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第8話 バンド
 ユナ高の昼食の時間は12時半から13時。言うまでもなく、同じクラスの帰宅部3人で食べることが多いが、涼夏は他の子に引っ張って行かれることもある。絢音とは席が前後だし、狭くて深い人付き合いをしていることもあって、毎日一緒に食べている。
 食事の後は、5時間目が始まるまで喋っていることもあるが、仮眠を取ることもある。今日は食べ終わってすぐ、机に突っ伏して休んでいた。今日は絢音の塾がない日なので、どうせ授業が終わったらまた何時間も一緒に過ごすことになる。残り2時間の授業のために、ここは睡眠の一手だと睡魔に身を委ねていると、背中から絢音を呼ぶ聞き慣れない声がした。
「絢音、今ちょっといい?」
「ん? いいよ」
 声だけでは断言できないが、絢音と同じ中学出身の子だろう。私でいうところの奈都のような存在だ。絢音は私と同じで、クラスに名前で呼び合うような友達を、私と涼夏の他に作っていない。
 机に突っ伏したままなんとなく耳をそばだてると、女の子がいきなりおよそ絢音とは縁遠い単語を口にした。
「まだギター弾いてるよね? ちょっとバンド手伝ってくれない?」
「詳しく」
「夏休み入ってすぐに、サマセミがあるじゃん? そのステージ企画で演奏するんだけど、絢音の力が借りたい」
「ギターで?」
「出来ればボーカルも。むしろメインで」
「ボーカルはバンドの顔でしょ? 飛び入りの私がセンターで歌ってたら変でしょ」
「私たちの真ん中に絢音がいることの、どこに違和感があるっていうの?」
「ありまくりだから」
 なんだろうこの会話は。私は頭に千個くらい疑問符を浮かべた。本当に今、後ろの席に座っているのは、私のよく知っているハグ魔の友達だろうか。もしかしたら、絢音は席を外していて、全然別の子が座っているのではないか。
「演奏の質は上がってきたけど、ボーカルが一番弱いっていうね。なんか、絢音がいないから仕方なく代理で歌ってる感」
「まだ朱未が歌ってるの?」
「ぶっちゃけ、そう。下手なわけじゃないんだよ? ただ、絢音と比べるとさぁ、どうしても」
「いい音楽を聴かせたいの? それとも、自分たちの演奏を聴いてほしいの?」
「言いたいことはわかる。自分たちのバンドでいい音楽を聴かせたい」
「私はもうバンドメンバーじゃない」
「リーダーは休止中なんだよ。とにかく、今回だけ。一回来てみて。塾のない日は暇してるんでしょ?」
「全力で帰宅してるから、暇はしてない。わかった。ちょっと考えて連絡する」
「ありがとう! 絢音、愛してる!」
 不穏なことを言い放って、女の子は教室から出て行った。私はそれを気配で感じながら、顔を上げるか迷っていた。情報量が多すぎて混乱している。絢音が今もギターを弾いているとか、バンドをしていたとか、聞いたことがない。涼夏は知っているのだろうか。伊達眼鏡の時のように、また私だけ知らなかったのだろうか。
 ドキドキしていたら、いきなり背中を指でなぞられて、私は悲鳴を上げながら体を起こした。弾かれるように振り返ると、絢音が机に肘をついて、にこにこしながら私を見つめていた。
「聞いてたんでしょ?」
「まあ……。バンドやってたの?」
「カラオケに行くたびに、私はボーカルだって言ってたと思うけど」
「いや、そこから推測するのは無理だから!」
 思わず声を上げると、絢音は可笑しそうにふふっと笑った。確かに絢音は歌がめちゃくちゃ上手だし、自分はボーカルだからと笑っていた。ヒトカラにもよく行っている。だが、それだけでギターを弾いてバンドで歌っていたなどと、今の絢音からどうしたら想像できるというのか。
「また帰りに話すよ。千紗都に相談せずに決めたくないし」
 絢音がそう言うと、丁度チャイムが鳴った。私は釈然としないまま、一旦その話は保留にした。

 帰り道。今日は涼夏はバイトがあり、当初の予定では図書室で勉強しようと話していたが、涼夏にも聞いてほしいと絢音が言って、古沼まで歩くことにした。
 絢音がバンドをしていたことは涼夏も知らなかったが、私より驚いた様子はなく、「歌上手いもんね」と笑顔を輝かせた。柔軟で好奇心旺盛なのか、それとも絢音に興味がないのか。恐らく前者だろう。
 絢音は相変わらず子供のように両手で私たちの手を握りながら、懐かしむような目で言った。
「歌が好きだったし、家にギターがあったから、私がバンドを作ったんだよ」
