── リアルタイム乃絵美小説 ──

第3作 : 幻の一日






「お兄ちゃん……お兄ちゃん……」

 微睡みの遥か彼方から声がする。乃絵美の声だ。

「お兄ちゃん……起きて……もうお昼だよ……」

 ゆさゆさ。

 身体が揺らされる。だが、生憎俺は眠い。ちょっと昨夜、遅くまで起きていすぎたようだ。

「うう……。乃絵美ぃ……後5分……」

「後5分ね! 300……299……298……」

 おい、マジ!?

「ああ、冗談。後2時間」

「7200……7199……7198……」

 …………。

「うう……。後2時間13分39秒」

「8019……8018……8017……」

「乃絵美……。お前、頭いいな……」

「もうっ! くだらないこと言ってないで起きて」

 ちょっと怒ったような乃絵美の声と一緒に、またゆさゆさと身体が揺さぶられる。酔いそうだ。

「乃絵美ぃぃ。俺、まだ全然寝足りんぞ」

「そんなぁ。だって今日お兄ちゃん、お店手伝ってくれるって。今お店、すごいことになってるの。早く起きて」

「何!?」

 俺はがばっと跳ね起きた。

「店、そんなすごいことになってる?」

「うん、もう大変。早く起きてね」

 それだけ言い残して、乃絵美はさっさと部屋を出ていってしまった。

 俺はベッドの上に座ったまま、寝ぼけた頭で思い出してみる。確か今日は4月1日。お父様とお母様は朝からお二人でお出かけになって、今日は一日俺と乃絵美でお留守番だったような……。

 だったら、乃絵美一人に店を任せておくわけにはいかない。兄として、というか、一応この店の従業員として。

 俺はベッドを出ると、急いで服を着替えた。そして軽く身体をほぐす。

「うしっ!」

 準備は整った。俺は素早く時計を見る。

 7時10分。

 まだ開店前だ!

「……はぁ?」

 …………。

 確かさっき、乃絵美は「もう昼だ」とか何とか言ってなかったっけ……?

