「ハイスが、そんな遠国の王と交友があるとは思わなかった」
「元は父親同士の交友さ」
そう言って、ハイスは少し言葉を濁した。元は、と言うのは、ヴェルク王サテロ・ウェンダーは、昨年の秋に病のために急逝し、今は長子のハイスが国王になっていたのである。前王存命の時、ハイスは魔法研究所に入り浸っていたが、現在はタクトがその役を受け継いでいた。
「もちろん、わたし自身も、あの国の王子とは知り合いだがね。だけど、手紙は王女のことのようだ……」
ハイスはそう呟いてから、それっきり何も言わなくなった。ただ、書簡を読む顔が少しずつ険しくなっていき、タクトは怪訝な顔をした。この時はまだ、タクトはその書簡が自分の人生を変えることになるとは、夢にも思っていなかった。
書簡を読み終えても、ハイスはしばらく言葉を発することなく、ただ腕を組んでじっと書簡を見つめていた。やがてふと顔を上げ、その書簡をタクトに手渡す。
書簡の内容はこうだった。
ウィサンの王女が魔法使いの刺客に襲われ重傷を負った。そこでウィサンでは、魔法の脅威から身を守るために、魔法について勉強する研究所を、ヴェルクに倣って設立したが、所長となるべき人材がおらず、一向に研究が進んでいないらしい。そこで、多くの魔法使いを擁するヴェルクの国王に、誰か推薦してもらえないだろうかというのだ。
タクトは放り出すように書簡を置いて、小さく笑いながら言った。
「小さくても国営の研究所の所長だ。そんな人材、そう簡単にはいないし、いても手放すまい」
ハイスはそれに曖昧な返事をしてから、真顔でタクトを見つめて言った。
「一人だけ、適役を知っている」
その瞳が、18になってなお幼さの残るハイスらしからぬ真摯なものだったので、タクトはすぐに彼の言う「適役」が自分のことを言っているのだと理解した。
「ハイス、俺を買いかぶり過ぎだ」
タクトが目を細めて言うと、ハイスはすぐに首を横に振った。
「それなら、君は自分を過小評価し過ぎだ」
「本気で俺を出す気か?」
タクトが困惑した面持ちで尋ねると、ハイスは、
「わたしは君の意思を尊重するが」
と前置きしてから、私見を述べた。
「ウィサンがどうと言うよりは、わたしは君の才能はヴェルクに埋もれさせておくべきではないと思っている。魔法にあまり馴染みのない内陸部に、その知識を流布する。成し遂げられたら、後に偉業と言われよう。もちろん、即断できる話でもないが、君が国王を代わってくれるなら、わたしが挑戦したいくらいだよ」
「あまり簡単に言わないでくれ」
何を考えているのか、少し楽しそうな微笑を浮かべ始めたハイスを見て、タクトはあきれながら立ち上がった。
「少し考える」
城から出たタクトは、真っ直ぐ魔法研究所の方へ向かった。と言っても、研究所に用があるわけではない。恩人がその近くで暮らしているのだ。
真夏とは言え、涼しい風が吹いていた。日差しは強いが汗をかくほどではなく、今が最も過ごしやすい季節かも知れない。
タクトは目的地に辿り着くと、ドアをノックしてから中に入った。
「あ、タクト」
現れたのは赤い髪をした美しい女性だった。
アリシアは今、リッシュとタビンと三人で、このヴェルクで暮らしていた。元々は城の中にいたのだが、リッシュがどうにかアリシアの足跡を辿ってヴェルクにやって来ると、もはやベイマルに狙われることがないとわかった一家は街で暮らすことにしたのである。
リッシュとともにいた戦士は再びハイデルで仕官し、魔法使いはヴェルクの研究所で働いている。今でも時々リッシュと酒を飲み交わしていた。
タクトはすでにアリシアとは暮らしておらず、研究所の中で寝泊まりしていた。もっともそれは、アリシアの家の隣に住んでいるようなものだったので、二人は今でも昔と変わらぬ厚い友情で結ばれていた。
アリシアはタクトの相談に快く応じて話を聞いた。そして、事の重大さがわかると、ハイスと同じように難しい顔をして腕を組んだ。
「あなたは、どうしたいの?」
アリシアの言葉に、タクトは苦笑して返した。
「悩んでるから来たんじゃないか」
「そうね」
アリシアも小さく笑い、それから悲しげに瞳を伏せた。
「私は、あなたと離れるのは嫌。どんな時だって私のそばにいて支えてくれていたし、セディーがいなくなってしまった悲しみも癒してくれた。だけど、そんな私個人の感情のために、あなたの将来を潰したくはないわ。ハイス様のおっしゃる通り、あなたには大きな可能性がある」
