■ Novels


Shine
小学3年生の菜沙は、大好きなパパと二人で暮らしている。ママはどっか行っちゃった。
ある日突然、パパが翠という女の子を連れてきて、「菜沙の新しいママだ」とほざいた。
パパが奪われてしまう! 危機感を抱いた菜沙の、パパ防衛戦争が始まる。

 翌朝、菜沙は苛立ったパパの声で目が覚めた。
「あーもう! こういう日に限って!」
 ドアを開けなくてもわかる。会社から呼び出されたのだ。時々朝早く電話がかかってきて、ご飯も食べずに会社に行くことがある。
 音を立てないようにそっとドアを開けると、スーツを着たパパとそれを見上げる翠がいた。翠が穏やかに微笑んでこう言った。
「大丈夫です、俊一さん。わたしはきっと、菜沙ちゃんと仲良くなります」
「ああ、ホントにごめんな、翠」
 パパは済まなさそうにそう言うと、翠の髪を撫でて出て行った。菜沙は部屋のドアを開けた。振り返った翠と目が合った。
 翠は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔を作って元気に言った。
「おはよう、菜沙ちゃん!」
「……まだいたんだ」
 意図的にそっけなく突き放すと、翠は目を丸くして表情を失い、わずかに唇を震わせた。しかしすぐに明るい顔に戻る。
 それが菜沙には気に入らなかった。自分はこんなにも辛く悲しい思いでいるのに、翠はいつも楽しそうに笑っている。
 テーブルにつくと、見慣れないメニューの食事が並んでいた。どうやら翠が作ったらしい。トーストに目玉焼き、野菜サラダ、スライスチーズに牛乳。一応、「嫁」と言うだけはある。二人暮らしだが、菜沙は料理が苦手だし嫌いだった。
「これ、ミドリちゃんが作ったの?」
 と聞きかけて、やめた。そんなわかりきったことは聞くまでもない。代わりに、グラスに牛乳を注ぎながら淡々と言った。
「おうちに帰らなくていいの? パパもママも心配しない?」
 娘の向かいに母親は座った。小さなママはやはり無理して微笑んで、「大丈夫」と自分に言い聞かせるように頷いた。
「わたしは俊一さんのお嫁さんだから。ここがわたしのおうちなの」
 菜沙はむかついた。巣を奪われたツバメのような心境……って言ってもよくわからないが、そんな感じ。とにかく、いきなり他人の家に上がりこんできたこの少女を、受け入れるつもりは微塵もなかった。
「お嫁さんなんて、ばかばかしい。家出したの?」
「違うよ。ねえ、わたしの話はやめよう。わたし、菜沙ちゃんのことが聞きたい」
「あたしは話したくない。家出じゃないなら、捨てられたの?」
 途端に、翠は青ざめた。何か言いかけて口を開き、すぐに閉じた。震えを抑えるように服の袖をぎゅっと握り、それから笑顔を作ろうとして、俯いた。
「ご、ごめん……」
 翠は勢いよく立ち上がった。座っていた椅子が後ろに倒れる。それを乱暴に立てると、翠はパパの部屋に駆け込んで行った。
 菜沙は静かにトーストをかじる。それから思い付いたようにチーズを乗せて、その上に目玉焼きを乗せた。一緒に食べると美味しい。
 食べ終わると食器を片付けた。翠は部屋に閉じこもったまま出てこないので、翠の分の食事は捨ててやった。親切な子だ。
 顔を洗い、歯を磨いてから服を着替えた。昨日から穿いているパンツから嫌な臭いがしたので、シャワーも浴びた。朝から浴びるシャワーは気持ち良かった。
 部屋に戻るとランドセルにノートを入れる。いつもは鍵をかけて出て行くが、今日は翠がいる。もし翠が自分の家に帰ったら、この家の鍵は誰が閉めるのだろう。
 菜沙はそう思い、やっぱり翠には今出て行ってもらうことにした。ランドセルを背負うと、パパの部屋のドアを開ける。そして、言葉を失った。
 翠は床に膝をつき、ベッドに上半身を埋めて泣いていた。肩を震わせて、くしゃくしゃになるほど強く布団のシーツをつかんでいた。声は出さなかったが、時々苦しそうに嗚咽を漏らす。
 ようやく菜沙の心が晴れた。パッと顔を明るくすると、心の底から思った。
(ざまーみろ)
 こらこら。
 お前の情けない姿を目撃したのだとわからせるために、わざと音を立ててドアを閉めた。もう鍵なんてどうでもいい。
 菜沙は清々しい気持ちで外に出た。

