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ずっと友達
 最近イライラしていることに、奈美は自分で気が付いていた。バトンを片手に、タオルで汗を拭きながら斜め前方に顔を向ける。ちょうどひかるがトスを上げたところだった。奈美の目から見てもゆっくりとしたスピードでイリュージョンを決め、難なくバトンをキャッチする。そして満足そうに微笑んで、同じことを繰り返す。
 奈美はタオルを放り投げ、トリプルイリュージョンの練習をする。トスはひかるより高く上がらないが、イリュージョンの速さと安定性ではスクールの誰にも負けない。バトンは指先を弾いて床に転がった。成功率は三割と言ったところ。けれど、次の選手権大会には八割程度にまで持っていけるだろう。
 ひかるを見る。相変わらずイリュージョンを練習している。速くもなければ、目を見張るほど綺麗な形でもない。けれど、バトンは絶対に落とさない。五十回でも百回でも連続でキャッチする。
 それが奈美には気に入らなかった。ひかるは奈美と同じ中学一年生。まだまだこれから練習次第で技術力も向上するし、飛躍的な成長も見込める。にも関わらず、ひたすらすでに出来る技に始終し、新しい技に挑もうとしないのだ。
 それに対して先生が何も言わないのも気に入らない。奈美には次々と新しい技を要求し、演技に取り入れ、出来なければ大声で怒鳴る。母親は「おかげで上手になっている」と言うが、厳しいのは怖いし、みんなの前で怒鳴られるのは恥ずかしい。そんなある種の屈辱を、ひかるにはまったく与えない。
 ある時奈美は、直接先生にどうしてひかるには難しい演技指導をしないのか聞いてみた。すると先生は、つまらなさそうにこう答えた。
「やる気のない子に教えてもねぇ。また前みたいにやる気になったら教えるよ」
 母親は言う。それは奈美の方が恵まれている。あきらめられたらおしまいだし、厳しくされるのは期待されている証だと。けれど奈美には、どうしても今の状況はひかるの方が優遇されているように思えた。ひかるは自分の意志を尊重されていて、自分は決して逆らうことを許されない。不公平だ。
 同じ動きに飽きたのか、ひかるがダブルイリュージョンをやった。難なくとは言いがたいが、無難にキャッチする。しかしあれではトリプルは無理だろう。奈美は思い切りバトンを上げて、鋭く身体を回転させた。今度はキャッチに成功した。

 奈美がこのHARUEバトンスクールに入会したのは、小学三年の春だった。一つ下で同じ小学校に通う千紗と一緒に入会し、バトンを習い始めた。
 HARUEバトンスクールには3つのクラスがあり、規定演技の入門と初級の生徒は初級クラス、中級と上級の生徒は中級クラス、そして選手権の生徒はオープンクラスで練習する。当然、初心者の奈美と千紗は初級クラスからのスタートだった。その時ひかるは中級クラスだった。
 入会してすぐに行われた夏の大会には参加せず、次の冬の大会で、奈美は初級で銀賞を取り、千紗は入門で金賞をもらった。この時はまだ奈美と千紗は母親ともに仲が良く、どちらかの親が二人の送り迎えをすることもあった。奈美は千紗の他にもたくさん友達がいて、寂しさを感じることなど一度もなかった。
 そんな楽しいバトンライフが、それから一年後の冬の大会で一変する。小学四年の夏の大会で、奈美は千紗と一緒に初級で金賞を取り、中級クラスに進んだ。後から知った話だが、ひかるはこの大会で上級金賞を取り、オープンクラスに上ったらしい。
 夏休みから二人で中級の練習を始めたのだが、なかなか技が覚えられない千紗に対して、奈美は1スピンもフィッシュテールも難なく出来るようになった。先生は奈美の才能を認め、母親にバレエを習わせるよう進言した。同時に、年内には中級の振付けが出来るようになった奈美は、冬の大会で上級を狙うことになった。
