2月14日はバレンタインデー。女の子が、見返りを期待できそうな男の子に、手作りの義理チョコを配る日だ。
何故、手作りなのか。
答えは簡単。それが一番安上がりだからだ。決して、気持ちを込めて、などという理由からではない。
ひどく偏った意見に聞こえるかも知れないが、少なくとも俺にとっての2月14日はそんな日でしかない。
ドキドキしながら好きな女の子からチョコレートをもらえるのを待っていたのは、中学校まで。高校に入ってそれがはっきりした。
「はぁ……」
鞄にぎっしり詰まった義理チョコの山。菜織とミャーコちゃんを筆頭に、期待に満ち満ちた瞳で俺にチョコを渡す女の子たちの顔が、頭の中をぐるぐると駆け回る。
そして訪れる3月14日。俺にとっては地獄の日。
去年、手作りクッキーを焼いてみんなに配り歩いたときの、あの女の子たちの嫌そうな顔が思い起こされる。
「はぁ……」
鞄の中のチョコの数だけ、俺の3月の財政が苦しくなる。俺は3月分の小遣いで、鞄の中のチョコを買ったのだ。
「…………」
帰る足取りが重い。
濃い水色の空。
このまま、あの空の向こうへいっそ逃げてしまおうか……。そして俺は、誰もいない空の国で、チョコレートを食べながらその一生を終えるのだ。
そんなくだらないことを考えながら、俺は自分の家のドアを押し開けた。
カランカランと音がする。そしてすぐに、
「いらっしゃいませ」
と、今にも消え入りそうな可愛い女の子の声。
別に我が家に、「お帰りなさい」を「いらっしゃいませ」と言う家訓があるわけじゃない。俺の家は喫茶店を経営しているのだ。
「あっ、お兄ちゃんか」
トレイを片手にやってきた妹乃絵美に、俺は意味なく小さな笑みを浮かべて、
「ああ、いらっしゃったぜ」
と呟くと、そのまま横を擦り抜けて二階に上がった。
部屋のドアを開けて、鞄の中身をベッドの上に撒き散らす。
ドサドサと音を立てて散乱するチョコレートは、その一つ一つがまるで俺をあざ笑う悪魔のように見えた。
「ええい!」
俺は一声叫んでベッドの上に転がり込んだ。こういう時は、この状況を喜ぼうと努力するしかない。
「俺はもてるんだ! こ〜んなにチョコレートがいっぱい、いっぱい、あはははは」
そう笑いながら、手足をバタバタさせていると、突然、
「お、お兄ちゃん……?」
ドアの方からそんな困り果てた声がして、俺はピタリと動きを止めて、首だけで声の方を見た。
そこにはいつの間にか乃絵美が立っていて、何か奇特な物体を見るような瞳で俺を見つめていた。
一瞬、時が止まった。
一人だと思ってバカをした瞬間を、身内に見られたときの恥ずかしさ。
「乃絵美! そんな目で俺を見ないでくれ!」
俺はそう言いそうになったのをぐっと堪えて、おほんと一つ咳をして、ベッドの上で転がったまま乃絵美に尋ねた。
「の、乃絵美。いつからそこにいたんだ?」
乃絵美は申し訳なさそうに俯くと、
「今来たんだけど……ノックの音、聞こえなかった?」
と、恥ずかしそうに聞いてきた。
どうやら単に俺が聞き逃しただけのようだ。
「悪い。耳がチョコレートになってたんだ……」
俺は溜め息を吐きながらベッドの上に座って、乃絵美を見上げた。
「それで、どうしたんだ?」
乃絵美はしばらく心配そうな瞳で俺を見つめていたが、やがてはっと我に返ったような素振りをして、俺に言った。
「あっ、うん。あのね、お兄ちゃんにちょっとお願いがあるの」
「お願い? 恋の悩みだな。よしよし、お兄ちゃんが聞いてやるぞ」
俺がそううんうんと頷くと、乃絵美は本気で不安げな顔をして、心配そうに胸を押さえながら言った。
「お兄ちゃん、どうしたの? 今日、ちょっとおかしいよ……」
「気にするな」
俺は短くそう言って、乃絵美の言葉を受け流した。
