ある日の昼過ぎ、ミーフィが研究所へ行くと、上官が真面目な顔をして彼女を教官室に呼んだ。そして、怪訝な顔をするミーフィにこう言ったのだ。
「ミラフィス、君は街の子供に魔法を教えているそうだな」
ミーフィは愕然となって立ち尽くした。膝が震え、焦燥感が込み上げる。
上官の話では、研究員の一人がミーフィがタクトに魔法を教えているのを発見し、それをこの上官に告げたらしい。そしてそれから一週間が過ぎた昨日、上官自らそれを確かめた。
ミーフィは即日両親を呼び出され、魔法使いの資格を剥奪され、凝力石も返さなければならなくなった。
ミーフィは一晩中泣いた。魔法使いでなくなったことよりも、タクトとの毎日を壊されたことが悲しかった。元々魔法は好きではなかったのだ。研究所へ行けなくなるのはむしろ喜ぶべきことだったが、タクトに魔法を教えてあげられないのがたまらなく悲しい。
だが、ミーフィを本当の悲しみに沈めたのはこの後だった。
ミーフィはこの一件を、自分とタクトだけの問題だと考えていた。けれど、それは大きな間違いだった。
ミーフィの両親は、自分の娘が規則を破って魔法使いの資格を剥奪されたことで、大いに信頼を損なった。その影響は商売にまで及び、二人は失った信頼を取り戻すために、ある作戦を思い付いた。それは、この一件をすべて少年のせいにするのである。
一週間後、ミーフィは数冊の本を包みの中に押し込んで、いつもの広場を訪れた。そこには何も知らないタクトが待っていて、ミーフィを見ると笑顔で手を振った。
ミーフィは再び悲しみが込み上げてきて、タクトに駆け寄ると思わず抱きついて涙を流した。
「ごめんね、ごめんね、タクト!」
「ど、どうしたの?」
怪訝な顔をするタクトに、ミーフィは泣き叫びながらすべてを打ち明けた。
タクトはそれを黙って聞いていたが、やがてそっとミーフィの頭を撫でてこう言った。
「謝らなくちゃいけないのは僕の方だ。ミーフィが僕に優しくしてくれたから、僕はミーフィに甘えてた。悪いことだって知ってたのに、ずっと続けていたから、とうとうミーフィの生活を滅茶苦茶にしちゃった。僕は、ミーフィに謝る言葉もないよ……」
項垂れるタクトに、ミーフィは勢いよく首を振った。
「違う! タクトが悪いんじゃない! 悪いことだなんて、初めからわかってた。私が、わかってて教えてたんだから、タクトが悪いんじゃない。私のことはいいの。魔法が教えてもらえなくなった以外に、何も変わってないから。でも、もうタクトに魔法を教えてあげられなくなっちゃった。それでも……それでも、私と友達でいてくれる?」
すがるように見上げるミーフィに、タクトは驚いたように目を丸くしてから、笑顔で大きく頷いた。
「もちろんだよ。僕は魔法使いだからミーフィのことが好きなわけじゃない」
「タクト……」
ミーフィはぎゅっとタクトを抱きしめ、その肩に顔を埋めた。それからそっと身体を離すと、持ってきた包みを手渡した。
「これは?」
怪訝そうに袋を受け取ったタクトに、ミーフィはいたずらっぽく微笑んだ。
「本よ。魔法の。私にはもう必要ないから、あなたにあげる」
「そ、そんな! こんな貴重なもの……」
「いいの!」
ミーフィは大きな声でそう言って、包みをぐっと押し付けた。その瞳には涙が煌き、タクトは息を飲んだ。
「元々、私は魔法が嫌いだった。それに、今はもう魔法使いじゃない。この本は、魔法が大好きなあなたが持つべきものよ。私は、宝の持ち腐れは嫌いなの」
「……わかった」
タクトは大きく頷いて、大事そうに包みを抱えた。入り口の方から武装した三人の兵士がやってきたのは、まさにその時だった。
「お前だな、エージエルさんの娘をたぶらかしたという子供は」
彼らはそう言いながら、真っ直ぐタクトのもとへやってきた。タクトも驚いたが、ミーフィはそれ以上に驚いて、素早くタクトの前に立って手を広げた。
