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SCARLET WARS
「王女、スワマが落城しました!」
「落ち着きなさい。オカイェンの城壁ではユマナシュの侵攻は防げないわ。オカイェンは捨ててシオルジェイドの東に陣を敷くよう。そこで食い止める。シオルジェイドの部隊も投入して。エンファス将軍にも大至急連絡を取り、シオルジェイドに援軍を送るよう指示を。南のタティラにも早馬を出して。オカイェンの南から軍を進めて、ユマナシュの軍を挟み撃ちにする。ここからでは即時に指示が出せないわ。シオルジェイド戦線の全指揮をエンファス将軍に一任する」
「オカイェンの民はどうされますか!」
「留まっても虐殺されるだけ。武器を取って戦うように。大丈夫、相手も素人よ。こっちも捨て身でぶつかれば、健康な分有利なはず。大丈夫、勝てるわ。大丈夫よ」

「大丈夫、大丈夫、大丈夫。お前はそればかりだな。根拠のない、大丈夫」
「根拠はあるわ。スワマが落ちたのは不意討ちを受けたせいよ。いくら捨て身の攻撃とは言え、真っ向勝負なら私の国は負けないわ」
「本当にそう思っているのか? 大丈夫、大丈夫、大丈夫。あの時もお前はそう言っていた。本当はちっとも大丈夫ではなかったくせに」
「でもなんとかなったわ。私たちは無事に帰れた」
「ただの偶然だ。もっとも、俺は感謝してるがね。あの時お前は大丈夫ではなかった。強がっていただけだ。あんな役立たずでもいないよりはましだった」
「否定はしないわ。あの子がいなければダメだったかもしれない。でも、今もあの時と同じ。あの時より遥かに頼りになる仲間がいるわ。しかもたくさん」
「仲間? どこにいる?」
「いるわ。バルナスは指揮官としてとても優秀な騎士よ? サガンも野心家だけど頭の回転が速い。マトランダのエンファス将軍は兄が最も認めていた戦士。みんなで力を合わせれば、ユマナシュの攻撃なんてどうってことない」
「くくく、仲間か。なるほど、だが果たしていつまでいるかな、お前の仲間たちは」
「…………」
「お前は自惚れが強い女だ。果たして、お前はお前が思うほど慕われているかな? 頼られているかな?」
「くだらない議論はおしまいよ。私はそれを結果で証明する」
「なるほど、楽しみにしているよ。お前が絶望してその無垢な心がバラバラに砕ける瞬間を」

「王女、ニゲルヘイナで戦争の準備をしているという情報があります」
「もっと正確に! 私たちはユマナシュの軍の増強を、東の戦火の対策だと思っていた。でも違った。その結果が現状よ? もっと優秀なスパイを投入して。でもこの機にここに侵攻してくる可能性は高いわ。訓練を実戦的なものに変えて、警備は倍に。しばらく街門の出入りは禁止にしなさい」
「王女、シオルジェイド東の前線が突破されました! オカイェンはすでに占領され、死者は万に及びます」
「なんで!? そんな簡単に破られる軍じゃないでしょ? エンファス将軍はどうしたの!」
「それが、まだ連絡が取れません。マトランダへ送った使者は帰らぬままで、動きもない模様。また、タティラからの救援も準備が間に合わなかったようです」
「シオルジェイドを死守して。籠城よ! タティラからの軍と挟み撃ちに……いいえ。そのままオカイェンを奪還して。全軍シオルジェイドにいるなら、すぐに奪い返せるはず。ここで退路を断つのは大きいわ」
「王女、指揮官が足りません。どうか王女自ら前線で指揮を執ってください!」
「私だってそうしたいわ! だけど、シオルジェイドよりこの城の方が大事なの。ニゲルヘイナが攻めてきたらどうするの!?」
「なら、わたしが行きましょう」
「バルナス!」
「事情はわからないですが、エンファス殿が動けないなら仕方ありません。わたしが行って、ユマナシュの軍勢を追い払いましょう」
「……わかりました。バルナス、ユマナシュとの戦いの全指揮権を貴方に託します」

