリシスに謝れ!」
「うるさい! 俺は……俺だって、セリシスを信じてたんだ。それを……」
「それを、私が裏切った?」
 静かにセリシスがそう言って、二人は驚いて顔を上げた。
 セリシスは顔を斜めに傾けて、悲しそうに言った。
「ごめんね、イェラト。私、別にみんなに嘘をつくつもりはなかったの。ただ、言うのが怖くて。今のイェラトみたいに、私が七家の貴族だからという理由だけで、みんな、私のこと嫌うんじゃないかって。そう思うと怖くて……」
「セリシス……」
「本当に……ごめんなさい……」
 つっと、涙が頬を伝った。
 イェラトはそれを見て、思わず泣きながらセリシスを抱きついた。
「……ごめん、セリシス。俺、俺、セリシスのことほんとは大好きだよ。でも、どうしても七家の貴族が許せなくて。だから……」
「イェラト……」
「でも、わかってくれセリシス。俺たちにとって七家の貴族は敵なんだ。だから……」
「……うん」
 セリシスは小さく頷いて、そっとイェラトの髪を撫でた。
「うん、わかった。もう、いいよ……」
 それからゆっくりとイェラトの身体を離して、再び街の方へ歩き始める。
「セリシス!」
「……私、行かなきゃ」
 振り向かずに、セリシスが言った。
「行って……そして、見ておかないと……」
 何をかは言わなかった。
 そしてセリシスが一歩足を踏み出したとき、前方から数人の男たちの声がした。
「わざわざ自分の足で行かなくても、俺たちが連れていってやるぜ。セリシスお嬢様」
 三人が顔を上げると、そこにはザスキスを含む、数人のスラムの大人たちが立っていた。

 ザスキスたちはセリシスを取り囲むと、憎悪に歪んだ顔で彼女を睨み付けた。
 セリシスは恐怖に身を震わせた。男たちの中には知った顔もあって、セリシスは下腹にズキズキとした痛みを覚えた。
 子供たち二人はそんなセリシスを挟むようにして立つと、
「どういうことだ?」
 緊張した面持ちで尋ねた。
「セリシスには手を出さない約束だったはずだ」
「そこをどけ、イェラト、ウェルス」
「どういうことか聞いてるんだ!?」
 ウェルスが怒鳴った。
 しかし、所詮は子供のそれである。男たちは顔色一つ変えず、平然として言った。
「どうしてもこうしてもない。その娘はこの戦いにおいて利用価値がある。それに、どのみち七家の者を生かしておくわけにはいかない」
「だ、騙したのか!?」
「騙したつもりはない。これは常識だ」
「ふ、ふざけるな!」
 イェラトが感極まってザスキスに殴りかかった。
「いけっ! 娘をつかまえろ!」
 同時に、男たちも三人に襲いかかった。
 多勢に無勢だった。まだ10歳そこそこの子供二人が、三倍以上もの数の大人に勝てるわけがない。
「くそっ!」
 けれど子供たちも必死になって食らいついた。
「セリシスは……セリシスは絶対に守るって……そうみんなと約束したんだ!」
「うるせぇ!」
 ウェルスの顎に、男の一人の拳が入った。
「ぐっ!」
「何が守るだ! 目を覚まさんか、この阿呆が!」
 誰かの踵と爪先が、倒れたウェルスの身体にめり込む。
「ウェルス!」
 セリシスが悲痛な叫びを洩らした。
 そんなセリシスを、他の男が背中からつかまえる。
「きゃっ! いやっ! 放して!」
 セリシスは必死になって振りほどこうとしたが、男の腕はびくともしなかった。
 その間にも、ウェルスは大人たちに殴られ続けている。
 目が尋常ではなかった。
「なあ、おい。あの娘は七家の貴族の者なんだぞ! わかってるのか!?」
 ゴスッ!
「お前はいつから俺たちを裏切ったんだ!?」
「誰のせいで俺たちがあんな生活を強いられていたと思ってるんだ? おい!」
 ゴキッ!