乃絵美は一度深く溜め息を吐くと、それから小さな声で言った。
「あのね。今日、ずっと家にいて欲しいの?」
「ん? どっか行くのか?」
「……そういうわけじゃないけど……。ちょっと……」
何やら言いにくそうにする乃絵美。俺はまあ、特に用事もなかったから、OKしてやった。
「ホント? ごめんね」
乃絵美は嬉しそうにそう言うと、ペコリと頭を下げて部屋を出ていった。
俺はしばらく乃絵美の出ていったドアを見つめていたが、やがてもう一度ベッドの上に転がり込んだ。
喫茶店の閉店時間は早い。
俺は店の閉まった後、頃合いを見計らって下に降りていった。乃絵美には悪いが、今日は店の手伝いをしてやろうという気分ではなかった。
一階の、店へのドアを開けると、案の定すでに片付けは終わっており、乃絵美が一人まだ厨房にいて、なにやら鼻歌混じりに作っていた。
こんな楽しそうな乃絵美を見るのは久しぶりだ。いや、乃絵美の鼻歌など、聞いたことがない。
俺はそっと乃絵美に近付いた。
やがて俺は、そこから漂ってくる匂いで、乃絵美の作っているものを知った。
チョコレートだ。
「乃絵美……」
なるべく驚かさないようにと、小声で呼びかける。
しかし乃絵美は、「きゃっ!」と小さく悲鳴を上げると、慌てて俺の方を振り返った。
「お、お兄ちゃん」
恥ずかしそうに俯く乃絵美。鼻歌のことだろうか。とりあえず、さっきの俺と同じ気分なのだろう。
俺は気にせずに乃絵美の隣に立った。
「乃絵美。チョコレートか?」
わかり切ったことを聞いてみる。乃絵美は少しだけ頬を赤らめて、「うん」と頷いた。
俺はそんな乃絵美を複雑な心境で見つめていた。
実は俺は、乃絵美がチョコレートを作っているのを見たことがない。いや、現に乃絵美は、去年までバレンタインデーにチョコレートなど作ったことがなかった。
基本的に乃絵美は奥手で引っ込み思案な子である。だから、友達に義理チョコをあげたりしたこともなかった。
その乃絵美が、こんなに楽しそうにチョコレートを作っている。
「乃絵美……。それ、誰にあげるんだ?」
言ってから、何か自分が娘を取られた父親のような心境でいるのに気が付いた。
しかし乃絵美は、特別気にする様子は見せずに、
「秘密だよ」
と、はにかむように微笑むと、再びチョコレートの方に向き直った。
俺はそれ以上、何も聞かなかった。
乃絵美ももう高校生だ。恋の一つや二つしてもおかしくないし、むしろそれが当然だといえる。ただ、何かむしゃくしゃした。
乃絵美の好きな男。どんな男なのだろう。
乃絵美の同級生だろうか。それとも先輩だろうか。どこで知り合ったのだろう。そいつは乃絵美をどう思ってるのだろう。乃絵美を悲しめたりしてないだろうか。
「乃絵美……」
言いかけて、思いとどまった。
そしてそのまま、何も言わずにその場を後にした。
夕食を終えて、俺が一人でベッドに転がっていると、コンコンとドアが小さく二つノックされて、
「お兄ちゃん」
と、外から乃絵美の声がした。
「おう」
俺が答えると、乃絵美が手に何かを持って入ってきた。
「あのね、お兄ちゃん。これ……」
そう言って乃絵美が俺に差し出したのは、さっきのチョコレートの完成形だった。
とりあえずハートの形をした、地味なチョコレートだ。
俺はそれをちらりと一瞥した後、乃絵美を見上げた。
「これがどうしたんだ?」
「あっ、うん。その、毒見して欲しいの」
「毒見!?」
俺は乃絵美が珍しくギャグを飛ばしてきたのだと思って、驚いてベッドから飛び起きた。しかし乃絵美の方は、真面目な表情を一切崩さず、小さく頷いてじっと俺の顔を見つめていた。
「別に、乃絵美の作ったもんなら大丈夫だろ。乃絵美は料理も上手だし」
俺がそう言うと、乃絵美は少し慌てた様子で、首を左右に振った。
