── リアルタイム乃絵美小説 ──

第6作 : 勇気 〜それは最後の力〜






「目を覚ましなさい、乃絵美……」

 菜織の声。冷たく澄んだ瞳がわずかに揺れる。それは、深い優しさのため。そして、それと同じくらい強い嫉妬と嫌悪感。

「私たちは兄妹だよ! 気持ち悪いこと言わないで!」

 乃絵美の叫び。涙と共に吐き捨てた言葉。それは、心の葛藤のため。常識の非常識の狭間で、想いが膝を抱えてうずくまる。

 正樹と乃絵美と菜織の心がぶつかり合い、そして擦れ違った晩春、5月。それから早ふた月の時が流れ、彼らの住む桜美町は今、梅雨の終わりの強い風の中にあった。



「話って何? 菜織ちゃん」

 曇天の空の下、学校の裏庭で、乃絵美と菜織が向かい合って立っていた。

 生暖かい風が吹いている。朝降っていた雨は昼には止んだが、こもった湿気が二人の肌をじっとりと汗ばませていた。

 俯いたまま、自分と目を合わせようとしない乃絵美の髪の毛を見つめながら、菜織がひどく無感情な声で言った。

「私の言ったこと、わかってくれたみたいね」

「…………」

 乃絵美はそれに何も答えなかった。

 あれからふた月、乃絵美と正樹は何事もなく暮らしていた。あの母の日以降、少しの間二人の仲はぎくしゃくしたが、今では乃絵美は正樹の妹として、正樹は乃絵美の兄として、それなりに仲良くしている。

 もちろん、そんな二人の間に恋愛感情など存在しない。ごく普通の兄妹のように。

 菜織の言っているのはそのことだ。

 乃絵美はしばらく俯いたまま何も言わなかったが、やがて決意したように顔を上げて、菜織の目を見据えた。

「話って何? 菜織ちゃん」

 いつものような弱々しい瞳ではなく、強く輝いた瞳。

 初めて見るそんな乃絵美の顔に、菜織は少し困惑した。

(乃絵美、まさか……)

 あの日から、乃絵美は菜織と一切会おうとしなかった。それは、後ろめたいからとか、憎んでいるからではなく、純粋に菜織に怯えていたから。まるでライオンに睨まれたウサギのように、ビクビクと震えながら乃絵美は菜織をさけ続けていた。

 その乃絵美が今日、菜織の呼び出しに応じてきただけでなく、どこか吹っ切れたような、或いは何かを決意したような強い、挑戦的な瞳で菜織の顔を見つめている。

(乃絵美まさか、まだ正樹のこと……)

 菜織はそう思ってわずかに眉をひそめたが、すぐにふっと緊張を弛めた。

(仕方のないコ。でも、これで諦めさせてあげる……)

 菜織は一語一語区切るようにして、はっきりと乃絵美にこう告げた。

「私今日、アイツに告白しようと思うの」

「えっ!?」

 さすがの乃絵美も驚いたように、呆然となって菜織を見つめた。

 菜織はわずかに余裕の表情を浮かべて続けた。

「最近、妙にアイツと気が合って。気が付いたら前よりずっとずっと好きになってたの」

 初めは、乃絵美のためだった。乃絵美が本気で実の兄に恋していることを知って、それを止めようと思っただけだった。正樹はもちろん好きだったが、決して恋人同士になりたいなどとは思っていなかった。

 しかし、そんな心が次第に恋へと変わり、いつの間にか菜織は、ただ純粋に正樹を愛するようになっていた。

 こうなってしまった今、菜織にとって乃絵美の存在は邪魔者以外の何者でもなかった。もちろん、乃絵美が兄を好いていなければ何も問題ではないのだが。

「乃絵美はほら、アイツの『妹』だから、言っておいた方がいいと思って」

 それは、嘘だ。菜織は自分でもそう思った。

 乃絵美がまだ兄を好きでいたことには驚かされたが、いずれにせよ自分は、ここで乃絵美にとどめを刺す気でいた。

(嫌な女。私って……)