 男たちは執拗に殴り続ける。
 しかし、すでにウェルスは意識を失っていた。
 頼みのイェラトも気を失って、地面に倒れている。
 セリシスは涙を零して絶叫した。
「もうやめて! 私はもういいから。ウェルスをそれ以上いじめないで!」
「黙れ!」
「きゃっ!」
 まるで自らの力を鼓舞するかのように、男の一人が無意味にセリシスを殴りつけて、セリシスは一瞬頭がふわりとした。
 けれども、必死に堪えて叫び続けた。
「ほんとにお願い! ウェルスが死んじゃうわ!」
「黙れと言ってるんだ!」
 もう一度殴られて、セリシスの口の中に血の味が広がった。
 セリシスはぼんやりとする意識の中で、ようやく解放されたウェルスが力なく地面に崩れ落ちるのを見た。
「ウ……ウェルス……」
「よしっ。娘を連れていけ!」
 セリシスはそのまま担ぎ上げられて、無理矢理街の方へ連れて行かれた。
「ウェルス……」
 もう一度呼びかけて、セリシスは意識を失った。
 そして、二度と彼と会うことはなかった。

  *  *  *

 雨は小康状態になりはしたものの、依然として降り続けていた。
 街の者たちはスラムの住民が大挙として押し寄せてくるなどとは、その可能性すらも考えておらず、完全に虚をつかれた形でただ逃げ惑うばかりだった。
 頼りの七家の貴族たちも、その自衛団とともにここ数日の雨の被害の対処におわれていて、突然のスラムの人々の奇襲にうまく迎撃できずにいた。
 その間にスラムの者たちは、一気に中央の神聖区域と呼ばれる、貴族たちの住居街に押し寄せた。
 狙いはただ一つ、七家の貴族を滅ぼすこと。そしてこの貴族制に終止符を打って、リアスを誰もが自由に入れる街にする。
 やがて、神聖区域で壮絶な戦いが始まった。
 それはひどく醜く、ただ無情にも命だけが消えていく戦いになった。
 けれどもそれは、スラムの者たちにとっては大きな改革の第一歩となる、重要な戦いだった。少しでも七家の貴族に積年の恨みを晴らすことが出来たなら、この戦いで貴族制だけでも潰すことが出来たなら、たとえここで滅びようとも、彼らに悔いはなかった。
 彼らは剣を、或いは鍬や鋤を持って戦った。
 何人もの貴族を血に染めて、建物に火を放った。
 けれど、優勢も長くは続かなかった。
 彼らが七家の貴族の屋敷近くまで押し寄せる頃には、貴族たちも軍を立て直しており、武装した兵士たちが彼らを迎え撃つと少しずつ旗色が悪くなり始めた。
「くそっ! みんな頑張れ! 俺たちの怒りを、恨みを、憎しみを、すべてぶつけるんだ!」
 彼らは一歩も退かずに戦った。けれどもその数はどんどん減るばかりで、このままでは全滅するのも時間の問題だった。
 その時、
「待てっ!」
 大きな声でそう叫んだのはザスキスだった。
 ザスキスと他数人の男が、セリシスを太い丸太に縛り付けて剣を突きつけていた。
「この女の命が惜しかったら、関係ない者たちはここから去れ!」
 一瞬、兵士たちの動きが止まった。

 もちろんザスキスとて、セリシス一人を人質に取ったところで、勝てるとは思っていなかった。
 けれど、わずかでも隙が出来れば、或いは彼らが多少なりとも動揺してくれれば、勝機が芽生えるかのように思われた。
 案の定、彼らは一瞬だがその動きを止めた。