「ううん。そんなことないよ。だって私、チョコレートなんて作ったことないし」
「でもなぁ……」
俺は溜め息を吐いた。
乃絵美には本当に悪いのだが、今はチョコレートなど見たくもない。
散乱した紙袋。しかも今、夕食を食べ終えたばかりだ。
乃絵美もそれを察したらしく、悲しそうに俯いて言った。
「そっか。お兄ちゃん、菜織ちゃんたちからもらったチョコレートで、もうお腹いっぱいなんだね……」
「ま、まあ、そういうことだ……」
俺は散らかった紙袋を見ながら、乾いた笑みを浮かべた。
「そっか……」
小さく乃絵美。俺はちらりと乃絵美を見上げて……。
「!!」
思わず息を呑んだ。
乃絵美が小さな手を震わせて、今にも零れ落ちそうな涙をぐっと堪えていたのだ。
「の、乃絵美!? どうしたんだ!?」
俺がベッドから起き上がると、乃絵美はとうとう涙を一筋頬に零して、慌ててそれを手の甲で拭った。
「な、何でもないよ。ご、ごめんね、お兄ちゃん。無理言って……」
そして逃げるように部屋から走り去ろうとする。
「ちょっと待て! 乃絵美!」
俺はすぐさま呼び止めた。
乃絵美はドアの前で立ち止まると、こっちを見ずに項垂れた。
俺はそんな乃絵美に近付いて、そっと肩に手を置いた。
「悪かった、乃絵美。味見、してやるよ」
乃絵美は不安げに振り返り、上目遣いに俺を見た。
「いいの?」
「ああ」
俺はそっと乃絵美の頭を撫でてやると、チョコレートを手に取った。
そしてベッドに座って、じっくりとそれを見てみる。
やはり簡素なハート型のチョコレートだったが、上に「お兄ちゃんへ」と書かれていた。
「……なあ、乃絵美」
それを見て、俺は乃絵美に言った。
「何?」
俺の声が強張っていたからか、乃絵美の返事はどこかぎこちなかった。
俺は構わずに乃絵美を見上げて言った。
「よく考えると、味見するだけだったら、こんなにも量、いらなかったんじゃないのか?」
「うん、そうだね……」
乃絵美はぽつりとそう呟いたが、それ以上何も言わなかった。
「…………」
「…………」
「…………」
ぎこちない沈黙。
「じゃ、じゃあいただくよ」
その内俺が困ってそう言うと、乃絵美は嬉しそうに、「うん」と微笑んだ。
まずは一口。
そして二口。
俺の口の中に、どうってことのない、ただのチョコレートの味が広がった。
美味しいと言えば美味しいが、特別他のものと変わりない。
それでも乃絵美は興味津々に俺の顔を覗き込んで、緊張した面持ちで聞いてくる。
「ねえ、お兄ちゃん。美味しい?」
「ああ。美味しいよ」
俺はそれしか言いようがなく、ただチョコレートを頬張った。
乃絵美はどこか安心したように息を吐くと、俺の隣に腰を下ろした。肩が触れ合うほどの距離だった。
それから、どこか張り詰めた空気が部屋を満たした。
乃絵美は何も言わずに足下を凝視している。
俺は無言でチョコレートをかじり続けた。
すぐ近くに、乃絵美の体温を感じる。何故かドキドキした。
やがて、チョコレートが半分くらいになったとき、乃絵美がそっと俺の肩にもたれかかって、耳元で呟くように言った。
「お兄ちゃん……」
「……何だ?」
「うん……。その、いつも、ありがとう……」
何のことを言っているのだろう。
良くわからなかったので、俺はこの味見のことだと勝手に解釈して、
「ああ」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「うん……」
乃絵美が嬉しそうに頷く。
そしてまた沈黙が訪れた。
俺は一度口を休めて、俺の肩にもたれている乃絵美の顔を見下ろした。
乃絵美はどこかうっとりした表情で、じっと床の方を見つめていたが、やがて俺の視線に気が付いたのか、そっと顔を上げた。
互いに鼻息を感じ合えるほどすぐ近くに、乃絵美の顔があった。