 けれど、恋は戦いだ。

 菜織に挑戦状を叩き付けられて、乃絵美は、

「そう、なんだ……」

 と、寂しそうに目を伏せた。そしてすぐに顔を上げると、

「わかったよ、菜織ちゃん。頑張ってね」

 そう言って乃絵美は、にっこりと微笑んだ。

「…………」

 予想外の乃絵美の笑顔。純粋に応援してくれているようにも見えるし、明らかに皮肉にも見える。菜織は乃絵美のその笑顔の真意を計り知ることができなかった。

 だから、深く考えずに言葉の意をそのまま受け止めて、最後は笑って返した。

「わかったわ、乃絵美。ありがとう」

 分厚い雲の隙間に、わずかに青空が覗かせていた。

 今日は7月7日。夜には晴れるかも知れない。

「じゃあね、乃絵美」

「うん。さようなら、菜織ちゃん」

 そして、二人は別れた。



 6時間の授業の間にすっかり乾いた傘をぶら下げて、乃絵美は一人で商店街を歩いていた。学校帰りのちょっとした寄り道。先程菜織と別れてから、まだそれほど経っていない。

 ふと空を見上げると、先程より随分明るい空が乃絵美を見下ろしていた。

 七夕。

 高校生にもなってそんなことを言う者は少ないが、乃絵美はこういう神秘的な言い伝えや昔話が大好きだった。

(今夜は晴れるといいなぁ)

 満天の星空に願いを込める。すると織姫と彦星が自分の願いを叶えてくれるのだ。

(そうだ。せっかくだから、笹と短冊も買っていこう)

 思い立ったが吉日。乃絵美はすぐに子供用の小さな笹と、短冊の束を買った。

 他の買い物も済ませて、幾つかのビニール袋を持ったまま、買ってきた笹を見ながらにこにこと微笑む乃絵美。そかし、そんな子供のような笑顔の縁に、わずかに不安の翳りがあった。

(……菜織ちゃん、大丈夫かな……)

 気になっていないと言えば嘘になる。

 菜織に呼び出された理由。正直な話、兄のこととは関係ないと思っていた。何故なら、自分はあれから一切兄に気のある素振りをしてないからだ。

 けれど、それはあくまで、「してない」だけである。あれから自分の兄に対する想いは、何も変わってないばかりか、むしろ強くなっていた。

 菜織に諭されてから、何度も兄のことは諦めようとした。ふた月の間悩み続けて、苦しくて眠れない夜も幾度となくあった。けれど、やはりダメだった。毎日顔を合わせる度に強くなっていく想い。そしてある日、乃絵美はふと気が付いた。

 ふた月前、兄が自分に言った言葉。

『それは、likeでか? それとも、loveでか?』

 乃絵美はずっと気になっていた。何故あの時、兄が自分にこんなことを聞いたのか。

 そして、気が付いた。

 兄も自分が好きなのだ、と。

 思い上がりかも知れない。けれど、これ以上悩むのは嫌だったし、それに兄に好きになってもらえるなら、そんな嬉しいことはない。だから、たとえ思い上がりでも、出来る限り自分の良い方へ解釈したかった。

 もしも兄も自分が好きなら……。

 それなら、何も悩むことはない。常識に捕らわれることなどない。兄となら、常識だって破ってみせる。菜織に遠慮することもない。

 かつてない強い心。

 身体が弱くて、内気で、少しだけ臆病な乃絵美が初めて持った力。

 勇気。

(菜織ちゃん、大丈夫かな……)

 その言葉をもう一度。

 それは文字通りの意味ではない。乃絵美が望んでいること。それは、兄が菜織を拒否してくれること。

 それもまた、乃絵美が初めて持った心。

「大丈夫……大丈夫だよね? お兄ちゃん」

 呟きながら、乃絵美は足を止めて空を見上げた。

 いつの間にか空はすっかり晴れ渡り、陽光が乃絵美の足下に影を落としていた。

(大丈夫。お兄ちゃんが私のこと好きだったら、必ず菜織ちゃんのことは断ってくれるはず。お兄ちゃんが、私を好きなら……)

