『 心通い合う空 』 〜From "魔法遣いに大切なこと"



 3

 ようやく山の麓に着くと、すでに辺りは暗く、空には星が煌々と輝いていた。こんな山道に電灯などなく、月明かりに照らされた木々が、不気味に立ち並んでいる。
 幼い頃から何度も見ている光景だが、決して慣れることはない。自然は、優しさと恐ろしさを兼ね備えている。時には人の心を癒し、時には人の生命を奪う。
 俺はごくりと息を飲んで、懐中電灯のスイッチを入れた。
 山道の入り口に、県道の看板が立っている。この辺りでは比較的大きな道に入る方だが、それでも車一台分の幅しかなく、ガードレールもない。
 俺は自転車を置いて山道を登り始めた。家からの距離はあるが、庭のような山である。先程の煙を見て、大体の位置は察しがついていた。
 しんと静まり返った山道を登るにつれ、少しずつ不安が膨らんでいく。
 一体何が起きたのか、想像すらつかない状況で、自分の身に危険がないと言い切れるのか。いきなり誰かに攻撃されて、大怪我を負わされたりはしないだろうか。
(死ぬかも知れない……)
 そう思うと、俺は思わず立ち止まって背後を振り返った。
 けれど、曲がりくねった山道である。そこにはただ闇が広がるばかりで、俺はこの世の中に生きているのは自分一人しかいないような孤独を感じた。もうユメの温もりも残っていない。
 もしも俺が死んだら、ユメは悲しんでくれるだろうか。
 逆であれば、きっと俺は立ち直れないだろう。でも、ユメは……?
 ユメはもう大人だから、案外大丈夫かも知れない。悲しんでくれたら嬉しいけれど、自分のことで悲しめたくない気もする。
 そんなことをぼんやりと考えて、俺は慌てて首を振った。
 一体何をくだらないことを考えているんだ。俺は無事に戻り、明日も何事もなくユメに「おはよう」と声をかける。
 俺は道の先を電灯で照らして、再び歩き始めた。闇は人の心を不安にさせる。
 またしばらく登ると、不意に道の先から人の声がした。俺は思わず足を止め、懐中電灯を切って息を押し殺した。
 心臓が早鐘のように鳴り、冷や汗が背中を伝う。
 声は少しずつ近付いてきた。何を言っているかは聞き取れないが、二人以上いる。
 このまま森に隠れてやり過ごすか、それとも声を出して接触するか。
 それは、降りてくる者たちが自分の敵となり得る人間かそうでないかという問題だった。安全を考えるなら、人を見たら泥棒と思うべきだ。味方をやり過ごしても害はないが、敵に接触したら何をされるかわからない。
 俺はすぐに決断して、森の中に足を踏み入れた。
 刹那、草か木切れか、何かが俺の足を滑らせて、俺は思わず大声を上げた。
「うわぁ!」
 もちろん、道の先にいる者たちがその声を聞き逃すはずがない。木々の隙間に明かりが見えて、俺は隠れるのをあきらめた。
 手にした懐中電灯のスイッチを入れると同時に、彼らは姿を現せた。二人だ。共に20代くらいと思われる若い男で、ネクタイを着けた正装をしている。
「お前は誰だ? ここで何をしている」
 男の一人が咎めるような声を上げた。俺は思わずムッとなって言い返す。
「それはこっちの台詞だ。ここは俺たちの山だ。お前らこそ、どこから来て、ここで何をしている!」
 怒鳴りつけると、男は「村の人間か……」と呟いた。
 こんな場所に村の人間以外がいるものか。俺はそう思ったが、声には出さなかった。代わりに、さっきの炸裂音について尋ねてみた。この場所にいる以上、無関係な人間ということはあるまい。
「さっきの炸裂音、あれはお前らの仕業か? 魔法だろう。一体ここで何をしている」
 俺が言い終わらない内に、男がすっと甲を向けた手を伸ばした。見ると、中指に大きな指輪が填められている。
 どこかで見たことがあると少し考えて、すぐその答えに行き着いた。確かユメが似たような指輪を填めていた。
「俺たちは魔法局の魔法遣いだ」
 特に驚かなかったが、どうやら攻撃してくる相手ではなさそうなことに、俺はほっと胸を撫で下ろした。
「それで、魔法局の人間が、こんな辺鄙なところに何の用だ?」
 俺の問いかけに、男たちは少し顔を見合わせて何やら話していたが、やがてまた俺の方を見て口を開いた。
「犯罪者を追っている」
「犯罪者? 魔法遣いの犯罪者か?」
 でなければ、魔法局が動くはずがない。魔法局は警察ではないのだ。警察では手に負えない魔法に関する事件に限り、出動要請があることもあるとユメから聞いた。
 案の定男は頷いて、それからやや厳しい語調で言った。
「凶暴なヤツだ。君も危険だから、すぐに山を降りなさい」
 その台詞で俺は、彼らが俺を帰らせるために事情を説明したことを理解した。でなければ一介の村人にこんなことを教えるはずがない。
「さっきの爆発みたいなのも、そいつがやったのか?」
 ごくりと息を呑んで尋ねると、意外なことに男たちは困ったように顔を見合わせた。ひょっとしたら、こいつらがやったのかも知れない。恐らく、その犯罪者を捕まえるために。
 しかし、それにしては乱暴だろう。どのような魔法かはわからないが、相手を殺す気なのか?
