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第6話 誕生日
 6月第2週の日曜日。奈都の誕生日。中3の去年は平日で、学校帰りに2人で過ごしたが、今年は涼夏が誕生日会を企画してくれた。企画と言っても4人で集まって遊んで、プレゼントを渡すだけだが、それでも十分嬉しい。肝心な本人はどう思っているか、涼夏自身も気にしていたが、聞いてみたら素直に喜んでいた。
「バトン部でも私の誕生日を知ってる子はいるけど、わざわざ休日まで使って祝ってくれる子はいないしね」
 涼夏に誘われた翌日の朝、奈都はそう言って声を弾ませた。もちろんそれは、バトン部の子が単に迷惑ではないかと気を遣っただけかもしれないが、涼夏のように一歩踏み込まなければ仲は深まらない。涼夏は絢音とは別の意味で距離感が近い。私にはそれがとても嬉しい。
 日曜日当日、大人っぽいブラウスに可愛めのスカートを穿いて外に出た。微妙に合っていない気もするが、所持しているアイテムが少ないから仕方ない。メイクは目はいじらずに肌を整える程度で。主役がすっぴんなのに、私たちが気合を入れるのは良くないと、涼夏と事前に取り決めた。
 駅で先に待っていた奈都が、私を見て顔を綻ばせた。
「おはよう。スカート可愛いね」
「おはよ。まあ、一応、ちょっとオシャレを?」
「チサがスカート穿いてるところなんて、見たことがない」
「いや、結構穿いてる。なんならワンピースとかも着る。っていうか、学校じゃいつもスカートだし」
 奈都のよくわからない振りに冷静に返すと、言い出しっぺは楽しそうに微笑んだ。調子も機嫌も良さそうだ。
 格好はパーカーにショートパンツにスニーカー。素材がもったいなくて仕方ないが、似合っていないわけでもないのがまた悔しい。この子は一生、ガーリーな格好をしない気がする。
 待ち合わせの恵坂までイエローラインで一本。絢音と涼夏は先に来ていて、私たちを見つけて手を振った。絢音は意外と短いスカートと、底が厚めの靴を履いて、いつもより少し視線が高い。涼夏は元気なパンツルックで、約束通り目力弱めなメイクだが、それでもやはり圧倒的に可愛い。
 私がじっと見つめると、涼夏は恥ずかしそうに顔を隠した。
「なんか、いつもメイクしてると、メイク無しで人と会えなくなる」
「私は涼夏もチサも、そのままで十分可愛いと思うけど」
 奈都が呆れたようにそう言って、隣で絢音が苦笑いを浮かべた。すっぴんでも高校生としては可愛い部類だろうし、男子にモテたいわけでもない。ただ、可愛くありたいという自己満足だから、こればかりは他人からの評価はあまり関係がない。
「まあでも、私もいつかは必要になるだろうし、その時は教えてね」
 涼夏に余計な言い訳をさせることなく、奈都が見事に話を終わらせた。「もちろん!」と頷く涼夏を見てほっと息をつく。こういう自分経由で知り合った輪を繋げるのは緊張するが、この二人に関しては心配する必要はなさそうだ。
「西畑さん、学校とは印象が違うね」
 奈都が絢音に微笑む。私は絢音とも休日に何度か遊んでいるが、このメンバーで会うのは今日が初めてだ。絢音は服を見せるように半身だけ振り返るポーズをした。
「今日はちょっと女の子。今澤さんは印象通りボーイッシュだね。いい意味で」
「いい意味でって、いい意味なの?」
「いい意味で」
 絢音がくすっと笑って、奈都も可笑しそうに顔を綻ばせた。そんな二人の様子を見ていた涼夏が、笑顔でポンと手を打った。
「名前の呼び方、今日から変えたら?」
 唐突な提案。
 絢音が「あー」とふんわりとした相槌を打って、私はゴクリと息を呑んだ。まだ付き合いの短い奈都と絢音は、お互いを名字で呼び合っている。涼夏にはそれが少し他人行儀に感じたのだろう。
 ただ、絢音は抱きついて耳に舌を入れてくるような子だが、すべて考えた上で距離を縮めている。奈都との距離だって考えていないはずがない。涼夏もそれはわかっているはずだ。それでも敢えてそう言ったのは、絢音が思うより行けると考えたのか、それとももっと踏み込んで欲しいというただの希望か。