 風は未だに吹き続けている。ふわりと揺れたリボンの端を、乃絵美は左手でぎゅっとつかんだ。

 いつか、兄が自分にくれたリボン。

「帰ろっ。早く帰って、短冊に願い事書かなくちゃ」

 自分に言い聞かせるように大きな声でそう言って、乃絵美は軽快に走り出した。

 彼女の前には今、頭上に広がる空のように明るい未来が広がっていた。

 しかしその時、乃絵美は一つだけもっとも重要なことを失念していた。

 そして、一番大事な時に、彼女はそれに気が付くことができなかった……。



 夜空に天の川が流れている。

 月と星の光に溢れる夜の公園。そこに今、二人の男女が向かい合っていた。

 一人が、伊藤正樹。そしてもう一人が、氷川菜織。

「七夕の夜にこんなところで、えらくロマンチックじゃねぇか、菜織」

 皮肉っぽい正樹の言葉に、菜織は苦笑した。

「たまにはいいでしょ」

「で、何の用だ?」

 急かしているわけではなかったが、こんな夜にまさか空を見に来ただけとは思えずに、正樹は菜織にそう尋ねた。

 菜織はほのかに頬を赤らめて、正樹を見上げた。

「ロマンチックなことよ……」

「ぷっ……」

 思わず吹き出す正樹。

「し、失礼ね!」

「い、いや、だってだぞ。お前が『ロマンチックなことよ……』っても……あ、あはははははははははははははははっ!」

「んもう! いいから聞きなさいって!」

「ははは……はいはい。聞きます聞きます。で、何だ?」

「うん。あのね……」

 一旦言葉を止めて、大きく息を吸い込む。そして菜織は、ゆっくりと想いを告げた。

「私、アンタのことが好きみたい。良かったら、付き合って」

「……はっ?」

 思わぬ菜織の言葉に、正樹は目を丸くした。

 菜織は真剣な瞳で正樹の目を見つめている。

 正樹は菜織の言葉が本気か冗談か計り知れずに、戸惑いながら聞き返した。

「えっとだな。それは笑えばいいのか? それとも、本気で答える必要ありか?」

「笑いたければ笑えばいいけど、私は本気よ」

「本気で俺のことを『好きだ』って言ってるんだな?」

「うん。似合わないだろうけど、本気で言ってるわよ」

「…………」

 正樹は驚きながらも、内心どこかで、「ついに来たか」という想いがあった。

 数週間前から、いや、正確にはふた月前からだが、菜織の態度がどこかおかしかった。それに気が付いたのはつい最近だったが、それと同時に、自分もまた無意識の内に菜織を気にしていたことに気が付いた。

 菜織が好きだから、というのは、菜織には悪いが違う。ひどいことだというのはわかっている。けれど、これだけは変えられない事実。

 自分は、乃絵美を忘れるために菜織に気のある振りをしていた。

 初めは間違いなくそうだった。そしてそれは今も変わっていない。自分が本当に好きなのは菜織ではない。妹の乃絵美に他ならない。

(乃絵美……)

 菜織の瞳を見つめたまま、正樹は妹のことを考えていた。

 自分はどうするべきだろう。

 菜織は嫌いではない。むしろ好きだと思う。

 菜織とならばそれなりに上手くやっていく自信もあるし、同時にこんなチャンスはもうないかもしれない。

 今ここで菜織の申し出を受け入れることは、自分にとってマイナスな要素が一つもない。

 けれど……。

(乃絵美……)

 もう一度妹の顔を思い浮かべたとき、ふと正樹は今自分のいる場所に気が付いた。

(そういえば、この公園は……)

 乃絵美と最後に心を打ち明け合った場所。

 そうだ。忘れていた。いや、忘れようとしていた。

 乃絵美の、涙……。

『私たちは兄妹だよ! loveなわけないじゃない。気持ち悪いこと言わないで!』

(気持ち悪いこと……)