「絢音が作ったの? メンバーの一人とかじゃなくて?」
「そう。中学の時は自分から積極的に色々やってたんだけど、だんだん自分はこうじゃないってわかってきて、卒業と同時にバンドを辞めて、今に至る。私の話はこれでおしまい」
「いや、短いでしょ!」
 涼夏がそう言って、自分の言葉にウケたように肩を震わせた。確かに短いが、要約としては完璧だった。前に絢音は、自分で決断するのは苦手だと話していた。意見を言うことが苦手、だったかもしれない。読書感想文に喩えていた。
 実際、今まで一緒にいて、絢音は私や涼夏についてくるだけだし、それを心から楽しんでいるように見える。改めて尋ねると、絢音は肯定するように頷いた。
「そう。涼夏や千紗都に手を引かれてると、ああ、これが私だって感じる。やれることとやりたいことは違う」
「でも、音楽は好きなんでしょ?」
「そうだね。今でもギター持ってカラオケに行ったりするし。だから、ちょっと迷ってる。自分から率先してやらなくていいバンド活動なら、しかもお試しの1回なら、手伝ってもいいかなって」
 絢音がギターを弾きながらセンターで歌う。それは見てみたい気がする。サマセミは参加する気はなかったが、もし絢音がバンドで出るなら、涼夏と一緒に行ってみるのも面白いかもしれない。
「じゃあ、考えることないじゃん」
 応援するようにそう言うと、絢音が心の奥まで見透かすように私を見た。
「OKしたら、しばらく帰宅部の活動に出られなくなる」
 冷静に告げられたその言葉に、私は思わず息を呑んだ。涼夏はこの流れを予想していたようで、心配そうに私を見つめていた。
「そんな、私のことは、別に……」
 恥ずかしいほど動揺しながら言葉を絞り出すと、絢音が射るような視線を私にぶつけた。
「千紗都がまた一人で寂しくて、涼夏のバイト先に押しかけて叩いてほしいとか懇願するトンデモ展開も、まあ私はそれはそれで面白いとは思うけど……」
「全然面白くないから! ホラーだったから!」
 涼夏が声を荒げて顔を赤くした。あの日は寂しくて涼夏に会いに行ったわけではないが、寂しかったせいでナンパに引っかかりそうになり、それを叱ってもらうために行ったので、大して変わらない。結局2日ほど頬の腫れが引かず、奈都にも泣きそうな顔で心配されるし、クラスでは色々噂されるし、涼夏にもこのままだったらどうしようと泣かれるし、もう二度と叩かれるのは止めようと心に誓った。
 絢音はくすっと笑って続けた。
「私も千紗都と一緒にいたいよ? でもまあ、たぶん夏休みもいっぱい遊ぶことになるだろうし、千紗都が良かったら、ほんの数週間、帰宅部を休部してもいいかなって」
 サマセミまでもうひと月を切っている。出演するなら、相当練習しなくてはいけないだろう。だから恐らく、平日私とは遊べなくなる。
 だが、たった数週間とも言える。バイトのない日は涼夏と遊べるし、それくらい我慢できないようでは、この先、生きていけない。
「私は大丈夫だよ。私はちょっと、二人に甘えすぎてるし……」
「そうじゃなくて!」
「それはいいから!」
 二人の声が綺麗に重なった。驚いて顔を上げると、涼夏が慌てた様子で口を開いた。
「どんどん甘えてくれていいよ。私はむしろ、千紗都に私たちが必要なくなるのが嫌」
「うん。もし千紗都に、私たちの他に心の拠り所ができちゃうなら、私は今回の話を断る」
 二人が鼻息を荒くして、私は思わず頭を抱えた。
「一体私はどうすればいいの?」
「それを今日、協議したい」
 絢音がにっこりと笑って、涼夏が任せたというように絢音の背中をバシッと叩いた。

 バイトに行く涼夏と別れて二人になると、絢音はいつものように私の手を握って、餌を欲しがる猫のように私を見上げた。今日は絢音から話をしてくれるのではないかと、無言で絢音の顔を見つめていたら、しばらく睨めっこした後、絢音がほのかに頬を染めた。
「やっぱり千紗都の顔、可愛い」
「いや、今そういうのはいいから」
 冷静に手を振ると、絢音がいたずらっぽく笑った。私はやれやれとため息をついてから、適当な道を歩き出した。
「帰宅部のことは置いといて、絢音の演奏とか歌とか、ステージで見てみたいよ?」
 それは偽りのない感想だった。そもそも、絢音と涼夏には、私が寂しいかどうかで何かを決めて欲しくない。二人にとって大事な存在にはなりたいが、それは重荷になることとイコールではない。
「私も今のところ、帰宅部のこと以外に、誘いを断る理由はないかな。勝手に作って勝手に辞めた身だけど、向こうから出てほしいって言うなら、久しぶりに人前で演奏するっていう刺激もいいかも」
