■ Novels


青空に続く道

■主な登場人物
セディー : 盗賊の少年。仲違いして、仲間に追われていたところをアリシアに助けられる。
アリシア : ハイデルの騎士ギルスの娘。父を殺され、現在は森でひっそりと暮らしている。
ハイルーク : 美しい楽器を持つ旅の吟遊詩人。リッシュに頼まれ、アリシアを訪ねる。
リッシュ : アリシアの母親。自分たちを付け狙う盗賊ベイマルを追って旅をしている。
タクト : ハイデルに住む少年。独学で魔法を学ぼうとしていたが、ミーフィに教わることに。
ミーフィ : 魔法使いの少女。魔法を学べないタクトを不憫に思い、規則を破って魔法を教える。
ベイマル : 盗賊団の頭領だったが、アリシアの父に壊滅させられる。アリシアを付け狙う。
ハイス : 魔法王国ヴェルクの第一王子。“ジェリスの再来”と評される天才魔法使い。

ハイルーク

 善王ハルデスクの治めるデックヴォルト王国の王都フラギールまで数日のところに、小さな町があった。小さな、と言っても、フラギールや北東のグリューンより小さいというだけで、北方のセイラスよりは大きいかも知れない。いずれにせよ、冬の寒い日にも関わらず、喧騒は絶え間なく、活気があり、酒場も身体を芯から温める強い酒を求める人々で溢れていた。
 そんな人々の中に、旅装束に身をくるんだ一人の青年がいた。深い藍色の髪で、細く閉じられた目蓋の奥にある瞳も、それと同じ色をしていた。温和な表情と血色の良い肌のために、見た目は17、8に見えるが、実際は27歳である。
 青年の手元には、白い布に包まれた包みがあった。子供の腕くらいの長さで、太さは大人の太股よりも太い。他にも、金入れや旅に必要なものの入っている布袋も持っていたが、その包みを一番大切そうに抱えていた。
 青年ハイルークはカウンターに座り、出された弱い酒を少しだけ飲むと、奥の方で歌っている一団に目を遣った。リュート一本にカスタネット、後は単純な音を出す打楽器や、ぎざぎざの付いた木を棒でこすって音を出すような楽器など、種類は多彩で、曲も明るく楽しいものだ。
 ハイルークは無意識にリズムを取りながら、その音楽に耳を傾けていた。
 こうして音楽を聴いている時が、一番心が安らいだ。曲の種類は、よほど趣味の悪いものでない限りは問わない。今流れているような明るいものでも、悲しい物語でも、あるいは舞踏会で流れるワルツのようなものでも良い。
 数曲の演奏が終わると、彼らは楽器を片付けて自分たちのテーブルに戻っていった。
 ハイルークはカウンターのマスターに一声かけると、先ほどまで彼らがいた舞台に立った。舞台のそばにいる者たちは音楽好きが多く、ハイルークを見ると期待の眼差しを向けて拍手を送った。先ほどまで演奏していた者たちも同じである。
 全体としては、あまり音楽になど耳を傾けていない者が多く、酒場は喧騒に包まれたままだった。
 ハイルークは布を取り、楽器を取り出した。リュートに似ているが、先端は曲がっておらず、弦も3本しかない。また、弦をリュートは指で弾くが、ハイルークは親指大の薄い道具を使って弾いた。
 楽器は精巧な彫り物がしてあり、金属部分も良く磨かれて光っていた。
 ハイルークは一礼してから、弦を強く弾いた。思いの外大きな、澄んだ音がして、周囲の者が目を見張る。先ほどの演奏者たちも同じだ。
 この時代、技術的な問題により、弦楽器は多彩な音色は出せても大きな音を出すことはできず、あくまで歌の補助に使うことが多かった。しかし、彼の持つ楽器は低音は腹の底まで響き、高音は澄んだ美しい音がする。
「すごい楽器だ……」
 誰かが呟き、同時にハイルークは演奏を始めた。楽器も素晴らしかったが、それを弾く手つきは芸術的で、緩急巧みな演奏に皆が惹き付けられた。楽器の持つ音色を前面に押し出した曲だが、ハイルークの声もまた、喧騒に負けないほどよく通るいい声をしていた。
