もちろん、皆が真面目に彼の話に聞き入っているわけではない。教室が静かな理由は、窓から入る穏やかな風と、先程満たされたばかりの満腹感に、皆机に突っ伏して眠っているからである。
そんな生徒たちのいびきの一つも聞こえてきそうな空間で、ただ一人だけ真面目に彼の話に耳を傾ける生徒がいた。
やや日に焼けた肌に、わずかに茶色がかった短い髪の毛。まだ幼さの残る素顔はよく少年と間違えられるが、ふっくらと膨らんだ胸部と、そして何よりも制服のスカートが彼女が女の子であることを示していた。
神名美由希。友達からはユキと呼ばれている彼女は、両肘を机の上に突き、胸の前で組んだ両手に顎を乗せて、決して良いとは言い難い姿勢ながらも、熱心に彼の話に聞き入っていた。
「……そう。あの時確かに私は、七色の虹のように輝く、巨大な翼を手に入れたのだ」
何も書かれていない黒板の前で熱弁を振るうのは、伊藤孝義48歳。彼は数学の教師でありながら、生徒からは“民話の伊藤先生”と呼ばれていた。理由はもちろん、今雄弁に語っているこの話にある。
「人生において、初めて空を飛ぶチャンスを手に入れた瞬間だった。私はそのチャンスを逃すまいと、急いで庭の松の木に登り、そして羽ばたいた!」
95パーセントが嘘だと思われる、彼の少年時代の話。それが生徒たちには、どうしても民話かお伽話にしか聞こえないのだ。
相手が小学生や中学生ならともかく、さすがに高校2年にもなると、誰も彼の話など気にも留めなかったが、ユキは彼のこういう話が大好きだった。
だから、断じて成績の良くない彼女だったが、いつも彼の授業だけは熱心に聞いていた。もっとも、彼が真面目に数学の授業をしている時は、大概寝ていたが……。
「その瞬間、私は鳥になった。ああ、人間として生まれながら、こんなにも素晴らしい体験をするときが来るとは! あの時の爽快感、高揚感、それをお前たちにどう伝えれば良いものか。私にはその言葉を見つけられない!」
身振り手振りで必死にその様子を伝える彼を見て、ユキは小さく微笑んだ。彼は「お前たち」と言ったが、実際にはユキ一人しか聞いていないので、「お前」に限定される。
ユキはちらりと窓枠の向こうに広がる、四角い青空を見て思いを馳せた。
(翼か……アタシも飛んでみたいなぁ……)
そんなことを考えてすぐ、自分が「飛ぶ」瞬間は、死ぬときかヤクでもやる時だと半ば諦める。或いは本当に、自分にも翼が与えられるような時が来るのだろうか。
「私はある時は風を裂き、ある時は風に乗り、風と戦い、風と手を繋ぎ、そうして10分ほど飛んでから地面に着地した。その時にはもう、すでに私の背中から翼は失われており、そして今日まで二度と私が翼を与えられることはなかった」
彼の話を聞きながら、ユキはちらりと教室内を見回した。
前方は見通しが良く、後方は机の上に一つずつ黒い球体が乗っかっている。これほどまで見事に全員が寝ているのも珍しい。
(伊藤先生も、あそこまで自分の世界に入らなきゃ、結構面白い話するのになぁ……。もったいない)
自分が好きな分、他人に受け入れられないのがユキには少し悔しかった。
組み合わせた両手の甲に顔を乗せたまま、斜め後ろの席を見ると、そこにもやはり黒い球体が机の上に乗っており、そこを中心にして、長い髪の毛が扇状に広がっていた。
(はぁ……。千保のヤツも寝てるよ、まったく)
その頭の主は、名前を望崎千保といい、ユキの無二の友人にして、かなりの美貌の持ち主だったが、こんな物体に成り下がってしまった今、彼女も一介の球体でしかなかった。ひょっとすると、横から見たら涎でも垂らしているかも知れない。可愛い顔が台無しだ。
