「母さん!」
俺が朝っぱらからキラキラした目──少なくとも本人はそのつもり──で母親の顔をじっと見つめると、母は何事かと身構えて、油断なく俺を見据えた。
「なんだい? 正樹」
互いの額から汗が零れ落ちる。睨み合い、不敵に微笑む二人。
空気が張り詰めた。
目を逸らした方が殺られる!
「母さん……」
もう一度俺はそう言って、ゆっくりと右手を自分の背中に回した。
(何か来る! 金属バットか!?)
母はそう思ったかも知れない。俺をじっと見つめたまま、母は一歩後ずさった。
さしもの母親も、凶器には勝てないと見たらしい。
だが、それはつまり、相手が先に仕掛けてくる可能性を暗示している。俺はそうはさせまいと、素早く背後のそれを母親に叩き付けた。
「母さん! いつもありがとう! これを受け取ってくれ!」
大声でそう言いながら、俺が差し出したものは、綺麗にラッピングされた花束だった。いい仕事をしている。
「こ、これは!?」
母親の背景がベタ一色になり、バリバリバリという音と共に雷が落ちた気がした。もちろん、実際は窓の外には青空が広がっているので、そんなことはない。
だが、二人の間には、間違いなくただならぬ空気が漂っていた。
「息子……」
母親が、俺の花束攻撃を測りかねたらしく、やや困惑気味な声音で言った。
「あたしはこれをどう取るべきか……。正樹。アンタ一体、何を企んでいる!?」
よしっ!
俺は自分が優勢に立ったことを確信した。
気の早い勝利に浸りながら、俺は力強く言い放った。
「老いたな、おかん! 今日は9月15日。すなわち敬老の日だ! 俺の気持ちを受け取ってくれ!」
「敬老の日!?」
母親の眉が釣り上がり、まるで猛禽のごとく鋭い瞳で俺を睨み付けた。
「あたしと敬老の日に、一体何の関係がある!」
「おおありだ!」
ビクリと母親がひるんだ。勝った!
「敬老、すなわち老を敬う日。さあ、母さん! 日頃のお世話に感謝を込めて、この花束を贈りたい。受け取ってくれ!」
俺はビッと花束を母に突き出した。
母はしばらく悔しそうな顔で俺を睨み付けていたが、やがて一瞬ニヤリと不敵な笑みを浮かべると、途端に力なく肩を落として俺の花束を抱え込むようにして受け取った。そして、
「そうだねぇ。あたしももう年だ……」
そんなことを言いながら、重々しくため息を吐いた。
「なあ、正樹や。今日はお前に頼みたいことがある。老人のささやかな願い事を聞いてはくれないか?」
俺はその時、勝利の余韻に浸っていた。だから敵を甘く見ていたらしい。
「ふっ、よかろう。話してみよ」
俺がそう言った途端、母親の目が輝いた。
「じゃあ頼もう。今日はお前に大掃除をしてほしい。1階2階の全フロア、店内のフロア、同じく壁、手の届く範囲で天井。タンスや家具はすべてどかし、部屋の隅々までモップがけ、店内のピアノも然り。窓、及び車などのガラスは専用のガラス磨きを使って洗うこと。車にはワックスもかける。皿洗いは当然だが、ここでいう皿とは、店内の皿、及びグラスをすべて含む。風呂も洗え。換気扇も磨け。夏に使った扇風機は羽根を一枚一枚水で洗って、冷房機器はフィルタも掃除すること。掃除をする前に布団類はすべて干す。洗濯は今現在洗濯かごに入っているものだけでいいが、洗い終えたらすべて干し、乾き次第中に入れて畳む。庭の草むしりは最優先事項。夏の間にだいぶ伸びたからね。草むしりが終わったら庭、及び家の周りを掃除。そして最後に掃除機や雑巾、モップ、そういった掃除に使うものを洗い、ゴミ箱も磨くこと。以上!」
「無理だ!」
