鏡音リン小説 − 『 リンのうた 』 − ボーカロイド二次創作


 7

 それから一週間が過ぎた。わたしは相変わらず28℃設定の冷房に扇風機が首を振る部屋にいて、蛍光ピンクのTシャツを着たノヒラさんと向かい合って座っている。
 わたしの方はタンクトップにヒラヒラのミニスカート。頭にトレードマークのリボンを結んだら、超子供っぽいって笑われた。
 元々ノヒラさんに言われるとイラッとする上、服のセンスのことになるとそのイライラは3倍増しになる。でも、もうケンカはしない。
「超子供だからね」
 クールに切り替えしたら、すごい勢いで笑われた。意味がわからない。
 床にあぐらをかいて座り、ノヒラさんは不器用な手付きでウクレレを弾いている。せっかく高いお金を払ったのだから、ひと月居座るなら一曲弾けるようにしていけと命令された。
 曲はわたしが来た日に即興で弾いた公園の歌。右手のアルペジオは難しいので、ひとまず右手は一定リズムのストロークにして、左手でコードを押さえる練習をしている。
 最初は小さいとか細いとか狭いとかぶつぶつ言っていたけど、今ではスムーズにコードチェンジができるようになった。これならアルペジオも含めてなんとかなりそう。
「ねえ、リン。このジーロクって何?」
 わたしが書いた譜面を指差してノヒラさん。ベッドの上から覗き込んでわたしは答える。
「G6ですか? コードですけど、別に知らなくてもいいです。G6が何かを理解して弾いてる人なんてほとんどいませんから」
「あたしは何かって聞いてるの。一般大衆の枠にあたしを当てはめろなんて言ってないから」
「シックススコードは長3和音、つまり根音から長3度と完全5度から成るトライアドに、6度の音、GならEを加えたコードで、不安定な響きが出るんです。昔のイギリスの有名なバンドの……」
「そんなことはいいから、そろそろ右手のアルペジオってのを教えてよ」
 うんざりしたように横を向く。わたしは大袈裟に肩を落とした。
「だからノヒラさんの頭じゃ理解できないって、間接的に忠告したのに……」
「今、ケンカ売った? 売ったでしょう」
「売ってません。アルペジオやりますよ?」
 わたしたちは始終こんな感じだ。距離は少しは縮まったと思うけれど、お互い暗黙の不可侵領域には踏み込まない。
 あの日も、帰宅したノヒラさんは、わたしがまだ部屋にいても驚きもしなかった。首を絞めたことを謝りもしなければ触れもしない。わたしもそれを責めないし、追求もしない。
 言ってしまえば壊れてしまう。蒸し返せばノヒラさんも「出て行け」と言うしかなくなる。それは嫌だ。
 でも、楽しそうにウクレレを弾いているノヒラさんを見ていたら、そろそろいいかなって思った。だから、静かな口調で聞いてみた。
「ノヒラさん、そのウクレレ誰のですか?」
「ん? あたしのだけど」
 ウクレレを見たまま顔も上げずに、平然と答える。まったく動揺した素振りを見せないから、この人もすごいと思う。
「今の所有者の話はしていません。1回でも触った人なら、その弦が錆びるとか絶対に言いません」
 初めて会った日、ノヒラさんは長い間使ってないから弦が錆びているかもしれないと言った。
 ノヒラさんも自分の言ったことを思い出したのか、黒のナイロン弦を無言で見つめて、それからわたしを睨み上げる。
「あんたって、ホントに嫌な性格してるね。あの時点でわかってたのに言わなかったんだね」
「空気を読んだだけです。初対面の人が隠そうとしたことを、わざわざ聞き出すようなことはしません」
 きっぱりそう言うと、ノヒラさんは諦めたように溜め息をついた。それからウクレレに視線を戻して呟くように答える。
「元カレのだよ。もらったわけじゃないけど、置いてったきり」
