美春は自転車を止め、驚きに目を丸くして呟いた。
小さな美春が見上げると、まるで空にも届きそうなほど高いマンションのゴミ捨て場に、透明な袋に入れられたバトンが一本、捨てられていた。
まるでUFOでも見たかのように、ぽかんと口を開けたまま自転車のスタンドを立てて、近付いてみる。バトンは両端の白いゴムの部分が随分汚れていたが、銀色の棒の部分はピカピカしていて綺麗だった。
美春はバトンの前に突っ立ったまま、二年前にテレビで見た映像を思い出した。何の番組かは覚えていないが、テレビの中で、自分と同じくらいの小さな子供たちが、鮮やかな衣装に身を包んで華麗にバトンを回していた。美春は瞳を輝かせながらその光景に見とれ、心からバトンをやりたいと思った。
しかし、美春はピアノを習っており、母親は娘がもっとピアノに打ち込んでくれることを望んでいた。だから母親は、美春の一時的な感動など放っておけばすぐに薄れるだろうと考え、実際、美春はひと月もしない内にバトンのことを忘れてしまった。
そのときのバトンへの憧れが、本物のバトンを見て鮮明によみがえった。まるで小さな箱の中に無理矢理押し込めていたものが、何かの拍子に一気に外に飛び出すように、憧れが美春の胸の中に広がった。
美春は辺りをキョロキョロ見回した。一組の男女がマンションに入って行って、それっきり周囲には誰もいなくなった。
「これはどう見ても捨ててあるんだから、もらって行っても怒られないよね?」
自分に言い聞かせるようにそう呟いて、美春は袋の端に指で穴を開けた。それを少しだけ広げて、バトンを持って一気に引き抜く。
突然、なんだかとても悪いことをしてしまった気持ちになり、美春はもう一度辺りを見回した。そして、誰もいないことを確認すると、急いで自転車に飛び乗って、逃げるようにその場を離れた。
「あー、怖かった」
近くの公園までやってくると、美春は自転車を止めてベンチに腰かけた。改めてバトンを見ると、白いゴムの大きな方に、マジックで名前が書いてあった。
『あまぎひかる』
平仮名だが大人の文字だった。書いたのは恐らく父親か母親だろう。バトンの長さは美春の腕より多少長いが、大人が持つには短く思えた。もっとも、美春は程よいバトンの長さなど知らなかったが。
「ひかるちゃんは、どうしてバトンを捨てちゃったのかな」
美春はバトンの中心を握って、適当に回してみた。春の柔らかな陽射しを受けて、銀色の棒がキラキラと輝く。途端に、美春は自分がテレビの中で輝いていた子供たちのようになった気がした。
「きっと、小さくなったから、新しいバトンを買ったのね」
美春はすぐに「ひかる」への興味をなくし、バトンにのめり込んだ。正しい回し方もわからなければ、技の一つも、そもそも技があることすら知らなかったが、ただ回しているだけで幸せだった。
時間も忘れて回していると、不意に女の子の声で呼びかけられた。
「バトンが好きなの?」
驚いて見上げると、中学の制服を着た女の子が一人、少しだけ微笑みながら立っていた。その瞳はどこか悲しそうに揺れていたが、美春は驚きが先に立って、それには気付かなかった。
「あ、あの、はい。いえ、全然わかんないけど、好きです」
五年生の美春は、突然中学生のお姉さんに話しかけられて、どぎまぎした。ましてやこのバトンは無断で持ってきたものである。知られたら怒られるのではないかと不安になった。
女の子はそっと美春の握るバトンに触れた。そしてそのまま指を止め、じっと見つめる。
美春が恐る恐る見上げると、女の子がバトンを見つめたまま尋ねてきた。
「ひかるちゃんって言うの?」
「あ、あの、あたしは、矢島美春です。このバトンは、その……」
美春は恐怖のあまり、肩を震わせた。目には涙があふれ、バトンを持つ手も小さく震える。
それに気が付いたのか、女の子は先ほどとは打って変わって明るい声で言った。