 ハイルークが一曲終えると、拍手とともに早速金が投げ込まれた。ハイルークは軽く会釈をすると、さらに続けて3曲ほど弾き、集まった金を袋にしまった。
 カウンターに戻ろうとすると、先ほどまで歌っていた若い女性が声をかけてきた。
「ねえ、あんた。歌、良かったよ。よかったら、ここで呑みなよ」
 ハイルークは一瞬迷ったが、断る理由がなかったので、その言葉に甘えることにした。この女性もその仲間も、先ほどの演奏を見る限り、本当に音楽を愛しているように見えた。そういう者たちとの交流は、ハイルークの旅の楽しみの一つである。
 女性はジャクシーと名乗った。21だと言い、ハイルークが27だと告げると驚いた顔をした。外見を見て、年下だと思っていたようだ。
「じゃあ、ハイルークは歌いながら一人で旅をしてるんだね?」
 音楽仲間と出会えたことはジャクシーも嬉しいようで、すっかり酒に赤らんだ顔で言った。ハイルークは頷いて、やはり酔わないような薄い酒を飲んだ。
「お前の腕なら、まず音楽だけで食って行けるだろうな。俺たちは、結構路銀を稼ぐのも大変なんだぜ」
 こちらもやはり酔っ払っている、ジャクシーの仲間の髭面が言った。嫉妬しているようだが、悪気はなさそうだ。
「ルヴェルファストでは、まだ音楽というもの自体があまり浸透してませんからね。あなたたちの腕や音楽が悪いのではなくて、聴き手にそれを理解する感性がないんですよ」
 ハイルークが穏やかに笑ってそう言うと、髭面は照れたように視線を逸らせてから、
「どっちにしろ、音楽だけで食っていけないのは一緒さ」
 と言って酒をすすった。
 ハイルークが言ったことは、何も慰めではなかった。音楽と言うものは日常的ではなく、楽器を作る工房も数えるほどしかない。もちろん、そのために音楽家は歓迎される傾向にあるが、収入はあまり良くなかった。それに、ジャクシーの一団は4人もおり、一曲に出される金がハイルークと同じだったとしても、一人一人では4分の1になる。生活が苦しいのは仕方ない。
「それより、その楽器はなんだい? 見たこともないし、すごい綺麗な音がしていたね」
 ジャクシーが見せてくれとせがんだので、ハイルークは布を取った。もっとも、触らせはしなかったが、ジャクシーはそのことはあまり気にしなかった。
 遠目にも芸術的だと思ったが、間近で見ると、その彫り物の精巧さに思わず感嘆の声が漏れた。彫られているのは大きな羽根を持った人間だったが、その羽根は細部まで精密に描かれている。色使いも鮮やかで、ジャクシーの知識では、それがどのような染料で塗られているのかわからなかった。
「これは、昔西の果ての妖精たちからもらったものです。僕の宝物ですね」
「妖精?」
 ジャクシーたちは首を傾げた。それも仕方ないだろう。妖精たちは西の果てにひっそりと暮らし、人間たちとの交流もなく、従って一般的には知られていない存在だった。
 ハイルークは楽器を片付けながら言った。
「妖精は、ここに描かれたような、美しい羽根を持った種族です。人の言葉を理解しますが、人とは異なる存在です。西の村で、人間に襲われていた妖精を助けたんですよ。これはそのお礼です。もっとも、妖精の村の場所は教えられませんでしたし、もう二度と近付くなって言われましたけどね」
「ふーん。まだまだこの大陸にも、そういう物語みたいなことってあるんだな」
 ジャクシーは感心したように頷いた。
 それからしばらく話すと、ハイルークは席を立った。ジャクシーたちはハイルークに仲間にならないかと誘ったが、ハイルークはやんわりと断った。ジャクシーはせめてこの町にいる間だけでも一緒にと言ったが、ハイルークはこう言って首を振った。
「あまり僕に関わらない方がいいです。こんな珍しいものを持っていると、どんな手段を使っても欲しがる人間がいますから」
 ハイルークはカウンターに戻る際に、ちらりと奥のテーブルに目を遣った。そこに座っていた男と目が合う。彼らは太い腕を組み、椅子に浅くもたれたまま、悠然とハイルークの方を見て笑っていた。目が合ってもまるで動じる気配がない。