「な、何を言ってるんですか? 私はたぶらかされてなんていません!」
「どきなさい、お嬢さん。その子供がお嬢さんに魔法を教えさせ、その結果お嬢さんが魔法使いの資格を剥奪されたことで、エージエルさんがどれだけの損害を被ったか、子供のお嬢さんにはわからないでしょう」
「そ、それがどうしたって言うんですか? だからって、タクトはそれが狙いで私に魔法を教えて欲しいって言ったわけじゃないのよ? タクトに非はないわ」
ミーフィは懸命にかばったが、兵士は冷酷に首を振った。
「いいえ。その子供は、それが狙いでお嬢さんに近付いたんです。世間では、そう解釈される」
「そ、そんな……」
ミーフィは愕然となった。
もちろん、兵士の言ったのはでたらめである。だが、エージエル氏が軍に金を渡し、既成事実を作り上げたのだ。
「に、逃げて、タクト! あなたは何も悪くないわ!」
ミーフィは叫んだ。ただ、目の前でタクトが捕まるのを見たくなかったのだ。逃げれば罪が増えるなどとは考えもしなかった。
それはタクトも同じだった。突然城の兵士に睨まれ、牢屋に連れて行かれるかも知れないと思ったら、タクトは恐ろしくなって駆け出していた。
「待て!」
兵士たちはすぐに追いかけてきたが、ミーフィが身体を張ってそれを止めたおかげで、どうにかその場からは逃げることができた。もちろん、それは一時的でしかないことを、タクトはわかっていた。
家に駆け込むと、マライアが血相を変えて帰ってきた息子に、心配そうな目を向けた。タクトは魔法のことは内緒にしていたし、あまりのことに気が動転していたから、何も話すことができなかった。
タクトが部屋の隅で震えていると、やがてエザが帰ってきて、その数分後に兵士たちが踏み込んできた。マライアの悲鳴、エザと彼らの言い争う声。タクトは奥で震え続けていたが、ちらりと中を覗き込み、弾けるように立ち上がった。兵士たちがマライアを無理矢理外に連れ出そうとしていたのだ。
「や、やめろ! 母さんには手を出すな!」
タクトは魔力を集めると、自分に出せるすべての力をもって炎の魔法を叩きつけた。巨大な炎が兵士の一人を飲み込み、彼は絶叫して辺りを転げ回った。家に火がつき、赤々と燃え盛る。兵士たちは怒号を上げながら剣を振りかざした。
マライアが悲鳴を上げる。エザはただ怒鳴るだけで何もできない。タクトは自分目がけて襲いかかってくる兵士に、次の魔法をかけようと身構えた。だが、間に合わない。
「タクト!」
マライアの声。そして、タクトの前に踊り出たマライアの首から真っ赤な血が迸った。
「母さん!」
タクトは絶叫し、ありったけの力を込めて魔法を叩きつけた。タクトの甚大な魔力は易々と兵士たちを炭にし、木造の住処も耐え切れずにそこかしこから煙を上げた。
「母さん! 母さん!」
タクトは何度も呼びかけたが、すでにマライアは帰らぬ人になっていた。タクトは一度大声を上げると、すぐに部屋に戻り、ミーフィからもらった本の入った包みの中に、プロザイカ家のわずかな金を詰め込んだ。
エザは放心状態で燃え盛る我が家を見つめていた。
「逃げよう、父さん! 早く!」
タクトはエザの手を引き、裏口から外に飛び出した。表では人が集まっているらしく、喧騒が飛び交っている。追っ手はまだ来てないようだ。
タクトは呆然とした表情のまま言葉も発しない父親を引っ張りながら、涙でぼやける街の中を走り続けた。
魔法を駆使してハイデルの街を逃げ出すと、タクトは父親を伴ってティーアハイムに移り住んだ。
その頃にはエザは精神に異常を来たし、数時間笑い続けたかと思うと、突然泣き出したりした。もはや働けるような状態ではなかったので、タクトが肉体労働で賃金を得、その金で生計を立てていた。
タクトは毎日働きながら、その傍らで魔法の勉強を続けていた。ミーフィからもらった本を何度も読み返し、暇を見てはそれを実践した。
