鏡音リン小説 − 『 リンのうた 』 − ボーカロイド二次創作


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 ちょっぴり都会の始発駅から、普通列車に揺られて7駅。景色はびっくりするくらい変わって、狭かった空も両腕に収まらないくらい広い。
 トントンっと軽やかに階段を駆け下りて、無人の改札を出ると、一人出迎えてくれた夏の陽射しに思わず目を細めた。
 たまらなく暑い。でも、暑いのも熱いのも嫌いじゃない。
 さっきまで電車の強すぎる冷房に縮こまっていた肌が汗を噴く。自分の「売り」の元気いっぱいをアピールするため、タンクトップとハーフパンツでやって来て、寒くて後悔していたのももう過去のこと。
 キャップをかぶって眩しい世界に一歩足を踏み入れる。駅前の小さな広場には蝉の歌。誰もいないベンチと、存在自体がレトロな公衆電話。
 念のため、ケータイで目的地までの道を確認した。前に思い切り反対方向に突き進んで遅刻したことがある。偉い子は失敗を繰り返さない。
 出てきた地図を拡大する。「ノヒラさん」という名字以外、まったく何も知らない人の家まではここからおよそ徒歩10分。
 トクンと胸が鳴る。この瞬間が一番緊張して、一番怖くて、一番楽しい。いっぱい想像して、いっぱい思い巡らせて、大抵予想の通りにはならないけれど、だから面白い。
 歌がたくさん歌えたらいいな。
 空はどこまでも青く澄んで、きっといいことがある、そんな気がした。


 車通りがそれなりにある道から一本中に入ると、昭和の匂いのする住宅街だった。古い木造家屋の建ち並ぶ所々に、最近作られた新しい3階建ての民家がちらほら。
 スクールゾーンの標識を見上げて、駐車場の角を左に曲がると、目の前にベージュ色のアパートが見えてきた。「EL MAR 3」と刻まれた表札。ノヒラさんのお宅はここの2階。
 「EL MAR 2」はどこにあるんだろう。一度左右に目をやって、それから空を仰いだけれど、それらしい建物は見当たらなかった。「3」は「さん」なのかもしれない。こんにちは、海さん。
 オートロックなんて大層なものはついていないので、脇の階段から2階に上がる。無機質な長い通路の端から3軒目。205号室がノヒラさんの部屋。
 ドアの前に立ってケータイを見る。約束の時間より15分早い。
 例えばピザなら、予定より15分早いと怒られるだろうか。そんな場違いなことを考えた。
 わたしなら、それが楽しみにしていることなら、1分でも早い方が嬉しい。
 楽しみにしていることなら……ね。
 大きく深呼吸して、ドアホンを押した。ピンポーン……ピンポーンと高めの音で2回。それから微かに足音がして、ドアの向こうに人の立つ気配がした。
「どちら様?」
 それが少し警戒心を含んだ、若い女性の声だったから、わたしは驚いて息をのんだ。
 どう見ても1DKの部屋だから、一人暮らしだと思われる。それはまったく珍しいことじゃないし、むしろ一人暮らしの人の方が需要は多い。
 ただ、依頼主が女性ということが初めてだった。ひょっとしたらミク姉さんなら経験があるかもしれないし、レンの場合は女性の方が多いのかもしれない。依頼主のことは身内にも話してはいけない決まりだから知らないけれど、少なくともわたしは初めてだったから、一瞬その場に立ち尽くした。
 いけない。
「あ、あの、ボーカロイドの鏡音リンです! ノヒラさんですか?」
 相手に警戒心を抱かせてはいけないと、気を取り直して挨拶をする。第一印象は大切。元気と明るさを出し惜しみすることなく伝えると、チェーンを外す音がして、ゆっくりドアが開かれた。
 現れたのは明るいふんわりした茶色の髪と、薄めのメイクでも気にならない整った顔立ち。背はミク姉さんと同じくらいか、それより少し高いくらい。年齢は20代前半だと思うけど、よくわからない。
 短パンに真っ青なTシャツは理解に苦しむセンスだけれど、部屋着なんだと割り切る。そんなことより気になったのは、感情の落ちた表情とどこか冷たい眼差し。
「リンちゃんね。いらっしゃい。入って」
 さっきよりは幾分柔らかな声でそう言って、ノヒラさんは大きめにドアを開けた。
 背筋を伝った汗は暑さのせいだろうか。
 この人の「需要」はなんだろう。まったくわからない。だけど、それが面白い……と言い聞かせて、わたしは無理矢理笑って見せた。
「お世話になります!」
 大丈夫。大抵のことは面白いんだ。