「美春ちゃんね。そんなに心配しなくてもいいよ。ごめんね、怖がらせちゃって」
「あ、ううん」
美春が涙をふいて見上げると、女の子はバトンを取って腕を伸ばし、手首で華麗にそれを回して見せた。美春は先ほどの恐怖などいっぺんに忘れて、思わず目を見開いて声を上げた。
「すごい!」
女の子は恥ずかしそうに笑ってから、バトンを美春に握らせた。
「少し教えてあげる。今のはフィギュアエイトって言って、少し練習すればすぐにできるようになるよ」
それから美春は、まずバトンの握り方と、バトンの各部の名前を教えてもらった。ゴムの大きい方をボール、小さい方をティップ、棒の部分をシャフトと言い、バトンはボールが親指の方に来るようにして握るらしい。
正しい持ち方を教わっただけで、美春はなんだか自分がバトン通になったような気分になった。
回すのは難しかったが、元々手首が柔らかかったこともあり、一時間もすると、数字の「8」の字を描くフィギュアエイトができるようになった。
気が付くとすっかり夕方になっていて、美春ははっとなった。それから、長い時間熱心に教えてくれた先生に、頭を下げてお礼を言った。
「あの、本当にありがとうございました!」
「いいよ。気にしないで」
女の子はベンチに置いた鞄を取った。それから一度だけ腕時計を見て、笑顔を見せる。
「じゃあね、美春ちゃん。バトン、大事にね」
どこか、悲しそうな瞳だった。今度は美春もそれに気付いたが、気の利いたこと言葉は浮かばなかった。
女の子が背中を向けて歩き出すと、美春は慌てて呼び止め、大きな声で言った。
「あの、もしよかったら、また教えてくれませんか? あたし、何もわからないから」
少し図々しいとも思ったが、実際美春は一人ではどうすることもできない。小学校にバトン部はないし、教室になど入れてはもらえない。友達はインターネットをするが、美春はパソコンを持っておらず、バトンのことを勉強する環境はまったくなかった。
女の子は驚いたように目を丸くしてから、今度は紛れもない笑顔を見せた。
「いいよ。私、学校の帰りはいつもこの道を通るから。時間もこれくらいだよ。もしここで練習してる美春ちゃんを見かけたら、声をかけるね」
「はい。ありがとうございます!」
丁寧にお礼を言うと、女の子は満足そうに頷いて、今度こそ帰って行った。
美春は見えなくなるまで女の子の背中を見送ってから、バトンを握ったまま自転車に乗った。
美春はいつも自転車を置いている倉庫の奥にバトンを隠した。ここなら母親はめったに開けないし、自分が出入りしても怪しまれる心配がない。母親がいないときには部屋で回すこともできるだろうし、その最中に帰ってきたら、一旦部屋に隠しておいて、またいないときに倉庫に戻せばよい。
ただ、父親は頻繁に倉庫を見るので、すぐにバレてしまうだろう。そう思った美春は、勇気を出して父親には打ち明けることにした。
幸いなことに、父親は美春の味方で、悪いことや人に迷惑をかけることでなければ、美春の好きなことをしてよいと言った。
美春は夕方になると公園を訪れ、バトンの練習をした。しばらく女の子には会えなかったが、三日目にようやく会うことができて、美春は思わず顔を綻ばせて駆け寄った。
「こんにちは」
「こんにちは。毎日練習してたの?」
「うん。もう来ないんじゃないかって、心配してた」
女の子は楽しそうに笑ってから、学校の都合だと答えた。美春はふと、まだ女の子の名前を聞いていなかったことに気が付いた。
「あの、名前はなんですか?」
女の子は一瞬、かすかに肩を震わせると、固い顔で答えた。
「江美。でも、あんまり名前好きじゃないから……」
「じゃあ、どう呼べばいいですか?」
美春は自分の名前が気に入っていたので、女の子の気持ちがよくわからなかったが、特に追求せずにそう尋ねた。女の子は少し考えてから、笑顔で答えた。
