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片隅の昨日から

 午後四時を回ってなお、西の空から照りつける陽射しは熱い。昼の間に存分に日光を吸い込んだアスファルトが、フライパンのように足元から焦がしつける。素足でいたら火傷をしそうな熱量だ。
 先ほどコンビニで買ったアイスクリームは、我慢を知らないのか早くも溶け始め、コーンの端からクリームが流れ出した。親指の方を舐め取ると、別の場所から溢れたクリームが人差し指に流れ落ち、千紗は顔をしかめて口をへの字にした。
「あー、もう! こいつ、あたしに逆らってるとしか思えない!」
「だから、最初っからカップのにすればって言ったじゃない」
 ロッテのバニラアイスをこれ見よがしに見せつけながら、奈美が意地悪な笑みを浮かべた。横に大きく「爽」と書かれたカップの中身はすでに溶けていたが、溢れてこぼれるようなことはない。
「もう少し根性があると思ったのよ!」
「まったく溶けなかったら、それはそれで嫌じゃない?」
 すでにドリンクと化したパピコを飲みながら、舞希が小さく笑った。それから唐突に大きな声で笑い出し、驚いて顔を見合わせた友達に涙目で説明を始めた。
「溶けないアイスって怖くない? どうやって食べるんだろ」
「ア、アイスは別に溶けなくても食べれると思うけど……」
 奈美が呆然と呟くと、舞希はぴたりと笑うのをやめ、
「それもそっか」
 と何事もなかったように呟いた。変わった子だと思いながら、奈美はスプーンでアイスをすくった。
 千紗と舞希は中学一年生。奈美は二年生で、彼女たちの一つ先輩になる。千紗は同じ小学校出身で、一緒にバトンを習い始めた。しかし奈美の方が上達が早く、途中でクラスが別々になってしまった。舞希はその間にできた千紗の友達である。
 去年、千紗が再び同じクラスに上がってきたときに紹介してくれたのだが、まだ付き合いが浅いせいかなかなかキャラがつかめない。
(変わった子っていうと……)
 奈美はふと、先ほどから無言のもう一人に目をやった。
 奈美と同い年の少女天木ひかるは、深刻な表情でじっと手元を見つめていた。その手にはもはや原型を留めていないアイスモナカがあり、四方八方からぬるりと溢れ出たクリームがひかるの両手をべとべとにしていた。
 さらに悪いことに、肩にかけていたバトンケースとトートバッグがずり落ち、肘にぶら下がっている。気を抜けばそのまま手首の方まで落ちていきそうで、状況は予断を許さない。
「ひかるさんって、定期的に面白いよね!」
 奈美の視線に気が付いた舞希が、あっけらかんと笑った。奈美は舞希の表現の方が面白いと思ったが、今は親友を助けるのが優先だと思い、黙っていた。そしてバトンケースとバッグを肩に戻してやろうとしたとき、千紗が大きな声を上げた。
「あたし、名案を思いついた!」
「えっ? 何?」
 動くことあたわず、ただアイスの溶けるままになっていたひかるが、不安と期待の入り混じった表情で千紗を見た。
「要は手が空けばいいんでしょ?」
 言うが早いか、千紗はひかるの持っていたアイスモナカにかぶりついた。
「そっち!?」
 舞希が驚いて目を見開く。ひかるも思わず呆然となり、片手がアイスに蹂躙されていることなど忘れたように美味しそうにモナカを頬張る千紗を見下ろした。
「なんてことを……」
「はーい、ごちそうさま!」
 まるで園児のように頬までクリームでべとべとにして、千紗が明るい声を出した。さらにおまけと言うようにひかるの指についたクリームを舐めて、ひかるは思わず「きゃっ!」と可愛らしい悲鳴を上げた。
「どっちにしろその手じゃ、何もできないでしょ?」
 止まっていた時間が動き出したように、ようやく奈美はひかるの腕の束縛を解いた。それを見てから、千紗が持っていたアイスをひかるに押し付けた。
「交換ね」
 なかなか憎めない子だ。ひかると奈美は一度顔を見合わせてから、可愛い後輩の行為に微笑んだ。
 ひかるがアイスにかぶりつくと、不意に舞希が前方右手を指差した。
「千紗、前方に比較的大きな公園を発見」
 あまりにも唐突だったので奈美は驚いて舞希を見たが、千紗は慣れているのか、白くまだらになった指を舐めながら頷いた。
「うん、そうだね」
「無感動ね。あの公園なら水道くらいありそうじゃない? 後先も考えずにアイスをチョイスした二人の手を清めてくれるよ」
 実は一番しっかりしているのかもしれない。奈美が食べやすいパピコを選択した後輩を見て感心していると、千紗はそれがいいと言わんばかりに瞳を輝かせて足を速めた。
