── リアルタイム乃絵美小説 ──

第2作 : 果たせなかった約束






 今年の3月14日は土曜日だ。

 いや、だからどうしたと言うわけではないが、ただ確認してみただけ。

 例年この日の近辺は散財に苦しむ。理由はもう、言うまでもなくバレンタインデーのお返し。

 大して欲しくもないチョコレートの山に、一つ一つより高級なものをお返しとして女の子たちに貢がなければならない。

 男にとっては地獄の一日……というと、まったくチョコレートのチョの字もない男たちもいるわけで、そいつらは口を揃えて俺に「羨ましい」と言いやがる。まったく、そんなに欲しければ分けてやるよと言いたいが、なかなかそういうわけにもいかない。

 「チョコレートがもらえる」イコール「モテる」というのであれば、まだ俺も男として多少の喜びもあろうが、彼女たちの基準は、本命以外はいかにお返しの期待できそうな者に義理を贈るか。

 その打って付けの男が彼女たち曰く、俺らしい。

 3月14日。誰がいつこんな日を作ったのか、『聖バレンタイン』とは趣旨のまったく違う記念日、ホワイトデー。

 ところが今年のホワイトデーは、いつもと少し色を違えた。



 時は3日前に遡る。

 そろそろホワイトデー戦線が各店・各デパートに張られ、溜め息混じりに俺がチョコレートの見返りを物色に出ようとした折、菜織のヤツから電話がかかってきた。

「もしもし、氷川ですが……」

「おう、菜織か? どうしたんだ?」

「ああ、正樹。うん、あのさぁ、今年のホワイトデーだけど、プレゼントは買わなくていいから、14日の午後空けといて欲しいの」

「何?」

 その申し出は大いに俺を驚かせた。

 プレゼントはいらないから空けておいて欲しいというのは、つまりデートしようと言うことだろうか。一瞬俺はそう考えた。

 もしそうなら、実は少し困る。

 けれど、よく考えてみたら、菜織が俺をデートになんか誘うわけがない。だったら何故?

 結論が出せないまま、とりあえず俺は答えた。

「生憎無理だ。14日はミャーコちゃんを筆頭に、みんなにお返しを配り歩かんといかんからな」

「ああ、それなんだけど……」

 そんなことはわかってると言わんばかりの口調で菜織が言う。

「プレゼント、誰のも買わなくていいの。あっ、誰のもって言っても、今のクラスの女子と1年の時の女子のね。アンタにとっては嬉しい話でしょ? だから、ね? いいでしょ?」

 俺は耳を疑った。今ひとつ理解に苦しむが、もし菜織の言うことが本当ならば、助かるなんてもんじゃない。1年の時に同じクラスだった女の子と、今同じクラスの女の子から、合わせて15個くらいのチョコレートをもらっている。これらをすべて買わなくて済むと言うのなら、断れるはずがない。

