『 心通い合う空 』 〜From "魔法遣いに大切なこと"



 4

 夏が過ぎ、まだ葉の落ちる前の、一番草木が鬱蒼としている季節と言っていい。
 俺は草に足を取られ、何度も転げ落ちそうになりながら、枝にしがみつき、下に降りていった。懐中電灯は頭に付けてある。これがなくなったときが俺の最後だと思うと、随分頼りない命綱だ。
 何分も経たない内に、俺はようやく平らな場所に辿り着いた。平らといっても、もちろん草木は生い茂っている。
「ふぅ……」
 俺が汗を拭うと、突然静かな、けれども刺すような厳しい声が俺の耳朶を打った。
「お前は魔法遣いか?」
「な、なんだ!?」
 俺は心臓が止まりそうなほど驚き、思わず声を上げて辺りを見回した。けれど、声の主はどこにもいなかった。
「俺は魔法遣いじゃない。この村の高校生だ。さっきの魔法を見て、来てみただけだ」
 別に銃を向けられているわけでもないのに両手を上げて、俺は大声で宣言した。いきなり攻撃されるのだけは勘弁願いたい。
 すると、
「大きな声を出すな」
 すぐ後ろから呆れたような声がして、俺は勢いよく振り返った。
 いつの間に現れたのか、そこには一人の男が立っていた。男と言っても、歳は俺と同じくらいだ。青年と言っていい。
 髪はボサボサだが、襟のついた服を着て、瞳には知的な輝きがある。実際に都会の人間と会ったことはないが、彼が田舎の人間でないのが一目でわかった。
 青年は手にしていた大きなバッグを足元に置くと、大きく息を吐いてその場にしゃがんだ。呼吸が荒い。
 俺は上げていた手を下ろし、それを張り裂けそうになっている胸に当てながら尋ねた。
「お前は……魔法遣いなのか? さっきの、魔法局の男たちが探していた……」
 青年はちらりと目だけで俺を見て、口元を緩めて頷いた。
「そうだ。こう見えても追われてる身だ」
「こう見えてもって言うか、すげぇ納得できる身なりだぜ」
 俺は何故か親近感を覚えて、思わず軽い口調で言った。すぐに彼が気を悪くするのではないかと恐怖に駆られたが、それは杞憂だった。
 青年は何やら可笑しそうに笑うと、軽く手を振った。俺に座れと言っているらしい。
 俺は彼の隣に腰を下ろした。
「あいつらは、お前を犯罪者だって言っていた。そうなのか?」
 慎重に尋ねると、彼は声を出すのが億劫そうに、「そうだ」と一言言って黙り込んだ。
 凛とした空気が張り詰める。随分高くまで登ってきたこともあってか、気温はかなり低く落ち込んでいる。
 沈黙に耐えかねて再び口を開いた俺を、青年が手で制した。
「すまない。少し休ませてくれないか?」
「え?」
 俺は改めて彼を見て、気が付いた。
 青年は左足に怪我をしていた。切り傷ではない。火傷のようなものだ。裂けたズボンから、真っ赤に染まった肉が見えて、俺は思わず呻いた。
「お、お前、それ!」
「大丈夫だ。怪我はともかく、痛みは魔法で和らげられる」
 慌てる俺に青年は小さく笑い、すっと俺の顔の前に手を上げた。そして何も言わずに懐中電灯のスイッチを切る。
 途端に辺りは真っ暗な闇に包まれた。明るさに目が慣れていたせいか、何も見えない。
 しばらく黙って座っていると、やがて青年が静かに声を出した。
「もういいぞ」
「大丈夫なのか?」
 俺も声を押し殺して尋ねる。青年が首を横に振ったのが気配でわかった。
「あんまり、な。まあでも、痛みさえなくなれば、後は勝手に治っていくだろう。しばらくここで休んでいく」
「魔法で見つけられたりしないのか?」
 相手は犯罪者だというのに、俺は何故か青年をかばうようなことを言った。自分でも驚いたが、これでも人を見る目はあるつもりだ。
 さっきの魔法局の連中より、この青年の方が真っ当な人間に思える。いくら田舎育ちでも、光の下を歩く者が常に正しく、日陰を歩く者が常に間違っているなどとは考えていない。
 青年はわずかに魔法で明かりを灯すと、俺を見て「大丈夫だ」と笑った。精悍な顔つきだった。ユメよりもずっと大人びて見える。
「魔法に感知されないようにする魔法もある」
「じゃあどうしてヤツらに見つかったんだ?」
 事情はよくわからないが、青年はあの男たちから逃げていて、ここで追いつかれたのだろう。そんな便利な魔法があれば、見つかることもなさそうに思えるのだが。