魔法を勉強し続けること。それだけが、自分がミーフィにできるせめてもの恩返しであり、罪滅ぼしだと思ったのだ。
冬の間は仕事もなく、プロザイカ家の生活は苦しくなり、とうとうタクトはその苦しみから逃避するために酒を覚えた。時々酔っては、街のごろつきと喧嘩をし、痣を作って帰ることもあった。
タクトが14歳の春、とうとうエザは食事を摂らなくなり、栄養失調で他界した。気が狂っていようとも大人の存在は大きかったらしく、一人になるとタクトは働く先を失った。やがて家賃が払えなくなり、タクトはティーアハイムを追われた。
タクトは路頭に迷ったが、ひとまず東のヴェルク王国に向かうことにした。ヴェルクは魔法で知られる国である。自分のような身寄りのない人間でも、強い魔法の力さえあれば、働く先があるかも知れない。そう考えたのだ。
だが、街道沿いの宿場町を二つも行くと、とうとうタクトの路銀は尽き、宿に泊まることはおろか、日々の糧さえままならなくなった。
(もう、俺に残された道は一つしかない……)
タクトは宿場町の片隅に座り、往来する人々を据わった目で眺めながら考えた。すでに人を殺した身だが、積極的に悪の道には走るまいと考えていた。だが、綺麗事を言っていたら待っているのは餓死だけだ。盗賊に身をやつして人に恨まれる道を歩むなら、いっそ死んだ方がいいと思うほど、タクトは正義の士ではなかった。
ちょうどタクトの目には、少し離れた場所で楽器を演奏している若者が写っていた。あまり目にしない形をした弦楽器を奏でているが、その楽器の美しさは、素人のタクトにも高価なものだとわかった。若者はどうやら一人のようである。しかも武器らしい武器も持っていないし、凝力石も見えないので、魔法使いでもなさそうだ。
(あれを俺の最初の獲物にしよう)
タクトは心に決め、演奏が終わるのを待った。
若者は演奏を終えると、金を集めて楽器をしまい、ゆっくりと歩き始めた。タクトは音もなく尾行した。
若者は大通りを逸れ、少し小高くなっている丘の方へ歩いて行った。タクトは途中から誘われていることに気が付いていたが、こうなれば実力勝負である。若者も相当腕に自信があるようだが、タクトとて魔法には自信があった。
やがて村から出て人気のない平地まで来て若者は足を止めた。そして静かに振り返り、タクトを見る。若者は少し眉を上げて言った。
「驚きました。まさか、あなたみたいな子供だとは思わなかった」
タクトはしげしげと若者を見つめた。先ほど楽器を弾いていたのを見る限り、若者は右利きのようである。にも関わらず、楽器を右手で持っていたし、腰に帯びた短剣は腰の左側につけている。あれでは左手では抜けまい。
「どうしても金が必要なんだ。本当はこんなことはしたくないんだけど……」
言いながら、タクトは鋭い瞳で一歩前に踏み出した。
「なら、やめなさい」
若者はそう言いながら、そっと左手の指先で楽器をくるんでいる布をつまんだ。それを、タクトは見逃さなかった。
(そういうことか。あの楽器が武器なんだな)
タクトはそれに気が付き、素早く考えを巡らせた。もしもあの楽器が武器だったとして、その攻撃方法は何であるか。まさか楽器で殴りかかってくるとは思えない。だとしたら、恐らく音だろう。
相手は恐らく自分が魔法使いであることに気が付いてないだろうから、いきなり魔法をぶっ放す手はある。ただ、それだと楽器に傷を付けてしまうかも知れない。まずは魔法で音を消し、それから飛びかかるのが最善だ。
タクトは意識を集中させながら地面を蹴った。若者が素早く布を取り、指先で弦をつまむ。そしてそれを弾いた瞬間、魔法を放って周囲の空気を歪ませた。
「ま、魔法!?」
常に冷静を装っていた青年の顔に、初めて焦りの色が生じる。タクトは大きく大地を蹴って若者に飛びついた。そして組み敷きながら、楽器を取り上げる。
「これは俺がもらう!」
「待ちなさい!」