 もちろん一抹の、どころか、かなりの不安はあったけれど。

「ね? ダメ?」

 心配そうに俺に尋ねる菜織に、俺は期待一抹、不安だらけに頷いた。

「わかった……」

「ホント!?」

「あ、ああ。だけど、本当にプレゼント、買わなくてもいいんだな?」

「もちろんよ。うん、わかった。じゃあまた明日学校でね。14日、忘れちゃダメよ」

 そうして菜織は電話を切った。



 そして今日、3月14日。

 不安を胸に俺が家を出ると、後ろから小走りに乃絵美がやってきて、俺の横に並んだ。

「おはよう、お兄ちゃん」

 元気そうな笑顔。顔色も悪くない。

 そう思ってから、ふと考えた。いつもいつも乃絵美を見るたびにそんなことばかり考えては、乃絵美に悪いかも知れない。

 ということで、訂正。

 元気そうな笑顔。実に可愛い。

「ああ、おはよう」

 俺がいつもの調子で答えると、乃絵美は少しオドオドしながら、上目遣いに俺を見上げた。そして、何やら恥ずかしそうに頬を赤らめる。

「どうした?」

 俺が聞くと、乃絵美は遠慮がちに口を開いた。

「うん、あのね、お兄ちゃん。今日何の日か知ってる?」

「ああ、円周率の日だ」

「…………」

「冗談だよ。ホワイトデーだろ?」

 嫌でも忘れられない。

 俺が答えると、乃絵美は一旦嬉しそうに微笑んだが、すぐにまたどこか申し訳なさそうに俯いた。

「うん。そう、ホワイトデー。それで、その、お兄ちゃん、覚えてるかなぁ……」

 実の兄に対してこんなにもオドオドと話す可愛らしい妹が、この世の中にまだ存在するとは。俺は果報者だ。

 ちなみに乃絵美の言っていることだが、バレンタインデーに交わした約束のことである。

「ああ、覚えてるよ」

 そう言いながら、俺は乃絵美の頭をポンポンと叩いた。

「クッキー、家に帰ったらちゃんと焼いてやるからな」

 乃絵美との約束。

 乃絵美が俺のために……もとい、味見してと言ってくれたチョコレートのお礼に、俺は乃絵美にクッキーを焼いてやると約束した。

 実はこれのために、今日は万が一にも菜織とデートをしている余裕などないのである。

 乃絵美は、俺の手を頭の上に乗せたまま、嬉しそうに微笑んだ。

「うん。一緒に焼こっ。今日はお昼でおしまいだから、お兄ちゃんが帰ってくるの、待ってるね」

 本当に爽やかな笑顔。俺はこの笑顔に、今年のホワイトデーはいつもより少しだけ幸せだと実感した。

「よしっ。ちょっと遅くなるかもしれないけど、材料買って帰るから家で待ってろよ」

 そう言って、俺は乃絵美の髪を撫で下ろした。



 放課後、俺が菜織の許へ行くと、そこにはミャーコちゃんも一緒にいて、二人で俺を待っていた。

「あっ、遅いじゃない、正樹君」

 同じクラスで席も実に近いというのに、遅いも何もあったものではないが、ミャーコちゃんの相手をすると疲れるのでさらりと流した。

「ああ。で、二人で何してるんだ?」

「ん? 今日の打ち合わせよ」

 答えたのは菜織。何やら不吉な響きだ。

「打ち合わせ?」

 不安になって俺が問う。

「そっ、打ち合わせ。アンタについてきてもらう買い物」

「そう、買い物買い物。にゃはは」

 無意味に元気なミャーコちゃんを横目に、俺は菜織に聞いた。

「何? 今日行くのって、買い物なのか?」

「そうよ」

 しれっと菜織が答える。

「アンタ、何だと思ったの?」

「い、いや……」

 まさかデートだとは言えまい。

「で、ミャーコちゃんは?」

「もっちろん、ミャーコちゃんも一緒に行きますよ。女の子たちへのプレゼント選びは、このミャーコちゃんにまっかせっなさい!」

 その一言に、俺はすべてを悟った。

 罠だ!

 菜織の言う「プレゼントを買わなくてもいい」というのは、「アンタがプレゼントを選ばなくてもいい」という意味だったんだ。

「ま、まさか……まさかだと思うが、まさか今日これから俺が、俺にチョコレートをくれたヤツ全員のプレゼントを、お前らと一緒に買いに行く、なんてことはないよな?」

 冷や汗たらたらで俺がそう尋ねると、菜織がむしろ驚いた顔で答えた。

「えっ!? ひょっとしてアンタ、今の今まで、気付かなかったの?」

「なっ!」

 やられた……。

 菜織は平然と続ける。

「なっ、じゃないわよ。アンタにプレゼントを任せたら、また何持ってくるかわかったもんじゃないわ。去年アンタ、手作りクッキーとか言ってみんなに配ったでしょ? 覚えてる? あの不評っぷり。今時ああいうの流行らないわよ」

