── リアルタイム乃絵美小説 ──

第5作 : 1メートル






 乃絵美の様子がおかしい。

 気のせいじゃなくて、はっきりとそう言える。

 3日前の誕生パーティーから、いや、正確にはその翌日の朝から、何故か俺の前でそわそわして、まともに目も合わせようとしない。

 時々いつものように明るく笑ってくれたかと思うと、突然何かを思い出したように黙り込み、気まずそうに俯いて、俺の前から逃げようとする。

 俺は乃絵美を呼び止めて、一度だけこう尋ねてみた。

「どうしたんだ? 乃絵美。何かあったのか?」

 すると乃絵美は、

「何でもない。気のせいだよ」

 と、どう見ても何でもなくない様子で、俯いたままそう言った。

「何でもないなら、どうしていきなり俺から逃げようとするんだ?」

 心配してるのか苛立ってるのか、自分でもよくわからない気持ちで乃絵美に聞くと、乃絵美はちらりと目だけで俺を見上げてから、またすぐに俯いて言った。

「別に逃げてなんてないよ……。何で私がお兄ちゃんから逃げなくちゃいけないの?」

「そんなの知るかよ。俺が聞いてるんだ」

「別に逃げる理由なんてないよ」

「じゃあどうして?」

「だから、逃げてないの」

 何だかよくわからない論理を展開して、やっぱりそそくさと部屋に戻ろうとする乃絵美。俺はそんな乃絵美の両肩をつかんで、無理矢理自分の方を向かせると、しっかりと乃絵美の顔を見つめて言った。

「乃絵美。逃げてないなら、俺の目を見て話せ」

「お兄ちゃん……」

 乃絵美は小さく呟いてから、憂いに満ちた瞳で俺の目を見つめた。そして、しばらくそうして二人で見つめ合った後、かすれる声で乃絵美が言った。

「お兄ちゃん。肩、痛いよ……」

「えっ? あ、ああ」

 俺は思わず拍子抜けして、慌てて乃絵美の肩を放した。

 乃絵美は俺が言葉を失っているその隙に、やはり逃げるように素早く自分の部屋に入って、パタンと部屋の扉を閉めた。

 俺は呆然と立ち尽くしたまま、何故かドアを叩く勇気がなくて、仕方なく自分の部屋に戻った。



 それから、なかなか話を切り出す機会を得られず、日曜日を迎えた。

 朝、俺が起きて下に行くと、母さんがごろりとソファーの上で転がっていた。見苦しい。とても余所様には見せられない。

 台所を見ると、いつもは母さんが立っているそこには乃絵美がいて、楽しそうに朝飯を作っていた。

「ああ、正樹。おはよう」

「おはようじゃねぇって。乃絵美に朝飯作らせて、自分は朝からぐうたらか?」

 嫌みったらしく俺が言うと、母さんは一瞬機嫌を損ねたように顔をしかめたが、すぐに皮肉な笑みを浮かべて反撃体勢に入った。

「朝からひどい言いようだわね。正樹、アンタひょっとして、今日が何の日か知らないとか」

「ん? 今日? 今日は5月10日だ。5月10日は後藤さんの日。全国の後藤さんは、この日ばかりは楽を出来るが、俺たちには関係ない。伊藤さんは1月10日が安息日だぞ」

「アホなこと言ってんじゃないわよ。5月の第2日曜日といえば?」

「第2日曜は……う〜ん。ゴミの日でもねぇし……なんだ?」

「今日は母の日だよ、お兄ちゃん」

 丁度朝ご飯を運んできた乃絵美がそう言って、俺は古くさく、ポンと一つ手を打った。

「おお、そうかそうか。で?」

「で、じゃないわよ。アンタと違って優しい乃絵美は、今日はあたしに一日休んでくださいとよ。ああ、本当にいい娘を持った。いい娘を!」

 なんて嫌みったらしい。

 ならばと俺も開き直った。

「おお、そうか。いや〜、乃絵美はえらいなぁ。ああ、えらいえらい。なでなで」

 ふざけ半分で俺がそう乃絵美の頭を撫でてやると、乃絵美は困ったような恥ずかしそうな顔をしてから、ふと顔を曇らせて慌てて台所に戻っていった。

「…………」

 それは本当に一瞬のことだったが、俺は見逃さなかった。

「乃絵美……」

 口の中で呟く。

 その声は二人には届かなかったようだ。

「おやまあ。アンタの妹は、母の日も祝えないような兄は嫌いだとさ。逃げていっちまったよ」

 妙に俗っぽい言葉を使って、一人で笑う母。こうなるともうダメだ。触らぬ神に祟りなし。

 そう思って俺は椅子に座ろうとした。

 その時、ふと妙案を思い付いて、また古めかしくポンと一つ手を打った。

 母の日。これは乃絵美と話をするチャンスかも知れない。

「ああ、母親に嫌われるのは悪い息子としてはどうってことないが、優しい妹に嫌われるのはやや問題ありだ。仕方ない。癪ではあるが、ここは一つ妹のご機嫌取りのために、母親に花でもプレゼントするとしよう」