「一人、また一人とお前の仲間が減っていくな」
「うるさい!」
「お前は立派だ。皆の前では平然と振る舞っている。確かに優秀な王女だ。それでこそ価値がある」
「うるさい!」
「泣くときはいつも一人だ。弱音を吐ける相手もいない、頭を乗せる肩もない。強がりはいつまで続く?」
「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい!」
「俺には見えるぞ? お前の純白の心が汚れていくのが、カラカラに乾いて萎んでいくのが、ヒビが入ってもうすぐ壊れてしまうのが」
「うるさい! 私は大丈夫! 私たちの国は大丈夫! 戦える! 勝てる! 負けない! 大丈夫!」
「いいや、もうおしまいだ。お前はダメな女だ。戦いには負ける。民は死ぬ。お前を恨んで死ぬ。仲間はいなくなる。恨みだけが残る。お前は弱い、しかも迷惑だ。いつか仲間に殺される」
「うるさい! 大丈夫、大丈夫、もうイヤ、大丈夫、助けて、助けて、誰か助けて、大丈夫、大丈夫、大丈夫、助けて、テリス。助けて、あの時みたいに側にいて……」

「王女、急報です!」
「何? 落ち着いて話なさい」
「はっ! シオルジェイドに向かっていたバルナス将軍が、マトランダにて殺害されました。エンファス将軍によるものです。エンファス将軍は反旗を掲げ、我が国からの独立を宣言しました!」

  *  *  *

 そんなこと、本当にあったんだろうか。
 不思議な記憶。
 だけど、疑いようもない事実。本当にあった。この左手がそれを告げる。
 雨は木々によって多少は防がれていたけど、とにかく真っ暗で少し前を歩く彼女の姿も見えなかった。繋いだ手の温もりの他に、何もなかった。
 ふと、彼女が足を止めた。ボクは疲れていたから喜んで立ち止まった。
 けれどすぐ、何も言わない彼女に不安を覚えた。
「どうしたの?」
 彼女は答えなかった。
 今ならわかる。あの時彼女は泣いていたんだ。声を押し殺して、肩も震わさずに。
 だけどボクは無視されたことに腹を立てて、思わず手を払い除けて座り込んだ。
 彼女が振り向く気配。
「テリス、どこ? どうしたの……?」
 か弱く消え入りそうな声。ボクは優越感を抱いて、すぐに手探りで彼女を探し当て、その手を握った。
「ちょっと疲れただけ」
「そう。情けないわね。行きましょう。きっともうじき出られるわ。大丈夫、大丈夫」
 遠くにほのかな光が見えた。
 ボクは思わず駆け出した。
「あっ、待って!」
「光だ! 早く来いよ!」
 光が人に安らぎを与えていることを初めて知った。ボクの人生であんなに嬉しかったことが他にあるだろうか。
 光に辿り着いた。高い岩山、その岩肌に鉄の扉があった。
 だいぶ遅れて彼女が来た。
「遅か……」
 振り向いて、ボクは絶句した。
 泥だらけの髪はぼさぼさで、やはり泥だらけの顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。ボロボロになった衣服、小さな肩は激しく上下し、呼吸は荒く突然止まってしまいそうだった。
 そして、真っ赤に染まったズボン。破れた隙間からは、傷付いて剥き出しになった肉がぎらぎらと赤く光っていた。
「あぁ……」
 息をするのも忘れて立ち尽くすボクの横に立って、彼女は腰からダガーを抜いた。
「何かしら……」
 かすれる声でそう言って、かかっていた錠に何度もダガーを突き立てる。
 やがて錠は壊れて扉が開いた。
 強い光が照らし付けて、ボクは思わず目を閉じた。なんて眩しい白。
 不意に彼女の小さな悲鳴が聞こえた。うっすらと目蓋を開けると、何か黒い靄のようなものが彼女にまとわりついていた。
「マリナ!」
 ボクは手を伸ばした。彼女はやはりいつもの口調で言った。
「大丈夫、大丈夫だから、テリス! 大丈夫だから!」
 黒い靄は少しずつ薄れていった。消えたんじゃない。彼女の身体に吸い込まれたんだ。
 伸ばしたボクの左手にも、少しだけ靄が入ってきた。
 再び真っ白な光に包まれる。黒しかなかった世界から、白しかない世界に。
「マリナ! マリナ! マリナ!」
 伸ばした左手を彼女の右手がしっかり掴んだ。そしてそのまま強く引っ張られた。
 穴の中に引きずり込まれ、ボクは意識を失った。
 ……気が付くとマトランダにいて、元気になった後、ボクは彼女のお兄さんにこっぴどく叱られた。
 彼女は自分が連れ出したんだとかばい続けてくれた。
 そんな、懐かしい記憶。