 いずれにせよ、奈都の前で言われた以上、絢音にそれを拒否するという選択はない。ハラハラしながら見守っていると、絢音は明るい笑顔で奈都を見つめた。
「どうしよっか。ナッちゃんは二番煎じだから、カタカナでナツにする?」
「カタカナとか平仮名とかわかるの?」
「奈都とナツじゃ、響きが違うでしょ?」
「私には違いが微妙すぎてわかんないけど、カタカナでいいよ。私はアヤにしようかな。千紗都はチサだし」
 そう言って笑う奈都に、絢音が握手を求めるように手を差し出した。奈都がその手を握って、絢音が満足そうに頷く。ボディータッチ計画の第一歩だ。私や涼夏とも、この握手から始まった。
「その流れだと、私はスズじゃないの?」
 涼夏が不満げに唇を尖らせた。涼夏だけは何故かそのまま涼夏と呼ばれている。奈都が困ったように笑った。
「えっと、スズって響きが、これは私のとっても個人的な意見なんだけど、あんまり可愛く感じなくて」
「わかる。ちょっとおばさんっぽいよね」
 せっかく奈都が10枚くらいオブラートに包んだのに、本人がはっきりとそう言って、奈都があははと乾いた笑みを浮かべた。とりあえず全国のすずさん、うちの涼夏がごめんなさい。帰宅部の部長として、私は心の中で陳謝した。

 遊びの一発目はカラオケである。昼になると混むし、午前から入ると安いと言って、涼夏が意気揚々と私たちをカラオケ店に連れて来た。混むからと言いながら、ちゃんと予約してあるのがこの子の偉いところだ。私はお店に電話をするとか苦手なのだが、客商売のバイトをしている涼夏にはどうと言うことはないのだろう。こういう些細なところでとても大人に感じる。
 カラオケは帰宅部でも定番の遊びである。3人で来ることもあるし、涼夏や絢音と二人だけの時もある。いずれにせよ利用頻度は高いが、奈都と二人で遊ぶ時に選択することはほとんどない。別にお互い歌が嫌いでも苦手でもないのだが、あまり話せないし、お金もかかる。それに、曲の趣味にもズレがある。
 カラオケという場所は、交流を目的に入るには、若干不向きだと感じる。一体涼夏はどうするつもりなのだろう。ドキドキしながら成り行きを見守っていると、絢音が小さく笑って私の耳に顔を寄せた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「たぶんね。でも、私の友達をくっつけるのに、私が自分で動かなかったのは失敗だった」
「こういう時は自分で仕切った方が安心かもね。今日は涼夏に任せてみたら?」
 絢音がそう言って、二人に気付かれないように私の背中を柔らかく撫でた。その言葉と手の温もりに、私は少しだけ安心して息を吐いた。絢音がそう言ったということは、少なくとも先ほどの呼び方の提案は、絢音的にはOKだったということだ。
 ドリンクを持って部屋に入ると、涼夏がどっかりと腰を下ろしてリモコンをテーブルに置いた。
「リモコン、回す? 適当に入れて適当に歌う?」
「適当でいいよ。私、そんなにレパートリーがない」
 真っ先に奈都が答える。奈都がそれを自然に主張できる流れを作ってくれたことに、私は内心で感謝を捧げた。奈都のことはまだよく知らないだろうに、涼夏は大雑把を装いながら、すごく繊細に事を進めている。しかも、恐らく無意識に。涼夏が普通に振る舞えば、当たり前にこうなるのだ。
「ナツは何を歌うの?」
 絢音がリモコンをポチポチしながら聞くと、奈都はほんの一瞬考える素振りをしてから、何でもないように言った。
「アニソンとかかな」
 言うんだ。空気がピリッと張ったのは、私が息を呑んだせいかもしれない。もちろん私は知っていたが、それをまだあまり仲が深まっていない二人に、いきなり言うとは思わなかった。いや、そもそもそう考えてしまう時点で、私がアニソンが好きだという人に偏見を持っているのかもしれない。
 涼夏が「へー」と呟いてから、まばたきをして奈都を見つめた。
「今日は意外なナッちゃんが知れて楽しいよ」
「よく言われる。アニメをそんなに見るわけでもないんだけど、声優さんとかアニソン歌手とか好きかな。涼夏は?」
「アニソン好きって友達もたくさんいるから、何の偏見もないけど、私は聴かない」
