鏡音リン小説 − 『 リンのうた 』 − ボーカロイド二次創作


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 ウィークリーマンション解約の日は、これから始まる梅雨を予感させる曇り空だった。しんみりとお別れをするにはいい天気かもしれない。
 ケイイチさんは朝から浮かない顔で溜め息ばかりついている。延長はできないか聞いてきたり、泣いてしがみついてくるようなみっともないことはしないけれど、心の底から別れを惜しんでいるのが表情から伝わってきた。
 それくらい楽しい毎日だったし、ケイイチさんにとって有意義で実りのある日々だったと確信している。わたしもこんなにも音楽だけに打ち込めたのは初めてで、本当にいいひと月だったと思う。
 でも、別れに対してわたしはいつもドライだった。聞いたことはないけれど、ミク姉さんも同じだと思う。
 別れはわかっていたことだし、別れがなければ次の出会いもない。それにわたしは、依頼主を好きにはなっても、恋愛感情は抱かない。それが子供だからか、ボーカロイドだからかはわからない。ただ、その点においてわたしが淡白なのは間違いない。
「これからどうするのかとか、聞いてくれないんだな」
 淡々と荷物をまとめるわたしに、残念そうな声でケイイチさんが聞いてきた。顔を上げると、ひどく落ち込んだ表情で項垂れている。
「これからどうするの?」
 義務的に質問する。ケイイチさんは呆れたように手を上げた。
「リンって、時々ものすごいクールだよな。先生っていうのは、生徒の将来が気になったり、成功を祈ったりするものじゃないのか?」
 言われて、考える。
 ケイイチさんのことは好きだし、毎日は楽しかった。でも、いつも通り別れ難いことはないし、未来のことにもあんまり興味がない。
 それはたぶん、わたしが冷たいのが半分で、もう半分は、「今」のことにしか関心がないからだと思う。過去を思い出すことはあっても浸りはしないし、遠い未来に夢や希望も抱いていない。
 でも、それはわたしの事情。そんなことを淡々と話して、依頼主を悲しませるようなことはしない。
「このひと月、すごく楽しかったし、ケイイチさんが幸せになってくれたらって思うよ」
「なんか無理矢理くさいぞ?」
「ホントだよ。でも、ケイイチさんにとっての幸せって、何?」
 それが核心。
 漠然とした夢しか抱いていない人は、いつまで経ってもそこに到達することはおろか、一歩も進めないことすらある。
 ケイイチさんも、「音楽で成功したい」とか「音楽で生計を立てたい」とか「音楽で注目されたい」とか、具体的なようで漠然とした夢しか持っていなかった。
 わたしはプロデュースはできないから、できる範囲でそれに協力した。楽器の弾き方、曲の作り方、歌の歌い方、歌詞の書き方、それに実地体験。
 路上ライブは最終的にはかなりの人を集めた。でもそれは、ほとんどがわたしの歌唱力によるものだってケイイチさんもわかっている。
 極論を言えば、わたしは一人でアカペラで歌っても人を振り向かせることができる。わたしはケイイチさんに、注目される喜びを体験させてあげたに過ぎない。
「バンドを組んで、リンがいなくても人に振り向いてもらえるバンドにしたいな」
「バンドだけで食べていけるの?」
「アルバイトはまた始めるよ。このひと月は休んでいただけ」
 きっとケイイチさんも、それでは行き詰ることがわかっている。だから、考えなくてはいけなくても、考えたくないんだ。
 わたしはそれを責めない。興味がないからじゃなくて、いい未来しか描かないから。
「ケイイチさん、ギターは上手だし、歌詞は奇妙だけど特徴的だと思うよ。同じ熱さの仲間を作って、地道に活動──路上ライブしたり、CD作ったり、他のバンドと交流したりしていけば、輪が広がって、チャンスも出てくるよ。インターネットも活用するといいかもね」
「リン……」
「本当に、わたしはケイイチさんをテレビとかで見る日が来たらって思うよ。頑張って!」
 幸せな未来だけを想像して、ある意味無責任に応援して、ケイイチさんがやる気を取り戻した顔で笑ってくれたことに満足して。
 そんな、何度も繰り返してきた別れ方。
 その時はそれでよかった。
 ノヒラさんと出会う前の、その時は──。