 そして迎えた大会で、中級銀賞だった千紗とは対照的に、奈美は背伸びした上級で金賞を取得する。これにより、すでにどことなくぎくしゃくし始めていた親同士の仲は破綻し、クラスが変わった子供同士も、せいぜい小学校で顔を合わせた時に話す程度になってしまった。
 オープンクラスに入った奈美は、今までとはすっかり違った指導と環境にひどく戸惑った。初級クラスと中級クラスは、どちらかと言えば「みんなで楽しく」だったが、オープンクラスは怒られはしても誉められることはなく、話し声もない空気の中、全員が黙々とバトンの練習に励んでいた。
 生徒も十人ちょっとと少なく、しかもそのほとんどが高校生以上だった。小学生は春から五年生になる奈美と、もう一人、同い年のひかるの二人だけだった。そんな状況なので、ひかるの存在が奈美にとって如何に大きかったかは想像に難くない。実際、もしもひかるがいなければ、奈美はバトンを辞めていたかもしれない。
 天木ひかるという女の子は、友達であると同時に、奈美の憧れでもあった。まだ中級クラスの時に何度か合同練習があり、そこで一人で頑張る小さな女の子を見て、奈美は心をときめかせた。
 奈美の目から見えるひかるはバトンの天才だった。とにかくバトンさばきが速く、ドロップも極端に少ない。先生にはよく、姿勢が汚いとかボディーが遅いなどと怒られていたが、奈美にとってはスクールで一番身近なアイドルだった。
 そんな憧れのひかると一緒に練習が出来るようになり、奈美の胸には寂しさと同じくらい大きな喜びがあった。実際、ひかると二人の練習は楽しかった。怒られて落ち込んでいるとひかるが慰めてくれたし、新しい技が成功した喜びは分かち合えた。
 それなりに充実した新しいバトンライフ。奈美はそれがずっと続くと思っていた。オープンクラスより上はないのだ。自分は常にひかるの隣にいて、やがて千紗や他の友達も追いついてくる。未来は明るい。

 五年生の春から梅雨に差し掛かった頃、ひかるが言った言葉が今でも耳に残っている。
「私じゃないよ。先生が一番期待してるのは奈美ちゃんだよ」
 どんな話がひかるにそんなことを言わせたのかは覚えていない。ただ奈美はひかるに憧れていたことを伝え、それに対してひかるがそう答えた。奈美はそれを謙遜だと思った。誉められて「そんなことないよ」と答えるのはよくあることだ。
 だがその夏の大会で、予選で落ちたひかるに対して、奈美は決勝に進出した。ひかるは純粋に祝福してくれたが、奈美の心は複雑だった。決勝ではいつもの演技ができず、後ろから数えた方が早い順位で終わった。
 どんどんひかるは色褪せていった。あれほど速いと思ったバトンさばきは単調に見え、軸足の乱れや内股が気になった。イリュージョンは遅い、スピンは安定しない、ロールは続かない。動きは小さく如何にも自信がなさそうで、同じことを何度も何度も怒られていた。
 そして六年生の地区大会が終わったとき、決勝で敗退したひかるが、全国に進出した奈美にこう言った。
「奈美ちゃん、私の分まで頑張ってね」
 奈美は素直に受け止め、全国五位という輝かしい成績を収める。しかし、それをひかるに報告することはできなかった。その冬の地区大会を最後に、ひかるはバトンを辞めてしまったのだ。
 奈美は失意のどん底に突き落とされた。裏切られた気分になった。中級クラスから女の子が二人上がってきたが、あまり馬が合わなかった。奈美は一人ぼっちになってしまった。
 そのひかるが、六月からスクールに戻ってきた。ひかるは辞めた理由も、三ヶ月間何をしていたかも、どうして戻ってきたかも言わなかった。奈美もしつこく聞いたりはしなかった。とにかくまた一緒に練習ができる。それで満足だった。
 しかし、奈美が期待したようにはならなかった。戻ってきたひかるには、バトンに対する愛情とは裏腹に、向上心がまるで感じられなかった。先生もひかるには何も言わず、期待はすべて奈美に注がれた。