 と、同時に、これは男たちも気が付いていないようだが、その男たちを油断なく観察している女性の姿に気がついた。赤色の髪を背中で束ね、戦士風の出で立ちをしている。美しい顔をしており、歳はハイルークよりも若そうだ。女性のテーブルには、他に二人の男がおり、一人は熊のように太い腕をし、もう一人は指に凝力石の填まった指輪をしていた。魔法使いのようだ。三人とも酒は呑んでいなかった。
(あまり巻き込まれたくないけど、下手に撒いて寝首をかかれても嫌だしな……)
 ハイルークは金を払うと外に出た。もちろん男たちもついて来る。赤髪の女性までは確認できなかったが、恐らくついて来ているだろう。
 ハイルークが外に出ると、通りはうっすらと白く雪が積もり、冷たく強い風に雪煙が上がっていた。店に入ったときのような活気はすでになく、辺りは静まり返っていた。
 ハイルークは雪の上に足跡を残しながらしばらく歩くと、すでに閉まっている店の脇の道に入って大通りを逸れた。そしてさらに民家の少ない場所へ来ると、先ほどの男たちがわらわらと現れ、あっと言う間にハイルークを取り囲んだ。
「何か用ですか?」
 ハイルークが冷静に尋ねると、男たちは無言で剣を閃かせた。どうやら、穏便に物を盗む輩ではなく、強盗を厭わない連中らしい。
 ハイルークは腰に帯びた短剣ではなく、楽器の布を解いた。丹念に巻かれているように見えるが、すぐに取れるようになっている。男たちは目で合図し合い、輪を縮めた。ハイルークは弦に指をかけた。
 その時、奥から凛とした女性の声が響き渡った。
「それくらいにしな、ベイマルの豚ども!」
 現れたのは、もちろん先ほどの女性である。
 ハイルークは、口の中で「ベイマル?」と呟いた。彼は幅広い知識を持っていたから、それが5年前まで、このフルースベルク半島に巣食っていた盗賊団の首領の名前だとわかった。けれど、ベイマルはハイデルの騎士に討たれたと聞いている。
 男たちは突然の女性の乱入に瞳を光らせた。いや、ベイマルという言葉にかも知れない。
「何者だ。何故ベイマルさんを知っている」
「追ってるからさ。ベイマルの息がかかったヤツは、一人も生かしちゃおけないんだよ!」
 言うなり、魔法使いが大地に手をつき、彼らの足元がぐらりと揺らいだ。ハイルークは何とか堪えたが、数人が大地に倒れこむ。そこに、二人の戦士が斬りかかった。
 彼らは数合打ち合ったが、どうやら女性の方に分があるらしい。とうとう大地に足をつけているのが一人になると、男は仲間を見捨てて身を翻した。
「待て!」
 女性が鋭い瞳で言ったが、追いつける距離ではない。それを見てハイルークが言った。
「耳を塞いでください」
 女性は何のことかわからなかったが、先ほどハイルークの演奏も見ていたので、彼を信用することにした。武器を投げるとすぐに両手で耳を塞ぎ、それを見て仲間の二人も同じようにする。
 ハイルークが巧みな指さばきで楽器をかき鳴らすと、人の神経を壊すかのような、おぞましいメロディーが流れ、それを耳にした男が突然屈んで身体を震わせた。ハイルークがさらに強く速くかき鳴らすと、とうとう男は口元から泡を吹き、ハイルークはそこで音楽を止めた。
 腕の太い戦士が彼の息の根を止めている間に、女性がハイルークの前に立って言った。
「どうやら、助ける必要はなかったみたいだね。初めから、あいつらをここに誘い込んでいたみたいだし」
「いいえ、助かりました。ありがとうございます」
 ハイルークは素直に礼を言った。
 女性はしげしげと興味深そうにハイルークを眺めてから尋ねた。
「君は一人で旅をしてるのかい? そんな楽器を持ってちゃ、こいつらみたいなのに狙われてしょうがないだろ」
「君なんて呼ばれる歳じゃないですよ。僕はこれでも27ですから」
 ハイルークは自分が若く見られるのはともかく、実際の年齢を聞いて驚かれるのが好きだったので、楽しそうにそう言った。すると女性は、少し目を見開いてから笑った。