「俺も、アリシアのそばを離れるのは辛い。セディーとも約束した」
「だけどもう、ベイマルは死んで、危険はなくなった。タクト。人はいつか別れなくてはならないのだとしたら、私はあなたには大きな目的のために旅立って欲しい。それに、セディーのように今生の別れになるわけでもないし、手紙だって書ける。やっぱりあなたは行くべきよ」
言いながら、アリシアはぼろぼろと涙を流した。だから余計に、タクトは行く決意を固めた。自分がどれだけアリシアに愛されているかがわかったから、自分も同じくらい愛しているアリシアの、その決断に従おうと思ったのだ。
「吹っ切れたよ、アリシア。ハイルークに救われたこの生命、どこまで大きなことができるのか、試せるだけ試してみよう」
「ええ! もしもあなたの活躍がこのヴェルクにまで届いたら、私はあなたの親友であることを誇りに思うわ」
タクトは頷き、「また来る」と言ってから外に出た。そして急いで城に戻ると、ハイスに自分の意志を伝えた。
ハイスは深く頷いてから、寂しげに笑った。
「誤解しないでくれよ、タクト。もしもわたしが国王ではなく、アリシアのように女だったら、きっと涙を流して引き止めている」
最後は少しいたずらっぽく言ったから、タクトも、
「男に泣き付かれても嬉しくない」
と笑い返した。ハイスは少し声を立てて笑ってから、不意に真面目な顔をした。
「女と言うと、あの人には会わなくていいのか? ひょっとしたら、本当にこれでもう、二度と会えなくなるかも知れないぞ?」
「ハイス……」
タクトも笑うのをやめ、神妙な表情をしたが、やがて視線を逸らせて俯いた。
あの人とは、ハイデルのミラフィス・エージエルのことである。
タクトのハイデルでの一件は、ハイスの取り計らいもあって揉み消された。ミーフィが、自分の意思で魔法を教えたのであって、タクトに強要されたわけではないと主張し、軍としてもそれを認めざるを得なかったのだ。そうなると、プロザイカ家に武器を持って押し寄せたことが問題視され、明るみに出れば軍の面子に関わる。
もっとも、タクトの方にも許可なく魔法を使った罪があり、軍に賄賂を送ったエージエル氏も、無罪と言うわけにはいかない。しかし、タクトは母親を殺され、エージエル氏もミーフィがタクトの無罪を主張したことで信用を損なった。結局、三者痛み分けということで、この一件はなかったことになったのである。
これによって、タクトは自由にハイデルに行けるようになったのだが、一度もミーフィとは会ってなかった。怖かったのである。今更、どんな顔で彼女と会い、何を話せばいいと言うのか。
「会おうと思えばいつでも会えるから」
それを理由に、タクトは逃げ続けていた。だが、これでもう二度と会えないならば……。
「俺は、あの子に会わせる顔がない……」
タクトはそう言って立ち上がった。
「申し訳なく思っているなら詫びを、感謝しているなら礼を、どちらにせよ君はあの人に言わなくてはダメだ。このまま会わずに行けば、きっと後悔するぞ?」
ハイスが声をかけたが、タクトは何も言わなかった。
タクトが部屋を出て行った後、ハイスはウィサン王宛ての、タクトの紹介状を書くべく筆を取ったが、すぐにそれを置いて立ち上がった。そして、タクトがたった今出て行った扉を開け、真っ直ぐ魔法研究所に向けて歩き始めた。
出発の日、アリシアとその一家はもちろん、国王ハイスやディラットを始めとした王の衛兵たち、そして多くの魔法使いが見送りに出て、まるで祭りのような様相だった。
「少し、大げさ過ぎると思わないか?」
タクトが苦笑すると、研究員の一人が笑いながら言った。
「我々はタクト殿に感謝しています。この別れは、我々にとっても大きな意味を持つのです」
「やはり大げさだよ」
タクトは笑ってから、まずアリシアの前に出た。
「アリシア、それにリッシュにタビン。俺は本当にあなたたちに感謝している」
タクトが深く頭を下げると、リッシュがからからと笑って手を振った。
「いや、世話になったのはこっちだ。私がいない間に、本当によく娘を助けてくれた。ありがとう」
タクトは一礼してから、アリシアと握手を交わした。アリシアは目を涙で潤ませていたが、泣きはしなかった。出立の日に涙は禁物だ。
「タクト、私はあなたの成功を誰よりも願っています。そして、いつか必ず再会できる日を、楽しみに待っています」