 ちょっぴり都会の夜は少し暑さも和らいで、さすがにタンクトップ1枚だと寒くなってきた。10時を回ると、人でごった返していたアーケードも閑散としてくる。
 とうに最後の曲を歌い終え、張り付いていたファンの女性2人が帰っていくと、わたしは一人で片付けをするケイイチさんに明るい声で話しかけた。
「お疲れさん。順調?」
 ケイイチさんはちらっと目だけでわたしを見上げて、それから驚いた声を上げる。
「リン!」
「そ、そんな大声出さないでよ! 恥ずかしい」
 周りの人が何事かと足を止め、また歩いていく。ケイイチさんが「ごめん」と言ってから、まだ大きく見開いたままの目でわたしを見た。
「もう二度と会えないと思ってた」
「んー、時々そういう誤解をしてる人がいるけど、別にそんな規約はないよ?」
 雇えるのは一生に一度、期間はひと月。禁止事項はボーカロイドに危害を加えること、ただ一つだけ。
 もちろん、規約にないからと言ってストーカーまがいのことをすると、然るべき措置が取られるけれど(詳しくは知らない)、二度と会ってはいけないとか、電話やメールもしてはいけないなんて決まりはない。
 ただ、誤解する気持ちもわかる。何もかもが曖昧すぎて、知らない内に暗黙の「してはいけないこと」をしてしまう怖さはある。
「ソロで活動してるんだね」
 昔みたいに隣に座って、片付けを手伝いながら言うと、ケイイチさんもひどく懐かしむような表情で頷いた。
「ボーカルは欲しいと思って募集したんだけどね。俺の曲調に合う女の子はいなかったかな」
「男の人じゃダメなの?」
「それなら自分で歌うよ。暑苦しいし、どうせなら女の子がいいって思うのは、男なら当たり前だろ?」
 わたしは釈然としない顔でケイイチさんを見上げた。
「わたしに全然興味なさそうだったから、女の子には興味がないんだと思ってた。わたし、結構可愛いって言われるんだけど」
「なんだそれ。手を出してほしかったのか?」
「全然そんなこと言ってない」
「子供に興味はないな。変に興味が沸かないように、わざわざ大人の『巡音ルカ』じゃなくて君にしたんだから。相手してほしかったら、5年経ってからもう1回来てくれ」
 そう言いながら、わたしの髪をわさわさ撫でる。
 そうか。そういうことなんだ。ちょっと嬉しくなって笑っていると、不意にケイイチさんが髪を撫でる手を止めて、心配そうに覗き込んできた。
「まさか、リン。他の依頼主は、その、リンに……」
「どうせ秘密だから続けなくていいよ」
 明るい声で遮る。ボーカロイドは他の依頼主のことは一切教えない。ケイイチさんもそれをよくわかっているから、諦めたように溜め息をついて再び片付けに戻った。
「固定ファンはちらほらかな。リンがいなくなっても聴いてくれる人はいるけど、ほとんどみんないなくなって、新しい人もあんまり増えてない」
「リンちゃんってすごいんだね」
「自分で言うなよ。わかってたことだ」
 へへっと笑う。誘導したとはいえ、誉められるのは嬉しい。
「今日は? 偶然通り掛かる時間じゃないし、俺に会いに来たんだろ? 寂しくなったか?」
 案外勘がいい。っていうか、一緒にいたひと月間と比べて、明るくて軽い印象を受ける。きっと今のケイイチさんが普通で、あのひと月は「本気」だったんだろう。
「当たり。はい、これ」
 胸の前で両手を打ってから、1枚のカードを差し出した。わたしの手書きの可愛らしい丸文字でこう書いてある。
『○月×日 セントラル・シティーで、リンちゃんがケイイチさんの曲でライブをやります。見に来ないと絶対に後悔するから、空けておくように』
「……この招待状は、どういう魂胆?」
 ケイイチさんがジトッと疑いの目でわたしを見た。視線を逸らさずに真顔で答える。
「ケイイチさんの曲のポテンシャルを教えてあげようと思って。あのひと月は本当に楽しかったし、わたしも時々思い出して懐かしんでるんだよ?」
「あの薄情なリンがねぇ……」
 爽やかに、皮肉な笑みを浮かべる。なかなか鋭い。
「でも、まあいいや。ありがとう。細かいことは抜きにしても、リンの演奏や歌は聴きたい。絶対に行くよ。最前列で見る」
 力強く、ケイイチさんがそう言った。
「うん。ありがと、ケイイチさん」
 にっこり微笑んで、わたしは膝を叩いて立ち上がった。
 今のひと月の最後の仕事。わたしがいつも通り、適当に済ませてしまった別れをやり直すために。
「○月×日、晴れのち晴れ」
 最高のライブをしよう。