 夢から覚めると、恐ろしい現実がボクを、ボクたちを待っていた。
 街中の人が城の前に集められ、この城を守るエンファス将軍が見たこともない旗を掲げてボクたちを見下ろしていた。
 そして、言った。
「私の愛する国民たち、どうか聞いてほしい。昨年、私たちが尊敬し、私たちを愛してくれたディアック王子が亡くなられた。私はディアック王子に忠誠を誓っていた。あの人なら、この国を立派に継がれると信じていた。だが、非情にも王子は大自然に命を奪われた。
 国王はどうされた? 諸君らの中で、この一年の間に王を見た者があるか? あるまい。何故なら、王はずっと病床にあったからだ。私は国の要職にある臣下であり、遥か前から知っていたが、公言することはできなかった。だが、状況が変わった。私たちの国を作り上げた偉大なる王は、先日逝去された。私は嘆き悲しんだ。だが、悲しんでばかりもいられない。
 今この国の実権を握っているのは誰か。あの可哀想な第二王子か? いいや、齢十八のマリナ王女だ。王女は聡明にして武才もあるが、戦の経験はなく信もディアック王子に比べて薄い。それが証拠に、周知の通り今南のユマナシュが私たちの国を侵略しているが、すでにスワマが落ち、オカイェンも落ち、シオルジェイドの前線も破られた。
 マリナ王女が無能だとは言わない。だが、この激しい侵攻を跳ね返す力はない。このまま王女の命に従えば、いずれこのマトランダもスワナの二の舞になるだろう。私はそれだけは避けなければならない。愛する諸君に危害が及ぶのを防がなければならない。
 だから諸君、私は今ここで独立を宣言する。だからと言って、ネイゲルディアと戦争をするわけではない。そして、ユマナシュとは和平を結ぶ。どうか安心して欲しい。そして信じて欲しい。これが、諸君の生活を守るための最も平和で確実な手段であると!」
 困惑の色が見て取れた。けれど、国民は皆、エンファス将軍に従うだろう。誰だって戦いたくはない。
 ネイゲルディアには今、マトランダを攻めるだけの余裕がない。それどころか、ユマナシュに滅ぼされるかも知れない。
 そしてユマナシュにとって、このマトランダはなくてはならない土地ではない。領土の拡大が目的ではない。シオルジェイドまででいいはずだ。
 もしも禍根を断つためにナガノリアを攻めるならば、恐らくエンファス将軍は不可侵を条件にこの国を通すだろう。相手は話のわからない悪魔ではないし、マトランダが堅固なことも十分承知のはず。
 ボクは空を仰いだ。
 あの日の少女の顔が浮かんだ。
 今もまた、泣きそうな顔で、それでも気丈に「大丈夫だ」と言っているのだろうか。
「マリナ……」
 呟きは歓声にかき消された。
 いつの間にかエンファス将軍を支持する声が、一帯を埋め尽くしていた。

  *  *  *

「ねえ、テリス。ディアック兄さんが死んだの」
「もちろん知ってるよ。その……元気出して」
「ええ、あなたに言われなくても大丈夫。でもありがとう。ねえ、テリス。死ぬってこと、考えたことある?」
「ううん。そんな難しいこと、考えたことないよ」
「あなたは本当にダメね」
「しょうがないだろ? ボクはキミみたいに身近な人を失ったことがないんだ。あっ、ごめん」
「別にいいわ。それもそうね。ディアック兄さんの身体はとても冷たかった。顔はぶよぶよに膨れ上がって、違う人みたいだった」
「マリナ……」
「意思ってわかる? 心のことよ? 何かをしようとすることよ? 食べようと思う、寝ようと思う。針で指を刺して痛いって思うのは意思じゃないわ。それは感覚」
「大体わかるよ」
「死ぬって、そんな意思も感覚もなくなるの。何も考えられなくなる。想像して。消えてしまうの。今消えてしまう自分を想像してる、その働きもなくなるの。完全にこの世界から消えてしまう。身体よりも、知覚や記憶が消えてしまう方が怖い。ねえ、想像できた?」
「大体。でも、たぶんキミほどリアルじゃないと思う」
「ええ、たぶん私はあなたよりリアルに想像できる。でも十分怖くなったでしょ? 私は怖い。死ぬのがたまらなく怖い。死にたくない」
「ボクも、死にたくないよ?」
「だから私はどんなことをしても生き延びる。絶対に死なない。テリスも死なないで。私より先には絶対に死なないで!」
「マリナ? 泣いてるの?」
「約束して、テリス! 私より先には死なないって!」
「わ、わかったよ。でもずるいよ。マリナもボクより先には死なないって約束して」
「そんな、無茶よ!」
「じゃあボクも約束しない」
「あなたは私の国の国民でしょ? 王女の私に逆らうの? ええ、わかったわ、わかった。友達だもんね。約束する。死ぬ時は一緒よ?」
「絶対だよ、マリナ」
「生意気よ、テリスのくせに。でもいいわ。とにかく私は死なない。約束する。私は生き延びる」

