「お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
微睡みの遥か彼方から声がする。乃絵美の声だ。
「お兄ちゃん……起きて……もうお昼だよ……」
ゆさゆさ。
身体が揺らされる。だが、生憎俺は眠い。ちょっと昨夜、遅くまで起きていすぎたようだ。
「うう……。乃絵美ぃ……後5分……」
「後5分ね! 300……299……298……」
おい、マジ!?
「ああ、冗談。後2時間」
「7200……7199……7198……」
…………。
「うう……。後2時間13分39秒」
「8019……8018……8017……」
「乃絵美……。お前、頭いいな……」
「もうっ! くだらないこと言ってないで起きて」
ちょっと怒ったような乃絵美の声と一緒に、またゆさゆさと身体が揺さぶられる。酔いそうだ。
「乃絵美ぃぃ。俺、まだ全然寝足りんぞ」
「そんなぁ。だって今日お兄ちゃん、お店手伝ってくれるって。今お店、すごいことになってるの。早く起きて」
「何!?」
俺はがばっと跳ね起きた。
「店、そんなすごいことになってる?」
「うん、もう大変。早く起きてね」
それだけ言い残して、乃絵美はさっさと部屋を出ていってしまった。
俺はベッドの上に座ったまま、寝ぼけた頭で思い出してみる。確か今日は4月1日。お父様とお母様は朝からお二人でお出かけになって、今日は一日俺と乃絵美でお留守番だったような……。
だったら、乃絵美一人に店を任せておくわけにはいかない。兄として、というか、一応この店の従業員として。
俺はベッドを出ると、急いで服を着替えた。そして軽く身体をほぐす。
「うしっ!」
準備は整った。俺は素早く時計を見る。
7時10分。
まだ開店前だ!
「……はぁ?」
…………。
確かさっき、乃絵美は「もう昼だ」とか何とか言ってなかったっけ……?
時計はしっかりと時を刻んでいる。止まってはいない。
「…………」
俺は何とも腑に落ちなかったが、起きてしまったものはしょうがなく、大きく欠伸をしながら部屋を出た。
階段から喫茶店内を覗いてみると、乃絵美が店内を掃除していた。当然客はいない。まだ開店前だからだ。
「おい、乃絵美。すごいことになってるな、店」
俺が目を細めて乃絵美にそう呼びかけると、乃絵美はまったく気にしてないように、
「おはよう、お兄ちゃん」
と、にっこり笑った。
俺は乃絵美の許まで行くと、店の時計を指差しながら、
「乃絵美。今、何時に見える?」
と、聞いてみた。
乃絵美は少し首を傾げてから、
「7時15分だよ」
しれっとそう答え、
「後15分で開店。頑張ろうねっ!」
と、笑顔で俺を見上げた。
俺は……この笑顔に弱いのかもしれない。
どうにも納得がいかなかったが、仕方なく急いで朝食を摂ると、店の制服に着替えた。
春休み中盤。俺たち高校生は毎日のびのび暮らしているが、日本を支えるサラリーマンたちには当然仕事があり、喫茶店も朝から平常通り開店する。
とはいえ、客の入りはそれほどでもなく、よく見知った顔がいくつか、いつもと同じ時間に入ってきては、いつもと同じ時間に出ていくだけだった。
もちろん、それでも乃絵美一人ではちと辛いといえば辛いかも知れない。だから優しいお兄様は、そんな可愛い可愛い妹を手伝ってあげるのでした。
な〜んてことを、冗談で乃絵美に言ってみたら、乃絵美は、