 時計はしっかりと時を刻んでいる。止まってはいない。

「…………」

 俺は何とも腑に落ちなかったが、起きてしまったものはしょうがなく、大きく欠伸をしながら部屋を出た。



 階段から喫茶店内を覗いてみると、乃絵美が店内を掃除していた。当然客はいない。まだ開店前だからだ。

「おい、乃絵美。すごいことになってるな、店」

 俺が目を細めて乃絵美にそう呼びかけると、乃絵美はまったく気にしてないように、

「おはよう、お兄ちゃん」

 と、にっこり笑った。

 俺は乃絵美の許まで行くと、店の時計を指差しながら、

「乃絵美。今、何時に見える?」

 と、聞いてみた。

 乃絵美は少し首を傾げてから、

「7時15分だよ」

 しれっとそう答え、

「後15分で開店。頑張ろうねっ!」

 と、笑顔で俺を見上げた。

 俺は……この笑顔に弱いのかもしれない。

 どうにも納得がいかなかったが、仕方なく急いで朝食を摂ると、店の制服に着替えた。



 春休み中盤。俺たち高校生は毎日のびのび暮らしているが、日本を支えるサラリーマンたちには当然仕事があり、喫茶店も朝から平常通り開店する。

 とはいえ、客の入りはそれほどでもなく、よく見知った顔がいくつか、いつもと同じ時間に入ってきては、いつもと同じ時間に出ていくだけだった。

 もちろん、それでも乃絵美一人ではちと辛いといえば辛いかも知れない。だから優しいお兄様は、そんな可愛い可愛い妹を手伝ってあげるのでした。

 な〜んてことを、冗談で乃絵美に言ってみたら、乃絵美は、

「何バカなこと言ってるの? お兄ちゃん」

 と、つまらなさそうに俺を見上げた。

「えっ?」

 たじろぐ俺に、乃絵美が素早くたたみかける。

「元々みんなでやってるお店じゃない。私を手伝うも何も、本来二人でするのが当然であって、いつも私一人に押し付けてるお兄ちゃんが間違ってるんだよ」

「の、乃絵美……」

 ものすごく、もうこれでもかというくらいもっともなことを言われて、俺はただ口をパクパクさせるだけだった。

 しかし、それにしても今日の乃絵美はどうにも反抗的だ。

1.4月に入って心構えを変えた。

2.俺が仕付け方を誤った。

3.あの日。

 俺としては3番がお勧めだ。

 確かに乃絵美の言うとおり、「バカなこと」を考えている俺に、乃絵美がすっとコーヒーを差し出した。

「おっ、乃絵美、サンキュー」

 ちょうど乃絵美のせいで、緊張して喉が渇いていたところだ。実によいタイミング。いい妹を持った。

 俺がそんなことを考えながらカップを取ると、乃絵美が困ったように、

「あの……」

 と、そんな俺を制止した。

「何だ?」

「これ、デリバリー」

「…………」

 俺は溜め息を吐きながら、トレイを取った。

「どこ?」

 乃絵美は何事もなかったように、

「角の酒屋さん。お願いね、お兄ちゃん」

 そう言って、小さく微笑んだ。

「あ、ああ……」

 俺は渋々店を出た。



 いい天気だった。風もなく、穏やかな春の陽気に包まれて、今日は絶好のお花見日和となるでしょう。

 以上、昨夜の天気予報より。

「こんちわ〜す」

 俺はコーヒーを片手に酒屋に入った。

 すぐにおじさんが出てきて、威勢良く俺を出迎える。

「おっ、正樹君。どうしたんだ?」

「はい。ご注文のコーヒーを届けにきました」

 俺も元気にそう答えたが、その瞬間、おじさんはちょっと不思議そうな顔をした後、

「俺、今日は頼んでないぞ」

 と、困ったようにそう言った。

「えっ? いや、乃絵美が……」

「乃絵美ちゃんがそう言ったの?」

 あれ?

「あっ、うん。い、いえ……。俺が間違えたみたいです。あっと、このコーヒー、じゃあいつもお世話になってる酒屋様に、ロムレットからのささやかなプレゼントということで」

 苦し紛れにそう言うと、おじさんは、

「そういうことなら、ありがたくもらっておこう」

 と、嬉しそうにコーヒーを飲み干した。

「ありがとさんな」

「い、いえ」

 俺は空のカップを持って、すぐに店に帰った。そして大声で乃絵美に呼びかける。

「おい、乃絵美!」

「あっ、お帰りなさい、お兄ちゃん」

「お帰りなさいじゃねぇ。おじさん、今日は頼んでないって」

 俺がそう怒鳴りつけると、乃絵美は驚いた顔をして、

「えっ? 頼んでないって?」

 と、逆に俺にそう聞き返してきた。

「お、おう」

 俺は思わぬ乃絵美の反応に、少しだけ語調を落とす。

 乃絵美はいきなりしゅんとなって、申し訳なさそうに俺に頭を下げた。

「ご、ごめんなさい。失敗しちゃったみたいだね、私……」

「あっ、いや……」

「本当にごめんなさい……」

 今にも消え入りそうな乃絵美の声に、俺は慌てて乃絵美に頭を上げさせた。

「いや、いいんだ。誰にも失敗はあるからな。気にするな、乃絵美。俺、全然怒ってないから」

「ホント?」

 上目遣いに俺を見上げる乃絵美。

 可愛い!