「じゃあ、チサと同じだ。涼夏とチサは、色んなところが似てる」
「それなら、私とナッちゃんも愛し合えるね」
 そう言って会話を締め括った涼夏の見事さに、私は拍手を贈りたくなった。私なら今の会話を、ポジティブな内容で終わらせる自信がなかった。
「涼夏、抱きしめていい?」
 私が感動に震える声でそう言うと、涼夏がギョッとした目で私を見て体を震わせた。
「いや、マジで意味わからん。千紗都の思考回路って、一体どうなってんの?」
 隣で奈都も、何言ってんだこいつという目で私を見ている。絢音が一人平然とリモコンを掲げて、曲を入れてマイクを取った。
「じゃあ、アニソンにも理解のある私が歌おう」
 誰もが聴いたことがあるが、曲調も年代も古くないアニメソング。奈都もよくカラオケで歌っているが、果たして絢音と一緒に歌う気になるか。
 絢音が歌い始めた瞬間、奈都が驚いたように目を丸くした。
「えっ? うま……」
 思わずというように漏れたその呟きに、私は自分のことのように鼻を高くした。絢音は歌が上手い。音程の正確さに加えて、日頃の絢音からでは想像もつかない声量。低音は太くて落ち着きがあり、高音はファルセットから透明に抜けていく。私も涼夏も最初は面食らったし、一緒に歌うのが恥ずかしくなったが、もう慣れた。奈都にも慣れてもらおう。
「めちゃめちゃ上手いじゃん。びっくりした」
 歌い終わった後、小さく拍手する奈都に、絢音は満足そうに笑った。
「ボーカルだからね」
「何のだよ」
 涼夏がくすくすと笑いながら、動画サイトで話題の有名曲を入れた。奈都の言う通り、私と涼夏は好きな曲も、音楽との接し方も似ている。動画サイトで再生数の多い曲を聴く。だから、テレビでよく耳にするアーティストではないが、何百万回再生というような、ややサブカル寄りの選曲になる。
 最近の中高生はみんなそんなものだ。CDは高いし、動画サイトには素敵な曲が溢れている。PV・MV付きでフルで聴ける曲もたくさんある。それも、違法アップロードではなく、公式チャンネルで公開されているものだ。アーティストも最初から私たちのような人間をターゲットにしているし、結果的にそれで収入も得ている。
 涼夏の歌が普通だったからか、奈都がほっと息を吐いた。「失礼だなぁ」と涼夏が小突くが、それで奈都も歌いやすくなっただろう。
 初めての4人でのカラオケは、私の心配とは裏腹に、和やかに進んだ。絢音の言う通り、涼夏に任せておけばいいのだ。この子は私が考える以上にすごいのだと、改めて思い知った。
 カラオケの最中、奈都がトイレで席を外した時に、涼夏に「今日、どう?」と短く聞いてみた。涼夏は私の質問の意図を汲み取ったのか、ニタリと笑って言った。
「今日は本気でナッちゃんを落としにいく。私はあの子が帰宅部に欲しい」
「トップヒエラルキーの涼夏に本気で落とされるとか、奈都は幸せ者だ」
「だったら千紗都も幸せ者でしょ」
 おどけるようにそう言って、涼夏が明るく笑った。すでにキスのことは知っているらしく、絢音が笑いを堪えるように肩を震わせる。まったく変な子たちだが、とりあえずいつもの帰宅部の空気が何も変わっていないことに、私はほっと胸を撫で下ろした。

 カラオケは3時間で打ち切って店を出た。4人もいるといつまでも歌っていられそうだったが、今日の目的は奈都の誕生祝いであり、親睦会である。歌って終わりではもったいない。
 お腹が空いたので、いつもと同じファミレスに入って、いつもとは違うものを注文した。
「それだけで溢れる特別感」
 涼夏が満足そうに言いながら、ドリンクを取りに行った。奈都がヒラヒラっと手を振ってから、可愛らしく眉尻を下げた。
「涼夏って勢いがあるよね」
 そう言って苦笑いを浮かべるが、表情は柔らかく、困っている様子はない。奈都も元気で求心力のある子だが、性格がぶつかるタイプではない。その点では、涼夏の方が付き合う相手を選ぶかもしれない。
 ジュースで乾杯すると、改めて奈都の誕生日を祝った。引っ張ってもしょうがないと、涼夏が真っ先にプレゼントを出して奈都に渡す。すぐに開封を要求するのがいかにも涼夏らしい。箱を開けると、シンプルな白のハンドタオルに、奈都の名前が刺繍してあった。