「何バカなこと言ってるの? お兄ちゃん」
と、つまらなさそうに俺を見上げた。
「えっ?」
たじろぐ俺に、乃絵美が素早くたたみかける。
「元々みんなでやってるお店じゃない。私を手伝うも何も、本来二人でするのが当然であって、いつも私一人に押し付けてるお兄ちゃんが間違ってるんだよ」
「の、乃絵美……」
ものすごく、もうこれでもかというくらいもっともなことを言われて、俺はただ口をパクパクさせるだけだった。
しかし、それにしても今日の乃絵美はどうにも反抗的だ。
1.4月に入って心構えを変えた。
2.俺が仕付け方を誤った。
3.あの日。
俺としては3番がお勧めだ。
確かに乃絵美の言うとおり、「バカなこと」を考えている俺に、乃絵美がすっとコーヒーを差し出した。
「おっ、乃絵美、サンキュー」
ちょうど乃絵美のせいで、緊張して喉が渇いていたところだ。実によいタイミング。いい妹を持った。
俺がそんなことを考えながらカップを取ると、乃絵美が困ったように、
「あの……」
と、そんな俺を制止した。
「何だ?」
「これ、デリバリー」
「…………」
俺は溜め息を吐きながら、トレイを取った。
「どこ?」
乃絵美は何事もなかったように、
「角の酒屋さん。お願いね、お兄ちゃん」
そう言って、小さく微笑んだ。
「あ、ああ……」
俺は渋々店を出た。
いい天気だった。風もなく、穏やかな春の陽気に包まれて、今日は絶好のお花見日和となるでしょう。
以上、昨夜の天気予報より。
「こんちわ〜す」
俺はコーヒーを片手に酒屋に入った。
すぐにおじさんが出てきて、威勢良く俺を出迎える。
「おっ、正樹君。どうしたんだ?」
「はい。ご注文のコーヒーを届けにきました」
俺も元気にそう答えたが、その瞬間、おじさんはちょっと不思議そうな顔をした後、
「俺、今日は頼んでないぞ」
と、困ったようにそう言った。
「えっ? いや、乃絵美が……」
「乃絵美ちゃんがそう言ったの?」
あれ?
「あっ、うん。い、いえ……。俺が間違えたみたいです。あっと、このコーヒー、じゃあいつもお世話になってる酒屋様に、ロムレットからのささやかなプレゼントということで」
苦し紛れにそう言うと、おじさんは、
「そういうことなら、ありがたくもらっておこう」
と、嬉しそうにコーヒーを飲み干した。
「ありがとさんな」
「い、いえ」
俺は空のカップを持って、すぐに店に帰った。そして大声で乃絵美に呼びかける。
「おい、乃絵美!」
「あっ、お帰りなさい、お兄ちゃん」
「お帰りなさいじゃねぇ。おじさん、今日は頼んでないって」
俺がそう怒鳴りつけると、乃絵美は驚いた顔をして、
「えっ? 頼んでないって?」
と、逆に俺にそう聞き返してきた。
「お、おう」
俺は思わぬ乃絵美の反応に、少しだけ語調を落とす。
乃絵美はいきなりしゅんとなって、申し訳なさそうに俺に頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。失敗しちゃったみたいだね、私……」
「あっ、いや……」
「本当にごめんなさい……」
今にも消え入りそうな乃絵美の声に、俺は慌てて乃絵美に頭を上げさせた。
「いや、いいんだ。誰にも失敗はあるからな。気にするな、乃絵美。俺、全然怒ってないから」
「ホント?」
上目遣いに俺を見上げる乃絵美。
可愛い!
