「ねえ、お兄ちゃん……起きてよ……」
微睡みの中で乃絵美の声がする。もう何度も呼びかけたのか、少しだけ苛立っているような声。
でも、こうして可愛い妹に起こされるのが、何となく心地よい。
だから、目は覚めたけれど、ちょっとだけ寝たフリをしてみる。
「ねえ、お兄ちゃんってば。お母さん、カンカンだよっ。早く起きて」
ユサユサと、布団の上から身体を揺さぶられる。
そういえば、こうして乃絵美に起こしてもらうようになったのは、いつからだろう……。
ふと、そんなことに思いを馳せて、もう少しだけねばる。
高校2年までは、ずっと陸上部に入っていたから、朝はそれこそ乃絵美よりも早く起きていた。まず俺が起きて、それから寝ぼけ眼の乃絵美に声をかけて早朝トレーニングに出掛ける。
そんな日々が続いていたが、最近では部活も辞め、夜遅くまで勉強しているせいか、なかなか朝パッと起きることができない。
「もう、お兄ちゃん。そろそろ怒るよ!」
とうとう私は怒りましたと言わんばかりの、荒立った口調。
いきなり布団が引っぺがされた。
「おわっ!」
途端に俺の身体を部屋の冷気が包み込む。
もうすぐ12月。すっかり寒くなってきた。
カーテンの隙間から洩れる朝の光に、俺は大体8時くらいかと予想を立てる。
8時にもなれば、いつもならさすがにもうそれほど寒くもないが、今日はまた一段と冷え込んでいる。
「ダメだ! 寒いっ!」
俺はすぐさま乃絵美の手から布団を取り上げて、再びカメのようにその中に潜り込んだ。
「今日は日曜日だろ? 頼む。もう少し寝かせてくれ。お兄ちゃんは疲れてるんだ」
「ダメだよ……」
困り切ったような乃絵美の声。
「だってお母さん、もうご飯の支度済ませて待ってるよ。すごく怒ってて、まるで私に怒ってるみたいに、『正樹を呼んで来なさい!』って……」
「そうか……。じゃあもう怒られついで、乃絵美が代わりに怒られてきてくれ。『お兄ちゃんはもっと寝させてあげるべきです。怒るなら私に怒ってください』って」
「ヤだよ、そんなの。起きてよ、ねぇ」
ユサユサと俺の身体を揺さぶる力が、さっきより少しだけ弱くなっていた。どうやら本格的に困っているらしい。
しかし俺は……。
「すまん、乃絵美。俺、寒さはダメなんだ。“冷気の属性”がない……」
「わけわかんないよ……」
今にも泣き出しそうなそんな声がして、不意に俺の身体を揺さぶっていた手が止まった。
とうとう諦めたのかと思ったが、しばらくの沈黙の後、唐突に乃絵美が言った。
「じゃ、じゃあ、お兄ちゃん。乃絵美があっためてあげるから起きて」
「な、何っ!?」
あまりの衝撃的な一言に、俺は思わず布団を蹴り上げて、半身を起こした。
「きゃっ!」
それがあまりにも急だったからか、乃絵美がびっくりしたようにゲンコツを握って目を丸くする。
「乃絵美! お前が代わりに、俺のしとねになってくれるのか!?」
大きな声でそう言うと、乃絵美が目をパチくりさせながら、
「し、しとねって何?」
と、聞き返してきた。
かなり困り果てている様子。
しかし俺はそんなことには構わずに、乃絵美の腕を取り、それをぐっと自分の胸元へ引き寄せると、そのまま乃絵美の小さな身体を思い切り抱き締めた。
「きゃっ!」
ギュッと両腕で締め付けるようにして抱き締めると、丁度俺の頭の位置にある乃絵美の薄い胸から、かなり速く打っている胸の鼓動が聞こえてきた。
「お、お兄ちゃん……」
乃絵美はどうして良いのかわからないようで、ただ呆然としている。恐らく、言ってはみたものの、その先のことは考えてなかったのだろう。もちろん、乃絵美の「あっためてあげる」は、俺を起こすための冗談である。