若者がタクトの腕を掴んだ。タクトはそれを振りほどこうとしたが、思いの外強い力で握られていて叶わなかった。魔法はこの状態では使えそうになかったので、一旦楽器を置いてナイフを抜こうとすると、若者はタクトの足を払って逆に押さえ付けた。
「くそぅ、放せ!」
やはり初めに魔法をぶっ放すべきだったと、タクトは後悔した。楽器を言い訳にして、どこかで人を殺すことに対する躊躇があったのかも知れない。
タクトは暴れるだけ暴れたが、真上に乗られてはどうにもならない。若者は置かれていた楽器を取ると、先ほどまで弾いてきた曲とは違う、あからさまに力あるメロディーを奏でた。
「くっ……」
タクトは咄嗟に大声を上げてそのメロディーをかき消そうとしたが、無駄だった。数分後にはすっかり力を出せない状態になり、タクトは大地に転がされた。
「畜生……」
タクトは悔しさのあまり歯軋りをしたが、若者はそれ以上何もしようとしなかった。ただ澄んだ瞳で少年を見下ろし、こう尋ねたのだ。
「事情を話してみなさい。その歳であれだけの魔法を、しかも凝力石なしで使えるんですから、ただの孤児ではないでしょう」
若者の声音はどこまでも優しかったが、このときのタクトは、すでにミーフィといたときのような素直な心は持ち合わせておらず、少し力が戻ってきたのを確認すると、また暴れて逃げ出そうとした。
唐突に、その頬を若者が思い切り殴りつけた。タクトは地面に倒れ、あまりのことに呆然となって若者を見上げた。
若者は細めた目でタクトを見下ろし、低い声で言った。
「あなたも、魔法を使う身なら、もっと冷静になりなさい」
タクトは唖然としたまま若者を見上げ、そしてようやく気が付いた。
(ああ、俺はこの人には勝てない……)
魔法とか、腕っ節の強さではなく、人間の器の違いを痛感した。同時に、自分のような得体の知れない子供にせっかく差し出してくれた手を、むざむざと自分から払い除けようとしていたことに今更ながら気が付いて、タクトは項垂れて謝った。
「悪かった……」
「いえ、あなたみたいな魔法使いが、こんな強盗まがいのことをしなければならなくなるなど、よほどの事情があるのでしょう。話してみなさい。力になれるかも知れません」
タクトはもう、全面的にこの若者を信じることにした。そして、ハイデルに引っ越してから起きたすべてを話した。もちろん、ハイデルで城の兵士を殺したことも、すべてである。
若者はそれらを黙って聞いていたが、やがてにっこり笑ってから、楽器を手に取った。そして静かな曲を奏でながら言う。
「タクト。あなたはそのミーフィという子と一緒にいた時のあなたが、本当の自分なのです。それが、運命のいたずらでこんなことになってしまった。でも、それに流されてはいけません」
「だけど、どうすればいい? 働く先もない、金もない、食べるものもない。盗む他に、俺には何も思い付かなかった」
タクトは吐き捨てるようにそう言った。彼の言うことは誰よりもよくわかっているのだ。けれどどうすることもできないもどかしさ。
若者はかすかに微笑んで言った。
「だけど、あなたは僕を選んだ」
「その楽器に惹かれたんだ。高く売れそうだったから」
タクトが若者の手の中で美しい旋律を奏でる楽器に目を遣ると、若者はそっと手を休めて真面目な顔をした。
「きっと、運命があなたを助けるよう導いたのでしょう。タクト、僕はあなたに一人の女性を紹介しましょう。その女性を訪ねてみなさい。きっと、あなたのすさんだ心を癒してくれる」
「女性?」
タクトは、この一人旅の若者が誰かを紹介することが意外に思え、首を傾げた。若者はそんなタクトを愉快そうに見ながら、しばらく前に出会った少女のことを思い出して言った。
「女性と言っても、女の子です。ミーフィと同じ歳のはず。名前はアリシアと言って、祖母と、セディーという若者と3人で、森の中で暮らしています」
「アリシア……。その人が、俺を助けてくれるって言うのか?」