 空は窓から見たよりずっと青かった。上に行けば行くほど青くなると、昔パパが言っていた。実際にその通りだ。
「綺麗な空」
 呟くと、男の子の声で呼びかけられた。
「本田、おはよっ!」
 4年生の加藤君。菜沙と同じ、学校より集合場所が遠い一人である。
 待ち合わせているわけではないが、いつも時間が合うので、集合場所まで一緒に行く。
「おはよう、加藤君」
 他愛もない会話をしながら集合場所に行くと、すでに4つほどのランドセルが集まっていて、母親が二人立ち話をしていた。二人は菜沙と加藤君に挨拶をした。菜沙は小さく「おはようございます」と言ったが、なるべくそっちを見ないようにした。
 友達のママを見るのは好きじゃない。自分にママがいないことを思い出すから。
 ふと、翠がいれば、もうそんな思いをせずに済むだろうかと考えた。しかし、すぐに否定する。ばかばかしい。余計に恥ずかしいだけだ。
「おはよう、菜沙ちゃん!」
「おはよう」
「おはよー」
 いくつもの朝の挨拶。昨日までと同じ日常。班長が来て、名前を呼び上げる。一目でわかるのだが、そういうルールになっている。
「島内……もいるな」
 そう自己完結されても、「はいっ!」と答えるのが決まり。菜沙は元気に手を挙げた。
 ちなみに、菜沙のフルネームは島内菜沙であり、本田ではない。本田は菜沙のあだ名である。
 菜沙(NASA)と言えば火星探査機オデッセイだと、天文部の5年生に言われて、それからあだ名は「火星」になった。ところが別の誰かが、オデッセイと言えばホンダだと言い、それ以来「本田」になった。
 違う苗字で呼ばれるのは嫌だったが、火星人などとバカにされるよりはずっといい。むしろ今では、自分は本田なのではないかという気さえする。きっと前世は本田だったのだ。
 そういえば、翠は苗字はなんて言うのだろう。島内翠だなどと名乗らないよう、苗字で呼ぶことにしようか。
「どうしたの? 菜沙ちゃん。何かあったの?」
 保奈ちゃんに心配そうに覗き込まれて、菜沙は慌てて手を振った。保奈ちゃんは5年生。歳は離れているが、パパ同士が昔からのお友達らしくて、娘同士も仲が良い。
「ううん、なんでもない。保奈ちゃんは?」
 通学路を歩きながら、菜沙が尋ねた。少し前に保奈ちゃんのパパが勤めていた会社(?)で大変なことがあって、テレビの取材が来たりと、バタバタした。保奈ちゃんも学校を1日休んだ。
 その最中、保奈ちゃんのパパが一度だけ菜沙の家にやってきて、パパと難しい話をしていた。ドアの向こうから「ふしょうじ」とか「かいたい」という言葉が聞こえたが、菜沙にはよくわからなかった。聞いても教えてもらえなかった。
 ただ、とにかく事件を起こしたのは保奈ちゃんのパパではなく、保奈ちゃんも元気になったから、他のことはどうでもよかった。
「うん、平気。お父さんも新しいお仕事見つけたって。ちょっと遠いみたいだけど」
「そう、よかった!」
 一面の青空の下、いつもの毎日に戻る。友達とお喋りして、男の子にからかわれて、先生に叱られて、サッカー部の練習を見ながら帰ってくる。
 帰宅路の夕焼けの下を、菜沙は憂鬱な瞳で歩いていた。道端でちぎった、名前も知らない花の花びらをむしる。
「ミドリちゃんはいない、いる、いない、いる……」
 すべての花びらがなくなるより先にアパートに着いた。ドアの鍵はかかっていたが、窓から中の明かりが漏れている。
 菜沙は大きなため息をついて鍵を開けた。
「あっ、おかえり、菜沙ちゃん!」
 新しいママは、やはり笑顔だった。

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