しかし俺は、それをわかっていながら、敢えて本気で受け止めたように見せかけて、乃絵美を強く抱き締めたまま、ベッドの上に転がった。
「あっ!」
俺の上に乗っかるように、乃絵美が倒れ込んでくる。
「乃絵美!」
俺は素早く乃絵美を下にすると、四つん這いになって乃絵美に跨り、すっと首に腕を回して抱き締めた。
「あっ……」
頬と頬が擦れ合う。
「乃絵美……あったかいよ……」
乃絵美を困らせるように耳元でそう囁いた瞬間、何か胸の奥が熱くなるような感じがして、身体に心地よい痺れが走った。
ヤバイ……。
「お兄ちゃん……」
熱っぽく息を吐いて、乃絵美が細い両腕を俺の身体に絡ませてくる。
「乃絵美……」
体中で乃絵美の柔らかさを感じていると、少しずつ、互いの冗談が冗談じゃなくなってきた。
俺は舌先で乃絵美の頬の膨らみを辿り、やがて耳たぶにまで至ると、それをそっと口に含んだ。
「あっ……」
耳への刺激に弱いのか、乃絵美が熱い吐息を漏らす。
俺はしばらく乃絵美のその柔らかい耳たぶを舌で転がしてから、やがて顔を上げて乃絵美の頬に手を当てた。
「お兄ちゃん……」
乃絵美がゆっくりと目を閉じる。
俺もまた目を閉じて、そっと乃絵美の顔に自分の顔を近付けたその時、
ダンダンダン!
1階から誰かが階段を上がってくる足音が響き渡って、俺は慌てて乃絵美の身体を離した。
あの足音からすると、恐らく怒りに囚われた母親が、とうとう俺と乃絵美に雷を落としに来たのだろう。
事の重大さにようやく気が付いたのか、初めはぼーっとしていた乃絵美だったが、俺が勢い良くベッドから飛び降りると、慌てて身体を起こした。
同時に、ノックもなしに部屋のドアが蹴り開けられる。
「いい加減に起きないか、正樹!」
「は、はい!」
とりあえずまず一番の標的に怒鳴りつけてから、不自然にベッドの上に座っている乃絵美を睨み付け、やはり不機嫌そうに吐き捨てた。
「乃絵美も、ミイラ取りがミイラになってどうすんだよ、まったく」
「ご、ごめんなさい……」
母親は呆れたような溜め息を吐いてから、ふと訝しげに乃絵美の顔を見つめた。
しかしすぐに、用は済んだと言わんばかりに部屋を出ていくと、
「さっさと起きなさいよ!」
と言い残して、また大きな音を立てながら階段を降りていった。
「こ、怖かったね……」
ベッドの上で呆然と乃絵美が呟いた。何に対してかは言わなかったが、恐らくさっきまで俺たちのしていたことに対してだろう。
俺はふと乃絵美の横顔を見て、それから深く溜め息を吐いた。
「どうしたの? お兄ちゃん」
「いや、何でもない」
そう言いながら俺は、乃絵美の頬にべっとりと付着していた自分の唾液を、パジャマの袖でそっと拭い取った。
バレたかな……。
「じゃあ行くか、乃絵美」
俺はてきぱきと服を着替えると、乃絵美と一緒に母親の待つ1階へと降りていった。
食事を摂り終えた俺は、閉店の店内のテーブルに座って、窓からぼんやりと外の景色を眺めていた。
晩秋。11月最後の日曜日。
今日は風が強いのか、時々樹木が大きく揺れて、その度に木の葉が力なく風に舞う。
道を行く人々はコートを着て、木が揺れるのと同時に身を縮込める。
もうそんな季節だ。
「お兄ちゃん、ひょっとして黄昏てる?」
店内の掃除をしていた乃絵美が、溜め息ばかり吐いている俺を見て楽しそうにそう聞いてきた。もう朝のことは気にしてないようだ。
「まあな。そんな年頃なんだ……」
「受験のこと?」
「青春はいいぞ、乃絵美……」
「うん」
全然かみ合っていない会話を交わしてから、俺は店内をちょこまかと動いている乃絵美に目を遣った。