 奈美は、ひょっとしてひかるのやる気を削いだのは自分なのではないかと考えた。突如として現れた自分よりも上手な存在。ひかるはずっと自分を妬み、嫌っていたのではないか。
 そう思った途端、奈美はひかるとの間に壁を感じて、話しかけづらくなってしまった。それでもひかるが寂しそうな様子を見せなかったから、奈美はますますひかるから遠ざかった。
 罪悪感はやがて苛立ちに変わった。斜め前方のひかるは、相変わらず大して上手くないダブルイリュージョンを決めては満足そうにしている。イライラしながらトスを放った。トリプルイリュージョンは完璧に成功した。

 チームは全国大会に進出できなかったため、今年は十二月にはもう個人のレッスンに打ち込むことができた。先生はひどく悔しがっていたが、奈美はチームより選手権大会に惹かれていたので、むしろこの状況を喜んだ。
 クリスマスを過ぎる頃にはもう、トリプルイリュージョンは先生にも及第点の出来になり、キャッチの方法が工夫されるまでになった。色々試した結果、アンダーレッグキャッチをすることになった。エルボーラダーもスムーズになり、演技はどんどん研ぎ澄まされていった。
 ひかるは自分の演技の練習を、黙々と繰り返している。振付けはすでに完成され、ひかるはそれを七割方ノードロップで演技できる。しかし、難しい技はほとんど何も入っておらず、ロールも短い。側転に地転、ダブルイリュージョンに3スピン。様々なエーリアルと勢いのあるコンタクトを組み合わせた演技は、確かに見ていて面白いが、演技点は低そうだ。あれではノードロップで踊り切っても、決勝には残れないだろう。
「ねえ、ひかるちゃん。最後、エンジェルキャッチにしたら? 最初のスピンも、4スピンにした方がいいんじゃない?」
 休憩の時に声をかけてみた。ひかるは驚いた顔をしてから、苦笑いをして首を振った。
「エンジェルなんて無理だよ」
「なんで? 練習すればできるようになるよ」
「うん。でも、きっと落とすと思うし」
「落とすのが怖いから新しい技を練習しないの? 1スピンだって始めは落としてたけど、練習したから落とさないようになったんでしょ?」
 ひかるは即答を避け、じっと奈美の瞳を見つめた。その無言の数秒間、奈美はなんだか責められているような気分になった。思わず視線を逸らせた奈美に、ひかるが怪訝そうな顔で聞いた。
「どうして奈美ちゃんは、私の演技なんて気にするの?」
「あたしは……」
 背筋に冷たいものを感じた。ひょっとしてひかるは、自分の汚い内心を見透かしているのではないか。後ろめたくて、目を伏せたまま答えた。
「あたしは、ひかるちゃんと一緒に全国に行きたいから。今の振付けじゃ、全国に行けないの、ひかるちゃんもわかってるんでしょ?」
 顔を上げると、ひかるはやや気を悪くしたように、無表情で壁を見つめていた。それからタオルを置いてバトンを握る。
「私は、奈美ちゃんとは違うから」
「ひがんでるの?」
 思わず言ってから、奈美は激しい後悔と自己嫌悪に駆られた。しかし、ひかるは気にする素振りを見せなかった。ただ何かを思い出すように一度天井を見上げてから、楽しそうに微笑んだ。
「全国とか、どうでもいいの。行けるなら行きたいけど、バトンが嫌いになるほど練習してまで行きたいとは思わないから」
「あたし、別にバトン嫌いじゃないよ?」
「奈美ちゃんのことじゃないよ。私が去年楽しくなかったの。だから辞めたの。同じことをするんだったら、戻ってきてないよ」
 そう言って、ひかるはフロアに戻って行き、再び難易度の低い振付けを楽しそうに繰り返した。
 奈美はなんだか涙が込み上げてきた。怒りでも悔しさでも恥ずかしさでもない。一番身近なアイドルが、すっかり色褪せて遠いところへ行ってしまった寂しさ。たぶんもう戻れない。
