『 心通い合う空 』 〜From "魔法遣いに大切なこと"
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俺には特別何の感慨もない、一面の青空を見上げながら、ユメが楽しそうに声を弾ませた。
「やっぱり、ここの空はすごく高くて、とても綺麗」
ここ、というのは文字通り、今俺たちの立っている遠野の田舎のことである。
比較の対象は、東京という大都会の空だろう。
ユメはつい先日まで、魔法遣いの研修とやらで一人で東京に行っていた。
これはすごいことだと思う。俺は東京なんていう大都会には行ったことがないが、そこは文化も習慣も、何もかもが違う別世界だと聞いている。
「辛うじて言葉が通じる以外は、外国みたいなもんだ」
東京へ行ったことのある近所のおじさんが、かつて興奮気味にそう言っていた。
俺は難しいことはわからないけれど、そんなところに一人で行ってしまうユメをすごいと思うし、同時に一抹の寂しさを覚えた。
「東京は、土地が高いのか?」
俺はユメの横顔を見つめながら尋ねた。
普通こういうときは、一緒に空を見上げるものかも知れないが、俺には昨日までと何も変わらない空である。
ユメは何が可笑しいのか、小さく噴き出して腹を押さえた。
「ち、違うよ悠太。そんなこと、あるわけないじゃない」
ひとしきり笑ってから、微かに頬を綻ばせて、ユメが俺の目を覗き込んだ。
俺は思わずドキッとして、俯きながら視線を逸らす。
ユメは、可愛くなった。
もちろん、数週間で輪郭が変わったわけじゃない。表情が明るくなったのだ。
東京へ行く前のユメといえば、魔法以外には特に取り得もなく、またそこから来る引け目のためか、あまり目立たとうとしない地味な女の子だった。可愛かったけれど人気が高いわけでもなく、顔を上げて笑っているより、寂しそうに俯いていることが多かった。
それに、ゴータという当時付き合っていたサッカー部のヤツに振られたショックで男を怖がるようになり、幼い頃からの付き合いである俺のことさえ避けるようになってしまった。
俺は直接そいつを知らないが、あんなに誰かを憎んだのは初めてだった。俺なら絶対にユメを手放したりしないのに。
もっとも、手放してくれていなかったら、それこそ俺は片想いのまま終わってしまっていたが。
ともかく、そのユメが東京から戻ってきて、見違えるように明るくなった。
「自分が魔法遣いであることに、自信と誇りを持てたのよ」
そう言ったのは、俺とユメの共通の友人である純子だ。その純子に、俺はからかうように言われた。
「ユメもすっかり大人になって、ますます悠太じゃ釣り合わなくなっちゃったね」
俺は怒って否定したけれど、確かにユメは、ここでは考えられないような様々な体験をしてきたらしく、雰囲気がすっかり大人びていた。純子の言ったことは図星だった。
それが、俺の感じている寂しさだった。
「東京は、建物がすごく高いんだよ。だから空がなんだか低くて、ちっぽけに見えるの」
「すごく、か。東京ともなると、10階建てのビルとかあるんだろうな」
俺は一度村を見回した。田畑の向こうに聳えるのは山々だけで、その上に広がる空も、何ものにも遮られることなく雄大に広がっている。
ユメが明るい声で言った。
「20階とか30階だよ」
もはや想像もつかなかった。
ふと隣に目を遣ると、ユメはすでに俺の方は見ておらず、何やら思い出すように遠い眼差しで空を見つめていた。きっと、俺の知らない東京での日々を思い出しているのだろう。
「俺も、東京に行ってみたいな」
まったく意識せずにそんなことを呟いて、俺は自分で自分の発言に驚いた。
東京に行ってみたいなんて、かつて一度として考えたことがなかった。そもそも、東京などという町はまったく俺とは縁遠く、意識すらしたことがなかった。
その俺が東京に行ってみたいなんて、客観的に見てなんと滑稽なんだろう。
俺は自分の声を聞きながら、心の中で大きく首を振った。
本当は東京に行きたいんじゃない。ユメに追いつきたいんだ。
ユメの生活した町を見て、ユメの出逢った人と知り合い、ユメの見たものに触れてみたい。ただ、ユメと共感したいんだ。
まったくガキ臭い発想だと思う。ただ東京に行くだけで、今のユメに追いつけるはずがないのに。
自分でも笑ってしまうような発言だったけれど、ユメは案外真面目に受け止めてくれたらしく、柔らかく微笑んで俺を見た。