「ああ、本当本当」

 俺がそう言いながら、軽く乃絵美の頭を撫でてやると、乃絵美は、

「良かった〜。ありがとう、お兄ちゃん!」

 と、嬉しそうに笑った。



 結局その日は一日中、乃絵美と一緒に喫茶店で働いた。

 そして5時、閉店。俺が店の片付けをしていると、乃絵美が嬉しそうに俺の許へやってきて、

「ねえ、お兄ちゃん」

 と、笑顔で話しかけてきた。

「おう。何だ?」

「そいえばさ、私まだ、言ってなかったよね?」

「何を?」

「お花見のこと」

「花見?」

 初耳だ。

「花見がどうかしたのか?」

 俺が聞くと、乃絵美はやっぱり楽しそうに答えた。

「うん。北島公園の桜がすごく綺麗だから、今日は家族みんなでお花見することになってるの。行きがけにお母さんがそう言ってた」

「そうなのか?」

「うん」

 乃絵美は大きく頷いてから、面白そうにはしゃいで、

「私、先に行ってるから、お兄ちゃんもすぐ準備して来てね」

 と一声残して、ドアの方へ歩き始めた。

「あっ、おい。乃絵美!」

 俺は一緒に行こうと慌てて乃絵美を呼び止めたが、乃絵美は俺が言うより先に店を出ていってしまった。

「まったく、しょうがないなぁ」

 一人残された俺は、やれやれと溜め息を吐くと、急いで片付けを終わらせて、乃絵美の後を追いかけた。



 6時頃、北島公園は花見客で賑わっていた。

 どの桜の木の下も、シートシートでいっぱいだ。

 この公園が一番賑わう季節だろう。

「さてと……」

 俺は家の連中を探して歩き始めた。

 とはいえ、公園といっても結構広い。この人集りから3人を探し出すのは至難の業だろう。

「まったく。乃絵美のヤツも、どこにいるかくらい、言ってけよな」

 ぶつぶつ言いながらも、それほど苦にはならなかった。

 穏やかな風と、楽しそうな人々の顔。満開の桜。花見というのも、案外いいものかもしれない。

「乃絵美……乃絵美はっと」

 ぐるぐる公園内を回る。

 無数の家族連れと、無数のサラリーマン。乃絵美の姿はない。

 いつしか空も暗くなり始めて、気が付くと腕時計の針が7時を回っていた。

「…………」

 俺はやがて足を止めて、おもむろに公園内の電話をとった。

 嫌な予感がした。

 プルルルル……プルルルル……。

 誰もいないはずの自宅に電話を入れる。

 ガチャ。

 幽霊か泥棒が電話をとった。

「はい、伊藤ですけど」

「あっ、俺」

「ああ、正樹。アンタこんな時間まで、どこで何してんの?」

「今日……花見じゃなかったの?」

 俺が言うと、受話器越しに非常に不審そうな母親の声がした。

「花見? 何寝ぼけてんだい。くだんないこと言ってないで、さっさと帰ってきな」

「あっ、あのさ」

 電話を切られる前に、俺が呼びかける。

「何?」

「乃絵美……いる?」

 俺が緊張しながらそう聞くと、最悪の事態は免れたようで、逆に向こうが不思議がって、

「いないよ。アンタと一緒にいるんじゃないの?」

 と言ってきた。

「いや。ならいいんだ」

 俺は安堵半分、そして怒り半分、電話を切った。

 ツー、ツー。

 受話器から一定の電子音。

「乃絵美……いくらお前でも、終いに怒るぞ……」

 俺はそう呟いて、テレホンカードを財布にしまうと、電話を離れた。

 その時だった。

 突然、何か柔らかいものが、ふわりと俺の身体を包み込んだ。そして、

「だ〜れだ?」

 と、可愛い女の子の声。

「乃絵美……」

 俺は、不機嫌にそう答えた。

 乃絵美はぎゅっと後ろから俺を抱きしめて、俺の背中に顔を埋めた。

「当たり……」

「……なあ」

 冗談にもほどがあると、俺が珍しく乃絵美を怒ろうとしたその時、乃絵美が先に小さな声で言った。

「ありがとう、お兄ちゃん」

「……何が?」

 今日は、素直には喜べない。

 乃絵美の手の平が、そっと俺の胸を撫でた。そして、自分の身体を強く俺の背中に押し付けながら、乃絵美は熱っぽく呟いた。

「うん……。お兄ちゃん、私の言うこと、何でも聞いてくれるんだね」

「……今日のは頼まれたんじゃなくて、騙されただけだ」

「ごめんなさい」

 それから、乃絵美はさらに強く俺を抱きしめてきた。

 背中から、乃絵美の胸の鼓動が伝わってくる。

「ねえ、お兄ちゃん」

「何だ?」

「お兄ちゃん……私のこと……好き?」

