リシィルは本を読んでいた手をはたと止め、顔を上げた。
一瞬強く吹いた風は、普通の風ではない。身体を流れる魔力でのみ感じる精霊の風。それがラカザウ山地の方から、多量の精霊を運んで吹いた。
ラカザウ山地。そこに今、妹がいる。
「ユエナ……」
リシィルは不安げに顔を歪めた。
それは一瞬の出来事だった。
兵士達が固唾を呑んで見守る中、ユエナはもう三十分も戦い続けていた。
相手は火竜。それだけでユエナの二十倍はあろうかという巨大な翼をはためかせて、火竜は目の前の卑小な生き物に飛びかかった。
その巨体からは信じられない速さ。
辛うじて躱したユエナは、風圧で岩壁に叩きつけられた。
「ユエナ様!」
慌てて駆け寄る兵士達。そんな彼らをユエナが制した。
「来ないで!」
よろよろと立ち上がり、火竜を睨めて再び剣を構える。
「来ないでね……あんたたちのかなう相手じゃない」
ユエナは駆け、火竜に正面から挑みかかる。無謀とも言える特攻。
火竜はそれを待っていたと言わんばかりに、巨大な口を開く。その奥底で赤々と揺らめくのは炎。
その時、風が吹いた。火の精霊を吹き飛ばして、強く、あたかもユエナを護るように。
火竜が何をしようとしていたのか知る者はない。彼の奥の手は、その生涯一度として人間に対して使われることがなかったから。
ユエナの剣が、火竜の額を貫いた。
風は精霊を乗せて、大陸を吹き抜ける……。
(おかしい……)
他の人々と同様、ずっと精霊の恩恵を受け続けてきた一介の学者ウェリアが、ふとそれを疑問に思ったのは、奇しくもその日のことだった。
(一体精霊達はどうして私たちに力を貸しれくれてるのかしら……)
それを調べるべく、街の国立図書館に向かう彼女の心の中を、風が吹き抜ける。
やがて、ウェリアは図書館に入った。
この日はまだ昼だというのに閑散としており、館内には、研究用に設けられた机に少年が一人座っているだけで、他には誰もいなかった。
ウェリアは何気なく少年の横を通り、ふと足を止めた。熱心に少年の読んでいる本、それが彼女の読みたい本だったから。
「あの、その本に興味があるのですか?」
自分でも驚くほどごく自然に、その言葉が口から発せられた。
少年は上目遣いで彼女を見上げると、再び本に視線を落として、無気力な声で答えた。
「うん。ちょっと気になることがあって……」
「そうですか。私も気になることがあるんです。ちょっとだけ」
ウェリアはそう言うと、少年の前の席に腰掛けた。
少年の読んでいた本。それは決して、大の大人が研究の際に読むような本ではなかった。
子供向けの小説。表紙には大きな文字でこう書かれている……。
『少女セリシアの物語』と。
風は山を越え、草原を駆け抜ける。
「ん? どうした?」
突然立ち止まったルークスを訝しげに見上げた後、フィリーゼは変化に気が付いた。
「いや、風がな……」
呟くルークスの声を聞きながら、フィリーゼは腰の袋から虹色に輝く石を取り出した。
魔壊石。
精霊に対して力を示す不思議なこの石が、いつもより温かく、そして眩しく輝いていた。
「何かが起ころうとしている……」
風は吹き、集い、散る。
精霊宮の屋上で、若者は風を見つめていた。
自らの喚びかけに応えて集う精霊たち。
「そろそろか……」
再び彼は動く。急ぎすぎた一度目から遙か長い時を経て。
「セリシア……人間どもの最期の時を、しっかりと見ていなよ」
二年後……。
小高い丘の上に立ち、四人は眼下の光景を見つめていた。荒れ狂う精霊力に押し潰された小さな漁村。
「やはり精霊力が強まっている」
重々しいフィリーゼの呟きに、応えてウェリアが言う。
「急ぎましょう……。これはまだ来るべき滅亡の、ほんの前兆に過ぎません。私たちには、そしてこの国には、もはや一刻の猶予も許されてはいないはず……」
四人は頷き合い、再び歩き出す。
風は吹く。精霊の国ミナスレイアを。破滅と、そして希望を乗せて。
Fin