 そうだった。乃絵美は自分のことを何とも思っていない。兄を兄としてしか見ていない。

 当たり前だ。誰が実の兄に恋するものか。そんな人間は、自分以外にいるはずがない。

(そうだよな。これ以上、一方的に妹を愛するなんて、自分が変なだけじゃなくて、乃絵美にも迷惑がかかるよな……)

 ならばもう、迷うことはない……。

「わかった、菜織。俺もお前が好きだから、付き合ってもいいぞ。いや、付き合いたい」

「ホント!?」

 嬉しそうに菜織。

「ああ……」

「あ、ありがとう、正樹……」

 ふわっと菜織の身体が正樹の胸に埋まって、それから二人は、しっかりと抱きしめ合った。

 土の上に伸びる月影が、一つに重なり合った。



 キュッ、キュッと音を立てながら、マジックが短冊の上に文字を刻む。

 笹の葉にはすでに笹が見えないくらいたくさんの短冊が付けられていたが、乃絵美はそれでも願い事を書き続けていた。

 深い意味はない。単に短冊が束でしか売っていなかったので、余らせても仕方ないと思って書いているのだ。

「お兄ちゃんと……」

 文字を口で言いながら、一枚一枚想いを込めて書く。そして書いては笹にくくり付けて、頬を赤らめる。

 夕ご飯を食べ終えてから、ずっと乃絵美はそれを繰り返していた。

 やがて、そろそろ短冊がなくなってきた頃、ふと階段を上ってくる音がして、乃絵美は手を止めた。

(お兄ちゃん、帰ってきたのかな?)

 夕食後、兄宛に電話がかかってきて、それっきり兄はずっと外出していた。たぶん、菜織だろう。

 乃絵美は立ち上がり、そっとドアを開けて部屋を出た。案の定足音は正樹のものだった。

「お帰り、お兄ちゃん。どこに行ってたの?」

「あ、ああ……。ちょっと、菜織に呼び出されて……」

「菜織ちゃん……?」

 予想通りだったが、胸がドクンと鳴った。

(結果、どうなったんだろう……)

「菜織ちゃん、こんな時間にどうしたの?」

「ああ、それは……」

 そこまで言って、正樹は乃絵美から視線を逸らせた。そして、出来るだけ無感情に事の次第を告げた。

「菜織が俺と付き合いたいってさ。告白された」

「……そう」

 普通だったらもっと驚くはずだが、生憎乃絵美はすでにそのことを知っている。

 ものすごい重大発言をさらっと流されたが、その不自然さに気が付くほど、正樹には余裕がなかった。

「それでお兄ちゃん、どうしたの?」

 自分の希望や感想は一切交えずに、ただ結果のみを促す。

 兄はひどく辛そうに、一言だけこう言った。

「受けたよ」

「えっ……?」

 乃絵美が、息を呑む。

「あはは。ほら、乃絵美、前から菜織みたいなお姉ちゃんが欲しいって言ってただろ? ひょっとしたら、俺と菜織が将来結婚とかしたら、その願いが叶うぞ! 良かったな、あははははっ」

 明らかに動揺しながら、正樹はそれだけ言ってそそくさと自分の部屋に戻っていった。

 あまりにも不自然かつ、わざとらしい態度。しかし、今の乃絵美にそれに気が付けというのが無理だった。

「そ、そんな……」

 一人残された廊下で、絶望的な呟きを洩らす。

『お兄ちゃんが私のこと好きだったら、必ず菜織ちゃんのことは断ってくれるはず……』

(そんな……)

 まるで時が止まったかのように、乃絵美の心は凍り付いていた。停止した思考。自分の望んだ非現実な現実はどこにも存在せず、ただ、現実的な現実だけが自分の前に大きく立ちはだかった。