「じゃあ、やっぱり『君』だ。私より8も下だからね」
「えっ?」
 ということは、目の前の女性はもう35ということになる。ハイルークは、まだ20代の前半だろうと思っていたから、驚かずにはいられなかった。
「私はリッシュ。ベイマルを追って旅をしている」
「僕はハイルークです。ベイマルと言うのは、ハイデルの騎士に討たれた、あのベイマルですよね?」
 リッシュは青年がベイマルを知っていたことに、やや嬉しそうに微笑んで頷いた。それからすぐにまた表情を険しくした。
「ギルスは、盗賊団は潰したけど、ベイマルは討てなかったんだ。そして、その年の冬にベイマルに殺された」
 リッシュは眉根に皺を寄せ、遠い過去を見るように一点を睨み付けながら言った。話の流れから見て、ギルスというのがハイデルの騎士の名前だろう。それを呼び捨てにするのだから、この女性はハイデルの兵士なのかも知れない。
 そう思ってハイルークが尋ねると、リッシュは首を振ってから、「元、ね」と笑った。
「ギルスは私の夫だった。ただそれだけさ」
「では、敵討ちということですね?」
 あまり争い事は好きではないハイルークだったが、そういう事情ならば仕方ないと思った。まさか目の前の女性が、ベイマルのような男とそれほど深く関わっているとは考えてなかった。
 ところが、ハイルークの予想に反して、リッシュは敵討ちを否定した。
「もちろん、そういう気持ちもないことはないけどね……。そうじゃないんだ。先にちょっかいをかけてきたのは向こうさ」
 どうやらリッシュの話によると、ベイマルは盗賊団を潰された恨みを晴らすために、ギルスの一家を皆殺しにすると宣言したらしい。そして、実際にベイマルの手下に襲われたと言う。
「私だけならよかったんだよ。いっそその方が返り討ちにできる。だけど、私には娘がいた。だから、これは陽動さ」
 リッシュにはアリシアという15歳の娘がおり、今はギルスの母親であるタビンと二人で暮らしているという。元々はリッシュと三人で暮らしていたのだが、ベイマルに狙われたので、リッシュは二人を安全な森にやると、自分はベイマルを討つために旅に出たのだ。
 リッシュが話を止めたので、ハイルークはそれ以上聞かないことにした。あまり深く足を踏み入れるつもりはなかったし、世の中には知らない方がいいこともある。
「では、僕は宿に戻ります。リッシュさんたちが、無事にベイマルを討てることを祈っています」
 そう言ってハイルークが歩き始めると、リッシュがふと声をかけてそれを止めた。
「そうだ、ハイルーク。君は宛てのない一人旅をしてるんだろ?」
「はい」
 ハイルークが足を止めて振り返ると、リッシュは真面目な顔でこう言った。
「ヴェルクの方に行かないかい? もちろん、春になってからでもいい。娘に会って、私の無事を伝えて欲しいんだ」
 リッシュは、ベイマルの目を完全に自分に引き付けるために、旅立ってからこれまで、一切娘に連絡を取っていなかった。それからもう2年になる。
 ハイルークはしばらくリッシュの目を見つめていたが、彼女が本気で娘の身を案じているとわかったので、快く承知した。
「わかりました。では、それを助けていただいたお礼にします」
 リッシュは微笑んでから、すっと手を差し出した。ハイルークは楽器を右手に抱えて、しっかりとその手を握った。

 リッシュから受け取った地図を手に、ハイルークが森を訪れたのは、まだ雪の残る早春のことだった。森は凍てつくほど冷えており、道には雪が積もっていたが、歩けないほどではなかった。木々には鳥のさえずりが戻り、穏やかな陽光が雪の表面をキラキラと輝かせている。
 雪をかきわけながら進むと、やがて眼前に細い煙が見えた。さらに進むと小屋があり、煙はその煙突から出ていた。人が生活しているのがそれでわかる。
 周囲に目を遣ると、小屋のそばで一人の青年が木を切っていた。ハイルークが近付くと、青年が気が付いて顔を上げ、あからさまに警戒した眼差しを向けた。