「捨てないんですか? 女性って、男性と別れたらもらったものは全部捨てるって聞きました」
「また偏った知識だな。誰から聞いたんだ?」
「一般常識です」
「リンが音楽のこと以外は設定年齢以上にアホだってわかった。今、あたしはとても満足している」
 ノヒラさんが心の底から満足そうに頷いた。わたしは思わず掴みかかりそうになる衝動を抑え、引きつった笑みのまま押し黙る。
 きっとそんなわたしの大人の対応に反省したのだろう。ノヒラさんは小さく息を吐いて続けた。
「納得してないからね。あたしから見たら現実的じゃない夢を追いかけて、よくケンカもしたけど、それでも、まあ、要は好きだったんだよ」
「どうしてフラれたんですか? Tシャツのセンスがひどいからですか?」
「あんた、ひと月の間に1回は殴らせて。いや、殴るから」
 スッと目を細める。わたしは烏龍茶をひと口飲んでにこりと微笑んだ。
「危害を加えるのは禁止です」
「ボーカロイドが依頼主を侮辱した場合は、その限りではないって但し書きがしてあったのを思い出した」
「えっ!?」
 驚いて顔を上げると、ノヒラさんは意地悪な笑みを浮かべていた。騙された……。
「まあ、つまりいい加減現実を見ろって話をしたら、あたしより夢を選んだ。そういうことさ。音楽なんて趣味でいいじゃんね」
 話はおしまいというふうに、頭の後ろで両手を組んでごろんと寝転がる。
 わたしはボーカロイドとして最後の一言には同意しかねたけれど、確かに音楽で大成できる人はごく一握りで、実力はもちろん、運も要るし、自分をプロデュースする能力も要る。夢を追うのもいいけれど、ある程度のところで見切りをつけて、生き方を見直す必要はあると思う。
 そう気付かせてあげるのもボーカロイドの仕事の範疇だから、もしもノヒラさんが望むなら、わたしはそれに尽力しないでもない。
 同じようにベッドの上に仰向けに寝転がる。
 ボーカロイドの掟は、人で言うところの倫理に近いものであって、犯せば罰せられるというわけではないし、空を飛ぶみたいに構造的にできないものでもない。
 ただみんながミク姉さんの考えに賛同して、良かれと思って守っているだけ。わたしも今までたくさんの依頼主から他の人の話をせがまれたけれど、頑なに断り続けてきた。
 けれどもし、それによって依頼主が苦しむのであれば──明かすことで依頼主が楽になって、明かされる依頼主にも不利益が生じないのであれば、言ってもいいのかもしれない。
 目を閉じると、ミク姉さんの無邪気な笑顔が浮かんできた。悲しそうにしているところも、怒っているところも見たことがない。
 いつも朗らかで、単純で、前向きで、可愛い、大好きなボーカロイドの先輩。
(ごめんなさい、ミク姉さん。リンは初めて、一度だけ約束を破ります)
 目を開けると二人きりの部屋。眠ってしまったかのように、あるいはわたしの言葉を待っているように、動く気配のないノヒラさんに、なるべく穏やかな口調で告げた。
「ケイイチさんは、昼も夜も、わたしに指一本触れていません。毎日夜遅くまで、ただひたすら音楽に打ち込むだけの、幸せなひと月でした」
 つまりは、ただそれだけの簡単なこと。
 別れを切り出した彼氏が、その後すぐ、見知らぬ女の子と二人で駅前で歌っていて、夜も一緒に過ごしている。真相を知ろうとしたら隠されて、隠されたから肯定されたと感じて、殺したくなった。それくらい激しく、ケイイチさんのことが好きなんだ。
「そう……」
 ただ一言、そう呟いたノヒラさんの声は安堵に満ちていた。
 いつの間にか空気が弛緩していた。なんでもない夏の昼下がり。
 わたしがこの部屋を出る頃には、秋めいた風が吹き始めているだろう。穏やかに、たまには毒も吐きながら、残りの日々も仲良く過ごせたらいい。
 心からそう思った。