「私の知ってる絢音さんの発言じゃないわー。人前で演奏する刺激とか」
 想像してみたが、何も思い浮かばなかった。そもそもバンド演奏というもの自体、画面の中でしか見たことがないし、それもほとんどがプロの演奏だ。ステージで歌うのはどんな気分だろう。私は注目されるのが好きではないし、たくさんの視線を受けたら逃げ出したくなりそうだ。
「やっぱり見てみたいな。私のことはいいから。幼児じゃないんだから、別に一人で暇くらい潰せる」
「ならいいんだけど。でも、プロの演奏しか聴いたことがない人には、退屈なレベルだよ? 所詮素人なんだし」
 そう言いながら、絢音が私の手を引いて道を折れた。どこに行くのか聞いたら、近くに楽器屋があると言う。私が人生で一度も足を踏み入れたことのない場所だ。
 店に連れていかれると、ガラスの向こうにズラリとギターが並んでいた。雰囲気からすると中古店のようだ。縁のない店には入りづらい。迷うことなく自動ドアの前に立った絢音に、大人しくついて行く。
 二人でギターを眺めていると、店員さんがやってきた。絢音が試奏をお願いすると、店員さんが快くギターを取ってアンプにケーブルを差した。絢音が椅子に座って、借りたピックで弾き下ろす。スピーカーからグワンとうなるような音がした。
 演奏のテクニックはわからないが、絢音はピロピロとメロディーを奏でてからジャカジャカと弾いて、よく聴く歌を歌った。絢音の歌は相変わらず上手いし、カラオケ音源ではなく、ギターも自分で弾いているのがとにかくかっこいい。
 2番を飛ばして1曲弾き切ると、店員さんが口笛を吹いた。
「いいねぇ。バンドやってるの?」
「中学の時に。高校で辞めちゃったから、新しい友達に見せつけてみた」
「へぇ。どうだった?」
 店員さんが楽しげに私を見る。私は壊れた人形のように単調に頷いてから、どうにか喉から声を出した。
「すごかった。いつもは勉強しかしてないような、大人しい子だから」
「惚れてもいいよ?」
 絢音が誇らしげに胸を張る。もう2台ほど試奏してから、何も買わずに店を出た。いきなり行って、弾くだけ弾いて、何も買わずに帰るとか大丈夫なのかと思ったが、店員さんは「またいつでも来てね」と手を振っていた。音楽系の人のノリはよくわからない。
 なんだか胸がいっぱいで、言葉もなく歩いていたら、絢音が大きな目で私の顔を覗き込んだ。
「イメージ、湧いた?」
「うん。歌が上手なのは知ってたけど、なんか、ミュージシャンって感じだった」
「やったね」
「私の絢音が遠くに行っちゃった……」
「行ってない」
 コンビニでアイスを買って、食べながら歩いた。腰を落ち着けられそうな場所があったので座ると、私は胸に溜まった息を吐き出した。
「私さ、一人だとやることがないの」
 静かにそう話し始めると、絢音はアイスモナカをかじりながら私の横顔を見つめた。
「一人だと寂しいっていうのは、別に私だけじゃなくて、涼夏や奈都にだってあると思うし、絢音も少なからずあるよね?」
「まあ、一人は一人だけど、千紗都や涼夏といる時間の方が好きだね」
「カラオケもショッピングも小説も、何をしても一人だとダメ。音楽だって、私は音楽を聴いて楽しむっていうより、聴いた音楽の話を誰かとしてる時間が楽しい」
 何をやっても楽しめない。ため息混じりにそう独白すると、絢音は複雑な顔をした。
「そういう子は少なくないと思うよ? 趣味もなくて、家ではSNSとかゲームばっかりやってるような」
「SNSか……」
 私は苦い顔で呟いた。奈都がTwitterをやっているが、私は会うつもりもない知らない人たちと交流しようという気持ちがまるで起こらない。それならまだ、クラスメイトと仲良くした方がだいぶいいが、過去のトラウマもあってそれすらしていない。
「もっとたくさん友達を作った方がいいかな」
「私と涼夏はそれを望んでないけど、涼夏も時々一緒にご飯食べる友達とかいるし、止めはしない。ただ、もう7月だけどね」
 絢音が冷静にそう告げた。入学してから丸3ヶ月が経ち、グループは完全に出来上がっている。クラスの中で部活に入っていない3人は無事に仲良くやっているし、今さらどこかの輪に入るのは、私の動機とコミュ力では難しいだろう。
「さっきの絢音、すごかった。私には何もない」
「そう?」