 そこまで言われては俺にも言い返す言葉がない。

 ただ、流行らなくてもそれを求めてくれる女の子はいるんだ。その子のためにも、悪いが今日、菜織たちと付き合っている暇はない。

「大体話はわかったよ。だが、生憎今日は金がない。だからまた今度にしてくれないか?」

 すると、ミャーコちゃんが得意げな顔で言った。

「ふふ〜ん。そう言うと思って、実はこのミャーコちゃん、今日はお金をたくさん持ってきてるんだ」

「右に同じ」

 さらりと菜織が言う。

「だから、アンタは何にも心配しなくていいのよ。お金はいくらでも貸してあげるから」

「…………」

 俺の心に絶望が広がった。

 もう逃げられない……。

「わかった……。ただ、なるべく早く済ませてくれ……」

 もはやそう言う他に、俺に為す術はなかった。



 そうして、地獄の午後が始まった。

 菜織とミャーコちゃんに引きずり回されること数時間。始めの内は確かにホワイトデーのプレゼント選びだったが、だんだん単に二人の買い物に付き合わされるだけの形になり、最終的には荷物持ちと化した。

 その間、楽しくなかったかと言うと、実際はそうでもない。会話も弾んだし、思ったよりもひどい買い物はさせられなかったし、それなりに楽しくはあった。

 ただ、家で何も知らずに俺のことを待っているであろう乃絵美のことを考えると、気が気ではなかった。

 途中、何度か「帰る」と言ってはみたが、その度に菜織に睨まれ、挙げ句「アンタねぇ……」と、説教までされてしまった。

 そして、やや日が西に傾きかけてきた4時少し前、ようやく買い物が終わった。

「ああ、楽しかった」

 思い切りのびをしながら菜織がそう言って、ミャーコちゃんもそれに賛同する。

 長かった……。

 俺は心の中で重く溜め息を吐いた。

 ともあれ、これで解放される。後はクッキーの材料を買って、家に帰るだけだ。

 そう思った刹那、

「じゃあ、次に行きましょうか」

「何……?」

 まさに地獄の鬼のような菜織の一言に、俺は本当に一瞬だが、殺意が芽生えた。

「まだ……あるのか?」

 声が震えた。

 怒りのためか焦りか悲しみか、もはや俺にもわからなかった。

 ただ菜織は、そんな俺のことなど気にもかけないで、平然と頷いた。

「もっちろん。実は駅前のカラオケにみんなを待たせてあるの。っていっても、もう歌ってると思うけど。7時まで歌いたい放題。みんな、アンタのプレゼントを期待してるわよ」