「ああ、本当本当」
俺がそう言いながら、軽く乃絵美の頭を撫でてやると、乃絵美は、
「良かった〜。ありがとう、お兄ちゃん!」
と、嬉しそうに笑った。
結局その日は一日中、乃絵美と一緒に喫茶店で働いた。
そして5時、閉店。俺が店の片付けをしていると、乃絵美が嬉しそうに俺の許へやってきて、
「ねえ、お兄ちゃん」
と、笑顔で話しかけてきた。
「おう。何だ?」
「そいえばさ、私まだ、言ってなかったよね?」
「何を?」
「お花見のこと」
「花見?」
初耳だ。
「花見がどうかしたのか?」
俺が聞くと、乃絵美はやっぱり楽しそうに答えた。
「うん。北島公園の桜がすごく綺麗だから、今日は家族みんなでお花見することになってるの。行きがけにお母さんがそう言ってた」
「そうなのか?」
「うん」
乃絵美は大きく頷いてから、面白そうにはしゃいで、
「私、先に行ってるから、お兄ちゃんもすぐ準備して来てね」
と一声残して、ドアの方へ歩き始めた。
「あっ、おい。乃絵美!」
俺は一緒に行こうと慌てて乃絵美を呼び止めたが、乃絵美は俺が言うより先に店を出ていってしまった。
「まったく、しょうがないなぁ」
一人残された俺は、やれやれと溜め息を吐くと、急いで片付けを終わらせて、乃絵美の後を追いかけた。
6時頃、北島公園は花見客で賑わっていた。
どの桜の木の下も、シートシートでいっぱいだ。
この公園が一番賑わう季節だろう。
「さてと……」
俺は家の連中を探して歩き始めた。
とはいえ、公園といっても結構広い。この人集りから3人を探し出すのは至難の業だろう。
「まったく。乃絵美のヤツも、どこにいるかくらい、言ってけよな」
ぶつぶつ言いながらも、それほど苦にはならなかった。
穏やかな風と、楽しそうな人々の顔。満開の桜。花見というのも、案外いいものかもしれない。
「乃絵美……乃絵美はっと」
ぐるぐる公園内を回る。
無数の家族連れと、無数のサラリーマン。乃絵美の姿はない。
いつしか空も暗くなり始めて、気が付くと腕時計の針が7時を回っていた。
「…………」
俺はやがて足を止めて、おもむろに公園内の電話をとった。
嫌な予感がした。
プルルルル……プルルルル……。
誰もいないはずの自宅に電話を入れる。
ガチャ。
幽霊か泥棒が電話をとった。
「はい、伊藤ですけど」
「あっ、俺」
「ああ、正樹。アンタこんな時間まで、どこで何してんの?」
「今日……花見じゃなかったの?」
俺が言うと、受話器越しに非常に不審そうな母親の声がした。
「花見? 何寝ぼけてんだい。くだんないこと言ってないで、さっさと帰ってきな」
「あっ、あのさ」
電話を切られる前に、俺が呼びかける。
「何?」
「乃絵美……いる?」
俺が緊張しながらそう聞くと、最悪の事態は免れたようで、逆に向こうが不思議がって、
「いないよ。アンタと一緒にいるんじゃないの?」
と言ってきた。
「いや。ならいいんだ」
俺は安堵半分、そして怒り半分、電話を切った。
ツー、ツー。
受話器から一定の電子音。
「乃絵美……いくらお前でも、終いに怒るぞ……」
俺はそう呟いて、テレホンカードを財布にしまうと、電話を離れた。
その時だった。
突然、何か柔らかいものが、ふわりと俺の身体を包み込んだ。そして、
「だ〜れだ?」
と、可愛い女の子の声。
「乃絵美……」
俺は、不機嫌にそう答えた。
乃絵美はぎゅっと後ろから俺を抱きしめて、俺の背中に顔を埋めた。
「当たり……」
「……なあ」
冗談にもほどがあると、俺が珍しく乃絵美を怒ろうとしたその時、乃絵美が先に小さな声で言った。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「……何が?」
今日は、素直には喜べない。
乃絵美の手の平が、そっと俺の胸を撫でた。そして、自分の身体を強く俺の背中に押し付けながら、乃絵美は熱っぽく呟いた。
「うん……。お兄ちゃん、私の言うこと、何でも聞いてくれるんだね」
「……今日のは頼まれたんじゃなくて、騙されただけだ」
「ごめんなさい」
それから、乃絵美はさらに強く俺を抱きしめてきた。
背中から、乃絵美の胸の鼓動が伝わってくる。
「ねえ、お兄ちゃん」
「何だ?」
「お兄ちゃん……私のこと……好き?」
…………。
俺は、とりあえず聞き返した。
「それは、likeか? それともloveか?」
乃絵美は一呼吸してから、恥ずかしそうに、それでもはっきりと言った。
「もちろん、love……」
俺の胸を不安がよぎった。苛立ちがよぎり、驚きもよぎった。
乃絵美は、高校1年にも……いや、今日から2年か。どちらにせよ、高校生にもなって、本気でそんなことを言っているのだろうか。
俺は乃絵美を、妹としてしか見ていない。
見てないはずだ。
なのに……どうしてこんなにドキドキしてるんだろう。
「乃絵美……」
俺はどうしょうもなく緊張しながら、しかしはっきりと告げた。
「お前は妹だ。likeでなら大好きだぞ」
「……そう」
乃絵美は少し寂しそうに答え、それから恐らく顔を上げたのだろう。薄い唇を軽く俺のうなじに当てて、小さな声で言った。
「私も、大好きだよ、お兄ちゃんのこと……」
「……どっちでだ?」
俺が聞くと、乃絵美はやはりはっきりと、破裂しそうなくらい、胸を高鳴らせながら、俺に言った。
「もちろん、love……」
「……乃絵美」
俺は、何故か言葉が出なかった。
兄妹なのに……。
俺は乃絵美のこと……?