  *  *  *

 塔の窓から見える景色は悪くない。微かに雪をかぶった青い山々の稜線と、そこに沈んでいく夕日。
 コーファンでは見たこともないような、うっとりする光景。
 部屋も悪くない。ベッドはふかふかで、フレッダと二人で寝ても苦にならないくらい大きい。
 壁にかけられた風景画もセンスがある。部屋の装飾も綺麗で素敵。
 待遇も悪くはない。食事は運んでくる人は見られないけど、一日三回必ず出してもらえる。しかもなかなか美味しい。
 必要なものは紙に書いて置いておくと、次の日には必ず届けられる。服はいつも清潔。
 だけど、そろそろ限界だ。
「あの人、一体いつまで私たちをここに閉じこめておく気かしら! それに最近はちっとも顔を出さないし、まさか一生このままってことはないわよね!」
「落ち着いて、ドリス」
「フレッダ、あなたは現状に満足なの? 出たくないの? あの街で生活したくないの? まったく、失敗だったわ。まさか、バルナスだっけ? あの人まで私たちを王女だなんて言うとは思わなかった。こんなことになるなら、あの時逃げ出せばよかった!」
 腰に手を当ててフレッダを睨むと、フレッダは少し意外そうな顔をした。
「真に受けてるのか? バルナスはドリスを王女だなんて思ってないよ」
「えっ?」
 思わず素っ頓狂な声を上げる。
「正気に戻るまでここにいてくださいなんて、嘘だ。本当にドリスを王女だと思ってるなら、素性のわからない俺と一緒にするはずがない。理由があって外に出せないんだ」
 はっとなった。言われてみれば簡単なことだった。
「理由って?」
「それはわからない。わからないから、大人しくしていた方がいい。暴れたり大声を出したりするのは危険だ。下手なことをすると、俺たちは殺されるかも知れない」
 急に恐怖がやってきた。ああ、だからフレッダは言わなかったのだ。恐怖に怯えないよう、楽観視したままにさせておいた。
 力無くベッドに腰掛けたとき、コンコンと二つ、ドアがノックされた。
 数分前なら喜んだと思う。けれど今は、フレッダの話を聞いたばかりだったので、恐怖が胸を鷲づかみにした。
「ど、どうぞ」
 ドアが開いた。そこに立っていたのは、私と瓜二つの顔をした、金髪の若い女性だった。
「マリナ……王女?」
 時が凍り付く。
 王女はまったくの無表情で私を見つめていた。
 想像していた人と違う。顔立ちの問題ではない。もっと温かくて、話しやすい人を想像していた。
 それが、今目の前にいる女性は、まるで氷で出来た彫像のようだった。
「あなたがドリスね。ほんと、テリスが言ったとおり、よく似てる」
 無感情な声だった。王女は虚ろな瞳のまま私のそばまで来ると、そっと私の頬に触れた。
 雪のように冷たい指先だった。ゾクッとして、思わず身震いした。
 王女は私の身体をなぞるように指先を滑らせた。首筋から胸に、そしてお腹を通って腰をゆっくり撫でる。
 助けを求めるように目だけで横を向くと、フレッダは神妙な面持ちで立っていた。
 何も言わないのは薄情だからではない。この状況で下手なことを言ったら、本当に殺されるかもしれない。
 王女が顔を近付けてきた。酒の匂いが鼻をつく。
「王女、酔ってるんですか?」
「そうかもね」
 ああ、これで納得した。納得することにした。
 たぶん本当の王女はこんなふうではないのだ。ここに来たのも、酔っぱらった勢いに違いない。
 少し元気が出てきたから、思わず聞いてしまった。
「王女、あの、私たちはいつまでここにいればいいんですか? 外に出して欲しいんですけど」
 王女は私の目をじっと見つめてから、柔らかく微笑んだ。
「そうね。ごめんなさい。ねえ、一緒に来て、ドリス。お友達になりましょう。フレッダ、あなたはもう一日ここにいて」
 私は本当はフレッダと一緒が良かったけれど、フレッダは何も言わずに頷いた。私ほど楽観視してないらしい。
 実際、この王女の突然の来訪はわからないことだらけだった。
 階段を下りて外に出る。そして裏手から城に入り、薄暗い階段を上がる。
 途中、誰とも会わなかった。たぶんここは王や王女の居住階から直接外に出る非常口みたいなところなのだ。
 王女の部屋に入った。窓の外ではすっかり沈んだ太陽の残光がうっすらと空を赤く染めていた。
 部屋の中は薄暗かったけれど、王女は灯りを点けなかった。
「サガンがね、いきなりみんなでお酒を飲みましょうって言い出したの。どういうつもりかしらね」
「サガン?」
「私の国の重臣よ? ねえドリス、あなたも飲みなさい。私だけ酔ってるなんてつまらないわ」
 恍惚とした表情でそう言って、王女が大きなグラスにワインをなみなみと注いだ。
 言われるまま飲んだ。お酒は嫌いではない。もっとも、強くもないけれど。
「いい飲みっぷりね。もっと飲んで。それにしてもよく似てる。ねえ、私の服を着てみて」
 王女はそう言うと、自分の服を脱ぎ捨ててから、私の服を脱がせ始めた。
 二杯目のワインを飲み干すと、頭がふわふわして何もかもがどうでもよくなってきた。時々肌に触れる王女の指先が気持ち良くて、惚けている内に私は王女の服を着せられていた。
 ドレスではない。動きやすい洋服だけれど、生地は上質のものだった。
「これ、母の形見の指輪なの。つけてみて」
「そんな大切なもの……」
「いいのよ、すぐに返してもらうから。わぁ、サイズもぴったり。私たち、実は双子だったりして」
 もちろんそれはない。けれど、私の服を着て上機嫌にはしゃいでいる王女を見ていたら、わざわざ否定する気もなくなった。
 三杯目のワインをグラス半分ほど飲むと、眠さのあまりベッドに寝転がった。すぐ隣に王女が横たわり、布団をかけてくれる。
「私も眠たいわ。一緒に寝ましょう」
 力無く頷いた。目を閉じると、急速に眠気が襲ってきた。
 王女が擦り寄ってきて、私の身体を包み込むように抱きしめる。思ったよりも温かかくて、いい匂いがした。
 私の髪を撫でながら、王女は繰り返し呟いていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 何を謝っているのだろう。
 聞くのも面倒だった。
 私は王女の胸の中で、いつしか寝息を立てていた。