 俺がそう言うと、青年はやはり可笑しそうに笑って、両腕を頭の後ろに組んで目を閉じた。
「理由はいくつかあるが……まず俺より力の強い魔法遣いにはこの魔法は効果がない。それから、これは場所にかける魔法だから、俺が移動したら無意味になる。後は、一ヶ所だけ魔法の効かない場所があれば、逆に怪しまれる。まあ、そういうことだ」
「な、なるほど……」
 素直に感心して、俺は腕を組んで頷いた。
 それが面白かったのか、青年は小さな笑い声を立てると、片目を開いて俺を見た。
「お前は素直だな」
「わ、悪かったな。田舎の人間なんて、みんなこんなもんだよ」
 俺はからかわれたのだと思って、そっぽを向いた。青年は笑顔を消して遠い目をした。
「そうか……。田舎はいいな……」
 バカにされたのかと思ったが、そうではなかった。青年は寂しそうな表情で、じっと闇を見つめていた。
 この青年は一体どこから来て、どんな犯罪を犯して、そしていつまで逃げ続けるのか。
 俺は質問を憚られたが、聞かないわけにもいかない。勇気を出して口を開いた刹那、先に青年がすっと手を掲げた。
「腹……減ったな」
「何?」
 聞き返したときにはすでに、彼の手の上に椀に入った湯気を立てるご飯があった。
「こ、これは……」
 俺が呆然としていると、彼は一緒に出した箸で、それを無造作に食べ始めた。どこか滑稽な光景だった。
「すごいな。魔法はそんなものまで出せるのか……」
 唖然としたまま俺が呟くと、彼は自虐的に笑って俺を見た。
「これが、俺の犯している犯罪だよ」
「え?」
 俺は耳を疑った。彼はまた一口ご飯を口に放り込むと、それを流し込むように飲み込んで説明した。
「これは無から産み出したものじゃない。中にはそういうことができるヤツもいるが、俺にはできない」
「つまりそれは、今どこかに存在した、誰かの飯ってことか?」
「そうだ」
 頭が混乱してきた。それはつまり絶対に防ぎようのない窃盗ということだろうか。
 そう尋ねると、彼は笑って頷いた。
「まあそうだな。窃盗自体は大したことじゃないが、こういうことは毎日している」
「な、なんで……?」
 思わず腰を浮かせて、俺は聞いた。こんな人の良さそうな青年が、まったく悪びれる様子もなく犯罪を犯すのが信じられなかったのだ。
 彼は再び手で俺を座らせると、さも当然というように語った。
「なんでって、そうしなければ生きていけないからだ」
「生きて……」
「そうだ」
 彼は食べる手を休め、鋭い相貌で俺を見つめた。
「俺だって、何も盗みたくて盗むんじゃない。傷付けたくて傷付けるんじゃない。だけど、そうしなければ俺は生きていけない」
「で、でも……それでも……」
 俺は言葉をなくして唇をかんだ。
 実際、家に帰れば飯が出て、働かなくても学校に行けて、何一つ不自由なく暮らしている俺が、同じくらいの歳で警察や魔法局から逃げ回らなければならない生活をしている人間に、どんな言葉をかけられるだろう。
 俺は無力な自分に肩を落とした。
「俺、魔法遣いの友達がいるんだ」
 呟くようにそう言うと、青年が意外そうに俺を見た。恐らく、まったく俺が魔法遣いと縁がない生活を送っていると思っていたのだろう。
 俺はユメの笑顔を思い出しながら続けた。
「その子が……女の子なんだけど、この前魔法遣いの研修から帰ってきて、将来は魔法で弱い人たちを助けたいって……」
「そうか……」
 彼は溜め息のように言葉を吐いて、それから淡々とした口調で言った。
「恵まれた子なんだな」
 皮肉かと思ったがそうではなかった。彼の深い瞳は、すべての存在を受け入れたものだった。
 たぶん彼は一人で生きていくために、まずすべてを受け入れることから始めたのだ。すべてを受け入れ、何ものにも逆らわず、時代の川に身を委ねて流れ続ける。
 俺にはそれが、とても悲しいことに思えた。
「お前も……その魔法を、有効に遣うことはできないのか?」
 恐らく、ひどく子供じみた願望。
 案の定彼は、儚げな笑みを浮かべただけで何も言わなかった。代わりにすっと俺の前に手をかざす。
 訝しげに彼を見ると、彼は落ち着いた声で言った。
「悪いようにはしない。少し目を閉じてその子のことを強く心に描いてみてくれ」
「あ、ああ……」
 言われるまま、俺は目を閉じて、ユメの笑顔を思い浮かべた。
 まぶたの向こうが明るく光って、俺はふっと眩暈を覚えた。