『 心通い合う空 』 〜From "魔法遣いに大切なこと"
プロローグ
世界には、魔法を遣える人間と、魔法を遣えない人間の二種類がある。
数は、魔法を遣えない人間の方が圧倒的に多く、魔法を遣える人間は全人口のごく一握りしかいない。
そのため、世の中には魔法遣いを見たことのない者はもちろん、その存在を知らない者や、魔法遣いは人間ではないと誤解している者、魔法遣いは犯罪者の集団であると認識している者もある。
つまり、認知度が低いのだ。
その理由は数だけに依存するわけではない。もう一つ大きな理由がある。
それは、魔法というものがひどく曖昧で、魔法を遣えない者には論理的にも感覚的にも理解できないからだ。
実際、魔法遣いである俺自身、一般の人間に魔法を説明するのはひどく困難である。
例えば、魔法は物を宙に浮かすことができる。また、物の形を変えたり、移動したりすることもできる。
物にのみ作用するわけではなく、高度なものになれば、病気の治療もできるし、天気を操作することもできる。
これらが、ある一つの、厳密に定義できる理論によって使役できるとは考え難く、実際に、魔法の体系というものは長く研究されているが、未だ解明には至っていない。
魔法は感覚的に遣うもので、魔法を遣えない人間には、何ができるかを断片的に知る以上の理解はできない。これが俺の持論だ。
魔法がそういう性質のものなので、それを遣う者が、遣えない者に気味悪がられるのも必然と言える。
もしも世の中の大多数の人間が、生まれながらにして盲目であれば、目の見える人間はひどく不気味な存在に思われるだろう。
そのように喩えることで、俺は自分が魔法を遣えない者にどのように見えるかを、多少ながら理解しているつもりだった。だから、他人から奇異の目で見られることも、魔法遣いであるというだけで罵声を浴びせられることも平気だった。
いや、順序が逆かも知れない。
まあそれはともかく、世の中の魔法遣いが全部俺みたいに達観しているわけではない。まして多感な少年時代は、自分が魔法遣いであることをひどく恨めしく思い、事実をひた隠しにしている子供も多い。
もちろん、大人の中にも、自分が魔法遣いであることを隠して、いつそれが知られてしまうかとビクビクしながら生きている者もある。
魔法で生計を立てていない魔法遣いはそんなものであり、職業としての魔法遣いは、魔法を遣える者全体のほんの一部でしかない。
そのような習慣と風潮がはびこると、魔法遣いの肩身はどんどん狭くなり、ますます後ろめたくなる。
魔法遣いがそういう気持ちでいると、魔法を遣えない者からのイメージもより一層悪くなる。魔法遣いは淘汰され始める。
社会から淘汰された魔法遣いは、魔法を遣った犯罪に走る。それは彼らに残された、生きていくためのたった一つの手段だった。
彼らが元々悪人だったわけではない。社会が彼らを追い詰め、悪人にしたのだ。
けれど、一般の人々はそうは考えない。
「魔法遣いは、そのあまりにも圧倒的な能力を悪用するために存在している」
一人でも悪人が出ると、全体が悪く受け取られるのは世の中の常だ。ましてそれが二人、三人と増えると、完全に全体とイコールになる。
職業としての魔法遣いたち、つまり魔法局では、こうした犯罪を防ぐためにあらゆる努力をしているが、一般の人々には、それは身内の不始末に対する至極当然の行動にしか映らなかった。
社会が魔法遣いのイメージを悪くし、魔法遣いも止むを得ず悪に走る。またそれが魔法遣いのイメージを悪くする。
一度落ち始めたら二度と這い上がれない、悪循環だ。
俺は、魔法は物理的にはなんでもできると考えている。だが、それは万能であることとイコールではない。
実際、魔法ではこの悪循環を、社会の大きな流れを変えることはできない。
魔法にできることはほんのわずかだ。それでも、個人が生きていくには十分だったし、個人を脅かすにも十分な力である。
俺は大局なんか気にしていない。他人が魔法遣いを見る目など、どれだけ悩んだところでどうすることもできない。
俺は、自分が日々を生きていく、ただそれだけのことで精一杯だった。