 ひかるは何も言わず、ゆっくりと歩き続けているが、本当は誰よりも早く公園に行きたがっていることだろう。急ぐとまたケースがずり落ちてくるから、駆け出したい衝動を必死に堪えているのかもしれない。
 公園には案の定水道があり、奈美とひかるが到着する頃には、千紗はもう洗い終えた手と顔をタオルで拭いていた。ひかるが手を洗っている最中、奈美は水筒のお茶を飲みながら辺りを見渡した。
 夕方の公園は親子連れと子供のグループでいっぱいだった。目の前にあるグラウンドでは小学生くらいの男の子たちが野球をしていて、シーソーや滑り台の設置してある広場では、子供たちが男女入り混じって走り回っている。
「ねえ、ひかるちゃん。あの一角で演技したら、注目を浴びるかなぁ」
 奈美の隣に立って、千紗がグラウンドと広場の中ほどを指差した。ちょうど四人で踊れるくらいのスペースがあり、今は誰も使っていない。枝葉もかかっておらず、高さも申し分ない。
「面白いかもね」
 手を洗い終えたひかるが顔を綻ばせた。去年から競技としてのバトンよりもエンターテイメント性を重視しているひかるらしい反応だ。ひかるをそうさせた当の本人はいないが、別に彼女の方向性はその子に依存したものではないらしい。
「でも、なんか恥ずかしくない?」
 舞希は急に周囲の視線を気にするように、キョロキョロと辺りを見回しながら身を縮込めた。千紗と一緒に奈美たちと同じオープンクラスに上がってきたが、技術的には千紗よりも一歩劣る。もちろん千紗も、全国常連の奈美と比較したら随分見劣るが、性格的なものかそういうことはあまり気にしていなかった。
「なんで? 面白いじゃん。トワラーなんて、目立ってなんぼでしょ?」
「だって、私あんまり上手じゃないし」
「大丈夫だって。素人はバトンが高く上がるだけで感動できるんだから」
 失礼なことをさらりと言ってのける千紗に圧されて、ついには舞希も首を縦に振った。奈美は元々反対ではなかったし、ひかるは早速バッグをごそごそあさり出した。
「確か夏祭り用のテープが……ああ、あったあった」
 ひかるがテープを取り出すと、千紗がカセットデッキを用意した。舞希を除く三人がデッキを持参しているが、千紗の持っているものが一番音が響くのである。
「私、振付けあんまり覚えてないよ」
「大丈夫。止まらなきゃ、後はテキトーでいいって」
 舞希の弱気を一蹴して、千紗はさっさとステージへ歩いて行った。
 めいめいバトンを取り出してフォーメーションを確認していると、早くも彼女たちに気が付いた何人かの子供たちが、親と一緒に興味深そうに集まってきた。
「この振付け、利恵さんがいないと成り立たないんじゃない?」
「じゃあ、利恵さんのパートはひかるちゃんね」
「私が抜けたら、千紗ちゃんのパスは誰が取るの?」
「パスをやめてリバースにするよ。一度踊ってみようか」
 小さな音量で十五分ほどああだこうだと打ち合わせると、演技はだいぶ形になってきた。細かい部分はすべてひかるが決め、奈美はひかるの思わぬ才能に舌を巻いた。
 元々ひかるの方が先にバトンを始め、奈美は自分よりもバトンが上手な同い年の女の子に憧れていた。それがいつの間にか奈美の方が上手くなり、憧れの人は友達に変わった。だが、ひかるは今でも妬けるほど憧れる部分をいくつも持っている。
「ギャラリーも増えてきたし、飽きられる前に踊ろうか」
 若干声のトーンを落として千紗が言った。練習時間が短く出来が十分ではないからだ。だが、確かにこれ以上引き伸ばすと本来の目的が達成できなくなる。
 四人は大きく頷き合うと、ひかるを残して自分たちのポジションについた。ひかるもデッキの再生ボタンを押して、平行四辺形の一頂点に立つ。
 今年のHARUEバトンスクールの夏祭りの曲は、笛と太鼓の和風の曲だ。先生がどこからか持ってきたもので、四人とも聞いたことがなかった。それもそのはずで、先生の家がある町内の鼓笛隊が作ったオリジナルの曲らしい。
「せいやー!」
 曲に合わせて千紗が掛け声をかける。こういう恥ずかしい役目は、恥ずかしいと思わない人がやるのがベストだ。奈美は最初のダブルイリュージョンを3スピンに変更し、難なく成功させた。インパクトは薄いが、公園の子供たちには十分だったようだ。どよめきが起こる。
 舞希と千紗はほとんどバトンを離さずに踊っていたが、観衆の視線は熱い。事前に千紗が言った通り、観衆はバトンがキラキラ光りながら回っていればそれで満足らしい。
 奈美とひかるがパスを決めるとパラパラと拍手が起こった。ひかるの目にも止まらない速いコンタクトと、奈美の正確なエーリアル。チーム演技としてはやや統一感に欠ける組み合わせだが、各々が十分に客を魅了できるだけの技量を持ち合わせていた。
