『 心通い合う空 』 〜From "魔法遣いに大切なこと"



 2

 大地の揺れは一瞬だった。直接的な衝撃はない。
 一体何が起きたのだろうか。もう顔を上げても大丈夫なのか。すぐ後ろに人が立っていて、俺たちが生きているとわかった瞬間、殺されたりはしないだろうか。
 そんな、後から思えばくだらないことを本気で考えながら、俺はユメを抱きしめたままじっとしていた。いや、もったいないことに、ユメのことはほとんど意識していなかった。
 ただ突然の事態に自分を見失い、恐怖のあまり混乱するだけだった。
 そんな俺を、喉から搾り出すようなユメの声が現実に引き戻した。
「悠太……苦しいよ……」
 はっとなって視線を下げると、しっかりと抱きしめた腕の間から、ユメが顔を上げて涙目で俺を見つめていた。
 もう後ほんの少し首を傾ければ唇が触れ合いそうな距離で、俺はユメと見つめ合った。
 さしものユメもあからさまに慌てた様子で、急いで俺の腕から抜け出ると、せわしなく制服についた汚れを払った。
「ご、ごめん、悠太」
「あ、いや……」
 一体何を謝られたのかよくわからなかったが、俺の方もすっかり気が動転していて、すぐに立ち上がると同じように服を払った。頭に血が上って、胸が飛び出しそうなほど速く打っている。
 ちらりとユメが俺を見て、それから恥ずかしそうに俯いた。
 あのユメが俺を意識している。
 俺はついさっき望んだ新鮮さをユメの表情に見出して、情けないくらいドキドキした。
「ユメ……」
 そっとユメの肩についた砂を払ってやると、ユメは真っ赤になって「ありがとう」と言ってから、顔を上げて恥ずかしそうに笑った。
「お、おかしいよね。なんだか……私と悠太が、こんな……」
「ど、どうだろう……」
 しどろもどろになって頭を掻くと、ユメが視線を逸らせて呟くように言った。
「私、男の子に抱きしめられたの……初めてで……。な、なんか、おかしいよね……あはは……」
 困ったように鼻先を掻いて、ユメは俺を見上げて照れ笑いを浮かべた。
 俺はその明るい笑顔を見ながら、心が晴れるのを感じた。こんなときに不謹慎だと自分でも思うけれど、ユメがゴータという男と、思っていたより遥かに進行していなかったことが嬉しかったのだ。
 半年以上も付き合っていたのだ。キスくらいは覚悟していたのだが。
「なんか、ごめんね悠太」
「な、なんで謝るんだよ」
「だ、だって……」
 そこでユメは言葉を切って、俺たちは二人で笑った。
 ユメはもう一度「ありがとう」と言ってから、いつもの笑顔に戻って言った。
「咄嗟だったから……。今思うと、すごく大胆なことしたね、私」
 現金なことに、そのときになって初めて俺は、そもそもの発端に思い至った。ついさっきまで本気で自分の生命を危ぶんでいたというのに。
 ひょっとしたら、俺は自分のことよりもずっとユメが大事なのかもしれない。
「さっきの魔法……」
 そう言いながら、ユメは山の方を見た。
「魔法?」
 釣られるように目を遣ると、山の麓、森の入り口付近から白い煙が立ち昇っていた。火事というわけではなさそうだ。火の手は見えない。
 ただ、細い煙が一筋、その白い色を空に溶け込ませていた。
 ユメは大きく頷いて答えた。
「すごく強い魔法を感じたの。何かはわからないんだけど、危険な感じがしたから」
「そうか……」
 俺は随分薄らいだ煙を見つめながら、二つの異なる気持ちを抱いていた。
 一つは恐怖である。この平和な村に突然鳴り響いた炸裂音と立ち上る煙。一瞬戦争でも始まったのではないかと本気で思ったほどだった。
 けれど、同時に強い好奇心も覚えていた。男という種族の性だろうか。
 ちらりと視線を落とすと、ユメは不安げに瞳を揺らしており、好奇心などまるで存在しないようにわずかに身体を震わせていた。