  *  *  *

 遥か昔、それは唐突に発生した。
 それは純粋な人の心に入り込み、それを壊し、肉体を意のままに操って、子供のように無邪気で残酷な悪戯をした。
 それは実体を持たなかった。黒い靄のようなそれを、人々は<無邪気な邪気>と呼んだ。
 ある時、一人の魔法使いがこの邪気と対峙した。
 魔法使いは邪気に打ち勝ち、それを深い森の奥に封印した。
 いつでも様子を見に行けるよう、魔法使いは封印の扉から自分の住む屋敷へ通じる魔法の道を作った。
 いつか魔法使いは死に、屋敷は取り壊された。
 彼の住んでいた土地は一度は荒れ地になったが、また人が住み始め、村になった。
 村は大きくなって町になり、街壁が作られてマトランダと呼ばれる立派な街に発展した。

  *  *  *

 どよめきにマトランダの大地が揺れたような気がしたのは、単に目眩のせいかもしれない。
 エンファス王から国民に告げられた、二つの衝撃的な報せ。
 一つはネイゲルディアの国王が病気で亡くなったことを、ナガノリアが世間に公表したという事実。
 これにはそれほど驚きはなかった。マトランダの民はすでに王の死を知らされていたし、王がまったく公に姿を現さないのは重い病気のためだという噂はずっと以前から流れていた。
 どうしてユマナシュと交戦中の今、それを公表したのか。その疑問は二つ目の報せによって解決した。
 王に代わって国政を行っていた若き王女マリナが、ユマナシュの刺客によって暗殺されたという事実。
 マトランダ全土が震撼した。恐らくネイゲルディアの領土である南のタティラやイイダラントも騒然となったに違いない。
 第二王子ミスティルがネイゲルディアの国王になった。しかし、彼が知恵遅れなのは周知の事実で、実権は若くして国の重臣であったサガンが握った。
 マリナは確かに兄ディアックのように頼られてはいなかったけれど、そのひたむきさによって多くの民に慕われていた。
 その王女がユマナシュの手によって殺されたという報せは、ネイゲルディアの国民の心に復讐の炎を燃えたぎらせた。
 増長した復讐心は力を生み出し、シオルジェイドの敗残兵とタティラの軍隊が瞬く間にシオルジェイドを奪還し、さらにオカイェンをも攻め落とした。
 そして現在、スワマにてユマナシュの軍勢と交戦中だという。
 しかし、そんなことはどうでもよかった。その戦いをどちらが勝利しようと、あるいはネイゲルディアが滅びようと、まったく興味のないことだった。
 マリナオウジョガアンサツサレタ。
 ただその一言が動揺させ、悲しみを呼び、身体を震わせ、そして生きる気力を失わせた。
 間違いであってほしい。ユマナシュに対抗するべく、国民を奮い立たせるための芝居であってほしい。
 何度そう願っても、事実は変わらなかった。寝込みを襲われた王女の哀れな姿の目撃者はたくさんおり、さらに葬儀においてもその亡骸が国民に公開されたという。
 マリナの身体を戦争の道具に使った。これは明らかに死者への冒涜だと、理屈では怒るべきだと思ったけれど、すっかり萎んだ心はただ悲しみに暮れるだけだった。
 マリナは約束を破った。
 弱いボクはただ泣き続けた。

 だけど、
 ああ、
 そういうことか……。