「そうだよ。絢音は勉強もできるし、歌も上手でギターも弾ける。涼夏はコミュ力があって、バイトもしてて、それに料理も裁縫もできる。奈都だって部活頑張ってるし、中学の時は部長だった。前に胸張ってアニソンが好きだって言ってたのも、すごいなって思った。私はそんなに、自信を持って好きだって言えるものがない」
 今日何度目かのため息をつく。ダメだ。どんどん思考がネガティブになっていく。こういう愚痴は奈都にしかしなかったのに、いよいよ我慢ができなくなってしまった。これでもし絢音に、「こっちまで気が滅入るからやめてほしい」と言われたら、すべてが終わってしまう。
 一体どうすればいいのだろう。思わず頭を抱えると、絢音がそっと私の腰に手を回して、うっとりと微笑んだ。
「うじうじ悩んでる千紗都も可愛い」
「いや、可愛くないし。嫌いにならないの?」
「なんで? 自分の前で弱音を吐いてくれるって、すごく嬉しいことだと思うけど」
 当たり前のように絢音がそう言って、私は呆けたように絢音を見つめた。その発想はなかった。確かに、もし絢音や涼夏が何かを悩んでいたら、私に相談してほしい。たとえそれが取り留めもない愚痴だったとしても、聞いてあげたいと思う。
「私は千紗都の悩みを解決できない。全部捨てて千紗都のそばにいることはできるけど、千紗都はそれは嫌でしょ?」
「絶対に嫌」
「じゃあ、やっぱり自分で一人の過ごし方を見つけてもらうしかない。あれしたらどうとか、これしたらどうとかいう提案はできるけど」
「それだけでも、十分嬉しいけど」
 私が弱気になってお願いすると、絢音は私の体にぴったり身を寄せて、至近距離で私を見つめた。そして、どこか冷たい微笑みを浮かべて言った。
「私はナツみたいに優しくないし、ナツみたいな冒険もできない」
「奈都? 冒険って?」
「ナツは千紗都が私や涼夏と仲良くしてることに感謝してるけど、私はもし千紗都に新しい心の拠り所ができたら、絶対に嫉妬する。それなら、一人の時は今みたいにうじうじ悩んで、寂しがって、泣きついてくれた方が嬉しい」
 私はゴクリと息を呑んだ。絢音がグイッと顔を近付ける。腰に回した手に力を入れて、もう片方の手を私の頬に添えた。吐息が顔にかかる。
「涼夏も私と同じはずだけど、私の方がもう少し独占欲が強いかもしれない。私は千紗都を、帰宅部の外に出したくない」
 そう言って、絢音は目を開けたまま、私の唇に自分の唇を押し付けた。ぷるんとした柔らかな感触。私も目を閉じられず、キスをしたまま見つめ合う。
 通行人がいない場所でもないのに、絢音は挑発的な目で私を見つめたまま私の唇をむさぼって、やがて顔を離した。
 絢音が私の隣に座り直す。私は唇を指でなぞりながら、顔が熱くなるのを感じた。元々絢音も私とキスしたがっていて、私もいつしても良かったが、絢音はまるでこの時を待っていたかのように、記憶に残るキスを演出した。
「最後にもう1回聞くけど、私は帰宅部を休部してバンドの協力をした方がいい? それとも、断って千紗都といた方がいい? 千紗都が決めて」
 これは枷だ。私が涼夏につけたのと同じ類の、相手の心を束縛する枷。
「バンドを手伝ってあげて。私はその心の穴を、少なくとも他の人には求めない。それで、もし寂しくなったら、絢音と涼夏に泣きつけばいいんだよね?」
「うん。ナツでもいいよ。正妻だから」
 そう言って、絢音がいつもの笑顔を浮かべた。それを見て、私も少しだけ笑った。大丈夫。このキスも、私たちの仲を深めるだけで、壊しはしない。
「絢音、怖い子。私と涼夏についてくるふうを装って、心は完全に掌握してる」
 元々自分たちの方が上だとは思っていなかったが、ここまで強い子だとも思っていなかった。12歳で自分のバンドを作るような子を、私なんかがどうこうできるはずがない。
 私が感嘆の声を漏らすと、絢音は少しだけ照れたようにはにかんだ。
「そんなことないよ。本当は結構ドキドキしてる」
「よく言うわ」
「前に言った通りだよ。ギリギリを追及してるつもりだけど、もし一線を見誤ったら言ってね」
 ほんのわずかに、怯えたように眉をゆがめる。本当にドキドキしているのなら、随分と可愛い子だ。
「大丈夫。超えてないよ」
 そっと抱きしめて、私からもキスをした。涼夏の時と同じ。私からもすれば、絢音も安心できるだろう。
 もうじき梅雨が終わって夏が来る。奈都も夏休みは大量に時間があると言っていた。大好きな友達と存分に楽しむ想像をして、これからしばらく、平日の寂しさを乗り切ることにしよう。
 私だって、出来れば新しい心の拠り所など作らずに生きたい。