昨日の朝からずっと降り続いている雨は、今朝になっても降り止まず、それどころか昨日よりも強まってリアスの街に降り注いでいた。
セリシスは窓辺に置いた椅子に座って、そんな雨をぼーっと眺めながら、時折大きく欠伸をしてはつまらなそうに足をぶらつかせていた。
「退屈だなぁ」
六の月半ば。
この時期はリアスに限らず、トロイトからメイゼリスに至る地域ではどこでも雨が多い。だからセリシスも、今更雨や雲に文句を言う気はなかったが、もう少し太陽に頑張って欲しいと思った。
これだけ降ると、恐らくただ鬱陶しいだけでは済まないだろう。農作物にも被害が出るだろうし、昨夜の雷で倒壊した家屋も少なくはない。実際、そういった報告が次々とセリシスの家にも届けられ、朝早くから雨の中、セリシスの両親はその対応に追われていた。
もちろんそれはセリシスの家だけではない。リアスを治める七家の貴族階級の家すべてに、街中のそういった報告が寄せられてくる。
もっとも、いくら頼られたところで貴族も人間、自然が相手ではまったく打つ手がないのだが、それが七家の仕事なのだから仕方ない。努力すらしないのは信頼にも関わる。
「はぁ……。そろそろ止んでくれないと、あの子たちの家、大丈夫かしら……」
ぷぅっと頬を膨らませて、セリシスは独りごちた。
彼女にはリアスの七家の貴族の内の一つ、ユークラット家の娘として街の人々を心配するよりも、もっとずっと心配するものがあった。
遥か先に見えるリアスの街の街壁の、その向こう側にある小さなスラム街。彼女の不安、関心、心配は、100パーセントそのスラムに住む子供たちに向けられていた。
「ウェルスもサルゼもヒューミスも……。ああもう、お願いだから止んでよぉ!」
怒ったり悲しんだりため息をついたり、一人でころころと表情を変えながら、セリシスは不安げな瞳で窓の外を眺めていた。
雨はまったく降り止もうとはしてくれない。
しばらくそんな風にイライラしながら雨を眺めていたセリシスだったが、その内とうとう椅子から立ち上がって、クローゼットから外套を引っ張り出すと、それを服の上から羽織った。
「気になってしょうがない。一度見に行こっと」
いざそう決意すると、先程までの苛立ちはどこへやら、セリシスは一転明るい顔をしてスラムへ行く準備をした。
準備といっても魔法のための凝力石をポケットに入れるだけだが、それは一介の少女がたった一人で危険なスラムへ行くためには必要不可欠なものだった。
「よしっ!」
セリシスは部屋の扉を力一杯押し開けて、廊下へ飛び出した。
“リアスの陰”とも呼ばれているそのスラム街は、リアスの街の街壁の南側にへばりつくように存在している。
街と比べてあまりにも侘びしいスラムの人々は、乏しい食べ物を少しずつ食べ、大した暖をとることも出来ず、病気になっても診療所はなく、常に貧しさの中でそれでも懸命に生きていた。
もちろん彼らには街に入る権利など与えられておらず、それどころか、彼らはリアスの住民としてさえ扱われていなかった。
そんな貧しいスラムの人々とは対照的な、豊かな街の貴族の少女がこうしてちょくちょく人目を忍んでスラムに足を運ぶのは、偏にセリシスがスラムの子供たちと仲がいいからである。
もっとも、もっと根本を辿るなら、単にセリシスが子供が好きだからであるが、ともあれ彼女はよくこうして子供たちに会いにスラムを訪れていた。
スラムに入ったセリシスは、道行く人々の視線を気にしながら早足にいつもの教会に向かっていた。
(どうしてみんな、私の方を見てるのかしら……?)