「何者だ!?」
 ハイルークは首を傾げながらさらに数歩近付いた。確かリッシュは、アリシアはタビンと二人暮しだと言っていた。彼こそ何者だろう。
「僕はハイルーク。吟遊詩人です。アリシアさんはいますか?」
 ハイルークがアリシアの名を出すと、青年は少し表情を和らげ、警戒の色を薄めた。もっとも、完全には信用してないようだったが、それは仕方ないだろう。
「アリシアなら家の中にいる……」
 ハイルークが言い終わらない内に、外の騒ぎを聞きつけたアリシアが顔を出した。リッシュに良く似た美人で、気の強そうな目をしているが、表情は温和だ。ハイルークは目を細めて微笑みかけた。
「アリシアさんですね? リッシュさんに頼まれてここに来ました」
「お、お母さんに!?」
 アリシアは思わず大きな声を上げ、青年もリッシュのことを知っているらしく、驚きのあまり、思わず手にしていた斧を落としそうになった。
 アリシアはすぐにタビンに知らせるために家の中に飛び込もうとしたが、慌ててハイルークのもとに駆け寄ると、その手を引いた。
「すいません、取り乱してしまって。あんまり嬉しかったものだから。中に入ってください!」
 上気した顔でそう言ったアリシアは、歳よりずっと幼い少女に見えた。最初の印象では、物静かで知的で落ち着いた女性だと思ったが、こういう顔もするのだ。
 中には、まだ年寄りと呼ぶには失礼な女性が、糸を紡いでいた。タビンはアリシアの第一報を受けると、「リッシュさんが……」と、嬉しそうに顔を綻ばせてから、ハイルークの方を見て丁寧にお辞儀した。続いて、青年が名乗り出る。
 青年はセディーと言い、昨年の夏からここで厄介になっているらしい。と言っても、小屋は三人が住めるほど広くなかったし、アリシアもタビンも女性だったので、すぐ隣に小屋を増設して、そちらで住んでいるそうだ。
 ハイルークはセディーを見て、すぐに彼が元はあまり真っ当な仕事をしてなかったとわかったが、今は心からアリシアを愛し、彼女に尽くしているようだったので、悪い印象を捨て去った。
 ハイルークが、フラギール近郊の町でリッシュに助けられたこと、リッシュが二人の屈強な男と一緒にベイマルの手下と戦っていたことを話すと、アリシアは思わず顔を覆って涙を零した。もちろんそれは、嬉しさゆえである。
 アリシアはベイマルの執念深さも残忍さも知っていた。そして、2年もの間連絡がなかったので、アリシアは度々、リッシュはもう殺されてしまったのだと思うことがあった。それが無事だとわかったのだ。
「ありがとう、ハイルークさん。今日はお母さんが出て行ってから、一番嬉しい日です。どうかゆっくりして行ってください。お母さんの話をもっと聞かせてください」
 アリシアはまだ涙で輝く瞳でハイルークを見つめて、丁寧にそう申し出た。ハイルークは、長く語るほどリッシュのことは知らなかったが、言われるまましばらく泊めてもらうことにした。怨恨の類には深く立ち入らないよう心がけているが、基本的にはあらゆることに興味を持ち、出会った人と深く語らうのが吟遊詩人というものだ。
 ハイルークは始めはリッシュの話をしたが、話すことがなくなると、アリシアにせがまれるまま、旅の最中に見てきたものや、出会った人の話をし、また楽器を取り出して演奏もした。アリシアは少女らしい瞳でそれらを聞き、演奏を聴くと顔を赤くして拍手を送った。
 けれど、自分の話になると、そんな子供っぽさを捨てて、初めに見たときのようなどこか愁いを帯びた大人の眼差しになった。
「私、本当はお母さんについて行きたかったんです。お父さんを殺されてから、お母さんに剣を教わって……腕にも自信があるんです」
 ある夜、食事の後でアリシアが静かにそう語り始めた。
「だけどお母さんは、お前の力はおばあさんを守るために使うんだって言って。そんなこと言われたら、それ以上ついていくなんて言えないでしょ?」
