『 To Heart Fantasy 』 第1巻

 間話  デックヴォルトの少年

 その時彼女は街を歩いていた。大飢饉に見舞われ、あちらこちらで痩せ衰えた哀れな人々を見る、デックヴォルトの首都フラギール。
 薄紫の髪を風になびかせて歩く少女はまだ幼い。14、5歳だろうか。悲しみに満ちた瞳を、人々に向けている。
「コトネ姉……」
 誰かが彼女、姫川琴音の名を呼んだ。
 琴音が振り返ると、そこには痩せた一人の少女が、悲しげに彼女を見上げて立っていた。
「コトネ姉……お腹が空いたよぉ……」
 琴音は小袋からパンを取り出して、その子に差し出した。
「はい、ネリーセ。元気出してね」
「うん。ありがとう、コトネ姉!」
 ネリーセは小さなパンを嬉しそうに手に持って走っていった。
 琴音はそんな少女の背を、寂しげな面持ちで見つめていた。

 琴音がこのフラギールにやってきたのは今からおよそ一月前。以降彼女はこの街で、この哀れな人々のために何かしてやれないかと、『能力』をフルに活用して働いている。
 今ではすっかり街の人気者になり、人々にも好かれ、感謝もされたが、しかし現状はなかなか好転しなかった。
 何か出来ないか……何か……。
 彼女の優しさ。人々の辛さのわかる彼女は、まるで自分のことのように悩み、考えた。

「コトネ……」
 再び呼びかけられ、琴音は振り返った。
 立っていたのは、まるで向日葵の花のような色の髪の、愛らしい少年だった。
 純白のローブをまとって、背には小さな空色のマントがはためいている。肩のマント止めには、凝力石と思われる薄緑色の宝石が埋め込まれ、少年が身分が高いだけでなく、高位の魔術師であることをも知らしめている。
 しかしどこにもそれを威張るふうなく、嫌みのない純粋な笑顔は、人々の心を惹きつけた。
「あなたは……?」
 思わず丁寧な口調で琴音が尋ねる。彼女も少なからず彼に惹きつけられていた。
「僕はノルオ」
 少年が、まだ声変わりしていない高めの声で言った。「コトネ、助けてほしい」
「助けて?」
「うん。この街を救う手助けをしてほしい」
 琴音は、まさかこんな年端もいかぬ少年の口から、このような言葉が出ようとは思ってもみなかった。
「この街を……救う?」
「うん」
 頷いた少年の顔に、冗談の色はない。琴音は彼を信じることにした。
 この街を救えるなら……。
「わかったわ」
「あ、ありがとう。じゃあ……」
 嬉しそうにそう言って、少年は琴音を人気のない裏通りに連れていった。
「こんなところに来てどうするの?」
「飛ぶんだよ、コトネ」
 少年はそう言って手を差し出した。「つかまって。手を放さないでね」
 魔法……。
 琴音は言われるままにした。
 少年は琴音の手を握ると、目を閉じた。
「研究室……」
 ふわっ……。
 一瞬身体に宙を浮くような感覚を覚えると、次の瞬間、琴音はどこかの部屋の中にいた。
 窓もなく、四方はすべて壁に覆われていたが、部屋の中はうっすらと明るかった。
 光の源は床に描かれた直径3ヤードほどの魔法陣。何で書かれているのか、淡いオレンジの光を放っている。
 部屋の隅には香が焚いてあり、その香りに琴音はある種の性的快感を覚えた。麻薬に近いものだ。
「城の研究室だよ」
 少年が言った。
 琴音はそれをぼんやりと聞いていた。先程からどこかおかしい。妙に気分が高揚している。
「これを身体に振りかけて」
 そう言って少年が渡したものは、中に透明な液体の入った小さな瓶だった。
 聖水だろうか?
 琴音は瓶を受け取り、蓋を取るとそれを身体に振りかけた。
「あっ……」
 全身に刺激が走って、琴音は思わず声を洩らした。
 少年は先程からとろりとした血のような液体をぐつぐつと煮立てている。
 やがてそれを火から下ろし、部屋中に振りまいた。
「コトネ。魔法陣の中央に立って」
「はい……」
 琴音は恍惚とした表情でそこに立った。
「じゃあ、行くよ」
 少年が凝力石の埋め込まれた杖を手に取る。「コトネの『能力』を引き出す。初め少し苦しいかもしれないけど、あくまで初めだけだから。後は……きっと今よりもっといい気分になれるよ」
 少年はにっこりと微笑んだ。
 そして、先程までとは打って変わった低い、朗々とした声で、呟くように呪文を唱える。

『ツァイト ツァイト デルテ ヌザイト……
 我らが無と混沌の主
 光食らいて強まり給え
 我らを滅して闇もたらさんとす
 かの凶悪なるヌイゼンジーア
 断ちて希望をもたらし給え……』

「うくっ……」
 琴音の身体に激痛が走った。
 身体から、魂が抜け出そうとしているような感覚だ。
「うっ……ううぁぁあああ……」
 あまりの苦しみに、琴音は思わず膝をついた。両腕で抱える身体はぶるぶると震えている。
 少年はそんな琴音に構わず続ける。

『ツァイト ツァイト ユーア ミヒルテ……
 光瞬く異界の者よ
 その力持て滅ぼし給え
 無より生まれて大地を食らい
 死の風起こせる常夜の使い
 断ちて光をもたらし給え……』

 少しずつ意識が薄れ、身体が熱くなってきた。
「あ、熱い……」
 琴音は下半身にジンジンと灼けるような快感を覚えてへたりこんだ。
 魔法陣は光り輝き、風を起こして渦巻いていた。
 もはや少年の姿も見えない。
 声だけが風の壁の向こうから聞こえてくる。
「ああぁ……」
 琴音の口から吐息が洩れた。
 『能力』が勝手に迸る。
 琴音の『能力』が魔法陣と共鳴して、バチバチと電気が走った。
「うう……」
 身体に力が入らない。
 少年の声は次第にそのトーンを増していき、ついに部屋中に響くほどのものとなった。
 壁が音の共鳴に振動している。

『ツァイト ツァイト デルテ フィルフテ……
 我らが無と混沌の主
 光食らいて強まり給え
 我らと我らの創りしものと
 我らの過去と我らの未来と
 すべてを食らいて無に帰し給え……』

 琴音は一度目の絶頂の後、すぐに二度目のそれを迎えた。
 少年の声はもはや聞こえないが、風はその力を弱めない。
 魔法陣の光も衰えることなく煌々と輝いている。
「ああ……」
 三度それは訪れる。
「ありがとう、コトネ」
 どこかから少年の声がした。「これでこの街は“あれ”の脅威から逃れられる」
 琴音は知らないが、この時フラギールは光のドームの中にすっぽりと収まっていた。まるで、バリアのように。
「ごめんね、コトネ。もう僕は行かなくちゃいけない。やっと……やっと自由になったから」
 それっきり、少年の声は聞こえなかった。
 部屋の中には風がビュンビュンと渦巻いている。
 琴音は何度も何度も訪れる快楽に溺れながら、やがて気を失った。
 ただ、彼女の『能力』だけが、いつまでも街に光をもたらしていた。