俺は叫んだ。だが、この時すでに俺のサヨナラ負けは確定していた。
「げほげほっ。はぁ、あたしも老いたねぇ。後は若いモンに任せて、あたしゃ寝るとするよ。げほげほっ」
母親はもはや何も聞こえないように、わざとらしく背中を丸めて片手を背の上に置き、その割には妙にスピーディーに逃げるように自分の部屋に去っていった。
「ヤ、ヤられた……」
俺はがくりとその場に膝を折った。背景が暗くなり、バッドエンディングな曲が辺りに流れた。
母親の「ささやかな願い」は、全然「ささやか」ではなかった。
その時、
「どうしたの? お兄ちゃん」
心配そうな妹の声が頭の上から聞こえて、俺はハッと顔を上げた。
「お、鬼だ……」
「私は人間だよ、お兄ちゃん」
「いや、そうじゃなくて……」
俺は気を取り直して、再び号泣した。
「聞いてくれ、乃絵美。俺たちの母親が、まだ若くて元気なくせに、今日が敬老の日であることを楯にして俺たち二人に大掃除を命じてきたんだ」
もっとも、その原因は俺にあるけど。
「大掃除?」
「そうだ。いつも年末にしているようなレベルじゃない。俺たちの母親はきっと俺たちを殺す気だ」
「そ、そんな、大袈裟だよ」
乃絵美は困ったように笑った。
「一体どれくらいなの?」
尋ねられ、俺はさっき母親から仰せつかった内容を事細かに説明した。すると乃絵美は見る見る青ざめ、俺が言い終えるや否や、震える声で呟いた。
「そ、それを……二人でするの……?」
本当は俺一人……というのは黙っておいて、俺は無言で頷いた。
「そ、そんな……」
「泣くな、乃絵美」
俺は立ち上がって、ポンと乃絵美の肩に手を置いた。
「泣いたってしょうがない。俺たちに残された道は戦うしかないんだ。戦わなければ殺られるだけだ。ならば、共に戦って、ここを俺たちの墓場にしよう!」
「う、うん」
乃絵美はちょっと俺のノリにはついてこれなかったらしいが、それでも決心したように力強く頷いた。
「よしっ。じゃあまず鬼が最優先事項とのたまった草むしりは俺がする。恐らく今回の敵の中では一、二を争う強敵だ。ここは俺が受け持つ。乃絵美。お前はまず全フロアの掃除を頼む。雑魚はお前が一掃してくれ!」
「ラ、ラジャー」
最後は少しだけ俺のノリで、乃絵美が深く頷いた。
「では、生きていたらまた逢おう」
「はい!」
よしっ。乃絵美もだいぶ俺色に染まってきた。
軍手をはめて外に出ると、まだ夏の匂いを残した日の光が肌を灼いた。今日は格別に暑い。平年気温を5度から6度ほど上回っているらしい。
「くそっ! よりによってこんな日に!」
庭一面に茫々と生えた草。俺はヘタするとこれだけで今日一日が終わるのではないかと思った。
しかし、そうも言っていられないので、中腰になって早速草むしりを開始する。
ジリジリと日の照りつける中、草をむしっては背中のかごに放り投げ、またむしっては放る。
汗が止め処なく流れ落ち、すでにシャツは肌にぴったりと張り付いていた。
「ええい、ひるむな。敵はまだたくさんいるんだ」
とにかく朝のままのノリで自分を励ます。半ば冗談だったが、今日はずっとこのノリで通そう。
黙々と、ただひたすらに草をむしった。
やがて、どれくらい経ったか、不意に背後から母親の声がした。
「ちょっと、正樹ー」
「ん? 何だ? 手伝ってくれんのか?」
わずかな期待を込めて俺が言うと、母親はまるでとどめと言わんばかりに、
「あたし、これから駅までショッピングに言ってくるから、掃除頑張ってね」
そう言い残して、家を出ていった。
な、何がショッピングだ!