「大丈夫だ、ユメ。何があっても、俺が守ってやるからな」
 何の力もないくせに、格好つけて俺はそう宣言した。きっと笑われると思ったけれど、意外にもユメは驚いた顔をしてから、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「うん。ありがとう、悠太」
 いざというとき俺よりもずっと力があるくせに、それがユメの思い遣りなのか、それとも本気で俺を頼っているのか。それはわからないけれど、もうユメの小さな身体に震えはなかった。
 俺が再び山の方に目を遣ると、もう煙は消えかけており、それと反比例するように村から声が聞こえてきた。村の人たちが何事かと集まってきているようだ。
「なんだと思う? ユメ」
 こんなにも近くに魔法遣いがいるくせに、実際俺は魔法のことなど何も知らない。ユメの魔法だって数えるほどしか見たことがなく、一体何がなんだかわかりようもなかった。
 ユメは表情を険しくして、小さく呻くような声を出してから、俺を見上げて乾いた笑みを浮かべた。
「よくわからない」
「誰か攻めて来たとか?」
「こんな平和な村に?」
 ユメに言われるまでもなく、こんな小さな村に何かの価値があるようにはとても思えない。もちろん、俺はこの村が好きだったけれど、それとこれとは話が別だ。
「わかった。さてはお前、東京で誰かに恨まれてきたろ?」
「えっ?」
 ユメが不安げな瞳で俺を見上げた。
「お前が帰ってきてから間もないし、考えられるのはそれしかねぇな。お前、何して来たんだ?」
 ほんの冗談のつもりだったのだが、ユメは怯えたような顔つきで大きく首を横に振った。
「わ、私、何もしてないよ。人に恨まれるようなこと、何もしてない!」
 ムキになって言い返したユメの瞳に、うっすらと涙がにじんでいた。たぶん、心当たりがあるのではなく、純粋に俺の言葉がユメを傷付けてしまったのだろう。
 俺は猛烈に後悔した。
「す、すまん。悪気はなかったんだ」
 慌てて謝ると、ユメは手の甲で涙を拭ってから、顔を上げて笑って見せた。
「わかってるよ。悠太、口悪いもんね」
「ほんとに、ごめん……」
 ユメは「もういいよ」と、むしろ困ったようにそう言って許してくれた。
 いつの間にか東の空が暗くなり始めていた。西には真っ赤な夕焼けが広がっている。
 俺たちは何も言わずに、ただじっと立ち尽くしていた。ユメが何を考えているかはわからない。案外、先程の魔法のことは大人たちに任せて、自分から関与する気はないのかも知れない。
 ただ俺の言葉を待っているだけかも知れない。
 俺の、「もう帰ろうか」と一言を。
 見知ったおじさんたちが、別の道から現場の方へ歩いていった。その中にはユメの父親の姿もあった。魔法には魔法遣いを、ということだろう。
 もはや俺たちの出る幕はない。
「もう、帰ろうか」
 恐らくユメの望んでいる言葉を、俺は静かに解放した。
 案の定ユメは嬉しそうに顔を上げて、大きく頷いて笑った。
「うん。お父さんも見に行ったみたいだし、今夜何があったか聞いて、明日教えてあげるね」
 そう言って、ユメは自分の家の方へ走っていった。
 俺は小さく手を振りながらそれを見送ると、急いで家に帰った。
 もちろん、翌日のユメの報告を待つ気などなかった。
 先程抱いた恐怖と好奇心。ユメは、俺が何事もなく終わらせてしまった夏休みに、人生が変わるほどの体験をして帰ってきた。そんなユメに少しでも追いつきたい気持ちが背中を押して、好奇心が恐怖に打ち勝ったのだ。
 俺は制服を脱ぎ捨てると、動きやすい服に着替えて自転車にまたがった。カゴに懐中電灯を放り込み、猛スピードで走り出す。
 大人たちより早く着きたい。ユメに追いつきたい。
 俺は息を切らせながら、山へと続く村道を猛然と駆け抜けた。