『 心通い合う空 』 〜From "魔法遣いに大切なこと"



 6

 それからも、ユメへのいじめは水面下で続けられた。
 いや、その事件より前から、いじめはあったのだ。ただ大っぴらになっていなかっただけで。
 しかし、階段から落ちた男子生徒が帰ってきてから、いじめは急激にエスカレートした。
「私じゃない! 私は絶対にそんなことしない!」
 必死にそう訴えたユメを、その男子はまったく取り合おうとせず、いきなり力いっぱい殴りつけた。
 ユメは机を薙ぎ倒しながら床に倒れた。
「や、やめろよ!」
 見るに見かねて『俺』が飛び出そうとすると、ユメはすぐに起き上がって『俺』を睨みつけた。
「ほっといてよ! 私はあんたなんかに同情されたくない!」
 それがユメの『俺』への思いやりだと、俺はすぐに理解した。けれど、『俺』を含めた中学生に理解できるはずがない。
「何生意気言ってんだよ!」
 誰かが彼女の足を蹴りつけ、痛みに屈みこんだ小さな身体を、先の男子が前蹴りにした。
 ユメの悲痛な悲鳴が教室に響き渡った。
 そんないじめが続いて、とうとうユメは身体を壊して学校を休んだ。
 すると、生徒たちは憑り付かれたようにユメの家までやってきて、窓ガラスを割ったり、物を壊した。
「ユメ! あんたのせいよ!」
 自転車を壊された姉がユメの部屋に怒鳴り込みに来た。
「な、なんで……? 私がやったんじゃないのに……」
 ユメは泣きながら悲痛な叫びを洩らした。本来かばって慰めてくれるべき立場にある人間に怒られて、悲しくて居たたまれなくなったのだ。
 もちろん、それで姉の気が済むはずがない。
「あんたがいなければこんなことにはならなかったのよ! この疫病神!」
 姉は力いっぱいドアを閉めて、部屋を出て行った。
 ユメは半身を起こしたまま頭を垂れ、ぎゅっと掛け布団の縁を握っていた。涙がぽたぽたと布団に染みを作る。
「私は、この家にいちゃ、いけないのかな……。生きてちゃ、いけないのかな……」
 引き寄せた布団に顔を押し付けて、ユメは声を震わせた。
「なんで、魔法遣いなんかに生まれちゃったのかな……」
 ユメは、やはり声を押し殺して泣いた。


 翌朝早く、まだ日が昇る前に、ユメは家を出た。一度だけ振り返り、家に向かって小さく頭を下げる。
 それから長い時間をかけて駅まで歩くと、電車に乗って町に出た。もう家に戻るつもりはないのだ。
 町に着くと、すでに昼を過ぎていた。ユメはまずコンビニでおにぎりを買い、それからどこか泊まる場所を探して歩いた。
 なるべく安そうなホテルを何軒か回ったところで、ユメは溜め息をついて空を見上げた。
 小さな彼女を泊めてくれるようなところなど、一つとしてなかったのだ。当然といえば当然だったが、昨夜考えた計画はいきなり挫けた。
 ユメは途方に暮れて、公園のベンチに腰かけた。
「どうすればいいのかな……」
 明るい声でそう言ったけれど、表情には不安を隠し切れない。がっくりと肩を落としたユメの瞳から涙が零れて、ユメは嗚咽を漏らして首を振った。
「行かなくちゃ……」
 ユメは再び前を向いて歩き始めたが、結果が変わることはなかった。
 食べ物だけはなんとかなったが、結局宿は取ることができず、ユメは河原の橋の下で一晩過ごした。
 次の日からは働ける場所も一緒に探した。このままではいつか金が尽き、飢え死にしてしまう。働かなくては生きていけない。
 けれど、一介の中学生のユメが働ける場所などなかったし、それにユメはどこに行けばいいかもわからなかった。
 寝るところも仕事もなく、声をかけてくる町の人間や補導しようとする警官から逃げ、町を転々とし、何日も宛てのない旅を続けた。
 やがて、元々持ち合わせが少なかったこともあって、ユメはすべての金を使い切ってしまった。腹が空いても物を買えず、風呂にも入れず、ユメは空腹に堪えながら歩いた。
 長旅で疲れきっていた少女は、丸一日はもたなかった。
「しょうが……ないよね……」
 人気のない道を、頭痛のせいかフラフラとおぼつかない足取りで歩きながら、ユメは呟いた。
「魔法……遣っても、いいよね?」
 今日までユメは一度も魔法を遣わなかった。彼女はどんなことがあっても、魔法は正しく遣われるべきだと考えていたから。
 だから、自分の欲求を満たすだけのためには決して魔法を遣わなかった。
 けれどそれももう、過去形で語られる。
 ユメは魔法で食べ物を出すと、それを食べて腹を満たした。それから大きな緑地のベンチで目を閉じて横になる。
「もう、いいよね? せっかくの能力だもん。遣ったって……いいよね……?」
 その日は冷え込みが厳しかった。ユメはやはり魔法で毛布を出して、それに身をくるんだ。
 そうして彼女は生き延びた。けれど、もちろんそんな魔法が認められるはずがない。
 一週間もしない内に、彼女の前に魔法局の者と名乗る人間が現れた。彼女を逮捕しに来たのだ。
 ユメは逃げた。魔法を駆使して、とにかく逃げた。
 捕まれば終わりだ。すべてが終わってしまう。
 ユメは逃げながら、それでも生きるために魔法を遣い続けた。
 物を盗り、金を盗り、そして、自分を傷付けようとする人間を傷付けた。
 少しずつ表情をなくし、何の目的もなく、ただ死なないために生き続けるユメ。
 そんなユメを見つめながら、俺は頭を抱えて首を振った。
 やめて欲しい。今すぐにでも、そんな生き方をやめて欲しい。
 けれど、一体俺に何ができるというのだ。一度狂い出した歯車をどうやって戻せばいいのだ。
『ユメ……』
 俺はがくりと膝を折った。
 ついに、ユメの前に見るからに位が高いと思われる魔法遣いが現れた。
 彼は逃げようとしたユメを、あっさりと魔法の紐で縛り上げる。
「い、いや……」
 ユメはもがき、ありったけの力を込めて紐を解こうとした。それを見た魔法遣いが、さらに力を込めてユメを締め上げる。
「うぁ……あぁ……」
 ユメは身を仰け反らせ、苦しそうに喘いだ。息ができないのか、口をぱくぱくさせているが胸が膨らまない。
「これ以上抵抗するな。死ぬぞ?」
 低い声で魔法遣いが言う。
 けれどユメは魔法の紐を手で持って、なんとか解こうとした。どちらにせよ捕まったら先はない。ユメはそう思ったのだろう。
 魔法遣いの目がスッと細まった。
『や、やめろ!』
 俺は叫んだが、もちろん声は届かない。
「聞き分けのない娘だ!」
 魔法遣いが気合いを込めると、魔法の紐が眩しく光を帯びて、痛々しいくらい深くユメの肌に食い込んだ。
「ぁぁ……」
 ユメはもはや声もなく、一度大きく仰け反ると、そのまま地面に崩れ落ちた。
『ユメーーーーっ!』
 俺は絶叫した。
 気を失ったユメのまなじりから、一筋の涙が零れ落ちた。