「よしっ!」
 スラムの者たちは、ここで一気に彼らを討ち滅ぼそうと手に力を込めた。
 ところが、彼らが攻め立てるより早く、街の兵士たちの背後から大きな声が響き渡った。
「ひるむな、皆の者!」
 その声は、セリシスの父のものだった。
「お父さん……」
 セリシスは自由を束縛されたまま、苦しそうに父を見た。先程殴られた衝撃でまだぼんやりしている頭に、嘲るような父の声がした。
「裏切り者の命のために、お前たちが死ぬことはない。戦え! そして愚かなるスラムの者たちを討ち滅ぼすのだ!」
 その言葉に、兵士たちが再び剣を手に彼らに襲いかかった。
「裏切り者……?」
 それを見ながら、セリシスは呆然と呟いた。
「私が……裏切り者……?」
 裏切り者。
 その言葉が頭の中を駆け巡る。
「どうして……?」
 自分が一体、いつ、どこで、誰を裏切ったというのだ。
 少し考えてから気が付いた。自分がスラムの子供たちに城門を開けさせたことに。
 しかし、いくらなんでもそんな情報が、この状況下で父親の許に届くとは思えない。
 ひょっとしたら彼は、自分は頻繁にスラムに行っていたことを知っていたのではないだろうか。
 事実はわからなかった。
 ただ一つ確実なのは、自分が父に、そして恐らく母親や兄弟にも見捨てられたこと……。
「くそっ! だったらこれでどうだ!」
 怒り狂った男の声に我に返ると、自分に剣を突きつけていた男が、その剣を大きく振りかざしていた。
 殺される……。
 ひどく冷静に、無感情に、セリシスはそう思った。
 そして、静かに目を伏せた。
 剣の振り下ろされる音がした。
 もういいやと、彼女は思った。
 大好きだったスラムの子供たちに裏切られ、肉親には捨てられて、誰も助けてくれやしない。
 みんな、自分を利用していただけなんだ。スラムの子供たちも、結局この日のために自分と仲良くしていたのだ。自分が、七家の貴族の娘だと知っていて……。
「セリシス!」
 もう、そんなふうに自分の名を呼んでくれる人はいない。
 ガキッ!
 頭上で、鉄と鉄のぶつかり合う鈍い音がした。
「セリシス! 何ぼうっとしてるんだ!?」
「……ヒューミス?」
 セリシスはうっすらと目を開けた。
 見るとヒューミスが剣を持ち、自分の前に立って男の剣を受け止めていた。
「セリシス! 魔法だ。魔法を使え!」
 男の剣を弾き返して、ヒューミスが怒鳴りつけた。
 けれどセリシスは、
「もう、いいの……」
 小さくそう呟いただけで、もう一度顔を伏せた。
「セリシス!」
「もういいの、ヒューミス。そんな無理しなくても。今更、助けてくれなくてもいいよ……」
「何言ってんだよ、セリシス!」
 怒ったようにヒューミスは叫んで、再び振り下ろされた剣を受け止めた。
「いつもの前向きなセリシスはどこに行っちゃったんだよ! 生きてよ、セリシス。死んじゃダメだ!」
 それを聞いて、セリシスは小さく笑った。
「何を言ってるの? あなたが私を殺したんじゃない」
「セリシス……」
 薙がれた剣を飛んで躱して、ヒューミスは驚いた顔でセリシスを見つめた。
 セリシスは怒るでもなく、笑うでもなく、ただ淡々と続けた。
「私、バカみたい。結局あなたたちにとって、私は道具でしかなかったのね」
「違う……あっ」
 ガンッ!