「先輩でいいよ。まだ一年生だから、学校じゃ誰も呼んでくれないし」
「わかりました、先輩!」
元気よくそう言うと、美春は何か、自分まで中学生になったような気がした。小学校では「先輩」などという言葉は使わず、美春はそう呼べる相手と知り合えたことに嬉しくなった。
「じゃあ、今日も教えてあげる。フィギュアエイトはもうできるようになった?」
「うん! だいぶ」
美春は得意げに頷いてから、まず右手で回し、左手でも回して見せた。先日江美が見せたものと比べるとスピードも遅いし、回転もいびつだったが、三日前と比べると格段によくなっている。
「ちゃんと練習したんだね。じゃあ、今日は他の技を教えてあげる」
江美は感心した眼差しでそう言って、まず美春のフィギュアエイトの悪い点を二、三指摘した。それからフィギュアエイトを逆向きに回すリバースフィギュアエイトと、体の前で両手を使って回すフロントトゥハンドを教えた。
美春はそれを真剣に聞いてから、熱心に実践する。三十分もするとそれなりに回るようになり、江美が驚いた顔で高い声を上げた。
「美春ちゃん、センスいいと思うよ」
「うん、ありがとう!」
美春は嬉しくなって大きく頷いてから、すぐに「謙遜」という言葉を思い出して首を振った。
「あの、先輩の教え方がいいからです」
江美はそんな美春を見て楽しそうに笑ってから、ちらりと腕時計を見た。そして「もう帰らなくちゃ」と言うと、ベンチに置いた鞄を握る。
美春は前と同じように頭を下げてから、弾む声で言った。
「今度は先輩もバトンを持ってきてください!」
その方がやりながら教われるし、江美の上手な技を見ることができる。美春はさも名案を思いついたと言わんばかりに顔を綻ばせたが、江美の反応は意外なものだった。
「私、バトン持ってないから。それじゃ」
まったくの無表情でそっけなくそう言うと、江美は少し早足で公園から出て行った。美春は江美の返事に驚いて、初めて自分に教えてくれる先生のことが気になった。思えば、名前と学年を知っているだけで、それ以外には何も知らない。
「先輩は、中学生になってバトンをやめちゃったのかな」
そう呟いた瞬間、美春ははっとなって自分の持つバトンを見下ろした。そして自転車はそのまま公園に置き去りにして、バトンを握ったまま江美の背中を追いかける。
幸いにも、すぐに制服姿の江美を見つけることができた。気付かれないようにその後姿を追いかけると、やがて江美はとあるマンションの中に入っていった。
立ち止まって見上げると、マンションは空にも届きそうなほど高くそびえていた。駐輪スペースの横にある、美春がバトンを拾ったゴミ捨て場には、新しいゴミの山が築かれていた。
それから一週間、美春は江美と会うことができなかった。美春自身がピアノのレッスンに忙しかったり、母親に怪しまれないよう、公園に行くのを控えていたためである。
もっとも、バトンの練習は部屋で続けていて、教えてもらった技はスムーズにできるようになっていた。
随分日も長くなり、夕方と言ってもまだ頭上には青空が広がっている時間、美春は公園で江美と再会した。
「久しぶりだね、美春ちゃん」
先日別れ際に怒らせてしまったから、もう声をかけてもらえないかもと思っていた美春の不安は杞憂に終わり、江美が元気に話しかけてきた。
「こんにちは、先輩!」
美春は笑顔で頭を下げてから、教えてもらった技を披露した。江美は感心したように頷き、美春を褒めた。
「ちゃんと練習してるのね。美春ちゃん、本当にバトンが好きみたいだから、スクールにでも入ったら?」
その言葉に、美春は暗い顔をして首を振った。
「それが、ダメなの」
「ダメ?」
「お母さんが許してくれないから」
「ダメって言われたの?」
驚いた顔で問いかける江美に、美春は再び首を振ってから、悲しそうな瞳で続けた。