「なんか白々しいわね。でもまあいいわ」

 あらかた朝食が並んだのを見計らって、母さんが立ち上がって自分の椅子に座った。乃絵美は父さんを起こしに行っている。

 それから家族4人で「いただきます」をしてから、俺は乃絵美を見て言った。

「ということだ、乃絵美」

「えっ? 何が?」

 いきなり言われて、きょとんとする乃絵美。

「花だ、花。俺一人だと恥ずかしいから、お前も一緒に来い」

「えっ? で、でも……」

 困ったように乃絵美。原因はわからないが、理由はわかっている。

 俺と二人きりになりたくないからだ。

 けれど、もちろんそんなことは誰も知らないし、乃絵美自身も知られたくないと思っているだろう。だから、

「まあいいじゃない、乃絵美。あたしからもお願いするわ」

 母さんにもそう言われて、もはや乃絵美に断る術はなかった。

「わ、わかったよ……」

 渋々乃絵美は頷いた。

 俺はそんな乃絵美の態度に、何か胸が痛んだ。



 日曜日に開店している花屋などない。それが通常の日であれば、だが、今日は母の日と言うことで、大抵の花屋はやっているらしい。

 昼少し前、俺は乃絵美と一緒に家を出た。

 眩しく照りつける太陽。ついこないだまでまだ涼しいくらいの気温だったが、いつの間にか風に夏の匂いがするようになっていた。

 俺は「暑い暑い」と言いながら、乃絵美に合わせてゆっくりと歩いていた。乃絵美は、俺の1メートル後ろを俯きながら歩いている。

 俺が足を止めると、乃絵美も1メートル後ろで俯いたまま足を止める。

「はぁ……」

 俺は白々しく溜め息を吐いた。

「なあ、乃絵美。お前、それでごく自然に振る舞えてると思ってるのか? あからさまに俺をさけてるのが、体中から滲み出てるぞ」

 すると乃絵美はやっぱり俯いたまま、拗ねたような口調でこう言った。

「さけてるなら、ついて来ないよ。気のせいだよ、お兄ちゃん」

 何かムカッとしたが、俺は何も言わずに歩き出した。

 不思議だった。

 ホワイトデーの時のあの態度は、一体何だったんだろう。俺の気のせいだったんだろうか。

 エイプリルフールの夜のあの言葉。あれはやっぱり嘘だったんだろうか。

 乃絵美は俺になついていた。それは俺の乃絵美になついて欲しいという願望が、俺にそう思わせていただけなんだろうか。

 昔から乃絵美はこうだったか?

 俺自身ですら気付かない内に、俺の乃絵美への想いが変わったからこう思うのか?

 乃絵美の言うとおり、乃絵美自身は何も変わっていないのか?

 答えが出せないまま、俺たち二人は花屋に着いた。



 結局花は乃絵美が買って、俺が持って帰ることにした。

 今来た道を、二人で帰る。

 さっきと同じように。乃絵美が俺の1メートル後ろを歩きながら。

 このままじゃいけない。

 俺は強くそう思った。

 今日乃絵美とちゃんと話をしないと、俺は乃絵美とずっとこのままになってしまう気がした。

 もし俺が何かで乃絵美を傷つけたのなら、謝らなくちゃいけないし、それとももっと他のことで乃絵美が悩んでいるのなら、兄として力になってやりたい。

「おい、乃絵美」

 立ち止まり、俺は乃絵美に呼びかける。

「何? お兄ちゃん」

 俺は道に面して広がっている公園を指差して言った。

「ちょっと寄っていこう。話したいことがある」

「で、でも……」

「俺をさけてないなら来い。乃絵美」

 少し語調を強めて俺が言うと、乃絵美はビクリと肩をすぼめて、それから悲しそうに頷いた。

「よし、行くぞ」

 俺はそう言って公園の中に入った。

 乃絵美は何やら複雑そうな瞳で、しばらく公園の中を見つめていたが、やがて諦めたようにゆっくりと俺の後をついてきた。

 俺は公園に入るや否や、乃絵美をベンチに座らせた。もちろん乃絵美の弱い身体を思ってのことだ。

「なあ、乃絵美」

「……何?」

 乃絵美はやっぱり俺の方を見ようとしない。

 俺は怒るというより、むしろ悲しくなってきた。

「乃絵美。俺、お前に何かしたのか? 俺、ひょっとして、自分でも気付かない内に、お前のこと傷つけたのか?」

「別に……」

 俺の気持ちに反して、乃絵美の返事は素っ気なかった。

「じゃあ、どうしてそんなにも俺をさけるんだ? 誰かに何か言われたのか?」

「!」

 ピクリと乃絵美の肩が動いたのを、俺は見逃さなかった。

「そうなのか!?」

「違うよ」

 乃絵美は言った。俺は構わず続ける。

「誰に言われたんだ? 何て言われた?」

「何でもない。気のせいだってば。別に私、お兄ちゃんのことさけてないし、逃げてもないよ」

「いい加減にしろ、乃絵美!」

 俺は思わず怒鳴り付けた。

 ところが、いつもの乃絵美なら、ここで怯えて黙るはずだったが、今日の乃絵美は違った。

 キッと俺を見据えると、大きな声で怒鳴り返して来たのだ。

「いい加減にするのはお兄ちゃんだよ!」

 乃絵美の目から涙が零れる。俺は唖然となった。

「いい加減にして。いい加減にしてよ。私、お兄ちゃんのことさけてなんかない。さけられるわけがない。だって、お兄ちゃんだよ。ずっと一緒にいるんだよ。そんな気まずいこと、できるはず、ないじゃない……」