「ありがとう、アリシア」
「きっと遊びに行くわ。ウィサンは遠いのでしょうけど、お母さんはトロイトまで行ったんだし、私も行って行けないことはないと思うの」
アリシアが思わず零れかけた涙を拭いてそう言うと、タクトも瞳を輝かせた。
「もしも本当に来てくれたら、俺はできる限りの歓迎をしよう。そんな遠くの土地でアリシアと会えたら……」
そこで言葉を切って、タクトは少し子供っぽく笑った。アリシアもようやく笑顔を見せた。
「街を案内してね、タクト。ふふっ。私もウィサンに行ってみたくなったわ」
「待ってるよ」
軽く抱擁を交わしてから、タクトはハイスと向かい合った。
「お世話になりました。向こうでのことはなるべく報告します。ウィサンに行っても、俺……いや、わたしはヴェルクのタクト・プロザイカでありたい」
ハイスは大きく頷いて笑った。
「もちろんだ。それにしても、いい顔になった。人は責任を背負うと変わるんだとわかったよ」
「それなら、あなたは元々いい顔ですよ。じゃあ、行ってくる」
軽く手を振るタクトに、ハイスも手を振って明るく笑った。
「ああ。くれぐれも、ウィサンをヴェルクより強大な魔法国家にはするなよ」
ハイスの冗談を聞きながら、タクトはもう振り返らず真っ直ぐ歩いた。
見慣れた通りを抜け、やがて目の前にヴェルクの城壁が姿を現す。もうこれを見ることもないのかと感慨に耽り、再び視線を道に戻したとき、タクトの目に一人の女性の姿が映った。
見間違えるはずがない。すっかり大人になっていたが、15のときの面影を残した、ミラフィスだった。
「ミーフィ……」
呆然と呟いたタクトに、ミーフィは笑いながら言った。
「懐かしいわ。私のことをまだミーフィって呼ぶ人は、きっともう、タクトだけよ」
「どうして、ここに……」
タクトは突然のことに立ち尽くした。ミーフィは明るく笑おうとしたが、涙が込み上げ、肩が震えてできなかった。
「ハイス様が私の家にいらっしゃったの。それはもう、大騒動だったわ。それで、あなたが旅に出てしまうって聞いて……。私、あなたがこの街にいることも、ハイス様のそばで立派な魔法使いになったことも知ってた。でも、なんだかすごく遠い人になっちゃったみたいで……私のことなんて忘れてるだろうって、怖くて来られなかったの」
「そんなことはない! 俺は、ミーフィのことを忘れたことなんてなかった。今の俺があるのは、全部ミーフィのおかげだ。ミーフィが規則を破って俺に魔法を教えてくれたから……。そのことを感謝しなかった日は一日だってないし、ミーフィにもらった本は、今でも大切に取ってある。俺の宝物だ」
思わず大きな声でそう言うと、ミーフィは両手で口元を抑え、それからボロボロと涙を零して、「良かった……」と声を震わせた。そして堪え切れないようにタクトの胸の中に飛び込むと、その胸に顔を押し付けて泣いた。
「ミーフィ……」
タクトは胸の中の温もりを愛おしそうに抱きしめながら、会わなければ後悔すると言うハイスの言葉を思い出した。
「俺は、ミーフィに嫌われてるんじゃないかと思って……逃げていたんだ。すまない。俺の意気地がないばかりに、ミーフィに5年も辛い思いをさせてしまった」
「ううん。それはあなたも同じなんでしょ? いいの……もう、いいの。今こうして出会えたから。本当に良かった……」
二人は5年分の隙間を埋めるように無言で抱き合い、やがて身体を離して微笑んだ。
「私はもう、魔法をやめてしまったわ。元々好きじゃなかったし、また研究所への出入りが許されても、行く気にならなかった。でも、私の魔法はタクトに受け継がれて、あなたは本当に立派な魔法使いになった。あんな落ちこぼれの私の魔法にも意味はあったんだなって、私は本当にそれが嬉しいの」
「ミーフィ、君は俺が出会った中で一番の魔法使いだ。二番がハイスだ」
真顔でそう言うと、ミーフィは思わず吹き出してから、笑顔で「ありがとう」と言った。
「誰にも信じてもらえなくても、バカにされても、確かに私はあなたの役に立ったんだって……。あなた本人にそう言ってもらえてすごく嬉しい」
ミーフィはそう言ってから、再びタクトの胸にすがりついた。
事件の後、ミーフィは世間から後ろ指を差され、友達もいなくなった。両親にはしばらく家から出してもらえず、学校もやめ、一人きりの毎日を送っていた。だからこそ、誰のことも気にせずにタクトをかばうことができたのだが、孤独の毎日は小さなミーフィにはあまりにも辛く、時には泣き明かす夜もあった。