襟元をぐっと引き寄せて、セリシスは顔を隠した。
なるべく人目につかないよう、わざわざ薄汚れた外套を羽織っているというのに、どうしてみんな自分を気にするのだろう……。
不意に、前にスラムの大人たちに暴行されたことを思い出して、セリシスは顔をしかめた。子供たちは好きだが、半年前のあの日以来スラムの大人に対しては強い不信感を抱いている。
セリシスはまるで何かに追われるように歩く速度を速め、そのまま教会に駆け込んだ。
「ふぅ」
もはや信仰も絶え、放棄されてしまったその教会の扉を押し開けて中に入ると、セリシスは外套を脱いで息を吐いた。
外套は水浸しになっていたが、セリシス自身はまったく濡れていなかった。それどころか外套も二、三度叩くと、表面に付着していた雨はすべて水の玉になって床に落ちた。
外套は汚れてこそいたが、まったく元の形のままそこにあった。
遥か南の魔法王国イェルツの付加魔術師によって、完璧な防水加工のなされた外套。スラムの人々は単にそれを見ていただけだったが、セリシスはまったく気付かなかった。
もの知らずな貴族の少女は、とりあえず汚れたものさえ着けていれば、自分が街の人間であることに誰も気付かれないと信じ込んでいたのだ。
「さてと……」
気を取り直してぐるりと中を見回すと、いつものように丁寧に並べられた長椅子と、その先の女神フリューシアの像が目に入った。ところがその下にいつもいる悪ガキたちの姿はなく、教会内はひっそりと静まり返っていた。
「あれ? サルゼ、ヒューミス、メルー。いないの?」
大きな声で呼びかけてみたが、やはり子供たちからの返事はなく、ただセリシスの声だけが、教会の中に響き渡った。
「…………」
セリシスはがっかりすると同時に、わずかな寂しさと不安を感じたが、それ以上そこに留まっていても仕方がないとあきらめ、再び外套を羽織って外に出た。
* * *
丁度その頃、セリシスの探していた子供たちは、スラムの集会場に集められていた。灯りは蝋燭一本だけという薄暗い集会場。その中で子供たちは、何やら深刻そうな顔で大人たちの話に耳を傾けていた。
「……というわけだ。いいな?」
威厳というよりむしろ横暴な口調で一人の男が話を終えると、子供たちは一斉に牙を剥いた。
「いいわけないだろ!? どうして僕たちがそんなことをしなくちゃいけないんだ!」
「どうしてだと!?」
反抗的な子供たちの態度に、男の目がギラリと光った。
怯えすくむ子供たち。中には泣き出す女の子もいたが、構わず男は続けた。
「お前たちはこのままでいいのか? 満足に飯も食えず、ろくに服もなく、風呂も入れなければ、娯楽もない。安定した収入などあるはずもないし、街に入る権利もない。風が吹いてもそれを防ぐ壁もなく、雨が降っても屋根はなく、渇いたところで水もなく、日差しを防ぐ衣服もなく、病になっても医師はなく、安静に寝られる場所もない。お前たちの父さんや母さん、それにじいさんやばあさんがどうして死んでいったと思ってるんだ? 忘れたのか?」
一気にまくしたてると、男は悔しそうに目を伏せた。
子供たちもまた、うつむいたまま何も言わない。
「みんな、病で死んでいったよな。でなけりゃ、餓死したんだよな。残り少ない飯をみんなお前たち子供にあげて、自分たちは何も食わずに、そして死んでいったよな……」
子供たちは小さく頷いた。中には死んだ両親のことを思い出して泣く子もあった。
「俺たちがそんなふうに苦しんでいたとき、奴らは何かしてくれたか? なぁ」
男は不意に優しい瞳で子供たちを見た。それは一家の父親の瞳だった。
「お前たちの気持ちもわかる。だがな、もっと……もっとよく考えてみてくれ。お前たちもいつまでも子供じゃないんだ」
そして男は立ち上がって、集会場を出ていった。他の大人たちもそれについて出ていって、集会場には子供たちだけが残された。
子供たちはしばらく無言でうな垂れていたが、やがて静かに立ち上がって、誰からともなくその場を後にした。