「アンタ、老人じゃなかったのか!?」
そう吐き捨てるも、鬼はすでにそこにはおらず、声は秋の青空に虚しく溶けた。
「はぁ……」
溜め息を吐いて草むしりを再開する。我ながら、よくもまあこんなことを真面目にやってるものだと感心するが、約束は約束。まして、先に攻撃を仕掛けたのがこちらである以上、引くわけにはいかない。
結局、草むしりと家の周りの掃除だけで2時間半かけて、俺は家の中に戻った。
「あっ、お兄ちゃん、お疲れさま」
乃絵美は店内の掃除をしていた。聞くと、2階と1階の全フロア、及び壁などの掃除は終わったらしい。
乃絵美は店内の重たいテーブルや鉢植えをどかして掃除をしていた。俺ほどではないが、だいぶ汗もかいている。
あからさまに疲れている様子だったが、それでも乃絵美はまだ元気に掃除をしていた。
「乃絵美、大丈夫か? 何だったら、もっと楽な仕事をすればいいんだぞ」
俺がそう言うと、乃絵美は顔を上げるのも億劫そうにしながらも、にっこりと微笑んで言った。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。ありがとう。でも、後ここだけだから」
「手伝おうか?」
「ううん。お兄ちゃんは車の掃除と窓拭きお願い。私はここが済んだら、店の皿洗いをするよ」
「わかった」
俺はバケツとモップを持って外に出た。
車の掃除と窓拭きを終えると、乃絵美は店内で昼ご飯を作って待っていた。
「おっ、オムライスか?」
「うん」
俺は乃絵美の向かいの席に着くと、スプーンを取った。
ふと見上げた乃絵美の顔が、ひどく憔悴していた。俺は何だかものすごい罪悪感を感じて、乃絵美に頭を下げた。
「乃絵美、ゴメンな」
「いいよ、別に」
乃絵美は何も聞き返しては来ず、ただ笑顔でそれだけ言って、
「さっ、食べよっ」
スプーンを取って自分で作ったオムライスを食べ始めた。
俺はオムライスを口に運びながら、小さな声で乃絵美に言った。
「なあ乃絵美。午後はもう手伝わなくていいぞ。後は俺一人で何とかなるから」
乃絵美に気を遣ったつもりだった。いや、むしろ元々自分に責任がある以上、そうするのが当たり前の気さえした。だが、俺がそう言うや否や、乃絵美は珍しく不快そうな顔をして俺を見上げた。
「後はって、これからが大変なんじゃない。タンスどかしたり、机どかしたり。お兄ちゃん一人じゃ無理だよ」
「でもな、乃絵美……」
「お兄ちゃん。私、そんなに役に立たない……?」
突然しょんぼりして乃絵美がそう言った。
俺は慌てて言い繕う。
「それは違う!」
「じゃあ、一緒に頑張ろっ」
にっこりと乃絵美が笑った。俺はそんな乃絵美を見つめたまま、それ以上何も言えなかった。
俺が言葉に貧して困っていると、不意に乃絵美が明るく言った。
「二人でしよっ」
「二人で……?」
俺が呟くと、乃絵美は嬉しそうに繰り返した。
「そっ、二人で。私と、お兄ちゃんで」
「……そう、だな……」
乃絵美の言葉に気を取り直し、ごちそうさまをして立ち上がる。
「じゃあ、後半戦に行きますか」
「ラジャー」
俺が乃絵美の頭をポンポンと叩くと、乃絵美は嬉しそうに微笑みを零した。
午前中、手際よくすればフロアの掃除だけで2時間半もかかるはずがないと思っていたら、乃絵美はすでに布団も干しており、洗濯も終えていた。なるほど。フロア掃除が長引いたわけだ。
午後……といっても、もう2時半を回っているが、俺は風呂掃除と、換気扇や扇風機などの小物を掃除し、乃絵美は洗濯物の取り込みや布団を入れてから、洗った皿を食器棚に戻した。
そして3時半になった頃、俺と乃絵美はいよいよ家具の陰に取りかかった。
「じゃあお兄ちゃん、そっち持ち上げてね」
「おう。乃絵美も気を付けろよ」
まずはピアノ。並の重さではないから、ほとんど引きずるような形で動かし、後ろをモップで一拭きする。それからピアノ自体も綺麗に磨いて、元に戻す。
洋服ダンス、各階の本棚。それくらいを片付けたとき、すでに時刻は6時を回っていた。二人とももうヘトヘトだ。
「はぁ……はぁ……」
乃絵美は大きく肩で息をして、フラフラと自分の部屋の勉強机を持ち上げる。
「おい、大丈夫か? 乃絵美。無理だけは絶対にするなよ」
乃絵美はコクコクと頷いただけで、返事はしなかった。もう声を出すのも大変なようだ。