ある日、旅の吟遊詩人がタクトの言葉を伝え、それからは自分の生はタクトのためにあったのだと、それだけを誇りに生き続けた。毎日タクトの成功を祈り、そういう自分にだけ生きる意味を見出していた。
ミーフィはタクトに顔を寄せ、抱擁したまま口付けをした。
「こんなことしたら、ますます離れるのが辛くなるけど……。でもわかって、タクト」
頬を赤らめ、俯くミーフィに、タクトは優しい瞳で頷いた。
「俺も、できることならミーフィを連れて行きたい。辛い別れだけど、でも会えて良かった」
「ええ」
ミーフィは力強く頷いてから、決意に満ちた眼差しを向けた。
「あなたに会えて良かった。忘れてなんて言わないし、私も忘れないけど、お互い引きずらずに生きましょう。私も、今日から新しい人生を歩くつもり。今日あなたに会って、ようやく過去の自分に決着が着いたわ」
「俺が、ミーフィのその決着を5年も引き伸ばしてしまったな。せめて、ヴェルクに来た3年前に会いに行っていれば良かった」
そう言って申し訳なさそうに頭を下げたタクトに、ミーフィはいたずらっぽく笑った。
「3年前に再会していたら、私は今頃ミラフィス・プロザイカになっていたかも知れないわね。でも、きっとならなくて良かったのよ。あなたがあの詩人さんに助けられて、今こうしてあるように、人生は必ず良い方に進む。会わなかったこの3年にも、きっと意味があるのよ」
それがミーフィの本心なのか、タクトには図りかねた。タクトとてミーフィを愛している。それはアリシアに対する愛情とはまったく別の、男女の愛だった。それでも、ミーフィの言う通り、今あるすべてが、別の道よりも良いのだとしたら、起こることのなかった可能性を羨むのはやめよう。
「さよなら、ミーフィ。俺は、君との日々も、そして再会した今日も、決して忘れない」
「ええ、私も忘れない。さようなら、タクト。本当にありがとう」
タクトは顔を上げて歩き始めた。すべては思い出に変わり、思い出は年を重ねるごとに美しくなる。まだ少しだけ、別れの辛さが針のように胸を刺すが、やがては懐かしく振り返る日が来るだろう。
街門をくぐると、タクトはそこで信じられない人を見た。父を失い、盗賊になりかけたタクトを救った恩人。
「ミラフィスさんとのお別れは済みましたか?」
4年前と変わらぬ穏やかな声で、ハイルークはそう尋ねた。それから、驚いて声もないタクトに、優しく笑いかけた。
「ハイス王がハイデルに来たとき、偶然あの街にいたんですよ。そして、あの街に行くたびに、僕はエージエル家を訪れるようにしている。あなたと会ってから、ミラフィスさんが他人には思えなくてね」
ミーフィにすら再会した日である。ここで偶然が重なってハイルークに会えたのも、彼の言うところの「運命の導き」だろう。
「俺の言葉を、ちゃんとミーフィに伝えてくれたんだな。ありがとう」
タクトが頭を下げると、ハイルークは首を振って微笑んだ。
「あなたも約束どおりアリシアを助けてくれた。お礼やお詫びはもうやめましょう」
「そうだな。あんたには話したいことがたくさんある。ウィサンまで一緒に行かないか?」
タクトの申し出に、ハイルークはさも当然と言うふうに頷き、歩き始めた。
「もちろん、そのつもりです。ウィサンは平和でいい街ですよ。もっとも、今は知りませんがね。あなたが行くくらいだから、何か良からぬことが起きたのでしょう」
「それも道々話すよ」
一人旅に慣れていないタクトにとって、旅のベテランが同行してくれるのは有り難いことだった。しかもそれが、数奇な運命の下に出会った、かつての恩人なのである。これ以上の幸せはない。
「人生は必ず良い方に進む」
ミーフィの言葉を呟きながら、タクトはハイルークと並んで歩き始めた。
ティーアハイムへと続く道の両側には、長く伸びた草が風にさらさらと音を立てている。その風は海から潮騒を運び、つられるように左手を見ると、遥か遠くにルドスの港が見えた。
視線を戻し、タクトは自ら歩いていく道を力強く踏みしめた。道の先には、どこまでも澄み渡った美しい空が広がっていた。
Fin
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