 …………。

 俺は、とりあえず聞き返した。

「それは、likeか? それともloveか?」

 乃絵美は一呼吸してから、恥ずかしそうに、それでもはっきりと言った。

「もちろん、love……」

 俺の胸を不安がよぎった。苛立ちがよぎり、驚きもよぎった。

 乃絵美は、高校1年にも……いや、今日から2年か。どちらにせよ、高校生にもなって、本気でそんなことを言っているのだろうか。

 俺は乃絵美を、妹としてしか見ていない。

 見てないはずだ。

 なのに……どうしてこんなにドキドキしてるんだろう。

「乃絵美……」

 俺はどうしょうもなく緊張しながら、しかしはっきりと告げた。

「お前は妹だ。likeでなら大好きだぞ」

「……そう」

 乃絵美は少し寂しそうに答え、それから恐らく顔を上げたのだろう。薄い唇を軽く俺のうなじに当てて、小さな声で言った。

「私も、大好きだよ、お兄ちゃんのこと……」

「……どっちでだ?」

 俺が聞くと、乃絵美はやはりはっきりと、破裂しそうなくらい、胸を高鳴らせながら、俺に言った。

「もちろん、love……」

「……乃絵美」

 俺は、何故か言葉が出なかった。

 兄妹なのに……。

 俺は乃絵美のこと……?

 その内乃絵美が身体を離して、頬を赤らめながら言った。

「帰ろっ、お兄ちゃん」

「あ、ああ……」

 俺は何も言えず、どうすることもできずに、乃絵美と一緒に帰路に着いた。



 乃絵美は一体、どういうつもりなんだろう。

 俺たちは兄妹なのに……。



 やがて俺たちは家に帰った。

「もう、アンタたち、こんな時間までどこで何してたんだい」

 案の定、すぐに母さんが怒鳴ってきた。

 俺は乃絵美を見て、どうしたものかと思った。

 騙された……いや、騙したんじゃないかもしれない。

 乃絵美が俺に告白した……。

 そんなこと、言えるものか……。

 俺が困り果てていると、乃絵美は平然と、むしろ楽しそうに笑って、

「うん、あのねお母さん」

 と、笑顔で語り始めた。

「何だい?」

「あのね、お兄ちゃんったら、面白いんだよ」

 面白い?

 俺が不思議がって乃絵美を見ると、乃絵美は笑いながら母さんを見つめ、そして母さんもまた不意に納得のいった顔をして、

「ああ、花見って、そういうこと!」

 と、やはり面白そうにそう言った。

「何のことだ?」

 俺が訝って問うと、

「今朝、お母さんと話してたんだよ」

 と、乃絵美が笑い、

「アンタ、今日いくつ乃絵美に騙されたんだい?」

 母さんがにやにやと俺にそう聞いてきた。

 俺は何のことかさっぱりわからずに、とりあえず困り果てる。

「騙されたって? ……えっ?」

 そういえば、今日は朝から乃絵美のヤツ……。

 いや、待て。ひょっとして、コーヒーのデリバリー、乃絵美は間違えたんじゃなくて、俺を……騙した?

「ど、どうして……」

 呆然と俺が聞くと、乃絵美がとうとう声を上げて笑い出した。

「あははっ。お兄ちゃん、今日何の日か全然わかってないんだね」

「今日って……4月1日……あっ!」

 そうだ。ようやく思い出した。

 今日は……。

「エイプリルフールだよ」

「じゃ、じゃあ……」

 乃絵美はにっこりと笑って、それから小さく頭を下げた。

「ごめんなさい、お兄ちゃん」

「全部……嘘?」

 乃絵美は何も言わずに、ただ俺を見上げただけだった。

「さあ、ご飯ご飯」

 楽しそうに母さんが言って、それから乃絵美は母さんと一緒に奥へ行ってしまった。

 一人取り残された俺は、混乱した頭で、ようやく一言だけ呟くことができた。

「嘘……」

 そうだ……。

 嘘に決まってる。

 あの乃絵美の温もりも、あの乃絵美の胸の鼓動も……。

 ……本当に?



 エイプリルフール。

 嘘と本当が交差する日。

 本当を、嘘で誤魔化せる日。

 俺はしばらくその場に立ち尽くしたまま考えた。

 今日の乃絵美は、どこまでが嘘で、どこまでが本当だったんだろう……。

 しばらく考えたけれど、やっぱり答えは出なかった。

 何事もなかったように、そうしてエイプリルフールは俺たちの間を擦り抜けていった。



─── 完 ───  





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