「お兄ちゃん……」

 呆然としたまま部屋に戻る。

 力なく、崩れ落ちるようにして床の上に座り込むと、ふと書きかけの短冊が目に入った。

『お兄ちゃんと仲良くなれますように』

「うっ……」

 乃絵美は一度鼻をすすって、そっとそれを手に取った。そして、クシャッと一気に握りしめる。

「うう……っ……」

 涙でぼやける視界に、短冊のいっぱい付いた笹があった。葉が見えないほどたくさん付いた色とりどりの短冊。赤、青、黄、緑……。

『お兄ちゃんが私を好きでありますように』

『お兄ちゃんといつまでも一緒にいれますように』

『お兄ちゃんと愛し合えますように』

「……っ……何が……」

 乃絵美は震える手でそれを取り、そして、

「何が『お兄ちゃんと仲良く』よ!!」

 怒鳴るようにそう叫んで、思い切り壁に叩き付けた。

 笹がさらさらと音を立てて床に落ちた。

「何が……何が『仲良く』よ! 何が『好き』よ!」

 泣き叫びながら、まだ何も書いていない短冊を取り、辺りに撒き散らす。

「う……うああぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」

 流れる涙を拭いもせずに、乃絵美は何度も何度も笹を床に叩き付けた。その度に想いが一枚一枚破れては散っていく。

「うう……っ……んっ……うっ!」

 あまりに泣きすぎたためだろう。その内乃絵美は喉を痛めて、激しく咳き込んだ。

「ごほっ、ごほっ……ううっ……うぅぅ……」

 虚しくて悔しくて情けなくて、すべてが憎らしかった。

「こんなもの! こんなもの!」

 すでにこれでもかというくらいボロボロになった笹を、親の仇のように何度も床に打ち付ける。

「こんなものぉぉっ!」

 その内、笹や短冊で乃絵美は指を切り、そこから血が流れても、乃絵美は行為をやめなかった。

 もう、何もかもがどうでもよかった。

 結局自分は、兄と菜織に遊ばれていただけなのだ。

「うあぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 ベッドから枕を引っつかむようにして取って、乃絵美はそれに顔を埋めた。もちろん、声を殺すためである。

 万が一にもこんなところを兄に見られたくない。余計に自分が虚しくなるだけだ。

「どうして!? どうしてなの? 乃絵美、こんなにもお兄ちゃんのこと好きなのに! 大好きなのにっ! どうしてお兄ちゃん、乃絵美のこと好きになってくれないの!? 何で愛してくれないのっ!?」

 自分が間違ったことを言っていることはわかっている。自分勝手なことを言っているのもわかっている。

 けれど……けれど、これではいくら何でも悲しすぎる。

「ううぅ……」

 やがて、無限に流れ続けるかと思われた涙も涸れて、乃絵美はふらりと立ち上がった。

 無茶苦茶に散らかった部屋。気が落ち着いてくると、先程切った指が痛んだ。

 乃絵美は無表情のまま窓の前に立ち、窓越しに空を見上げた。

 無数の星。七夕の夜がこんなにも晴れるのは、一体何年ぶりだろう。

「お兄ちゃん……」

 白く輝く星をじっと見つめたまま、乃絵美は呟いた。

「乃絵美、自分がバカだってわかってる。間違ってるのもわかってる。でも、乃絵美、やっぱりお兄ちゃんが好き。だから、諦めない」

 すべての想いが散った後、最後に残ったのは勇気の破片。恋の力に作り出された、乃絵美が持つ初めての強い心。

「諦めない。たとえ菜織ちゃんに嫌われたって、絶対にお兄ちゃんを振り向かせるから……」

 天に瞬くすべての星に、心からの願いを込めて。

「勇気をください。最後まで諦めない勇気を……。お兄ちゃんは、私が振り向かせて見せるから」

 希望を胸に。

 年に一度の七夕の夜。空を流れる光の大河。今、この惑星のすべての願いをその身に浴びて、白く輝き満ち渡る。

 そして、また一つの小さな願いが届く。

 どこまでもどこまでも広い空。

 そんな空をいつまでも見つめ続けながら、乃絵美は痛む右手をぐっと握りしめた。



 小さな願いが一つずつ、時間と共に増えていく。

 すべての願いの集まる日。久しぶりの快晴に恵まれた七夕の夜は、そうして静かに更けていった。



─── 完 ───  





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