心優しくて、良く気が利いて、料理も上手くて、家事が好きで、何よりとても可愛くて、確かに趣味もなければ特別何にも興味を持ってないという点では、一緒にいても面白みに欠けるが、でも、一緒にいるというそれだけで心があったまるような、そんな感じのする女の子。
俺の妹。俺にはもったいないくらいの、可愛い妹。
最近、少しおかしい。
乃絵美が気になってしょうがない。
それと同時に、菜織が気になってしょうがない。
もちろんそれは、菜織には悪い意味で。
もう12月。センター試験まで後ひと月ちょっとという時期になり、俺はなるべく恋愛沙汰から手を引いていた。
今は受験に集中したかった。だから、付き合っていながらデートの一つも出来ないことを、菜織には悪く思ったが、それでも菜織は何も言わなかった。たぶん、俺に気を遣ってくれているのだろう。
菜織はずっと待っていてくれる。俺の受験が終われば、また二人で遊びに行ける、食事もできる、そう信じて待ってくれている。
学校で毎日会っているとはいえ、恋人同士として何もしない日が続けば続くほど、菜織のそんな優しさが俺の胸を締め付けた。
このままでいいのだろうか……?
最近強く思うのは、乃絵美への感情。
たぶん俺は、本気で乃絵美のことを愛している。
もちろんそれは、妹としてではなくて、一人の女の子として。
倫理的にどうこうなんて、この際どうでもいい。ただ、乃絵美が愛おしい。
実際、乃絵美となら上手くやっていけると思う。よく恋人同士で結婚して、かみ合わずにすぐに別れるなんて話を聞くが、それは互いに知らなかった一面が、一緒に生活することによって浮き出てくるからだ。
その点、ずっと一緒に育ってきた乃絵美となら、必ず上手くやっていけるという自信がある。乃絵美は本当の俺を知り、俺も本当の乃絵美を知っている。
元々乃絵美が好きだった。だけど、乃絵美が俺のことを男として好いていない気がしていたから、俺は乃絵美への思いを吹っ切るために、菜織と付き合い始めた。
初めから後ろめたい恋愛だった。
このままでいいのだろうか……。
俺は受験を終えた後、再び菜織と付き合い始められるのだろうか。
ずっと待っていた菜織を、満足させられるのだろうか。
「なあ、乃絵美……」
俺はぼんやりと乃絵美に呼びかけた。
「何? お兄ちゃん」
「ちょっとこっちに来て」
「……うん」
乃絵美は俺の様子がいつもと違うことに気付いてか、持っていたモップをその場に置くと、顔から一切の笑いを消して俺の向かいの椅子に座った。
俺はそんな乃絵美の顔を、しばらくじっと見つめてから、話を切り出す。
「乃絵美は、今年のクリスマスは何か予定、入ってるか?」
「えっ? クリスマス?」
もっと重大な話をすると考えていたらしく、乃絵美が驚いた声を上げた。
「ああ。クリスマスと、イブの両日だ」
俺が繰り返すと、乃絵美はしばらく考える素振りをしてから、顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「今のところ何も入ってないし、毎年何も入らないよ」
「そうか……」
俺は心の中で溜め息を吐いた。
それが何に対してか、自分でも図りかねたが、恐らく、その時すでに、これからの菜織との関係を憂いていたのだろう。
ここが決断の場かなと、俺は思った。
「じゃあ乃絵美。クリスマスとイブの両日、空けておけ。もしお前が良ければ、二人で一緒に過ごそう」
「お兄ちゃん!」
ようやくこの話が如何に重大であったか、気が付いたらしい。
乃絵美が息を止めて俺を見つめた。
俺もその瞳をじっと見つめ返す。
「で、でも……」
言いかけて、乃絵美は口を閉ざした。