 左手が自分のものではないように疼く朝、ボクは戸口に立った懐かしい人を見た。
 金色の髪を短く刈って、男物の服を着、胸の膨らみは鎧で隠し、剣を帯び、精悍な顔つきだけれど瞳はどこか虚ろな少女。
「約束は守ったわ、テリス。どんなことをしても生き延びるって……」
 口ぶりには深い後悔があった。悲しみがあった。自虐の念があった。彼女自身に向けられた憎しみがあった。
 だけど、ボクは思う。
「キミは素直で、そしてとても生真面目だ。だから、たとえどんな結果になったとしても、キミは満足しなかったんじゃないかな?」
 だけどボクは違う。
 胸にあるのは、一度だけ会って話をした女性への同情でも罪悪感でもない。ただ、喜び。
 彼女の虚ろな瞳に、ボクは続けた。
「キミはいつでもボクを見下していた。確かにボクは知識もないし賢くもない。剣なんてぶら下げているだけで、使ったこともない。だけどボクは、キミよりもずっと自分を理解している。出来ることと出来ないことを知っている。本当に大切なものと、いざとなれば捨ててもいいものを区別できる」
 一度も使ったことのないその剣を、すらりと抜き放った。ずっしりとした重さが、確かにこれは命を奪う道具だと伝える。けれど同時に、誰かを救う道具でもある。
「だからボクは、キミの選択に満足している。本当に嬉しく思う。生き延びてくれてありがとう。それから、ようこそ、ボクたちの国に」
 彼女の表情は変わらなかった。
 ボクは左手を差し出した。彼女はスッとその手を握った。
「やっぱりね」
 可笑しくなって少しだけ笑った。彼女は顔をしかめた。
「自分の国と国民を、自分のことのように愛してやまない王女が、ボクたちの国に、独立したマトランダに歓迎されることを喜ぶはずがない。お前は完全にマリナを操るためにここに来た。ボクの左手に置き忘れた自分の一部を取り戻すために!」
 左手を握って勢い良く引っ張った。不意をつけたと思う。黒い靄が彼女の身体から溢れ出した。
 ボクは思い切り右手の剣を薙いだ。
 二度、三度。
 しかし、靄は薄れることなく、むしろ色濃くなってボクに向かってきた。
 殺られる……。
 思わずあきらめたその時、ボクは身体に衝撃を受けて吹っ飛ばされた。床に倒れたまま顔を上げると、ボクを前蹴りにした乱暴で勇敢な王女が、剣を構えていつもの不敵な笑みを浮かべていた。
「まったく、情けない。でもありがとう。ほんのちょっとだけかっこよかったわ。後は私がやる」
 言うなり、ボクのそれとは比較にならないほど鋭い一撃が、黒い靄を一閃した。
 二度、三度。
 黒い靄はなすすべもなかったのか、やがて薄れて消えた。
「た、倒したの?」
 身体を起こして聞くと、彼女は息一つ切らすことなく剣をしまって、微かに首をひねった。
「どうかな。逃げただけだと思う。でも、たぶんもう、私たちが生きている間は現れない。そんな気がする」
「そう。じゃあもう安心だね」
 ボクは立ち上がり、彼女と向かい合った。
 今度は利き手の右手を差し出して言った。
「改めて、ようこそボクの店に。生き延びてくれてありがとう」
 彼女はボクの手を握らなかった。
 代わりにボクの胸に飛び込んできて、ボクは初めて彼女の泣く声を聞いた。