「お願いもしてない。このバトンのことも言ってない。言ったら、きっと取り上げられて捨てられちゃうから」
江美は不思議そうな顔をした。美春はなぜ江美がそんな顔をするのかわからなかったが、少し考えてからこう思った。
きっと江美の家では、母親はバトンに賛成で、江美がバトンをやめたのは本人の意思なのだと。
「先輩はどうしてバトンをやめちゃったんですか?」
美春はなにげなくそう聞いてみた。江美は美春の前で一言も「バトンをやめた」とは言っていなかったが、特に美春の言葉を気にする素振りは見せなかった。
それから、まるで字を書いたり物を持ち上げたりするのと同じくらい簡単そうにバトンを回しながら、ため息混じりに言った。
「限界を感じたから」
「限界?」
「同じ学年に私よりもっと上手な子がたくさんいて、どんなに練習してもその子たちに追いつけなくて、なんだか嫌になっちゃったの」
美春は怪訝な顔をして、首を傾げながら尋ねた。
「その子たちより下手じゃダメなの? 楽しいからバトンをしてたんでしょ?」
その質問は江美を怒らせかねないものだったが、江美は大して気にした様子もなく、むしろ生徒に教える先生のように優しい声で答えた。
「バトンはスポーツだから。もちろん、楽しかったけど、それは新しい技を覚えたときとか、誰かに褒められたとき。行き詰って、先生には怒られっぱなし、大会に出ても勝てないんじゃ、だんだん面白くなくなっていっても変じゃないよね?」
美春にはよくわからなかった。二つも年上の江美がそう言うなら、そういうものなのだと思いつつも、自分の思ったことを伝えてみる。
「バトンのことはよくわからないけど、私はピアノをやってて、楽しいから続けてるよ。きっと先輩のバトンほど上手じゃなくて、賞ももらえないけど、弾いてるだけで楽しいから。バトンは……スポーツは、またピアノとは違うのかもしれないけど」
自分が見当違いのことを言っているような気がして、最後の方は口ごもった。江美はお姉さん風を吹かせて、かすかに微笑みながら頷いた。
「違わないよ。でも、勝てなくても、賞がもらえなくても楽しいって思えるかは、人それぞれだと思うから」
美春は何も言えなくなった。人それぞれと言われたら、説得する言葉もないし、そもそも江美がそれを望んでいるとも思えない。美春が黙って俯いていると、暗い空気を吹き飛ばすように江美が明るい声で言った。
「さあ、私のことはいいから、今日も練習しよっ。教室に入れないなら、私が教えてあげる」
「はい、ありがとうございます!」
美春は心に引っかかりを感じながらも、元気に頷いて見せた。
その日はいくつかの技を組み合わせた、数小節の演技を教わった。ピアノを続けている美春はリズム感には恵まれており、江美が驚いた顔で言った。
「ピアノとバトンなんて、なんのつながりもないって思ってたけど、結構そうでもないんだね」
江美はいつだって感心して、手をたたいて褒めてくれる。きっと褒められる喜びを知っているから褒めるのだ。いい先生だと、美春は思った。
その日はいつもより長く練習した。江美が時計を気にし始めると、美春はバトンを止めて江美を見つめた。そして、バトンを差し出して真面目な顔でお願いをする。
「あの、先輩の演技を見せてくれませんか?」
美春はまだ一度も、江美の演技を見たことがなかった。いや、そもそも演技というもの自体、二年前にテレビで見ただけなのである。
江美は思わずバトンを受け取ったが、ひどく困った顔をした。美春はひょっとしてとても嫌なことを押し付けたのかもしれないと不安になったが、そうではなかった。
「この格好で?」
江美はスカートの端をつまんで、恥ずかしそうにそう言った。
美春はさらに意味を取り違えた。バトンがレオタードのような動きやすい衣装でするものだということは知っていたので、制服では動きにくいと思ったのだ。