「い、いい加減にしてくれ!」

 俺はそう怒鳴りそうになって、ぐっと言葉を呑み込んだ。

 断れない。俺には、家に帰らなければならない用事などない。

 みんないい友達だから、ここで断るわけにはいかない。

 まさか、妹と二人でクッキーを焼くためなんて、言えるわけがない。

「わかった……」

 本当に、すまない、乃絵美……。

 ……もう何も考えたくなかった。



 時は残酷に過ぎていった。

 カラオケは盛り上がったようだが、俺は一曲も歌わなかった。

 とてもはしゃぐ気になれなかった。

 カラオケは予定通り7時に終了し、それからオレたちはみんなで夕食を食べに出た。

 総勢10数人。

 いくら何でも、俺一人のためにある企画だとは思えずに、男友達の一人に尋ねてみたら、そいつは苦笑しながら、

「ホワイトデーも兼ねた学年末試験の打ち上げだとよ」

 と教えてくれた。そして、

「そう気を落とすな。プレゼントの被害に遭ったのは、何もお前一人じゃないんだしな」

 と付け加えた。

「そうか……」

 俺はホンの少しだけ心が軽くなった。

 結局みんなと別れたのは、日も完全に落ちた夜の8時半だった。

 もはやどの店も閉まっている。さすがに乃絵美ももう待ってないだろう。

 俺がそんなことを考えながら、空の星を眺めていると、菜織が「一緒に帰ろ」と声をかけてきた。

「ああ……」

 ぶっきらぼうにそう答え、それから俺は菜織と一緒に、まだ寒さの残る夜道を並んで帰った。

 俺は別に怒っているわけではなかったが、菜織と口をきく気にはなれず、黙って歩いていた。すると菜織が、なにやら申し訳なさそうに口を開いた。

「ひょっとして、怒ってる?」

「……いや」

 俺は前を向いたまま、短く答えた。

「……ごめんね」

 俯きながら菜織。

 謝るくらいなら、初めからしないでくれ。

 無意識の内にそんなことを考え、俺は小さく頭を振った。それはいくら何でも女々しすぎる。

 菜織はやはり居心地悪そうに続けた。

「だますつもりはなかったの。でも、本当にアンタが知らないなんて思わなかったから……。つまんなかった?」

「いや……」

「……そう」

 菜織が溜め息を吐く。それからまた長い沈黙が続いた。

 そして菜織の家の石段の前までやってきて、菜織は足を止め、今にも泣きそうな瞳で俺を見つめた。

「正樹。今日はホントにごめん。何か用事があったんだよね。アンタ、ずっと時間気にしてたみたいだから。でも、私はアンタがそれでも付き合ってくれて、ホントに嬉しかった。だから、ありがとう。今度からはちゃんと事前に話すから、良かったら許して欲しいの。その……本当にごめんなさい」

 そして菜織はペコリと俺に頭を下げた。

 俺は意外な展開に、一瞬言葉を失ったが、すぐに菜織に頭を上げさせて言った。

「い、いや。俺の方こそ悪い。用って言っても、大したことじゃないんだ。なんかお前に変な気を遣わせちまったみたいだな。気にしてないから、そんなに謝らないでくれ」

「……ホントに?」

「ああ」

 俺が頷くと、ようやく菜織が嬉しそうに笑った。

「そう。良かった。じゃあ、また明後日、学校で」

 そう言って、菜織は軽快に石段を上がっていった。

 俺はしばらくその背中を見つめ続けて、それからまた家に向かって歩き出した。



 結局家に着いたのは、9時を回った頃だった。

「ただいま」

 とりあえず、乃絵美に謝りに行かねばならない。

 怒っているだろうか……。いや、怒っていて欲しい。いっそ張り倒されてでも、無茶苦茶怒っていてくれた方が嬉しい。

 だが、たぶん乃絵美は……。

 もう閉店し、客のいない薄暗い店内の一席に、ぽつんと乃絵美は座っていた。

 俺は裏から回ってきたので、驚かせないように小さく声をかけた。

「乃絵美……」

 パチッと電気を点ける。

 乃絵美はゆっくりと振り返った。

「お兄ちゃん?」

「あ、ああ」

「おかえりなさい」

 乃絵美はそう言いながら立ち上がり、笑顔で俺の側にやってきた。そして嬉しそうに俺を見上げた。

「遅かったね、お兄ちゃん」

「ああ。その……ホントにすまない。俺……」

「ううん、いいよ」

 乃絵美は、やはり首を振った。そして、あまりにも予想通りの言葉を並べる。

「菜織ちゃんたちに誘われたんでしょ? しょうがないよ。私はほら、いつでも会えるし、それに、妹だし……。だから、気にしないで。クッキーなんて、別にいつでも焼けるんだし……」