「何これ、可愛い。涼夏が刺繍したの?」
 奈都が驚いたように目を丸くする。私も隣からまじまじと覗き込みながら、思わず感嘆の声を漏らした。「当然」と胸を張る涼夏が眩しい。この容姿、この明るさ、この気遣いに、この女子力。
「涼夏って欠点はないの?」
 私が遠くに行ってしまう恋人を見送るように、寂しそうに目を細めると、涼夏はつまらなそうに手を振った。
「運動は全然だね。よく誤解されるけど」
「確かに、すごく速く走れそう」
「走るなんて文明人のすることじゃない。ナッちゃんはずっとバトン?」
「中学はバドミントン部だったよ」
 サラッとそう言って、涼夏と絢音が「へー」っと感心したように相槌を打った。その様子を見て、奈都が二人に気づかれないように、チラリと私を見た。話していないのか、どこまで話していいのか。目でそう訴える。
 私と奈都はそもそも同じバドミントン部で仲良くなり、今に至っている。ただ、私は大した成績を残していないし、途中で辞めたこともあって、二人には積極的にその話をしていない。
「中学、同じ部だったんだよ。私は中2で辞めたけど、奈都は3年の時、部長をやってた」
 なんでもないようにそう言うと、涼夏が驚いたように身を乗り出した。
「えっ? 6月にもなって、何その新情報」
「奥深さの演出だから」
「要らんわー、それ。私が実は料理部でしたと同じくらいの新情報」
「涼夏、料理部だったの?」
「私の話はいいから。千紗都がバドミントンねぇ……。まったく想像できない」
 涼夏が同意を求めるように絢音を見ると、絢音もその通りだと大きく頷いた。失礼な連中だ。
「まあでも、試合に出たこともないし、いただけだよ」
 私の話はいい。私が話題を変えたがっているのを察したのか、絢音が話を断ち切るようにプレゼントを取り出した。
「これ、私から」
 同じように包みを開けると、中身は手帳だった。絢音らしいといえば絢音らしいが、デザインがなかなかガーリーで、奈都のために買ったようにも、絢音の趣味で選んだようにも見えない。「ありがとう」と顔を綻ばせる奈都の隣で冷静にそう指摘すると、絢音は可愛らしく首を傾げた。
「私の趣味だよ。今日の格好には合いそうでしょ?」
「そう言われるとそっか」
 普段が大人しいのでギャップがあるが、確かに絢音は派手で可愛いものが好きかもしれない。ただ、学校でもシンプルなアイテムしか使っていないし、やはり西畑絢音という人間は私にはいささか難しい。
「それで、正妻は?」
 涼夏が身を乗り出して、ニヤけた顔で私を見た。無造作に私のファーストキスを奪っておきながら、あくまで自分は愛人扱いらしい。私がさらっと流してリュックを開けると、奈都が私を見てはにかんだ。
「私、正妻なの?」
「そうらしいよ? 幸せにしてね」
 冗談めかしてそう言いながら、プレゼントを渡す。選んだのはブレスレットで、大人っぽくなりすぎないよう、奈都が好きなクマをモチーフにした可愛いものにした。同じものを色違いで2つ。奈都が片手に一つずつ取ると、絢音が艶っぽい微笑みを浮かべた。
「まさかのペアアクセサリーで、正妻感を出してきたね」
「あー、2つあるの、そういうこと?」
 涼夏がようやく気付いたと、手の平をパチンと合わせた。私はなんだか恥ずかしくなってそっぽを向いた。
「買ったのが、涼夏が誕生日会をするって言い出す前だったの」
「ひっそり告白する予定が、公開処刑になったわけだ」
 涼夏がマンガのようにカッカッカと笑って、意味もなく隣の絢音の肩に額をグリグリと押し付けた。見ていて恥ずかしいアピールだろうか。
「涼夏が言った後だったら、違うのにしたの?」
 奈都が両方とも手首につけながら、いたずらっぽく笑った。少し日に焼けた奈都の手首で、2色のブレスレットが光る。色味以前に、そもそもアクセサリーをつける子ではないので違和感を覚えるが、それは私が奈都の習慣を知っているからだろう。似合っていないわけではないはずだ。
「それはわかんない。どっちがいい?」
「私にはよくわかんないから、チサが似合うと思った方で」
「じゃあ、オレンジが奈都で、シルバーを私のにする」