その内乃絵美が身体を離して、頬を赤らめながら言った。
「帰ろっ、お兄ちゃん」
「あ、ああ……」
俺は何も言えず、どうすることもできずに、乃絵美と一緒に帰路に着いた。
乃絵美は一体、どういうつもりなんだろう。
俺たちは兄妹なのに……。
やがて俺たちは家に帰った。
「もう、アンタたち、こんな時間までどこで何してたんだい」
案の定、すぐに母さんが怒鳴ってきた。
俺は乃絵美を見て、どうしたものかと思った。
騙された……いや、騙したんじゃないかもしれない。
乃絵美が俺に告白した……。
そんなこと、言えるものか……。
俺が困り果てていると、乃絵美は平然と、むしろ楽しそうに笑って、
「うん、あのねお母さん」
と、笑顔で語り始めた。
「何だい?」
「あのね、お兄ちゃんったら、面白いんだよ」
面白い?
俺が不思議がって乃絵美を見ると、乃絵美は笑いながら母さんを見つめ、そして母さんもまた不意に納得のいった顔をして、
「ああ、花見って、そういうこと!」
と、やはり面白そうにそう言った。
「何のことだ?」
俺が訝って問うと、
「今朝、お母さんと話してたんだよ」
と、乃絵美が笑い、
「アンタ、今日いくつ乃絵美に騙されたんだい?」
母さんがにやにやと俺にそう聞いてきた。
俺は何のことかさっぱりわからずに、とりあえず困り果てる。
「騙されたって? ……えっ?」
そういえば、今日は朝から乃絵美のヤツ……。
いや、待て。ひょっとして、コーヒーのデリバリー、乃絵美は間違えたんじゃなくて、俺を……騙した?
「ど、どうして……」
呆然と俺が聞くと、乃絵美がとうとう声を上げて笑い出した。
「あははっ。お兄ちゃん、今日何の日か全然わかってないんだね」
「今日って……4月1日……あっ!」
そうだ。ようやく思い出した。
今日は……。
「エイプリルフールだよ」
「じゃ、じゃあ……」
乃絵美はにっこりと笑って、それから小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、お兄ちゃん」
「全部……嘘?」
乃絵美は何も言わずに、ただ俺を見上げただけだった。
「さあ、ご飯ご飯」
楽しそうに母さんが言って、それから乃絵美は母さんと一緒に奥へ行ってしまった。
一人取り残された俺は、混乱した頭で、ようやく一言だけ呟くことができた。
「嘘……」
そうだ……。
嘘に決まってる。
あの乃絵美の温もりも、あの乃絵美の胸の鼓動も……。
……本当に?
エイプリルフール。
嘘と本当が交差する日。
本当を、嘘で誤魔化せる日。
俺はしばらくその場に立ち尽くしたまま考えた。
今日の乃絵美は、どこまでが嘘で、どこまでが本当だったんだろう……。
しばらく考えたけれど、やっぱり答えは出なかった。
何事もなかったように、そうしてエイプリルフールは俺たちの間を擦り抜けていった。
─── 完 ───