たぶん、菜織のことを気にしたのだろう。
乃絵美はまるで何かを追い払うように一、二度首を振ると、かつて見たことないほど真剣な瞳で俺を見据えた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「うん。クリスマス、必ず空けておきます。私、イブはずっとお兄ちゃんと一緒に居たいです」
「よし、じゃあそうしよう……」
俺はそう言いながら、すくりと立ち上がった。
「どこ行くの?」
不安げな乃絵美の声。
「ああ。ちょっと、けじめを付けてくる……」
「うん……」
乃絵美はそれ以上何も言わなかった。
俺は一度部屋に戻り、外出着に着替えると、寒風吹きすさぶ表へ出た。
「お兄ちゃん」
店のドアを開けた時、まだ店内の掃除をしていた乃絵美が言った。
「熱いスープを作って待ってるから、夜には帰ってきてね」
「ああ……」
「行ってらっしゃい……」
乃絵美の声に背中を押されて、俺は家を後にした。
たぶん、一人の女の子を傷付けるために。
その純粋な想いを踏みにじるために。
そうして、自分さえも傷付けるために……。
随分日が短くなった。ついさっき起きたばかりのような気がしたが、もう日は西に傾いて、強いオレンジ色の光が俺の背後に長い長い影を落とす。
風はいっそう強さを増して、冷たくを俺の頬を叩き付ける。
俺は一度足を止めて、顔を上げた。
目の前に高く聳え立つような階段と、その先に広がる、色を失いかけた夕刻の青空。階段の両側の木々の落ち葉が一面に降り積もり、風に舞い上がっては、数を増して再び落ちる。
幼稚園の頃から何度も登った階段。300段もある石段に、それよりも遥かに多い思い出が積もっている。
ずっと一緒にいた菜織。
いつも側で励ましてくれた菜織。
大好きだけど、愛してるけど、それよりもずっと好きな女の子がいるから。
女の子は、一人しか選んではいけないから。
たとえ君を傷付けても。
俺はちゃんと言わなくてはいけない。
俺は一歩、また一歩と石段を登り始めた。
こうしてここを登るのも、これで最後になるかも知れないと思うと、300段という段数がとても少なく見えた。
残り段数が一段一段減っていく度に、別れが近付いてくる。
もはや完全に色を失い、白と黒の明度だけの空の下に、菜織の住む十徳神社の屋根が見えてきた。それが少しずつ大きくなって、やがて俺は、最後の一段を力強く踏みしめ、菜織と同じ高さに立った。
ちゃんと話そう。
たぶん嫌われるけど、それでも、言わなくてはいけない。
俺が心の中で再びそう復唱したその時、
「あっ、正樹! アンタいいところに来たわね!」
と、菜織の嬉しそうな声がした。
見ると社の方から、いつもの巫女服にバッシュ姿の菜織がパタパタと駆け寄ってくる。
俺は少し動揺しながらも、静かに菜織が来るのを待った。
やがて菜織が息を切らせながら俺の前に立って、笑顔で俺を見上げた。
俺はそんな菜織の顔を真剣な目で見下ろすと、
「菜織、話があるんだ」
静かに、一言一言区切るようにしてそう言った。
しかし、
「ああ、話は後」
菜織はそんな俺の真剣さが伝わらなかったのか、或いはそれよりも自分のことの方が大事だったのか、手に持っていた箒を俺に押し付けると、
「夕暮れまでにここの掃除を終わらせなきゃいけないの。この時期は一人だと大変でね。んじゃ、アンタはあっちの方をお願い」
言うが早いか、再び社の方へ行ってしまった。
「あっ……」
気勢をそがれて立ち尽くす俺。
ただ、一瞬だったけど菜織の笑顔を見て思ったことは、たぶん菜織は、掃除の方が大事だったのではなくて、まさか俺が別れ話を持ってきたなんて微塵にも思わなかったのだろう。