ユキが千保の頭を見ながらぼんやりとそんなことを考えていると、突然、
「神名!」
教卓から名前を呼ばれて、ユキは思わず飛び上がった。
「は、はい!」
今の二人のやり取りで数人が目を覚ましたが、教室内に特別な変化はなかった。
怒られるのかと思っていたユキだったが、彼は立ち上がった彼女の目を見つめて、穏やかにこう言った。
「起きているのはお前だけのようだが、私の話を聞いていたのか?」
「は、はい。すごく面白かったです」
何か違う気がしないでもなかったが、その疑問は胸の奥に押しやってユキがそう答えると、彼は満足げに頷いてから彼女に聞いた。
「神名。お前は今何が欲しい? どんなことがしたい?」
「アタシ……じゃない。わ、私は……」
そこで一旦言葉を止めて、しばらく無意味に天井を眺めてから、ユキは笑顔でこう答えた。
「私も空を飛んでみたいです。昔陸上で高跳びをしていたから、空には特別な思い入れがあるんです」
「そうか!」
自分と同じだったことが嬉しかったのだろう。彼は子供のように目を輝かせて彼女の顔を見つめた。
「戦後、高度な文化を手に入れた我が国だが、その一方で未だに古いしきたりが守られている世の中だ。神の存在さえ、信じる者が多い。神名も信じていればいつかはきっと、そんな不思議な体験をすることもあると思うぞ!」
「はい!」
ユキが元気に頷いたとき、丁度授業終了のチャイムが鳴った。
そうして5月6日の数学の授業は、滞りなく終了した。
穏やかな風が、桜の花びらを散らして吹いている。
寒くもなく、暑すぎもしないこの季節。人間にとって一番暮らしやすい時期ではないかとユキは思った。
授業の用意はすべて机の中に置いてきているので、ぺちゃんこの軽い鞄を持って、それを前後に振りながら、ユキは帰宅する生徒らで賑わう中庭越しにグラウンドを見た。
陸上部やらサッカー部やら、外で行う大概の部活が、新入部員を交えて本格的な練習を始めている。声は聞こえないが、大体様子で先輩たちが入り立ての後輩に威張っているのがわかった。まあ、運動部の宿命だろう。
ユキがそんな彼らの様子を微笑ましく眺めていると、不意に、
「感慨タイム? ユキ」
背後から友達に声をかけられて、ユキは視線を落として首を振った。相手は見なくてもわかっている。一緒に校舎を出てきた望崎千保だ。
「別に。ただ、懐かしいなって思っただけ」
「それを感慨に耽ってるって言うんじゃないの?」
千保がユキの隣に並んでそう聞くと、ユキはしかし何も答えずに、ただ黙って彼らの様子を眺めていた。
やっぱり感慨タイムだと察してか、千保もそれ以上は何も言わなかった。
ユキは中学時代、陸上部に所属していた。走り高跳びを主に練習していたが、それほど飛び抜けて良い成績ではなかった。
それでもユキは、特に成績を気にはしていなかったので、結局3年間、一度も大会に出場することなく、それでもずっと陸上部で汗を流していた。
ところが一昨年、中3の夏、ふとしたことでふくらはぎを痛め、ユキは高校に上がると同時に陸上を辞めてしまった。もちろん、それを彼女は悔やんでいない。
彼女たちの通う水主丘高校の陸上部は県内屈指で、半ば遊び感覚の軽い気持ちで陸上を続けていたユキは、初めからこの高校の陸上部に入る気はなかった。
だからこそ、千保もこうして気軽に話題に出すのである。
「なあ、千保」
小さく呼びかけながら、ユキは校門の方へと歩き始める。
その隣に並んで千保がユキの顔を見上げた。
「何?」
「千保は、翼とか欲しくないか?」
あまりにも唐突かつ、突拍子もない質問。
「ぷっ!」