「悠太も行ってみるといいよ。町の空気も、人の数も、全然こことは違うけど、でも変わらないものもあるんだよ?」
「変わらないもの? 言葉か?」
俺はおじさんの言葉を思い出しながら、思わずそう聞き返した。
ユメは静かに首を横に振り、それからお姉さん風を吹かせて笑った。
「それは行ってからのお楽しみ」
「ケチ」
俺は頭の後ろに手を組んで、少し東京の風景を想像してみた。
30階建てのビルと、それに囲まれた狭い空。先が見えないほどの人々。道路を埋め尽くす車と、ひっきりなしに鳴り響くクラクション。頭の高さよりずっと上を走る電車。
やっぱり別世界だ。想像しようとしても、何かもやもやとするだけで、形のない恐ろしさが胸を覆うばかりだった。
「とてもじゃないが、俺一人じゃ無理だな。悔しいけど、ユメはすげぇよ」
気弱になったからか、自分でも珍しく素直にユメを誉めてやった。
ユメもそれが意外だったようで、驚いたように目を丸くしたが、からかう言葉は吐かなかった。代わりに気を遣うような台詞を俺に投げてきた。
「そんなことないよ。私が大丈夫だったんだから、悠太でも大丈夫」
それはユメが俺を認めてくれている発言だったのかも知れないが、弱気になっている俺には、慰めにしか聞こえなかった。
情けない気持ちになって溜め息をつくと、ユメはフォローに困ったように少し考える素振りをしてから、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、私が連れてってあげようか?」
「なっ……」
俺は思わず言葉をなくしてユメを見た。
何かの告白なのかと思ったが、それは俺の願望でしかなかったようで、ユメは子供っぽい瞳で俺を見上げているだけだった。
たぶん、俺がいつものように、
「バーカ。お前に連れてってもらうくらいなら、一人で行った方がましだ」
などと、悪言を吐くことを期待しているのだ。そうすればいつものノリで口喧嘩になって、明るい雰囲気に戻る。
すっかり大人びて帰ってきたユメだが、まるで変わっていないところもあるのだと、俺は少し安心すると同時に、ユメがまったく俺のことを恋愛対象として見ていない現実に悲しくなった。
あるいは、もう恋愛はしないと心に枷を付けているのかも知れない。
「そうだな。ユメが一緒にいてくれたら安心だ。その内、連れてってくれよな」
俺はまるでデートの申し込みをするような覚悟でそう言った。頭に血が上るのが自分でもわかって、恥ずかしさに空を見上げる。
ちらりとユメを見ると、ユメは何とも言えない複雑な表情をしていた。
悪い感情は抱いていないようだ。ただ、自分が想像していたような答えが返ってこなくて困惑しているようだった。
「うん。じゃあ、いつかきっと行こうね」
最後は明るく、俺を見上げてユメは笑った。その表情には恥ずかしがるようなところはなく、やはりこれっぽっちも深い意味はなさそうだった。
俺たちは小さい頃からの知り合いで、恐らく長く友達としてい過ぎたのだろう。ゴータという男がユメに与えた新鮮さは、もう俺では与えられない。
俺は内心で涙しながら、「サンキュ」と軽くユメに返した。
早秋の帰宅路はほのかに冷たさを帯び始めた風が吹き抜けていた。
俺たちはそれから、他愛もない話をしながら互いの家への分岐点まで歩いた。こうして二人きりで帰るのは、高校に入ってからはめっきりなくなったが、時間が会えば何も意識せずに並んで歩くことができる。
そういう関係も心地よくはあったが、友達以上になりたい俺としては、多少ぎこちなくなるような新鮮さも欲しい。それはわがままだろうか。
「じゃあ、また明日」
ユメが笑顔で小さく手を振る。小学校のときから変わらない光景。
「ああ、またな」
そう言って、俺が背中を向けようとした刹那、突然ユメが表情を険しくして何かを睨みつけた。
いつになく厳しいユメの眼差し。俺は思わずたじろいで、「どうしたんだ?」と首を傾げながらユメの見る方を向こうとした。
けれどそれより早く、俺は身体に衝撃を受けて地面に倒れた。ユメが体当たりを食らわせたのだ。
いや、体当たりという表現はユメに失礼だろう。ユメはまるで何かから守るように、俺を押し倒してかばうように俺の身体を抱きしめた。
全身に感じる柔らかな感触と、優しい髪の匂い。
唐突に、ミサイルでも落ちてきたかのような炸裂音が轟いた。地震のように揺れる大地。
俺は恐怖と、それからユメを守らなくてはという気持ちでいっぱいになり、固く目を閉じて胸の中の小さな身体を思い切り抱きしめた。