そう思うと、胸がちくりと痛んだ。
しかし、とりあえずこの掃除を終わらせないことには落ち着いて話などできそうにない。
やむを得ず俺は、釈然としないまま、受け取った箒で辺りを掃き始めた。
すっかり暗くなった境内の一角に腰を降ろして、俺と菜織は並んで空を見上げていた。
気の早い星がちらほらと、小さな光を投げかけている。
もっとも、今俺たちの見ている光を投げかけたのは、もう気の遠くなるような昔のことだけれど。
ひょっとしたら、もうこの光を投げた星は、存在していないかも知れない。
「で、話って何?」
星を眺めたまま、菜織が無感情な声で言った。
ちらりと見た横顔は、とても綺麗で、そしてひどく寂しそうだった。
そうか……。
俺は思った。
菜織は、そんなに鈍感じゃないか……。
「菜織……。俺、好きな子がいるんだ……」
何を言っても言い訳になる。
菜織の気持ちを聞いても意味がないし、別れの言葉を言う前に、「本当は好きだけど……」と話し始めるのも未練がましい。
ここは、きっぱりと言おう。
俺の言葉が冷たい空気に溶けた後、しばらくしてから菜織が口を開いた。
「乃絵美?」
その三文字が、菜織の口からあまりにも自然に出たので、俺は初め、それがどういう意味かに気付かなかった。
「ああ……」
頷いてから、ようやく俺はその重大さに気が付いて、驚いて菜織の顔を見た。
菜織が悲しそうな瞳で俺を見て問う。
「どうしたの?」
「い、いや……」
俺は夜風に冷え切った暗い地面に視線を落として、小さく溜め息を吐いた。
よく考えてみれば、菜織が俺と乃絵美のことを知っていてもおかしくはない。
そう言えば、俺に好意的だった乃絵美の様子が一変した、あの乃絵美の誕生会の夜も、菜織は乃絵美と会っていた。
それに、毎年みんなで楽しんでいた花火大会の日も、乃絵美は菜織のことを気にして来なかった。
俺の知らないところで、二人の間に何かあってもおかしくはない。ただ一つだけ、腑に落ちない点を除いては。
「菜織は、俺と乃絵美のことを知っていたのか?」
俺が尋ねると、菜織はつまらなさそうに「うん」と頷いた。
「じゃあ、菜織は俺が乃絵美のことを好きだと知っていて、その上で俺に告白したのか?」
それが、俺のたった一つの疑問。
乃絵美の誕生日の時点でそれを知っていたとすると、菜織は俺と乃絵美が相思相愛だと知っていて俺に告白し、俺と付き合っていたことになる。
「そうよ……」
やはり無感情にそう言って、菜織はスッと立ち上がった。
それから無言で空を見上げていたが、やがてその体勢のまま話し始めた。
「正確に言うとね、知っていて告白したんじゃなくて、知っていたから告白したのよ」
「知っていたから?」
聞き返しながら、俺も立ち上がる。
「ええ」
菜織は俺に背を向けているので、どんな顔をしているのかわからなかった。
ただ、声はあまりにも淡々としていた。
「初めはホワイトデーの時だったわ。覚えてる? あの日のこと」
言われてふと、ホワイトデーのことを思い返す。
確かあの日は菜織たちに一日中連れ回されて、そして……そうだ。
店内で乃絵美と抱き合っていた。
「あの日私、アンタに悪いことしちゃったでしょ? だから、もう一度ちゃんと謝ろうって思って、あれからアンタん家に行ったのよ……」
「…………」
「そしたら、アンタが乃絵美と抱き合っていた。私、それを見たとき、正直気持ち悪い気さえしたわ。だって、兄妹なんだもん……」
「菜織……」
俺は何も言えなかった。
菜織の反応は、たぶん一般的な反応なんだろう。
ただ無言で突っ立っていると、菜織が頭を下げて、視線を地面に落とした。