 奈都の腕から片方外して自分の腕につけた。もう少し何でもないイベントになるはずだったが、友達の前だと妙に恥ずかしい。こうなることは少し考えれば予想できたから、何かもう一つ、みんなの前で渡す用のプレゼントも用意すればよかった。そんな予算はなかったが。
「みんな、ありがとう。私、涼夏とアヤの誕生日、知らないや」
「教える教える。ついでに連絡先も交換しよう!」
 涼夏がスマホを取り出してテーブルに身を乗り出した。隣で絢音もQRコードを表示する。
 本当に、私が想像した通り、奈都はこの輪にとても自然に馴染んでいる。ここが仲良くなってくれると、色々な組み合わせで遊びやすくなるから嬉しい。
 少しだけ私だけの奈都が知られていくのが寂しいけれど、そもそも奈都は部活もしているし、私よりずっと友達が多い。正妻と言われて笑ってくれる関係をこれからも築いていかなければと、奈都の笑顔を眺めながら私は改めて決意した。

 時間を忘れて遊んでいたら夜になっていた。もう何年も一緒にいるかのような奈都の馴染み方に、涼夏が得意気に言った。
「帰宅部、居心地いいでしょ」
 随分直接的な勧誘だ。
「そうだね。土日は私も暇してるから、また遊んでほしいな」
 奈都がにっこり笑って、するりとかわした。バトン部は辞めない。遠回しな宣言を、もちろん涼夏も理解しただろうが、残念がる素振りも見せずに「じゃあまた遊ぼう」と笑った。さっぱりした子だ。
 絢音が「またね」と手を振ると、奈都がいたずらっぽい目をした。
「私にはハグはなし? 帰宅部オンリームーブ?」
 らしくない、と言うと奈都に失礼かもしれないが、意外な発言だったので驚いて眉を上げると、絢音はくすっと笑ってふわりと奈都の体を抱きしめた。
「してもいいなら、しようかな」
「ハグは健康にいいってアヤが言ってたってチサが言ってた」
 奈都が優しく絢音の背中を抱きしめる。それを見ながら、涼夏が小さく噴いて奈都の背中を軽く叩いた。
「聞いただけじゃなくて、実践したんでしょ? 千紗都とベッドで1時間以上抱き合ってたって!」
「ちょっ、チサ、何話してるの!?」
 奈都が絢音の体を離して、顔を真っ赤にして私に詰め寄った。私は両手を広げて非難げに涼夏を睨んだ。
「なんで言うの?」
「それは私の台詞だから! なんで言うの!? 恥ずかしいじゃん! っていうか、だから私正妻扱いなの?」
 奈都が私の発言にかぶせた上、一人でベラベラ喋りながら、両手でくしゃっと髪を掴んでブンブンと頭を横に振った。カラオケでの涼夏の発言ではないが、今日は色々な奈都が見られて楽しい。
 二人と別れると、イエローラインで家路についた。ブレスレットをつけた手を握り合って、最寄り駅まで何を話すでもなく、ぐったりと肩を寄せ合って過ごす。電車の騒音から解放されると、奈都が星空を見上げながら気持ち良さそうに両腕を伸ばした。
「今日は楽しかった」
「それなら良かった。二人はどうだった?」
「いい子たちだね。あの二人になら、安心してチサを任せられる」
 奈都が明るい声でそう言った。私はピクリと眉を動かして奈都を見た。
「それは、どういう意味?」
 思わず声が低くなる。奈都は「ん?」と不思議そうに私を見て首を傾げた。
「いや、別に、あの子たちがいたら、もう私はいなくてもいいのかなって」
 いきなり、顔面を思い切り殴られたようなショックを受けた。今日楽しかったすべてが台無しになるような発言だ。私はそんなつもりで奈都を二人と引き合わせたわけではない。
 感情的に怒鳴りつけてやろうと思ったが、言葉が出て来なくて、代わりにボロボロと涙が溢れてきた。嗚咽が漏れて、奈都が驚いた顔をして私の手を取った。
「ちょっと待って! 何か勘違いしてる!」
「あんまりだよ……。せっかく、楽しかったのに……」
 情けないほど声が震えて、大粒の涙がアスファルトの上に点々と染みを作った。奈都が完全にテンパった様子で、私を駅から離れたところに引っ張って行くと、勢いよく私の体を抱きしめた。
「ほんとに、待って。チサ、ずっと私しかいなくて、でも私部活やってるし、仲のいい友達ができて良かったねって……」
