六の月二十八の日。恐らくこの日を生涯忘れることはないだろう。
街壁に向かって歩きながらウェルスは思った。
前を行く桃色の髪の純粋な少女は、この後、ほんの1時間後くらいのリアスの街を見てどう思うだろうか。
自分たちに裏切られて、どう感じるだろうか。
悲しまないだろうか。
怒るだろうか。
自殺とかしないだろうか。
それとも、案外大丈夫だろうか。
許してくれるだろうか。
「じゃあ、行くね」
街壁の前で足を止めて、何も知らないセリシスがウェルスたちを見て不安げに手を差し出した。
「しっかり私につかまって。身体にしがみついててもいいから」
二人はその言葉に甘えて、セリシスの柔らかな身体をしがみつくように抱き締めた。
セリシスは二人がしっかりとつかまったのを確認すると、目を閉じて念じるように呟いた。
「浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け浮け……」
凝力石が淡い碧に輝いて、ゆっくりとセリシスの身体が浮かび上がった。
そしてそのまま街壁を越えて、人目のつかない街の片隅に降り立つ。
「ふぅ」
セリシスは小さく息をついた。魔法は本当に使えるというだけのレベルなので、少し使うだけでひどく疲れる。
ウェルスとヒューミスは深呼吸しているセリシスから離れると、ぐるりと一度辺りを見回した。
リアスの街。
生まれたときから見上げ続けた街壁の中に、ようやく入ることが出来た。
充実感とともに、怒りが込み上げてきた。
街の中に入る。たったそれだけのことが何故自分たちには許されていないんだろう。どうして入れさせてもらえなかったのだろう。
「セリシス」
ウェルスがそっと呼びかけて、セリシスは笑顔で振り向いた。
「何……ぐっ!」
鳩尾に、ウェルスの拳がめり込んだ。
「ど……どう、して……?」
セリシスは痛みのあまり苦しげに呻くと、そのまま気を失って地面に倒れた。
少しだけ涙が零れた。
二人はもうためらわなかった。ここまで来た以上、もうやるしかない。たとえどんな結果が訪れようと。
大好きな少女に恨まれようと。
生きるために。
「行こう。二人で街門を開けるんだ」
二人は頷き合って、そして南門へと走り出した。今、その向こう側にスラムのほぼすべての人が集まっている南門へ……。
そして、戦いは始まった……。
* * *
セリシスは、ただならぬ喚声に意識を取り戻した。
「う……んん……」
身体を起こすと、腹部が少し痛んだ。
「痛っ!」
反射的に鳩尾を右手で押さえる。服の上からなのでわからないが、痣ができているかも知れない。
「ウェルス……どうして……」
先程ウェルスに殴られたのを思い出して、セリシスは暗い顔をした。
彼らは一体、何をしたかったのだろう。
このまま、密かに街で暮らす気なのだろうか。
他のみんなをスラムに残して?
それは有り得ない。
なら……。
「わあぁっ!!」
再び喚声が上がって、セリシスははっとなった。
もう夜だというのに空が明るい。
慌てて振り向くと、街のところどころから真っ赤な炎が空に向かって揺らめいていた。
もくもくと立ち込める黒い煙。甲高く響き渡る悲鳴。
「な……に?」
セリシスは驚きのあまり、腹部の痛みも忘れて立ち上がった。
「何? 何が起きてるの?」
ぞくりと、背筋に悪寒が走った。
干魃にやられて他国と戦争を始めた北の王国の話が思い起こされる。
「まさか……嘘だよね……」
セリシスは力なく笑った。
それからゆっくりと歩き出す。
街の方へ。
ゆっくりと……。
しばらく歩くと、不意に背後から声をかけられた。
「セリシス!」
聞き覚えのある声。先程セリシスに気を失わせたウェルスだ。
セリシスは無言で振り返った。
ウェルスは小走りにセリシスの許へやってくると、
「街に行っては危険だ」
と、セリシスの手を取った。
「さっきの場所に戻って。あそこにいれば安……」
「どういうこと……?」
「えっ?」
ウェルスの言葉を途中で遮り、彼の手を払い除けて、セリシスは冷たい瞳で尋ねた。
「どういうことなの? ウェルス。返答次第では、いくらウェルスでも許さないわよ……」
「…………」
ウェルスは言葉を失った。
セリシスが怒ることは予想していたものの、いざこうして面と向かって聞かれると答えるのがはばかられた。
「これは……」
「これは?」
「これは、七家の貴族に対する戒めだ!」
答えたのはウェルスではなかった。
「イェラト」
二人の声が重なった。
イェラトはゆっくりと二人に近付くと、セリシスを見て続けた。
「これは、今まで俺たちを街に入れなかったばかりか、人権まで無視し続けてきた七家の貴族に対する復讐だよ。セリシス、お前にもな!」
怒りに彩られた言葉とは裏腹に、イェラトの瞳は少しだけ悲しみに揺れていた。
セリシスはそれに気が付いたが、ウェルスは気付かなかったらしい。
「イェラト!」
怒気を孕んだ声をイェラトに叩き付けた。
「セリシスは関係ないって言っただろ! セリシスに謝れ!」
「うるさい! 俺は……俺だって、セリシスを信じてたんだ。それを……」
「それを、私が裏切った?」
静かにセリシスがそう言って、二人は驚いて顔を上げた。
セリシスは顔を斜めに傾けて、悲しそうに言った。
「ごめんね、イェラト。私、別にみんなに嘘をつくつもりはなかったの。ただ、言うのが怖くて。今のイェラトみたいに、私が七家の貴族だからという理由だけで、みんな、私のこと嫌うんじゃないかって。そう思うと怖くて……」
「セリシス……」
「本当に……ごめんなさい……」
つっと、涙が頬を伝った。
イェラトはそれを見て、思わず泣きながらセリシスを抱きついた。
「……ごめん、セリシス。俺、俺、セリシスのことほんとは大好きだよ。でも、どうしても七家の貴族が許せなくて。だから……」
「イェラト……」
「でも、わかってくれセリシス。俺たちにとって七家の貴族は敵なんだ。だから……」
「……うん」
セリシスは小さく頷いて、そっとイェラトの髪を撫でた。
「うん、わかった。もう、いいよ……」
それからゆっくりとイェラトの身体を離して、再び街の方へ歩き始める。
「セリシス!」
「……私、行かなきゃ」
振り向かずに、セリシスが言った。
「行って……そして、見ておかないと……」
何をかは言わなかった。
そしてセリシスが一歩足を踏み出したとき、前方から数人の男たちの声がした。
「わざわざ自分の足で行かなくても、俺たちが連れていってやるぜ。セリシスお嬢様」
三人が顔を上げると、そこにはザスキスを含む、数人のスラムの大人たちが立っていた。