「だから私、アンタと乃絵美に目を覚まさせてやろうと思った。それで乃絵美の誕生会の日に、私は正樹のことが好きだって、乃絵美に言ってやったの。目を覚ませって、乃絵美にきつく言った……」
「それでか……」
それで乃絵美は俺に冷たく当たっていた。
菜織に気を遣ってではなく、俺を嫌いになったわけでもなく、ただ、兄妹だから好きになってはいけないという強迫観念に囚われて。
菜織が身体をこちらに向けた。
月の光を受けて眩しく光る瞳と、寂しそうに歪んだ眉。
俺はその時、さっきまで菜織が無表情、無感情でいたのは、本心ではなかったのだと思った。
「あの日から二ヶ月、アンタは私に優しくしてくれた。きっと乃絵美のことはもう諦めたんだって。それで満足だったはずなのに、私、気が付いたらアンタのことを本気で好きになってた」
俺は菜織から視線を逸らせた。
俺が菜織のことを見ていたのは、それはあくまで乃絵美への想いを断ち切るため、ただそれだけだった。
『私たちは兄妹だよ! loveなわけないじゃない。気持ち悪いこといわないで!』
母の日に乃絵美が泣きながら吐き捨てたあの言葉。
乃絵美は俺を愛していない。
俺は乃絵美の言葉を真に受けて、それで菜織を見るフリをして、自分の心を誤魔化していた。
菜織が乃絵美の次に好きだったから。ただそれだけだったのだ。
「私、アンタに告白して、アンタが私のことを好きだって言ってくれて、私本当に嬉しかった」
「菜織……」
「でも最近、それもわかんなくなってきちゃったんだ……」
それだけ言うと、菜織は真っ直ぐ俺を見つめて、自嘲気味に笑った。
「こないだね、乃絵美に言われたの。『どうして兄妹じゃダメなの?』って。私、愕然となったわ」
「菜織……」
「私、兄妹間の恋愛をいけないことだってのを前提にして話してた。だから、乃絵美にそう言われて、考え方を改めたの」
「改めた?」
俺が聞き返すと、菜織は小さく頷いた。
「簡単なことよ。乃絵美と、一人の女として勝負する。でも、乃絵美と同じ立場に立った瞬間、私の負けは決定してた……」
菜織はそこまで言うと、一瞬悲しげに微笑んで、そしてすぐにまた明るく笑ってこう言った。
「アンタたちの障害になってたのは、『兄妹』の二文字、ただそれだけだったから。私が乃絵美よりも優勢だったのも……ううん。優勢だと私が感じていた理由も、ただそれだけ。だから、それを取っ払っちゃったら、私には勝ち目がなかった」
「菜織……」
あまりのことに、俺はもはやそう呟くことしか出来なかった。
菜織と乃絵美の間に、まさかそこまで色々なことがあったとは考えてなかった。
立ち尽くす俺に、菜織は続ける。
「乃絵美を見てたら、私、本当にアンタのこと好きなのかどうかも怪しくなってきちゃった。幼稚園からずっと同じようにやってきて、私はアンタとそれ以上の関係を本当に望んでいたのかなって思ったら、逆にアンタを好きだって気持ちの方が嘘に思えてきた。結局私は、自分が作り出した幻影に、自分で騙されてただけなのよ」
「…………」
冷たい風が俺たちの間を吹き抜けていった。
それは痛いくらいにひどく、俺と菜織の心を凍えさせた。
「ねえ、正樹」
「ああ……」
「明日から私たち、また昔みたいに戻れるかな?」
俺は菜織の目を真っ直ぐ見つめて、静かに頷いた。
「ああ。菜織がそれを望んでくれるなら、俺はいつまでもお前と仲良くしていきたい。最高の友達として、いつまでも」
「そう……」
菜織は目を閉じて、一瞬眉を歪めると、重く息を吐いた。
「じゃあ、別れましょう。ここで……」
「ああ……」
俺が固く目を閉じると、風を切る音がして、
パンッ!