「意味わかんない。涼夏だって、私だって、奈都に帰宅部に入って欲しくて……もっとそばにいたくて、だから今日だって一緒に遊んだのに、奈都は私から離れることばかりする……」
「誤解だから! 大体、チサに友達がいないから、私はユナ高にしたんだよ? そんな私が、チサを見捨てると思う?」
 奈都が励ますようにそう言ったが、私はその言葉に眩暈がして、膝から崩れ落ちそうになった。
「私に友達がいないから、奈都、ユナ高にしたの……?」
「あー、違う。違う。さっきから私の使ってる言葉が悪い。私が悪い。ごめん。全然真意が伝わってない」
 ガクガク震える私の体を、奈都が苦しいほど強く抱きしめる。体が熱い。しかし、心が冷え切ってただ涙が溢れて来る。
 しばらく泣きながら奈都の胸にすがりついていると、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。奈都が私の髪を撫でながら、大きく息を吐いた。
「えっと、私はチサが大好きで、チサに新しい友達ができて、ちょっと寂しいっていうことが言いたかったの」
「全然、違うじゃん……」
 にわかには信じられない。私を傷付けたから、調子のいいことを言っているだけに聞こえる。涙目で睨み付けると、奈都は困ったように表情を曇らせて私の顔に頬を寄せた。
「単なる嫉妬だって。もう私なんて必要ないんだね、なんて、完全にツンデレのテンプレートじゃん。笑い飛ばして欲しかったのに号泣するとか、ひどくない?」
「私は1ミリも悪くない」
「はい。全部私が悪いです。ごめんなさい」
 奈都が素直に謝ってしゅんとする。私は体を離して涙を拭った。鼻をかんで呼吸を落ち着けると、改めて奈都を睨んだ。
「今度また1時間ハグね。それくらいしないと、私の傷付いた心は回復しない」
「わかった。それは、喜んで」
 奈都が顔を赤くして頷く。本当に大丈夫なのだろうか。もう一度、ブレスレットをつけた手を握り合って歩き出す。
 奈都が私を好きなのは嘘ではないと思う。ただ、私が奈都を好きなほどではない。私は勝手にそう思っているが、意外と奈都も私のことが大好きなのだろうか。
 今度部屋でハグしてる時、涼夏の言っていた初めての舌を捧げてみようか。いや、それは急すぎるか。
 そんなことを考えていたら、不意に絢音の顔が頭に浮かんだ。なるほど。ボディータッチ計画とはこういうことかもしれない。絢音もこんなふうに、どこまで相手に触れられるかを考えているのだとしたら、相当私のことが好きということになる。
 ぼんやりそんなことを考えていたら、奈都がほっと息を吐いた。
「もう大丈夫そうだね。いつものチサの顔になってる」
「うん。奈都なしで生きていく決意をした」
「そんなこと言わないで。今度は私が泣くよ?」
「私、奈都が泣いてるとこ、見たことがないや。私ばっかり泣いてる気がする」
 それは随分と不公平ではないか。号泣している奈都を見てみたい気もするが、悲しい思いはして欲しくないし、可哀想な目に遭って欲しくもない。
 別れ道で一度だけ聞いてみた。
「帰宅部に入らない?」
 もちろん、答えはわかっている。
「私、部活動がやりたいんだよ」
「帰宅部じゃダメ?」
「それは部活じゃないでしょ。帰宅コミュニティーみたいな?」
「まあ、そうだけど」
 私が俯いて拗ねたように唇を尖らせると、奈都はくすっと笑って私の手を引いた。そして、よろめく私の頬に唇をつけて、甘い声で囁いた。
「でも、本当にチサがあの二人に取られそうになったら、奪い返しに行くから」
 トクンと胸が高鳴った。惚けている私を軽く抱きしめてから、奈都が笑顔で手を振った。
「プレゼントありがとう。今度、少しくらい女の子っぽい格好もしてみるよ!」
 照れ隠しか、奈都が元気に走っていく。その背中をぼんやりと見送りながら、頬に手を当てた。
 まだ奈都の唇の感触が残っている。ああいう行動をする子ではなかったと思うが、もしかしたら本当に、私を涼夏と絢音に取られると焦ったのかもしれない。
 取るも取られるも、友達を一人に絞る気などさらさらないのだが、余裕のない奈都も可愛い。泣かされた仕返しに、少しいじめてやろう。正妻だし、それくらいしても罰は当たるまい。