思わず千保は吹き出して、それから大きな声で笑った。
「あはははははははははははははははっ! ちょっと、何言ってんのよ、ユキ!」
「そ、そんなに笑うことないだろ!? 失礼だなぁ」
いきなり大声で笑われて、慌てるユキ。まさかこんな反応をされるとは考えてもいなかった。
「だ、だって……あははははははっ!」
千保の笑い声に、周囲の視線が自分たちに集まってくるのを感じて、ユキは顔を赤らめながら早足に歩き始めた。
「あっ、ちょっと待ってよ、ユキ」
「知るかっ!」
「そんなに怒らないで」
そう言いながらも、千保の顔はまだ込み上げてくる笑いに引きつっていた。
「お前、アタシをバカにしてるだろ?」
思わず千保を睨み付けるユキ。もっとも、睨み付けると言っても、童顔の彼女の視線にはまるで迫力がなく、どちらかというとふてくされた子供のようだった。
そんなユキの様子がまた可笑しくて、千保は楽しそうに微笑んだ。
「別にバカにしてなんてないって。ただ、よくもまあ、伊藤の話なんか真に受けるなって思って、感心したの」
「お前、起きてたのか!?」
絶対に寝てるとばかり思っていたので、ユキが驚いて声を上げると、千保は可笑しそうに笑った。
「まあ、一応ね。伊藤とユキで、『翼はいいなぁ』って熱く語り合っていたのはしっかりと記憶してるわよ」
「……っ!」
思わず絶句するユキ。
その時は何とも思わなかったが、いざこうして友人に言われてみると、自分が如何に恥ずかしいことをしていたのかと、ユキは顔を真っ赤にした。
「あ、あれはだなぁ。その……」
「いいって、ユキ。空が飛びたいんでしょ?」
「空は飛びたいけど、千保が言うと、人をバカにしてるようにしか聞こえんぞ」
「だって、可笑しいじゃない」
「……そんなに変か?」
ユキが真面目な口調で聞くと、千保もそれに合わせるように、ゆっくりと顔から笑いを消して、いつになく真面目な顔で答えた。
「だって、あんなのただのお伽話じゃない。人に翼が生えてくるなんて、あるわけないでしょ?」
「千保……」
ユキは一瞬ムカッときたが、千保があまりにももっともなことを言っているのが自分でもわかっていたので、すぐにその怒りを鎮めた。
そんな非科学的なこと、起こるわけがない。
何も言い返せなかったので、ユキは小さく項垂れて、それでも最後にぽつりと一言こう口にした。
「でも、そういうの、アタシはあった方が面白いと思うけどな……」
春風がユキの言葉をさらっていった。
二人は無言で校門まで歩いた。ほぼ全校生徒が一斉に帰宅するこの時間、校門は生徒たちで埋め尽くされていた。
二人はそんな彼らの流れに合わせて門をくぐり、公道を左に折れる。
その時だった。
「あっ、美由希先輩!」
目聡く彼女たちの姿を見つけて、大きな声でユキを呼ぶ者があった。
「あっ!」
その声に、思い出したように顔を上げるユキ。先程まで赤かった顔が、一転して蒼白になっていた。
コロコロと表情を変えるユキを見て、千保はユキとは対称的に面白そうに微笑みながら、
「ああ。ゴールデンウィーク明けで、すっかり忘れてたね」
ユキの背中をポンと叩いてそう言った。
「わ、笑い事じゃねぇって」
そうこうしている間にも、声の主は二人の前にやってきて、直立姿勢からペコリと二人に頭を下げた。
「こんにちは、望崎さん」
「こんにちは、拓耶君」
千保が拓耶と呼んだ少年は、本名を友島拓耶といい、ユキの母校、武本中学に通う3年生である。ユキの陸上部の後輩で、どうやら同性ではなく、異性の対象としてユキに惚れているらしく、最近は週に3、4回、こうして帰りにユキを待ち伏せしていた。