 演技が終わると、大人たちが拍手をして、女の子たちが紅潮した顔で駆け寄ってきた。奈美はそんな女の子たちの相手をしながら、ちらりと斜め後ろのひかるに目をやった。
 ひかるは楽しそうに子供たちにバトンを回して見せている。奈美はひかるの言う「バトンのエンターテイメント性」というものを少しだけ理解した。順位ではない、この満足と高揚感のことだろう。
 奈美が充実した気持ちで立っていると、不意にまだ三つか四つくらいの女の子の声が耳に飛び込んできた。
「ねえママ、ターニャちゃん、すごいね!」
「ターニャちゃん?」
 同じく声を耳にした千紗が興味津々にその親子のもとに駆け寄った。若い母親は娘に「そうね、すごかったね」と笑いかけてから顔を上げた。
「ごめんなさい。この子、ついこの間バトンを見たばかりで、バトンを見るとなんでもターニャちゃんなのよ」
「ターニャちゃんって誰ですか? 初めて聞くものだから」
 外国人のトワラーだろうか。そう思って尋ねた奈美に、母親が丁寧に説明を始めた。
 それによると、ターニャとは西田サーカス団という、小さなサーカス団でバトンを回している少女らしい。母親は体格から少女だと思っているが、実際には年齢も性別も不詳だとか。瞳が黒いので日本人だと思うが、真っ赤な髪に赤い眉毛、顔は厚化粧で国籍も不明らしい。
「西田サーカス団? 千紗、知ってる?」
 奈美が首を傾げると、千紗は折り曲げた人差し指を可愛らしく唇に当てて、曖昧に首を振った。
「聞いたことはあるけど、見たことない」
 千紗は昔からミュージカルやサーカスなどの公演が好きで、二人でバトンを習い始めた頃は、奈美もよく千紗の家族に連れて行ってもらった。その千紗が知らないのなら、他の二人には聞くまでもないだろう。
「市の文化小劇場って知ってる? そこで今月中、金土日と公演してるから、もし興味があったら見てみるといいかもね」
 目をキラキラさせながら母親がそう言った。どうやらよほど公演が楽しかったらしい。
 奈美は社交辞令的に頷いたが、千紗は母親と同じくらい瞳を輝かせていた。どうやら行く気満々のようだ。
 結局子供たちに解放されたのはそれから三十分もした後だった。時間がもう少し早ければ、さらに長く捕まっていたかもしれない。母親に手を引かれて退去させられた女の子の大半が、名残惜しそうに何度も四人の方を振り返っていた。
 そんな子供たちに手を振ってから、ひかるが大きく息をつき、明るい声を出した。
「楽しかった。舞希ちゃん、どうだった?」
「うん。ミスしても怒られないし、自由に踊れるっていいね」
 厳格な先生が聞いたら怒り出しそうな台詞だったが、幸いにもここに先生はいなかった。奈美も先生の決めた通りにしか演技をしたことがない一人だったので、舞希の意見に深く頷いて賛同した。
「でしょ?」
 ひかるが満足そうに微笑む。聞くと、ひかるは時々好きな曲をかけては自分で振付けを考えたりしているらしい。
 奈美はその言葉に再び驚かされた。去年、ひかるはスクールで上達のための厳しい練習を拒否していた時期があり、それを見て奈美は、ひかるはバトンが好きではなくなったとさえ思った。
 だが、逆だった。ひかるは奈美よりも遥かにバトンが好きなのだ。単に方向性の違いかも知れないが、奈美は自分で振付けを作ろうなどと考えたこともない。
「エンターテイメントか……」
 奈美が呟くと、ひかるが頬を緩めた。しかし、何も言わなかった。恥ずかしくなって隣を見ると、千紗は片想いの男性でも見るようにぼーっと立ち尽くしたままだった。サーカス団のターニャに想いを馳せているのか。奈美は苦笑し、三人で顔を見合わせて笑った。
「そろそろ帰らなくちゃね。みんな、時間は大丈夫?」
 ひかるが心配そうな顔をした。元々レッスンの帰り道である。いつもは夜になるので、ほとんどの親が送り迎えをしているが、今は夏休みでレッスンが昼にあるため、遠方の生徒も一部電車で通っている。ひかるはスクールの近所に住んでおり、今もわざわざ遠回りをしているだけだが、他の三人はこれから電車で帰るのだ。
「うちはあんまり時間とか気にしないから」
「私はさりげなく携帯で連絡済み」
「あたしはやばい」
 後輩二人に続いて奈美が言うと、舞希が噴き出してから千紗が笑い転げた。
「じゃあ、早く帰らなくちゃね」
 ひかるも可笑しそうに肩をすくめた。
 それから四人は他愛もない話をしながら駅まで歩き、改札口で解散した。

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