男の俺がこれだけ疲れているのだから、元々身体の弱い乃絵美が大丈夫なはずがない。けれど、乃絵美が言っても聞かないのはよくわかっていたので、俺はなるべく乃絵美に負担がかからないようにして、乃絵美の部屋の机の後ろを掃除した。
「よしっ、終わったぞ乃絵美」
「う、うん……。後は、お父さんの部屋……だけだね?」
「そうだな。行くか」
「うん」
無限に続くかと思われた掃除も、今ようやくその終止符が打たれようとしていた。
頑張れば何とかなるもんなんだなぁ。俺は思った。
二人で父の部屋に行くと、まずタンスの引き出しをすべて抜き出した。そして、空になったタンスの両端に二人が屈む。
「乃絵美。そっち持ったか?」
「うん。OKだよ」
空になったタンスは見かけほど重くはない。それこそ俺一人でも十分な重さだ。
それに、朝から今まで何事もなく済んでいた。
だから……油断していた。
「じゃあ持ち上げるぞ。せぇの!」
「っ!」
二人で一気に両端を持ち上げる。
最後だという安心感があった。早く終わらせたいという思いがあった。だから、力の加減を間違えたのだ。
いや、それもすべて言い訳に過ぎない。
「えっ!?」
驚いたような乃絵美の声。
気が付いた時は遅かった。俺は持ち上げるタイミングを、そしてその力加減を誤っていた。
俺の持つ方が高くなってしまったタンスの重みは、乃絵美の支えきれる重さではなかった。
「あうぅ……」
思わず手を離してしまったタンスの角の行き着く先に、乃絵美のつま先があった。
「乃絵美、危ねぇっ!」
咄嗟に俺が飛び出したために、前向きに傾いたタンス。
「あっ……」
俺の声に足を引っ込め、バランスを崩した乃絵美。
ゴンっという音とともに、タンスが、乃絵美を下敷きにした。
「乃絵美!」
一瞬、時が止まった。
こちらから見ると不自然な角度で止まっているタンス。悲劇がそこにあった。
「乃絵美!」
もう一度叫んで俺は慌てて反対側に回った。
「い、痛た……」
タンスの下で乃絵美は俺を見上げて、おどけたように笑った。
「ちょ、ちょっと失敗しちゃった」
そう言いながらも、乃絵美の目には涙が浮かび、額から血が頬を伝って床を濡らした。
「の、乃絵美……」
よくよく見ると、右足も完全にタンスと床の間に挟まっている。
「ス、スマン乃絵美! 本当に悪かった!」
俺はとにかく急いでタンスをどけた。
乃絵美の靴下がうっすらと赤く滲んでいて、俺はあまりの自分のふがいなさに思わず涙を零した。
「お、お兄ちゃん……?」
乃絵美は俺の涙を見て、驚いたような困ったような顔をした。
俺は涙を拭わずに、乃絵美の身体を担ぎ上げると部屋を出た。
「も、もういいんだってば……」
乃絵美の部屋。
頭に包帯を巻き、ベッドの上で半身を起こしたまま、乃絵美が困ったようにそう言った。
「で、でもだなぁ」
手当をしてから、もう延々とこうして謝り続けている。
乃絵美は小さく息を吐き、柔らかな微笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん。私、本当に怒ってないよ。お兄ちゃん、すごく心配してくれたし、丁寧に手当してくれたし、私、とっても嬉しかったよ」
「乃絵美……」
実際、乃絵美の怪我自体は大したことはなかった。だから、かもしれない。
いや、許してくれるのは乃絵美の優しさだろう。それこそ乃絵美のことだから、たとえ骨折していても許してくれたような気がする。
だからこそ、余計に罪悪感を感じるのだ。
「……乃絵美……」
俺は後ろめたい気持ちでいっぱいだった。
全部俺のせいだ。タンスを持ち上げるときに力加減を間違えたとか、もはやそういう次元の問題ではなく、それ以前に、もともと俺が任された掃除に乃絵美を巻き込んだのがいけなかったのだ。
乃絵美は自分が俺に騙されたことを知らない。だから、笑顔が痛かった。
乃絵美は不安げに俺を見つめ続けている。そんな健気な妹を見たとき、
「乃絵美、違うんだ!」
俺は居たたまれなくなって、思わず乃絵美を抱き締めていた。
「えっ? お、お兄ちゃん?」
びっくりしたような乃絵美の声。
俺は乃絵美の細い身体を強く抱き締めて、絶対に乃絵美と目が合わないようにした。
卑怯だとは思ったが、乃絵美に嫌われるのは怖かった。
でも、言わないわけにはいかない。俺は覚悟を決めて、乃絵美にすべてを話した。