「ひかるちゃんのバカ……」
 小さく呟いて、涙を拭った。

 年が明けてから冬休みの間に、二泊三日のバトン合宿が催された。合宿と聞くとひたすら練習し続ける厳しいイメージがあるが、HARUEバトンスクールの合宿は一般的なそれとは異なり、親睦と交流を目的とした和やかなものだった。
 初級クラスからオープンクラスまで、三十人ほどの生徒が参加し、低学年の保護者も合わせて総勢四十人になった。
 場所は奈美の住んでいる市から電車で一時間ほどの場所にある田舎の合宿施設で、広いグラウンドに四面のテニスコート、それから体育館がある。宿泊施設としては大小合わせて八つの部屋と食堂。浴室は大浴場が一つだけで、男女が時間交代で使用する。
 到着した初日は、昼過ぎから早速練習だった。自分で練習プログラムを組めない小さな子を除き、基本的には生徒の自主性に任せられる。もっとも、ほとんどの生徒が先生に何をすればいいか聞いていたが、奈美は他のオープンクラスの生徒と同様、一人で準備運動をしてから苦手な箇所を重点的に練習することにした。
 ちなみに奈美は、フィンガーが得意ではない。コンタクト全般に言えることだが、スクールの中学生ではひかるが圧倒的に上手い。身体の動きをつけた演技としては奈美の方が美しかったが、奈美はひかるの器用さをいつも羨ましく思っていた。
 もっとも、ひかるがコンタクトを得意としているのは、ひたすら同じことを繰り返しているからであって、もしも奈美がひかると同じだけの練習時間をコンタクトに割けば、すぐにひかるより上手になるのだった。奈美がそれを直接ひかるに教えられるのは、もう少し先の話になる。
 奈美は振付けのフィンガーを練習しながら、ふとひかるが近くにいないことに気が付いた。決められているわけではないが、大体クラスごとに固まっている。離れた一角には千紗を含めた懐かしい顔ぶれがあった。千紗はソロストラットの練習をしている。
 意外なことに、ひかるは初級クラスの中にいて、女の子の一人に技を教えているようだった。やや幼く見えるが高学年だろう。サムフリップを練習しているところを見ると、次の大会で初級を受けるようである。
 女の子もひかるも楽しそうだった。奈美はイライラした。初級クラスには知り合いがいなかったので、千紗のところに聞きに行くと、千紗の友達が彼女は矢島美春といって、秋に入会した五年生だと教えてくれた。以前からひかるとは知り合いだったらしく、入会した時点で入門の技はほとんど出来たという。
 奈美は千紗の友達の言った「以前」というのが、そんなに前ではないとわかった。もしも本当に昔からの友達なら、一度も話題に出ないはずがない。「以前」というのは恐らくひかるがバトンを辞めた後のことである。
 だとすると、ひかるが再びバトンを握るようになったのも、あんなふうに変わってしまったのも、あの女の子が原因だと考えるのが妥当だ。
 気が付くと、奈美はひかるの方に歩いていた。ひかるが不思議そうな顔をする。美春は好奇心旺盛な瞳で奈美を見た。昔中級クラスだった頃、奈美がひかるを見ていた瞳と同じものだ。
「ねえ、ひかるちゃん。自分の練習はしないの?」
 自分でも驚くほど喧嘩腰でそう言うと、ひかるは不機嫌そうに眉をひそめた。
「するよ」
「してないじゃん」
「後からするよ」
 美春が怯えたように両手でバトンを握り、ひかるの背に隠れるように後ずさった。ひかるはそんな美春をちらりと見てから、怒った声で言った。
「奈美ちゃんには関係ないでしょ?」
「関係あるよ。同じクラスじゃない」
「利恵さんや北ちゃんだって、他の子と一緒にやってるじゃない。どうして私にだけそんなこと言うの?」
 ひかるの瞳が涙で潤んだ。奈美はひどく動揺して、衝動的に口走った。
「あ、あたしは、ひかるちゃんと一緒に練習したいの」