もちろん、動きにくいのは確かだったが、江美はそういう意味で言ったのではなかった。しかし、手首しか使わない技しか知らない美春が、スカートが恥ずかしい理由になど気が付けるはずがない。バトンを高く投げ上げる間に、側転したり足を上げて体を回転させるエーリアルと呼ばれるものを、美春は知らないのだ。
美春が「無理ですか?」と尋ねると、江美は仕方なさそうに笑い、辺りを見回した。夕方の公園にはぽつぽつと人の姿があったが、自分たちの方を見ている者はない。
「いいよ。見せてあげる。靴だから、スピンは無理だけどね」
美春はそれが何かわからなかったが、とにかく瞳を輝かせて頷いた。
江美は美春の正面に立つと、バトンを斜めに構えた。そして自分の中で拍子を取り、笑顔で演技し始める。
「わぁ!」
美春は思わず感嘆の声を漏らした。無意識に拳を握って演技に見とれる。
それはソロトワールと呼ばれる、一本のバトンでテクニックとスピード感を表現する種目で、その速さは素人の美春の目で追えるものではなかった。
見たこともない技の数々、空高く上がるバトン、軽快なステップ、細かい技巧とダイナミックな演技。時々ミスしてバトンが砂を弾いたが、そんなことは美春にはささいなことだった。
二分弱の夢のような時間が終わって、目を大きく見開いている美春に、江美が少しだけ息を切らせながら言った。
「どうだった?」
「すごかった! カッコよかったです、先輩!」
美春が感激のあまり大きな声でそう言うと、江美は懐かしむような目をした。
「ありがとう」
目を細めてバトンを差し出し、じっとそのバトンを見つめる。美春はそれを受け取りながら、興奮をしずめてゆっくりと言った。
「先輩、楽しそうでした」
「演技中は笑顔じゃなくちゃダメだから」
「笑顔も演技だったんですか?」
美春が尋ねると、江美はしばらく地面に視線を落としてから、小さく首を振った。
「わからない。今日はもう帰るね」
それ以上話したくないというように、江美は引っつかむように鞄を取った。
美春は胸の前でバトンを握り、黙って江美の背中を見送った。
江美は振り向かずに公園を出て行った。
二週間が過ぎた。
江美は毎日同じくらいの時間に公園の前を通るようになり、美春がいるときは大抵練習に付き合った。美春が聞くと、しばらく部活を悩んでいたらしい。それで遅くなったりしていたが、結局部活には入らなかったそうだ。
そんなある日、とうとう恐れていた事態が起きた。娘が公園でバトンを回していることを耳にした母親が、バトンを持って帰宅した美春を捕まえたのだ。
「美春、これはどういうこと? そのバトンはどうしたの?」
リビングで母親に追求され、美春は泣きそうな顔で項垂れた。頼りの父親はまだ帰っておらず、弟は面白そうににやにやしているだけで、味方になりそうもない。
「お友達が貸してくれたの」
「お友達って誰? あまぎひかるなんて子、クラスにもピアノにもいないでしょ?」
母親がイライラした様子でテーブルを爪で叩く。美春は絨毯を見つめたまま答えた。
「中学生の先輩。公園でバトンしてたから、あたしが話しかけたの」
美春は親に嘘をついたことなどなかったので、ものすごく悪いことをしている気持ちになった。けれど、ゴミ箱から拾ったなどと言えば、張り倒されるかもしれない。
「知らない子に話しかけたの? 美春から?」
「先輩はいい人だよ! あたしにも親切に教えてくれたんだから!」
江美を悪く言われ、美春はムキになって声を荒げた。母親はもっと大きな声で怒鳴った。
「親切なのは結果的にそうだっただけでしょ! もし悪い子だったらどうするつもりなの!?」
「悪い子は公園でバトンの練習なんかしないもん!」
美春はふてくされてそう言い返した。母親は無視して叱った。
「とにかく、それは明日返してらっしゃい。もうやっちゃダメよ!」