冷たく澄んだ鋭い音が、境内に響き渡った。
俺が目を開けると、菜織が瞳に涙を浮かべて、にっこりと微笑んだ。
「一応、お約束ってことで……」
俺は叩かれた頬を押さえて、ただ「ごめん」とだけ呟いた。
菜織は静かに首を振った。
「もういい。今日は帰って。大丈夫だから。絶対に明日から、また元に戻れるから」
そう言った菜織の声は、今にも泣き出しそうに震えていた。
胸が痛んだが、俺は何も言わずに階段の方を振り返った。
今の俺は、菜織に声をかける立場にはない。
「わかった……」
一歩足を踏み出した瞬間、菜織が小さく呟いた。
「頑張んなさいよね」
俺は立ち止まらずに歩き続ける。
「この先、アンタたちには、私なんかよりずっとずっと大きな障害が待ってるから。それでも私、応援するから。だから、頑張んなさいよね……」
最後の方は聞こえなかった。
俺はゆっくりと階段を降り始めた。
空気をも凍らさんとする、吹きすさぶ冷たい夜風。
そんな風に晒されて、腫れた頬がひどく痛んだが、それが却って俺の心を楽にしてくれた。
大丈夫。
菜織とはもう大丈夫。
俺は心の底からそう思ったけれど、今日だけは、菜織のことを想いたかった。
今日だけは。
せめて……。
「お帰り、お兄ちゃん」
すっかり遅くなって家に帰ると、約束通り乃絵美がスープを作って待っていてくれた。
薄暗い店内。一つだけ点いた明かりの下に乃絵美が座っていて、テーブルの上にはスープの入っていると思しき器が湯気を立てていた。
「ありがとう」
俺は上着を脱いでそのテーブルに着いた。
「お兄ちゃん」
小さな声で乃絵美が呼びかける。
「何だ?」
「あの、スープ、お代わりたくさんあるから」
「ああ……」
「私、ちょっと席を外すね。お代わり、コンロの上だから」
それだけ言うと、乃絵美は何やら慌てた様子で立ち上がって、奥へ消えていった。
それからタッタッと階段を上がっていく小さな足音がして、やがてそれも消えてなくなる。
シンとした店内に、俺だけが残された。
俺は乃絵美の少しだけ不器用な優しさに感謝しながら、そっとスープを口に運んだ。
熱いスープが、喉を通って身体を中から温める。
優しい味がした。
「あれ……?」
ホッと落ち着いた瞬間、俺は無性に悲しくなって、不覚にも涙を零してしまった。
どれだけ止めようとしても、涙は後から後から溢れてきて、俺はどうにもならなくなってテーブルの上に突っ伏した。
誰もいない空間。
乃絵美の優しさが作り上げた、俺のための場所。
たぶん、俺の泣くための場所。
だから俺は、もはや涙を堪えようとはせずに、思い切り泣いた。
そして、泣きながら想った。
菜織の優しさと、乃絵美の優しさと、それに包まれた幸せな自分を。
スープの湯気が目にしみた。
少しだけしょっぱく感じたのは、俺の気のせいだろうか。それとも、これを作っていたときに、乃絵美が泣いていたのだろうか。
わからないけど、俺は幸せだと思った。
そしてそれがひどく切なくて、俺は泣いた。
きっと、菜織も乃絵美も泣いているこの舞台で。
俺はいつまでも、ずっと泣き続けていた。
─── 完 ───