 そんなことを考えていると、男は胸を張って「そうだ」と答えた。あの魔法を炸裂させたのが犯罪者だと言うのだ。
 俺の中で、彼らへの信頼が一気に地に落ちた。先程の動揺から見て、嘘をついているのは一目瞭然だ。
 本当にこいつらの追っているのは犯罪者なのだろうか。俺はそんな疑問さえ抱いた。
 もちろん、そんなことを一々言うほど子供ではない。
「わかったよ。疲れたから、ちょっと休んでから帰るよ」
 そう言って、俺は大袈裟に息をついて道端に腰を下ろした。
 男たちは俺を説得したからか、特に俺には注意を払うことなく再び歩き始めた。
 その背中を眺めていると、彼らの話し声がした。
「やはりあいつは俺たちの手に負える相手じゃない」
「ダメで元々だ。菊池さんに応援を頼んでみよう」
 俺は思わず声を出しそうになって、慌ててそれを押し込めた。
 彼らの言う「菊池さん」というのが、ユメの一家であるのは明白である。この辺りで菊池という魔法遣いはユメたちしかいない。
(この事件に、ユメが関与する……?)
 なんとも言えない気分になった。ユメには危険なことはして欲しくないが、活躍する彼女の姿は見てみたい。
 けれど、これ以上ユメに遠くに行って欲しくない。俺は俺なりに、一所懸命ユメに追い付こうと歩いているのに、ユメはその先を、振り返ることなくどんどん先へ行ってしまう。
(俺は、夏休みを無駄にした……)
 俺がひたすら釣りをしている間に、ユメは一体どれだけ多くの、信じられない体験をしたのだろう。
 俺は自分の夏休みの過ごし方を後悔した。もちろん、では一体何をすればよかったかなんて、わかるはずもなかったけれど。
「そろそろ行くか……」
 彼らの声が完全に聞こえなくなってから、俺は再び立ち上がり、歩き始めた。上へである。
 引き返すつもりなど毛頭なかった。あいつらは俺に嘘をついた。そんな連中の言うことを聞くのは癪だったし、それに俺は今、ユメより前にいる。もしこれからユメがこの事件に関与したとしても、ユメは今家にいて、俺はここにいる。
 引き返すなどという選択肢は存在しなかった。
 俺は周囲を注意深く見ながらゆっくり山を登っていった。
 相手は犯罪者だ。向こうが先に俺を見つけたら、俺はその場で有無を言わさず攻撃されるかも知れない。
(ユメが来たとき、俺の死体が転がっていた……なんてことだけは避けてぇな……)
 妙なことを考えながら歩いていると、視界が開けた。いや、それは大袈裟な表現かも知れない。道幅が広くなったという程度だが、とにかく広い場所に出て、俺は息を呑んだ。
 地面が丸く焦げていたのだ。直径30センチほどの円だ。
「ここが、現場ってヤツか……」
 俺は恐怖を鎮めるためにわざわざ声に出してそう言って、キョロキョロと辺りを見回した。左手には覆い被さるように木々が生え、右手は坂になっている。坂といっても、木々が隙間なく立ち並び、車はもちろん、人が転落してもすぐにどれかの木が助けてくれるだろう。
 道の端に立ってそんな木々を見つめていると、俺はふと何かの違和感に囚われた。具体的には言い表しにくいが、目の前にあるほっそりとした木の立ち方が妙だったのだ。
 喩えるとそれは、昨日まで真っ直ぐ立っていた道路標識が、翌朝見たら斜めになっていたようなものだ。都会から来た魔法遣いにはわかりようもない、ほんのわずかな違いだけれど、俺にはわかった。
(この下に、その魔法遣いが逃げた……?)
 もう一度目を遣った木々の隙間が、まるで地獄へ続く道に思えて、俺は息を呑んだ。
 周囲には誰もいない。俺一人。もしも何かあったら、本当に生命に関わってくる。場合によっては、魔法遣いと遭遇しなくても、転落してそのまま行方不明になる可能性だってある。
 それでも、俺は行かなくてはいけない。それはきっと、自分が勝手に自分に課した義務感で、ただの幻だったのだろうが、もしもここで後ろに引けば、俺は二度とユメには追いつけないような、そんな気がしていた。
(ユメが……もしも俺に何かあったら、きっと助けに来てくれる……)
 ついさっき守ってやると言った相手に期待している自分が情けなかったが、実際問題、魔法さえ遣えばユメの方が俺より遥かに強いし、色々なことができるのだ。
 俺は特に印を残さず、むしろ誰にもわからないように俺が違和感を覚えた木を元に戻して、闇の中に身を投じた。