乃絵美は始終黙って俺の話を聞いていたが、俺がことの顛末を話し終え、最後に「ごめんな」と付け加えると、呆れたような息を洩らした。
「なんだ。お兄ちゃん、そんなことで悩んでたんだ……」
「えっ? そんなことって……?」
俺が聞き返すと、乃絵美は安堵の息を吐いて、朗らかに笑った。
「お兄ちゃんの花束の話も含めて、お母さんがお兄ちゃんに掃除を言いつけるまでの経緯は、全部お母さんから聞いてるよ。朝出てく時、掃除してた私にお母さんが言ってったの」
「じゃ、じゃあ……」
「私が掃除を手伝ってたのは、私の意思だよ、お兄ちゃん」
「乃絵美……」
俺が呟くと、乃絵美はそっと両腕を俺の背に回し、キュッと俺の身体を自分の方へ引き寄せた。そして俺の頬に自分の頬を滑らせながら、声と言うよりもむしろ息に近い感じの呟きを洩らした。
「私はお兄ちゃんと一緒に掃除をしたかったの。お兄ちゃんに喜んで欲しかったの。お兄ちゃんに、ありがとうって言って欲しかったの。ただ、それだけだよ……」
「…………」
俺は無言で乃絵美の髪を撫でていた。
自分の胸の中にいるこの妹が、愛おしくてたまらなかった。
「乃絵美は、いい子だな……」
まるで自分の身体に乃絵美の身体を溶け込ませるかように、強く乃絵美の身体を抱き締めた。
乃絵美はその小さな胸を、俺の身体に伝わってくるほど大きく高鳴らせながら、かすかに首を横に振った。
「そんなこと……ないよ……」
「どうして? 乃絵美はこんなにも兄想いのいい子なのに……」
俺の質問に、しかし乃絵美は答えなかった。
そしてしばらくの沈黙の後、答える代わりにもう一度こう繰り返した。
「乃絵美は、きっと悪い子だよ……」
「……そう……」
俺はそっと頭を離し、乃絵美と見つめ合った。
乃絵美の潤んだ瞳に、俺の顔が写っていた。
俺の顔と乃絵美の顔とは、げんこつ一つ分ほどしか間がなかった。互いの鼻息がくすぐったかった。
「お兄ちゃん……」
呟いた乃絵美の吐息が俺の顔にかかった。
ひどく、温かかった。
「乃絵美……」
思っていたよりも大きなその声とともに吐き出された息が、乃絵美の前髪を揺らした。
乃絵美が目を閉じたのを俺は見ていなかったから、俺が先だったのかも知れない。
気が付くと、俺と乃絵美は強く、強く抱きしめ合ったまま、唇を重ね合わせていた。
「ん……」
乃絵美の唇は小さくて、そして柔らかかった。
乃絵美の匂いがして、乃絵美の味がした。
花火大会の時、ミャーコちゃんが冗談で「乃絵美は美味しい」などと言っていたが、大好きな女の子の唇は、実際に美味しいと思った。
舌先でそっと乃絵美の唇を舐め取ると、乃絵美は切なげな息を洩らしてから、恥ずかしそうにそっと舌を絡めてきた。
「乃絵美……」
「お兄ちゃん……」
俺たちは、どちらがどちらの唇なのかわからなくなるくらい、ずっとキスをしたまま互いの身体を離さなかった。
周りの状況が一切俺の五感から消え失せた。
乃絵美の温もり、乃絵美の鼓動、乃絵美の吐息、乃絵美の匂い、そして乃絵美の声と舌の感触、ただそれだけが俺の心を満たしていた。
一体どれくらいそうしていたのだろう。少なくとも、翌日首や腰が筋肉痛になるくらい長い時間だったのは間違いない。
やがて俺は、唇を重ね合わせたまま、乃絵美の身体をベッドの上に横たわらせて、それからそっと唇を離した。
二人の唇から唾液がイヤらしく糸を引いて、俺と乃絵美は真っ赤になって慌てて唇を手で拭った。
「お兄ちゃん……」
「父さんか母さんが帰ってきたみたい」
「えっ?」
時計を見ると、もう7時半を回っていた。どうやら俺たちは、15分以上キスをしていたらしい。
「俺、父さんの部屋のタンスを片付けないと」
「あっ、うん……」
乃絵美はまだどこかぼうっとした表情で頷いた。
俺が部屋を出ようとしたとき、不意に乃絵美が俺を呼び止めた。
「あっ、お兄ちゃん」
「ん? なんだ?」
振り向きながら俺が尋ねる。
乃絵美は恥ずかしそうに布団を顔まで引き上げると、布団のためにくぐもる声でこう言った。
「乃絵美、やっぱり悪い子だよね……」
俺は苦笑した。
「ああ、悪い子だ。俺も、お前もな」
「……うん」
俺は妹の部屋を後にした。
夜。帰ってきた母親に、
「おい、老人。掃除、確かにやり遂げたぞ!」
そう言うや否や、母親の平手がかなり本気で俺の左頬に入った。
パンッ!
