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お腹に重さを感じて目を覚ますと、まだ真っ暗だった。カーテンから入ってくるわずかな街明かりで、辛うじて物のシルエットを確認できる。 仰向けに寝ているわたしの上に跨るように、ノヒラさんが座っている。足で固められて、体が動かない。ひんやりとした手が、親指をクロスさせた形でわたしの首に置かれている。 な……なに……? 混乱のあまり呼吸を忘れた。見開いた目に、ノヒラさんの白い顔が見えた。 「ねえ、リン。ボーカロイドって、死ぬの?」 まったく感情のこもらない声。取り憑かれたように虚ろな表情。 いきなり……何を、言ってるんだろう。 心臓がバクバクして、体が恐怖に震えた。まだ絞められていないのに、手が首に触れているだけで息が苦しい。 「誰も死んでないからわかりません。でも、たぶん、首を絞められれば死ぬと思います」 「あたしと同じね。ボーカロイドって、人とどう違うの?」 まるで世間話でもするように、なんでもないように聞いてくる。 でも、わたしは冷静に会話をできる状況じゃなかった。理由はまったくわからないけれど、本気で殺されるかもしれない。 怖い、怖い、怖い……。 「ロバが、ウマとどこが違うか、と、いう感じだと、思います」 「少しだけ、試してみてもいい?」 言いながら、親指が頸動脈に食い込んでくる。 「や、やめてください! たった一つしかない条件ですから、守ってください。お願いします」 わたしは生まれて初めて本気で哀願した。あまりの恐怖に頭の中が真っ白になった。 切実な願いが通じたのか、ノヒラさんはすっと手を離した。それでもまだわたしの上に跨ったまま、静かな口調で聞いてくる。 「もう一度聞かせて。男の人と二人きりでひと月暮らして、何もされないの? それも条件にある『危害』なの?」 答えなかったら殺されるかもしれない。でも、人が法や倫理に従うように、ボーカロイドにも侵してはいけない領域がある。 「話せません。死んでも話せません。それがどういう意味かわかりますか?」 わたしが逆に質問すると、興味を引かれたのか、ノヒラさんが感情の戻った声で聞き返してきた。 「意味?」 「そうです。つまり、わたしは絶対にノヒラさんのことを、誰にも言わないってことです。これはそういうことなんです」 人は、他人の秘密を喋る人に、自分の秘密を話せない。絶対の信頼を得るために必要なこと。それが、頑なに秘密を守ること。 不器用な方法かもしれない。でも、初めはケチだとか冷たいとか言われても、最後には必ず信じてもらえる。 歳はルカさんより若いけれど、最初のボーカロイドであるミク姉さんが考えたって聞いている。単純だけど真っ直ぐな、ミク姉さんらしい方法だと思う。 刹那の沈黙の後、ノヒラさんが大きく息を吐いた。それからのそりと立ち上がってベッドに戻る。 「わかった。もう聞かない。怖い思いをさせたね。明日になったらもう出て行っていいよ」 それっきり、ノヒラさんは何も言わなかった。 わたしは何がなんだかわからなくて、じっと天井を見つめていた。 それから少しして、涙が一気に溢れてきて、枕に顔を埋めた。 「うぅ……っ……。うあぁ……ああぁっ……」 わからないということが、こんなにも不安になるとは思わなかった。 涙が止まらなかった。 翌朝、ぼんやりと起き上がると、隣のベッドは空だった。今日は掛け布団が畳まれている。 時計の針はすでに10時を指している。寝坊なんてしたことがなかったけれど、殺されそうになったのも初めてだから許してほしい。 のそりと布団から這い出す。熱はないけど、気持ちが悪い。吐き気はしないけど、食欲はない。 カーテンを開けると、今日も快晴だった。もこもこの飛行機雲が青空を二分している。 ベッドに座って、何も考えずに5分くらい。それからおもむろにウクレレを手にして爪弾いた。 さよなら 昨日の私 さよなら 綺麗な思い出たち おはよう 今日出会う人 おはよう 新しい思い出たち 昨日より素敵な今日に 今日より輝く明日のために おはよう 元気に 私たち 1年くらい前に、とあるご主人様(そう呼んでいた)の家で作った朝の歌。その時はピアノで作った曲を、後からギターでアレンジした。 楽器は一通りできるけれど、わたしは弦楽器が好き。ピアノならミク姉さんの方が得意。吹くのはレン。ルカさんは精密なリズムで叩く。その個性も、依頼主がわたしたちを選択する判断基準の一つになる。 歌ったら少し元気が出てきた。コーンフレークに牛乳を注いで胃に流し込む。歯を磨いて顔を洗い、ぼさぼさの髪を整えて部屋に戻ると、敢えて無視していたそれを手にした。 ノヒラさんが残したわたしへの書き置き。 『昨日はごめんなさい。掃除してくれてありがとう。目的はありません。帰ってくれていいです。お金も要りません』 紙を置いて長い溜め息をついた。 目的は無いんじゃない。たった一つの条件に反することが、ノヒラさんの目的だった。 ノヒラさんは最初からわたしのことを知っていた。だから、歌にも驚かなかった。ミク姉さんじゃなくてわたしを選んだ。 知っていて、恨んでいた。 そこまでは符合した。でも、それ以上はわからない。 再びウクレレを手にして4弦から順に親指で弾き下ろす。 帰るわけにはいかない。帰ってもこのことは誰にも話せないから、一人で気持ち悪いまま悶々としなくてはならない。そんな生殺しの状態になるくらいなら、嫌がられても徹底的に付き合おう。 出て行けと命令されない限りは帰らない。 ひみつはなぁに? ふいにめざめて みがすくんでも よるがこわくても いつのひかきっと むりをしてでも なんとしてでも やってみせよう ひぃ、ふぅ、みぃ、よぅ、いつ、むぅ、なな、やぁ…… |