「なんで? 別にお母さんに迷惑かけてないし、ピアノだってちゃんと練習してるし、なんでダメなの?」
涙がこぼれ、それを服の袖で拭いながら母親を見上げた。母親は口答えする娘に、あからさまにイライラしながら早口にまくし立てた。
「バトンなんかして、手首を痛めたらどうするの? それに、お母さんに内緒で勝手なことをした罰よ」
「言ったってどうせやらせてくれなかったくせに!」
美春が癇癪を起こして声を上げると、母親は「いい加減にしなさい!」と叱りつけて、テーブルを強く叩いた。
バンッと大きな音がして、美春は声を上げて泣き出した。
「わかった? それは明日返してくるのよ!」
母親は娘のことなど気にした様子もなく、厳しくそう言いつけると、さっさとリビングを出て行った。美春は泣き続けていた。
翌日、汗ばむような陽気の中、美春は小学校から帰るとすぐにバトンを持って外に飛び出した。そして急いで公園に行くと、いつもとは違う場所に自転車を止める。
公園には遊び場とグラウンドがあり、その周囲には木々の植わった散歩道がある。美春はその木々に隠れるようにして、道路の方を見つめていた。
いつもの時間になると、向こうから江美がやってきて、公園の入り口で足を止めた。そして中を覗き込み、美春がいないか確認する。その背後に回って、美春は小さく呼びかけた。
「ひかるさん」
驚いた様子もなく、江美が自然に振り返った。まるで自分の名前が「ひかる」であるかのように。
声の主が美春だとわかると、江美は目を丸くして高い声を上げた。
「美春ちゃん、どうして!?」
美春は複雑な顔で微笑むと、「マンションに入って行くのを見たから」とだけ言って、公園の中に入った。
江美はその隣に並び、「そう」と呟いてから、あきらめたように自己紹介した。
「嘘ついてごめんね。私は本当は天木ひかるって言うの。だますつもりはなかったんだけど、言うと美春ちゃんが気を遣うかなって思って」
「うん、わかってる……」
美春は力なく頷いた。ひかるは元気のない美春を不思議そうに見下ろし、心配そうに尋ねた。
「何かあったの?」
「うん……」
美春はいつものベンチまでやってくると、瞳を潤ませながら、昨日あったことを話した。そして、もうバトンをできないと告げ、涙のにじむ目で真っ直ぐひかるを見つめてバトンを差し出した。
「これ、返します。お願い、ひかるさん。捨てないで。あたしはひかるさんの演技、すごくカッコいいって思った。バトンをやめないで!」
ひかるは無表情で美春を見つめ、それからバトンを見下ろした。しばらくそのまま動かなかったが、美春がさらに前に出て、バトンをひかるの胸に押し付けると、ひかるは思わずバトンを手に取った。
一度親指ではね上げ、シャフトをつかんで下ろす。サムフリップという技だ。美春は知らないが、ひかるはバトンを小学生になったときから続けていた。サムフリップなど、箸を持つのと同じくらい簡単にできる。
ひかるはまるで大人のように深いため息をついた。
「部活ね、色々回ったけど、どれもやりたいって思わなかったの。『比較』って言って、美春ちゃんにわかるかな? 比較の対象があって、初めて私はバトンが好きだったんだなって思った。相対的でしかないけどね」
美春には難しくてよくわからなかったが、とにかくひかるはまだバトンが好きなのだと思い、笑顔になった。ひかるは自嘲するように続けた。
「美春ちゃんは、どうして私が教えていたかわかる?」
美春は無言で首を振った。ひかるは薄く微笑んだ。
「だろうね。私にもわからなかったから。きっと、好きだったんだって思うの。それに、美春ちゃんの持ってたのが私のバトンだったから、すごく気になったの」
「あの、勝手に持ち出してごめんなさい」
すまなさそうに美春が謝ると、ひかるは慌てて首を振った。