可愛い……。
そう思った瞬間、俺は兄としてあるまじき衝動に駆られて、ごくりと唾を呑み込んだ。
それが思ったよりも大きな音を立てて、乃絵美の熱っぽい視線が胸を焦がした。
「お兄ちゃん……」
乃絵美の薄い唇が、そう言葉を紡ぐ。熱い息が俺の唇にかかった。
それから乃絵美が、ゆっくりと瞳を閉じようとした。
いや、それは俺の妄想だったのかもしれない。乃絵美は俺の妹だ。そんなことをするはずがない。
ただ俺は、理性の限界を感じて、再びチョコレートをかじり始めた。
乃絵美はそれ以上何もせず、ただじっと俺がそれを食べ終わるまで、そうして肩にもたれていた。
「ごちそうさま」
やがて俺はチョコレートを食べ終えて、乃絵美に「美味しかったよ」と包みを返した。
乃絵美は嬉しそうに微笑むと、ベッドから立ち上がった。
「そう……。良かった」
俺はその時、とても大切なことを思い出した。
そうだ。乃絵美はこれを俺に、味見……まあ、本人は毒見と言っていたけど、とにかくそう言って持ってきたんだ。つまり、乃絵美は今からこのチョコレートを誰か好きな人に渡しに行くのである。
俺はどこか寂しい想いに駆られたが、兄としてなるべく元気に言ってやった。
「本当に美味しかった。これなら乃絵美の好きな人も、きっと喜んでくれるよ」
「……そう、だね……」
「これから届けに行くのか?」
俺はそう言って、窓越しに外を見た。冬の空は、もう真っ暗だ。
俺が視線を戻すと、乃絵美は意外にも首を左右に振った。
「ううん」
「おいおい」
俺は呆れた声をあげた。
「ううんって、バレンタインは今日なんだぞ」
「うん……」
乃絵美は小さく呟いてから、おどけたように笑って見せた。
「うん。あのね、実はチョコレートの材料、さっきの分でなくなっちゃったの」
「えっ?」
恐らく、物凄く間抜けな顔をしていたに違いない。
乃絵美は構わずに続ける。
「だから、その、今年はもう無理みたい」
「おいっ!」
俺は思わず大きな声を出した。
「だったらどうして味見なんてさせたんだ?」
「毒見だよ」
「どっちでも同じだ」
「違うよ」
乃絵美が鋭くそう言って、それからにっこりと笑って見せた。
「好きな人に毒を盛るわけにはいかないでしょ? だから、毒を盛るくらいなら、今年は諦めた方がいいと思って」
「はぁ……」
俺は溜め息を吐いた。
「今日はありがとう、お兄ちゃん」
最後まで笑顔で、乃絵美が部屋を出ていこうとする。
俺は、そんな乃絵美を呼び止めて言った。
「乃絵美。ホワイトデー、何が欲しい?」
乃絵美がちらりと俺を振り返って、目と目が合った。
そうしてしばらく見つめ合った後、乃絵美は愛らしい微笑みを浮かべてこう言った。
「私、お兄ちゃんの手作りクッキーが食べたい」
「そうか……」
俺は、何ともいえない深い溜め息を吐いた。
「お休み、お兄ちゃん」
「ああ、お休み」
そして、乃絵美は部屋を出ていった。
俺は再びベッドの上に寝転がった。
口の中に、まだ乃絵美のチョコレートの味が残っている。
俺はそれを舌で舐め取りながら、少しだけ手作りの良さを知った。
肩に残る乃絵美の温もり。
一体乃絵美は、誰のためにあのチョコレートを作っていたのだろう。
どうして、わざわざ俺に味見をさせたのだろう。
そして、さっき俺の肩越しで呟いた熱っぽい一言は……。
色々と考えられたけど、それ以上考えないことにした。
乃絵美は俺の妹だ。
ホワイトデーには、クッキーを焼いてやろう。そしたらきっと、「ありがとう」と微笑んでくれるに違いない。
それで十分だ。
寒いから、窓は閉め切ってある。
暖房のかかった部屋には、チョコレートの匂いが充満していた。
むせ返るような、甘いチョコレートの匂い。
どうやら今夜は、甘ったるい夜になりそうだった。
─── 完 ───