  *  *  *

 東の戦火を逃れてきたら、すぐ西でも戦争。戦争戦争。まったくこの大陸はどうなっちまったのか。
 元々ユマナシュって国があった場所は、今じゃすっかり廃墟と化して、住み着いてる連中もいるがみんな盗賊のお仲間さん。治安が悪いったらありゃしない。
 ユマナシュは滅びた? いいや、スワマって街で一国一城で存続している。戦争に負けて人口も減って、その規模で丁度いいみたいだ。良かったじゃないか。
 勝ったネイゲルディアの方が逆に滅んじまった。意外だろ? 王に王子に王女、みんなバタバタ倒れてバラバラになったナガノリアは、北のニゲルヘイナに攻められて一瞬で御陀仏。
 南のシオルジェイド、オカイェン、タティラといった街はマトランダの属領になった。タティラより南の街、例えばイイダラントなんかは国になったみたいで、周りの国との友好的な外交とやらに精を出してるらしい。
 一見平和そうだが、ニゲルヘイナとマトランダはあんまりいい雰囲気じゃないし、ユマナシュも王女殺しの言いがかりをつけられたとかで、元ネイゲルディアの国民をひどく恨んでいるそうだ。怖い怖い。
 そんなわけで物騒な地域からはさっさとおさらばして、さらに西のティユマンまで旅をしたら、ああここは平和だね。ニゲルヘイナとも仲良くやってるみたいだし、マトランダとの国境には山脈があって戦争どころか越えるのも大変。
 フェイミっていうティユマン国の港町を旅した時、美味い魚料理を食える店を地元の人間に尋ねたら、「味も良くて、綺麗なねーちゃんがいて、やかましいが居心地がいい」という変な店を紹介された。
 早速行ってみたら、入った瞬間皿の割れる音。店内は昼時ってこともあってか八割以上席が埋まっている。
 店の真ん中で「しまった!」みたいな顔をしてる長い金髪の若い女は、なるほど確かに見たこともないような美人だ。奥から子供みたいな男の声が飛ぶ。
「また割ったな!」
「違うわ! 魚が生きてて跳ねたのよ! 活きが良すぎるのも考えものね!」
「変な屁理屈はいいから! 早く謝って片付けて次を運んで!」
「魚を殺したのは私じゃないわ! あなたでしょ! なんで私が謝らなくちゃいけないの!」
「魚にじゃないよ! お客さんにだよ。キミがうるさくしたんだから!」
「あなたの怒鳴り声の方がよっぽどうるさいわ! あー、ねえあなた。そう、あなた常連さんでしょ? もうお友達みたいなものよね? だからこれを片付けて! わかった、タダにするから。ね? ね?」
「か、勝手なこと言わないで!」
「いいじゃない、別に。ほら、喜んで片付けてくれてるわ!」
「もうわかったから次を運んで!」
「はいはい」
 なるほど。客を選びそうな店だが、海の男たちにはこのノリは楽しいかもな。
 山育ちだが、俺も気に入ったぜ。
 店の名前は……『陽射しの港』か。ちょっと洒落すぎちゃいないか?
 まあいいや。俺もこの喧噪に加わらせてもらおうかな。
「ねーちゃん、とりあえずビールだ。跳ねても落とすなよ」
「そんなのビールに言ってよ! なんならそこから自分で注いで勝手に飲んで!」
 どっと笑い声。いい店じゃないか。
Fin
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