「うぐっ!」
「正樹! アンタ、乃絵美に怪我させといて偉そうな口きくんじゃないの!」
「くっ!」
どれだけ言い返してやろうかと思ったが、母親がマジなのがわかったから、俺は素直に頭を下げた。
「悪かった。俺のミスだ」
「そう、アンタのミスだ」
ぐっ!
俺は堪えた。
母親はそんな俺を見て、不意に表情を弛めた。
「まあいい。今日のところはよくやったと許してやる。ほれ、ケーキを買ってきてやった。乃絵美と二人で食べなさい」
「……あ、ああ。ありがとう」
俺は素直に礼を言って、母からケーキを受け取った。
母は母としての、そして俺は俺としての、絶対に誤ってはいけない立場を守り抜いた。どれだけ冗談が交ざっていても、それだけは誇れる二人だと思った。
「ほれ、乃絵美。ケーキだ」
俺がケーキを持っていくと、乃絵美は嬉しそうに表情を綻ばせた。
「わぁ。やったね、お兄ちゃん」
嬉しそうにそう言って、ケーキに飛びつく乃絵美。
口の周りにクリームを付けながら、子供のようにケーキを頬張る乃絵美を見ながら、俺は思った。
俺はこの可愛い妹の前で、どこまで兄の兄としての立場を守り通せるだろう。
そしてまた、一体どの辺りにその誤ってはいけない限界はあるのだろう。
俺は測りかねた。
「あれ? お兄ちゃん、食べないの?」
「あ、ああ」
俺が慌ててそう口走ると、乃絵美はそれをどう取ったのか、
「そう。じゃあ残すのもなんだから、乃絵美が食べてあげるね」
そう無邪気に笑いながら、俺のチョコレートケーキにかぶりついた。
「あっ! お、俺のケーキ!」
「はれ? ほにひひゃん。ほひはったの?」
ごくんと飲み込んで、もう一度。
「お兄ちゃん。欲しかったの?」
「いや、別にいい。俺はクリームだけで」
そう言って、俺は乃絵美の口の周りに付いているクリームをペロリと舐め取った。
「きゃっ!」
「ははは。うん、美味しい美味しい」
「お、お兄ちゃんのバカぁ!」
真っ赤になって照れながら怒る乃絵美を見ながら、俺は思った。
(まあ、いっか。どうでも)
難しいことは抜きにして、とりあえず今はこの笑顔を、今の二人を大事にしたい。それが今、一番純粋な俺の想いだった。
「お兄ちゃん?」
突然黙り込んだ俺を、訝しげに乃絵美が覗き込む。
「ん? 何でもないよ、乃絵美」
そう言って俺は、そっと乃絵美の髪を撫でてやった。
乃絵美は嬉しそうに微笑んでから、恥ずかしそうに目を閉じた。
(確かに悪い子だ……)
俺はそう思いながら、そっと乃絵美にキスをした。
乃絵美の唇は、やっぱり柔らかくて、そしてどこまでも優しい温かさに包まれていた。
─── 完 ───