 俺は、それでも静かに言い返した。

「さけてるぞ、お前、俺のこと……」

 そして俺は、そっと乃絵美の両肩に手を置いて、真っ直ぐ乃絵美の瞳を見つめた。

「自分の心に嘘はつくなよ、乃絵美」

「えっ?」

「お前、お兄ちゃんのこと、嫌いか?」

 たぶん、今までで一番優しい顔をしていたと思う。

 自分でも怖いくらい、優しく……いや、単に無感情にかも知れない。とにかく、すごく自然に出た言葉だった。

 乃絵美はしばらく俺の目を見つめていたが、やがて、小さく首を振った。

「嫌いじゃ、ないよ」

「じゃあ、好きか?」

「うん……」

 乃絵美は素直に頷いた。それも、恐ろしいほど自然な反応だった。心にわずかの嘘もついていない、純粋な気持ち。

 それで十分だった。どうしてかはわからないが、乃絵美は俺をさけている。でも、乃絵美はまだ俺を好きでいる。

 だから、それで十分だったのに……俺は思わず余計な一言を言ってしまった。

「それは、likeでか? それとも、loveでか?」

 この一言が、俺と乃絵美の間に、決定的な壁を作った。

 やっぱり後悔は、その文字が表すとおり、先には出来ないと後で思った。

 乃絵美は俺の言葉を受けて、しばらく驚いたように俺の顔を見つめていたが、やがてふと俺から視線を逸らして、公園内の一点に目を遣った。

 そこには何もなかったが、乃絵美の目は確かに公園の中の何かを映していた。

 それが証拠に、乃絵美は突然大粒の涙をボロボロと零して、そして勢い良く立ち上がったかと思うと──

 パンッ!

 ……いきなり、俺の頬を平手で殴った。

「えっ?」

 立ちすくむ俺に、乃絵美は感情のままに怒鳴りつけた。

「くだんないこと聞かないで!」

 小さな肩が震えている。

 怒りにか、悲しみにか……。

 もう俺にはわからなかった。

「私たちは兄妹だよ! loveなわけないじゃない。気持ち悪いこと言わないで!」

 そして乃絵美は、泣きながら、走り出した。

「あっ……」

 俺は慌てて手を伸ばしたが、あと1メートル。

 俺の手を振り切って、乃絵美は公園を出ていった。

「乃絵美……」

 俺はどっかりとベンチに腰を降ろして、頬を押さえた。

 じんじんと痛む。

 頬と、心と……。

「気持ち悪い、か……」

 乃絵美の言葉が重く心にのしかかる。

 同時に俺は気が付いた。

 俺が乃絵美に……実の妹に、少なからず恋愛感情を抱いていたことを。

「乃絵美、きっと気付いてたんだな……。それで、それを嫌がって、俺をさけてたんだな……」

 可愛い妹だ。

 可愛すぎて、しかも乃絵美が紛らわしいことばかりするから、完全に自分を見失っていた。

 いや、乃絵美のせいにしてはいけない。

 俺がいけないんだ。

 乃絵美だって年頃の女の子だ。実の兄に好きになられたら、それはきっと気持ち悪いだろう……。

「気持ち悪い、か……」

 嫌な言葉だ。

 男女の純粋な愛さえも、兄妹の間では「気持ち悪いもの」に変わってしまう。

「兄妹……」

 近いようで果てしなく遠い。

 届きそうで届かない。

 そう。例えばさっき、俺が手を伸ばした時の距離。

 道を歩いていたときの、俺と乃絵美の距離。

 1メートル。

 それが、俺が乃絵美に近付いても良い、最小の距離。

「乃絵美……」

 青い空がふいにぼやけた。

 無性に悲しくて、涙が止め処なく流れた。



「あらあら、綺麗なカーネーション。さっそく飾らせてもらうわね」

 家に帰った俺を、いや、花を、母さんは嬉しそうに出迎えて、俺からひったくっていった。

 数分後、花は店の一角に飾られて、店内を彩った。

 俺は花の前に立ち、ぼんやりとその赤色を見つめていた。

 そして、小さく呟く。

「枯れるなよ……」

 俺と乃絵美の二人で買った赤い花。まだ、綺麗に咲いている。

 俺と乃絵美の思い出。

 二人の……絆。

「枯れないでくれよ、いつまでも……」

 絶対に。

 今のままの色で。

 この美しい赤色で。



─── 完 ───  





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