 本音かどうか、自分でもよくわからなかった。ただ、言ってから、ひょっとしたらこれでひかると昔のような関係に戻れるかもしれないと思った。
 淡い期待は呆気なく打ち砕かれた。
「ウソ! いつも一緒に練習なんてしてないじゃない!」
 ひかるの目から涙が零れて、奈美は頬を殴られたような衝撃を受けた。ひかるはあからさまは不愉快そうに、そして悲しそうに続けた。
「私は美春ちゃんと一緒にバトンができるのを、すごく楽しみにしてたの。奈美ちゃんが私のこと嫌いなのはわかってるから、お願いだから邪魔をしないで!」
 膝の力が抜けて、崩れ落ちそうになった。ひかるはもう奈美を見ていない。安心させるように美春の髪を撫で、美春は心配そうにちらちらと奈美を見ている。
 奈美はバトンを握ったまま駆け出した。わき目も振らずに体育館を飛び出と、一月の冷たい空気が身にまとわり付いてきた。涙でぼやける階段を転がるように駆け下りた。
「ひかるちゃん、ひかるちゃん、ひかるちゃん!」
 大声で叫んで、うずくまって泣き出した。ひかるは追いかけてきてくれない。追いかけてくれるはずがない。
 ずっと泣いていた。誰も来てはくれなかった。ただ、冷たい風が吹いていた。

 夜、風呂から上がった奈美は、一人小さなロビーの椅子に座っていた。時々廊下を子供たちの笑い声が通り過ぎていく。楽しそうなそれらの声を耳にしながら、奈美は虚ろな瞳で窓から外を見つめていた。田舎の空は一面の星明かり。中央に美しい月が皓々と輝いていた。
 あれから奈美は練習に戻ったが、ずっと一人だった。ひかるは美春や他の初級の子供たちと、始終楽しそうに練習していた。自分から話しかけなければ、誰も話しかけてはくれなかった。
(もう帰りたい……)
 ビン入りのフルーツ牛乳を手に取った。しかしすでに空だったから、またテーブルに置いた。同じことをすでに三度ほど繰り返している。
 練習の時と同じで、誰も話しかけてはくれなかった。涙が込み上げてきて、それを隠すように両手で顔を覆った。
「もう、バトン辞めよっかな……」
 涙声で呟くと、小さくそれに答える声があった。
「もったいないよ」
 驚いて顔を上げると、ジャージ姿のひかるが立っていて、奈美の向かいの椅子に座った。そして目を丸くしている奈美から顔を背け、窓越しに月を眺める。奈美はしばらくそんなひかるを見つめていたが、やがて同じように視線を逸らせた。
 ひかるは何か考えるような顔をしていた。奈美が黙っていると、やがてひかるが外を見たまま口を開いた。
「奈美ちゃん、私のこと、嫌いじゃないの?」
 奈美は窓に映るひかるを見た。ひかるも同じようにして、目が合った。今度は正面から向き合った。
「好きだよ。でも、ひかるちゃんは、あたしのこと、嫌いなんだよね?」
 はっきりと告白してから恐る恐る尋ねると、ひかるは少し驚いた顔をしてから、安心したような息を漏らした。
「私は嫌いじゃないよ。ただ、奈美ちゃんが私のことを嫌ってると思ってたから」
「あたしも、ひかるちゃんがあたしを嫌ってると思ってたから……」
 奈美は目頭が熱くなった。涙は零れなかったけれど、視界が微かにぼやけた。涙の向こうで、ひかるが寂しそうな顔で笑った。
「どうしてこうなっちゃったんだろうね……。私がいけなかったのかな……」
「ううん。あたしがいけなかったの!」
 すぐに、奈美は声を上げた。
「どうして?」
「だって……」
 言葉が続けられずに、奈美は恥ずかしくなって顔を伏せた。何も考えずに喋っていることと、心のどこかで自分は悪くないと言い訳していることが、恥ずかしくてしょうがなかった。同じ中学一年生とは思えない大人びた表情でひかるが言った。
「昔は上手になりたかったの。だから、奈美ちゃんに嫉妬してたんだと思う。この前、奈美ちゃんに聞かれたときは本当にひがんでなかったんだけど、辞める前はずっと妬んでた」