とても信じられない話だった。ミーフィもこの若者もタクトに優しいが、直接的な援助をしてくれるわけではない。そのアリシアという少女は何者なのだろうか。
首を捻るタクトの隣で、若者は真面目な顔で空を見上げた。
「彼女は見ず知らずのセディーを助けました。だからきっと、あなたも助けてくれるでしょう」
「路頭に迷っている人間なんか、星の数ほどいる。その人は、それを一人一人助けるのか?」
若者は首を横に振り、視線を少年に戻した。
「彼女が助けたいと思わなければ無理でしょうね。けれど、僕はアリシアはあなたのことを助けると思った。だから、紹介するのです」
タクトはもう、アリシアという少女に対して疑問を抱くのはやめにした。いずれにせよ、道はその森にしか続いていないのである。
「わかった。俺は、そこに行ってみる」
大きく頷いたタクトに、若者は一枚の地図とわずかな路銀を手渡した。
「アリシアに会ったら、僕のことを話しなさい。そして、今僕に話したように、彼女にもすべて打ち明けなさい」
「ありがとう。だけど、この金はもらえない。もらう理由がない」
タクトは地図だけ受け取り、金は返そうとした。けれど、若者はそれを押し戻して、いたずらっぽい瞳で言った。
「タクト。あなたはお金がないのでしょう? これを受け取らずに、これからどうするつもりですか?」
「だ、だけど……」
タクトは逡巡した。先ほどまで強盗しようとしていた少年が、人の善意を受け止めることに躊躇しているのを見て、若者は少し笑い声を漏らした。
「それならこれは、あなたへの依頼金にします」
「依頼?」
「はい。どうか、アリシアを助けてやってください。もしもあの子が、さっきのあなたのように悪い道に走りそうになったら、それを止めて欲しいのです。同じことを、セディーにも言ってあります」
タクトは複雑な事情を察し取り、ただ大きく頷いて答えた。
「わかった。約束する」
「お願いします」
若者は小さく頭を下げてから立ち上がった。そしてしばらくタクトと二人で満点の星空を見上げ、やがて少年と向かい合う。
「僕はハイルーク。アリシアに会ったら、僕がよろしく言っていたと伝えてください」
「わかった。ありがとう、ハイルーク」
二人は握手を交わし、そしてハイルークは宿場町の方へ歩き始めた。
タクトはしばらくその背中を見つめていたが、やがてふと大きな声で呼び止めた。
「ハイルーク。あんたはこれからどこへ行くんだ?」
恩人に対してぞんざいな言葉遣いだと思ったが、若者は気にした様子もなく、いつもの穏やかな瞳で振り返った。
ハイルークはタクトが何を期待しているかを理解したので、その場で行き先を変更して、明るく笑いながらその土地の名を告げた。
「これから暖かくなる。ハイデルやセイラスに行くなら、今が一番いいでしょうね」
冷静になったタクトは聡明だった。すぐにハイルークが、たった今行き先を決めたことを理解して、久しぶりに笑顔を見せた。
「ハイデルで、もしもミーフィに……ミラフィス・エージエルに会ったら……」
「会ったら?」
タクトは少し考えてから、大きく息を吸い込んで言った。
「タクトがありがとうと……。そして、俺は平穏を手に入れて、今は心からミーフィの幸せを願っていると、そう伝えて欲しい。もしも俺のことを心配していたら、あんたの口からタクトは大丈夫だと言って欲しい。そして、もしも俺を恨んでいたら……」
そこで言葉を切ったタクトに、ハイルークは優しく微笑んで言った。
「その場合は僕が引き受けます。今の言葉は間違いなく伝えましょう。タクト、僕はいつかあなたが笑顔でミーフィと再会できる日が来ることを、心から願っています」
ハイルークはタクトに背を向けて、今度は振り返らなかった。
タクトはその背中に深く頭を下げ、そのまましばらく動かなかった。瞳が涙で煌いて、滴が月明かりに光って落ちた。
←前のページへ | 次のページへ→ |