 とうとう男の剣がヒューミスの剣を弾き飛ばして、ヒューミスはセリシスの前に立ちはだかった。
「逃げてくれ、セリシス。僕たちは、本当にこんなふうになる予定じゃなかったんだ」
「死ねっ!」
 男の剣が、セリシスをかばったヒューミスの太股に埋まった。
 ヒューミスはそれでもそこを離れようとしなかった。離れれば、セリシスが傷つくから。
「セリシス! お願いだから逃げて。僕も、イェラトも、サルゼも、ウェルスも、みんな、みんなセリシスが大好きなんだ。セリシスだけは助けたいって……たとえ何があっても守ろうって……」
「ヒューミス……」
「うっ!」
 今度はヒューミスの脇腹に、剣がめり込んだ。
 それでもヒューミスは一歩も退かずに、ただ叫び続けた。
「ごめんね、セリシス。それからありがとう。こんなスラムの薄汚れた僕たちに、いつもいつも優しくしてくれて。こんな僕たちに、プレゼントくれて。こんなことになるのなら、たとえスラムが全滅しても、街を攻めるべきじゃなかった!」
「死ねぇぃっ!」
 男の剣が、ヒューミスの胸元へ吸い込まれていった。
「ヒューミス!」
 霧が晴れたように、セリシスが感情をむき出しにして叫んだ。
 その瞬間、空がカッと光って、突然二人の立っていた大地が盛り上がった。
「なにっ!?」

 どんどん地面が空へ吸い込まれるようにせり上がっていって、二人は呆然とした。
 ヒューミスに剣を突きつけた男は、まるで山の斜面を転がるように下の方へ落ちていった。
 はっと我に返って、ヒューミスがセリシスの戒めを解き、小さく尋ねる。
「セリシス?」
 セリシスは小さく首を横に振った。
 自分は、魔法を使っていない。それに地面を盛り上げるなど、自分の魔力では到底無理だ。
 じゃあ、誰が……。
「何をしてるの? お姫さま」
 ふと、頭上からいたずらっぽい女の子の声がして、二人は空を見上げた。
 そこには眩しく輝く少女が一人、透けるように薄い美しい羽根をはためかせて浮かんでいた。
「妖精……?」
 セリシスが呟いた。
 昔どこかで聞いたことがある。
 この大陸の西の果てに、妖精たちが住んでいると。けれどその妖精たちは、決して人前には現れず、人里離れた村でひっそりと暮らしていると。
 ただ……。
「フォリム……?」
 ほとんど同時に二人が呟いた。
 浮かんでいたのは、確かにフォリムだった。いくら羽根があろうと、神秘的に輝いていようと、仲間を見間違えるはずがない。
 それに今、彼女はセリシスを「お姫さま」と呼んだ。セリシスのことをそんな皮肉めいた呼び方をするのは、少なくとも子供たちの中にはフォリム以外いない。
 妖精の少女は少し怒ったようにセリシスを見た。
「何をやってるの? セリシス。あなたらしくない。スラムの人間でありながら、憎むべき七家の貴族の娘を好いてしまった子供たちの気持ち、どうしてわかってあげられないの?」
「フォリム……」
 セリシスは視線をヒューミスに移した。
 ヒューミスはせり上がり、空に浮かぶ小さな島のようになった地面の上に座り込んで気を失っていた。恐らく、空に浮かぶ仲間の姿を見た拍子に、安心して気が弛んだのだろう。
 セリシスはその場にしゃがんで、勇ましい少年の怪我を見てみた。
 太股と脇腹は出血の割には傷は深くない。彼らの持っていた剣が、レイピアのように突き刺すタイプでなかったのが幸いしたようだ。
 セリシスはほっと息を吐いた。
「お姫さま」
 再びいつもの口調で呼びかけられて、セリシスは顔を上げた。見ると頭上でフォリムが苦しそうな顔で見下ろしていた。
「ごめん、お姫さま。もう限界。早くヒューミスを連れて街を出て。みんなも、生きていればきっと行くから。スラムの教会で……」
 フォリムは彼女自身については言及しなかったが、セリシスは彼女の言った「みんな」の中に、彼女も含まれていると無意識に思った。
 だからセリシスは素直に頷いた。色々と聞きたいことはあったが、後から聞けば良い。今はそれどころではない。
 セリシスはヒューミスを抱き締めると、強く強く念じ、意識を集中させた。
「飛んで。鳥みたいに。飛ぶのよ、セリシス」
 ふわりとセリシスは浮かび上がった。
 後はもう無我夢中で、フォリムのことも戦いのことも、すべてを忘れてスラムへ飛んだ。
 雨はいつの間にか上がっていた。

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