「乃絵美……」

 妹だし。

 その言葉に、俺は心が痛んだ。妹だから約束を破っていいなんて、そんなことあってたまるか。

 俺が黙って項垂れていると、乃絵美は少し困ったように言った。

「そんな顔しないで、お兄ちゃん。それに、ホントはお兄ちゃんが思ってるほど待ってなかったんだ。待ってたのは始めの1時間くらい。だから、気にしなくてもいいんだよ」

 嘘だ……。

 俺は乃絵美の顔を見た。

 無理に笑顔を作る乃絵美の目が、わずかに赤くなっていた。

 乃絵美のことだ。どうせここでずっと待っていたんだろう。いつ帰って来るんだろう。どんなクッキーを焼こうか。おいしく焼けるだろうか。

 そんなことを考えながら、ずっと待っていたに違いない。

「お兄ちゃん?」

 どうしたんだろうと、俺の顔を覗き込む乃絵美。俺は無意識の内に、そんな乃絵美を思い切り抱きしめていた。

「えっ?」

「ごめん、乃絵美。ホントにごめん!」

「お、お兄ちゃん……」

「俺……俺……」

 何も言えない俺に、乃絵美は優しく言った。

「いいよ、お兄ちゃん。ホントに、怒ってないから……」

 そんなことはわかっている。

「どうして、怒らないんだよ……」

 つい、そう言ってしまって、乃絵美が驚いた声を上げた。

「えっ?」

「くっ!」

 俺は乃絵美を抱く腕に、ますます力をこめた。

「約束、破ったんだぞ? どうして怒らないんだ?」

 何故か無性に悲しくなった。

 乃絵美はしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。

「……それは……私、お兄ちゃんが……」

 そしてまた黙り込む。

 乃絵美の身体は、少しだけ冷たかった。そして、本当に折れてしまいそうなくらい華奢だった。

 その内、すっと乃絵美の手が俺の背中に回されて、軽く俺を引き寄せた。

「……乃絵美?」

「お兄ちゃん……」

 いつかのように熱っぽい乃絵美の吐息。

 俺はそれからしばらく乃絵美を抱きしめ、やがてふと、自分が何か間違ったことをしているのに気が付いて、少しだけ力を抜いた。そして、乃絵美が何かを言う前に尋ねる。

「なあ、乃絵美。俺、何か乃絵美にお詫びしたいんだけど、欲しいものとかあるか?」

「…………」

 乃絵美は無言で顔を上げた。

 すぐ目の前に乃絵美の顔があった。

 見つめ合う目と、交差し合う吐息。

「……じゃあ、き……」

 呟くように何かを言いかけて、乃絵美は言葉を呑み込んだ。代わりに再び俺の胸に顔を埋めて、かすれる声で言った。

「じゃあ、もう少しこうしてて。そしたら、それだけでいいから……」

「…………」

 俺はもう一度強く乃絵美の身体を抱きしめた。

 いけないことだ。乃絵美は実の妹なんだから、本当はこんなことをしていてはいけない。乃絵美に、言ってやらなければいけない。

「そんなことはダメだ。もっと他に、何かないのか?」

 けれど、何故か言葉が出なかった。乃絵美を離せなかった。

 兄想いの心優しい妹。ちょっと身体が弱いけれど、でも誰よりもいい子に育った。

 離したくない。誰にも渡すものか。

 ……兄として。

 そう……兄として。

 それ以外に、どんな理由があるというのだ。

「乃絵美……ごめんな……」

「うん……」

 ただ、乃絵美の身体を抱きしめていた。

 どれくらいそうしていたのかよくわからない。

 やがて奥から階段を降りてくる足音が聞こえてきて、俺は乃絵美の身体を離した。

 別にやましくはないが、さすがに親に見られては変な誤解をされてしまう。

 乃絵美の肩越しに外が見えた。明るい店内とは対称的に、もうすっかり暗くなった外の景色。

 俺が顔を上げると、窓の外を人影がよぎった。何か慌てていたような気がしたのは、俺の方の心境によるものかも知れない。

 ここで抱き合っていた俺と乃絵美は、外から完全に見えていた。

「お兄ちゃん……」

 乃絵美の声に、俺は窓から視線を外した。

 乃絵美は赤くなって微笑んだまま、嬉しそうに俺を見上げていた。

「あの、ありがとう」

「あ、ああ……」

 乃絵美はそれから、恥ずかしそうに小走りに自分の部屋に戻っていった。

 静かになった店内。胸と腕に、まだ乃絵美の柔らかい感触が残っていた。

「……まあ、いいか……」

 そして俺もまた、店の電気を消して、自分の部屋に戻った。

 3月14日、ホワイトデー。

 色んなことがあったけれど、朝思った通り、確かにいつもよりは少しだけ幸せだった気がする……。

 夜は静かに更けていった。



─── 完 ───  





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