「いいの。美春ちゃんがこれを拾ってくれなかったら、私はきっと大して面白くもない部活に入って、つまらない毎日を送ってた気がする。ありがとう、美春ちゃん。私のバトンを助けてくれて」
美春は満面の笑みで頷いた。ひかるはそんな美春の手を握ると、お姉さんらしい口調で、力強く諭すように言った。
「私からもお願い。美春ちゃん、練習はできなくなっても、バトンを好きな気持ちは捨てないで。きっといつかお母さんもわかってくれる。そうしたら、私が入ってる教室に来て、一緒に練習しよ。それに、たまには私の家に遊びに来て。こっそり教えてあげるから」
最後はいたずらっぽく言うと、美春も明るい瞳で笑った。
「うん。遊びに行く! ありがとう、ひかるさん!」
もう涙はなかった。
微笑みながら握手を交し合う二人を、晩春の強い陽射しが照らし出す。
一度交差した二つの道は、必ずいつか交わるのだと、美春はそう信じて疑わなかった。
──夏。
バトントワリング大会のソロトワール女子中学校の部に、天木ひかるの名があった。
客席には美春が、憮然とした表情の母親と一緒に座っている。美春が死んでも見に行くと喚いたため、仕方なく連れてきたのだ。
名前を呼ばれて、華やかな衣装に身を包んだひかるが、晴れ渡る笑顔でバトンを握る。
曲が始まると同時に、にっこり笑って洗練された技の数々を披露する。いつか公園で見たより、さらに磨きがかかった演技。巧みなステップ、流れるようなバトンさばきと、速さの中に優雅さも備えた身のこなし。
回転しながら高く舞い上がったバトンが、次の瞬間には肘先を踊るように転がり、伸ばした足の下で煌いた後、再び高くはね上がる。
「あれが美春のお友達?」
隣から驚いたような母親の声がして、美春は力強く頷いた。
「そうだよ」
演技が終わると、会場に割れるような拍手が起こった。それがひかるの演技に向けられたものなのか、他のコートで同時に演技していた誰かに対するものなのかはわからない。ただ、美春はひかるのために拍手した。
だが、それでもひかるは決勝に残れなかった。会場の壁に張り出された予選の結果を見て、美春は愕然となった。そして、ひかるが嫌になってしまった気持ちが、少しだけ理解できた。
向こうからやってきたひかるに、美春はどう言葉をかけたらよいのかわからなかった。しかし、ひかるは結果などまるで気にした様子もなく、もじもじしている美春を抱きしめてから、紅潮した顔を美春に向けた。
「どうだった?」
美春は少し考えてから、大きく頷いて答えた。
「あたしは、すごくよかったと思う。公園で見たときよりもずっと感動した!」
「そう。よかった!」
ひかるはそう言ってから、安堵の息をついた。そして一度だけ結果の紙を見て、再び優しい瞳を美春に向けた。
「美春ちゃんが楽しんでくれたなら、それでいいの。私は美春ちゃんのために踊ったから、結果よりもそっちが心配だった」
美春は顔を綻ばせ、もう一度ぎゅっと抱きしめ合った。耳元で、ひかるが恥ずかしそうに囁いた。
「本当にありがとう、美春ちゃん」
「うん……」
体を離すと、ひかるは先輩の応援があるからと言って、走って戻っていった。美春も母親を振り返り、明るい瞳で言った。
「帰ろっか」
「最後まで見て行かなくていいの?」
無表情でそう言った母親に、美春は笑いながら答えた。
「ひかるちゃんの演技を見たから。それに、お母さんはバトンが嫌いなんでしょ?」
美春は母親の腕を引っ張りながら、会場を出た。自分でも驚くほど心が弾んでいた。
蝉時雨の中を歩いていると、会場を出てからずっと無言だった母親が、ぽつりと一言呟いた。
「バトンも、悪くないかもね……」
美春は一面の突き抜ける青空を見上げた。綿菓子のような雲と、消えかかった飛行機雲の間に、ひかるのバトンが光ったような気がした。
強い陽射しに緑の映える、美しい夏の日だった。
Fin