 ハイルークは優しく微笑んだだけで、否定も肯定もしなかった。
「私は一人でも多くの盗賊を討ちたい。ベイマルだって、できることなら私が殺したい。セディーは私を、正義感が強いって言うけど、私はそうは思わない。ただ、薄汚れた感情に綺麗な理由を着せてるだけ」
「でもそれは、早くお母さんに帰ってきてもらって、一緒に暮らしたいからでしょう?」
 ハイルークがそう言うと、アリシアは力なく笑った。
「わかりません。ハイルークさんも、私を良く言ってくれるけど、私は自分ではそんなにいい子だって思ってないから……。お父さんを目の前で殺されたんです。お父さんは私をかばって死にました。あの時の光景は、今でも時々思い出して……。怖いとか悲しいとは思わないんです。ただ、自分でも抑えられないほどの憎しみが込み上げて来て……怖いとしたら、そんな自分が怖いです」
 アリシアは両腕で自分の身体をぎゅっと抱きしめ、怯えたように小さく震えた。セディーはそんなアリシアを心配そうに見つめていたが、何も言わなかった。アリシアは、セディーの前では弱いところを見せない。今、自分がいるにも関わらずこんな話をするのは、目の前にいるのがハイルークだからである。
 ハイルークはそっとアリシアの髪を撫でて、どこまでも優しい瞳で言った。
「アリシア、人間だから憎むのは仕方ない。大切なのは、その憎しみを広げないことです。ベイマルと、その他の盗賊を切り分けなさい。そして、リッシュさんが帰ってきたら、もう恨まないよう心掛けることです」
「私に、それができるでしょうか……」
「できますよ。だから、セディーをここに置いているのでしょう」
 その一言に、セディーもアリシアも驚いて目を見開いたが、ハイルークは笑っただけだった。そしておもむろに楽器を取り出すと、静かな曲を奏でた。
 アリシアはしばらくその曲に聴き入っていたが、やがて眠たくなって目を閉じた。数刻も経たない内に、小さな寝息を立て始める。
 ハイルークはアリシアに毛布をかけてやると、セディーを伴って小屋を出た。北方の春はまだ遠く、外は凍てつくような寒さだった。二人は無言で空に瞬く星をしばらく眺めていたが、やがてハイルークが静かにこう切り出した。
「僕は、明日出発します。少し長居し過ぎました」
 セディーは黙って頷いた。愛するアリシアがハイルークを慕っていたが、特別な嫉妬心は沸いていない。セディーのアリシアへの愛情は、対等な男女愛と言うより、主人に仕える従者のようなものだった。だからセディーは、たとえアリシアが好意を抱いていたとしても、ハイルークには一切悪い感情を抱いてなかった。むしろ、アリシアの愛するものもを自分も深く愛した。
 ハイルークはセディーを見ると、少し瞳を曇らせて言った。
「アリシアは、残念だけど、自分をよくわかっています。もちろん、僕の言ったことも、言われる前からわかっていたはず。彼女の中で、二つの感情がせめぎ合っています。どちらに転がるかは、僕にもわからない……」
「俺は何をすればいい?」
 大人しく助言を求めるセディーに、ハイルークはアリシアを見ていたときのような優しい眼差しを向けた。ハイルークには、セディーもアリシアも同じなのだ。
「ずっとそばにいて、いい見本であり続けなさい。そして、彼女が感情的になればなるほど、君は冷静でいなさい」
「……わかった」
 セディーは大きく頷き、それ以上、二人は何も語らなかった。
 翌朝、アリシアの笑顔に見送られて、ハイルークは小屋を旅立った。セディーはじっとハイルークの背中を見つめていたが、やがてふと隣に立つ少女に目を遣った。
 アリシアはもう微笑んでおらず、不安げな瞳でハイルークの背中を見つめていた。そして、セディーに気が付くと、珍しく弱気な目をして笑った。
 セディーはハイルークの言葉を思い出しながら、この少女だけは守り抜こうと再び決意を固めた。

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