「今は上手になりたくないの? 今日も、結局自分の練習してなかった」
「前言った通りだよ。上手にはなりたいけど、もうつらい練習はしたくないの。大会とか成績とかどうでもよくって、私はただバトンを楽しみたいの。この合宿は交流が目的だし、私は美春ちゃんたちと楽しくバトンをやりたいの」
「あたしが間違ってる?」
「ううん。合ってるとか間違ってるとかじゃなくて、私は私、奈美ちゃんは奈美ちゃん」
 奈美は少し頭がこんがらがってきて、表情を硬くした。頭は悪い方ではないが、ひかるほど回転は速くない。苦笑しながらひかるが言った。
「私は頑張ってる奈美ちゃんのこと好きだし、頑張ってほしいよ? 先生たちも期待してるし、嫌じゃないならそれに応えてほしい。でも、それを私に押しつけないでほしいの。私は奈美ちゃんみたいに上手じゃないし、頑張ったけど上手になれなかった」
「あたしはどうしたらいいの?」
 突き放されたような気がして、奈美は悲しくなった。弱々しい声で尋ねると、ひかるが優しい瞳で答えた。
「私は私、奈美ちゃんは奈美ちゃん。一緒にバトンをしてるけど、目指してるところは違うんだって、理解し合えばいいんだよ。でも、私は奈美ちゃんが私を嫌ってると思ってたから。別に仲良くなりたいなんて思ってないと思ってたから、何も言えなかった」
「あたしは、好きだよ……?」
「うん。あの後、奈美ちゃんが私を嫌ってるって話をしたら、美春ちゃんが言ったの。逆じゃないかって。だから、話しかけてみたの」
「美春ちゃんが……」
「だから、仲直りしよ? 小学校の時に戻ろう」
 すっと、ひかるが手を差し出した。急展開についていけずに、ぼんやりしたままそれを握る。ひかるの手はとても温かかった。
 にっこり笑って、ひかるが立ち上がる。そして廊下に見知った顔を見付けて声を上げた。
「あれ? 美春ちゃん!」
 奈美が見ると、可愛い水玉のパジャマを着た美春が、小さくぺこりと頭を下げた。
「先に行っててって言ったじゃない」
 ひかるが嬉しそうに駆け寄って、奈美に軽く手を振って部屋に戻って行った。
 奈美はしばらく誰もいなくなった廊下を見つめていたが、やがてゆっくりと顔を戻して手の平を見た。まだひかるの温もりが残っている。
「仲直り、できたのかな……?」
 まるですべてが夢の中の出来事のようで、思考がぼんやりして定まらなかった。しばらく椅子に座ったまま、時間をかけてひかるの言葉を反芻する。じわじわと胸が熱くなり、いたたまれなくなって立ち上がった。
「あたし、ひかるちゃんに謝らないと。それから、もう一回ちゃんと好きだって言おう。美春ちゃんにもお礼を言おう」
 長い月日の間にすっかり凍り付いた心は、ひかるの手の温もりが一瞬にして溶かしてしまった。もう二人の間に壁はない。元々、ひかるは壁など作っていなかったのだ。
 奈美は合宿に来てから初めて笑った。そして、弾む足取りで二人のいる部屋に向かって駆け出した。

 余談だが、二月の大会で美春は初級銀賞を取得した。中級の後、一年半ほどソロストラットに打ち込んでいた千紗は無事ソロトワール上級で金賞を取り、春から再び奈美と一緒に練習することになった。親同士の仲は戻らなかったが、子供たちはすぐに仲を取り戻した。
 ひかるはノードロップで決勝に残ったが、奈美の指摘通り全国には進めなかった。しかし、美春の前で二回演技が出来ただけで満足していた。決勝もノードロップだった。
 奈美は中一にして地区大会で二位になり、全国大会に出場した。全国では上級生の壁に阻まれたが、成長力を感じる演技だったと、審査員の話題に上った。
 春、奈美は同じ地元の中学に上がってきた千紗と、少しずつ向上心を取り戻してきたひかるの三人で、楽しく練習に励んでいた。来年は美春も中学生になり、やがてオープンクラスに入ってくるだろう。
 未来は明るい!
Fin