しかし、拓耶には可哀想なことに、ユキの方にはまったくその気がなく、正直追いかけ回されてかなり困っているというのが現状だった。
もっとも、だからいってユキが拓耶のことを嫌っているかというと、そうでもない。ユキは拓耶に好感を抱いているし、もしも世界中の男から誰か一人を恋人として選べと言われれば、間違いなく彼を選んだ。ただ、今のところユキは恋愛沙汰にはまったく興味がなく、拓耶のことも、どう対処して良いのかわからないというのが本音だった。
「ゴールデンウィークはどうだった? 拓耶君」
千保が尋ねると、
「楽しかったですよ、望崎さん」
拓耶は元気に頷いた。そして子供っぽく舌を出してこう付け加える。
「といっても、ずっと勉強してましたけど……」
「あははっ。頑張れ、少年」
千保は小さく笑って、ふと無言で突っ立っているユキに目を遣った。
「あの、えっと……」
ユキは拓耶を前にして、どうしたものかとあたふたしている。もちろん、照れているのではなく、単にここをどう切り抜けたものかと思案しているのだ。
そんなユキの様子をしばらくいたずらっぽい目で見つめてから、千保は拓耶に目配せを送った。
「じゃあ拓耶君。私先に帰るから、ユキをよろしくね」
「えっ!」
慌てて顔を上げるユキ。
そんなユキのお尻を軽く叩いて、千保は駆け出した。
「じゃね〜、二人とも」
「はい。さようなら、望崎さん!」
「あっ、こら! ちょっとーっ!」
ユキが必死に呼び止めるも、時すでに遅く、千保は同じ制服を着た学生たちに紛れて姿を消した。
「あ、あいつは……もうっ!」
拓耶と二人きりで残されて、ユキは心の中で千保の死刑を固く誓った。
しかし、今はそれよりも目の前の天敵をどうするかである。
ユキはすぐに思考を拓耶のことに切り替えた。
「じゃあ、行きましょうか、美由希先輩」
そんなユキの心中などまるで知らずに、拓耶がにこにこと話しかける。
「あ、あの、アタシ……」
何とか言い訳をしようにも、しかしユキの頭には何も浮かんできはしなかった。元々同じ中学ということで、家自体も近所だったし、基本的には真っ直ぐ帰るのが常だったから、咄嗟に拓耶には来られないような場所を言うこともできなかった。
「えと、ア、アタシも帰るから!」
すっかり頭が混乱してしまって、ユキはおもむろに自分の家の方に走り出した。
「えっ!? ちょっと、先輩!」
まさか、いくらなんでも走って逃げるとは考えていなかった拓耶は、ややスタートを切り遅れたが、すぐにユキの後を追って走り始めた。
「な、何で逃げるんですか!? 先輩!」
周囲の好奇の視線をものともせず、拓耶はふわふわと揺れるユキの髪の毛を見つめながら声を上げた。
「し、知らねぇよ。ついて来るな」
後ろを振り返ることなくそう答えて、ユキがさらに速度を上げる。
「あっ、ちょっと、先輩!」
気が付くとユキも拓耶も、まるでマラソン選手のようなスピードで走っていた。
とはいえ、さすがは元陸上部のユキと、現役ランナーの拓耶である。二人とも呼吸させ乱れていない。
「先輩、ひどいです。やめてください!」
拓耶がそう叫ぶと、道行く人らが、ユキの方を見て何やらひそひそと話し声を上げた。
「こら、拓耶! 誤解を招くようなこと言うなよ!」
恥ずかしくなってユキが叫ぶ。
「先輩が逃げるからです」
「逃げてんじゃねぇ。ア、アタシは早く家に帰りたいだけだ」
「屁理屈言わないでください」
「うるさい!」
学校へ直結する大通りを抜けて、二人は閑静な住宅街を突き進む。
ここら辺まで来ると、景色はもうすっかり二人の馴染みのものになっていた。
どうにも聞き分けのないユキの背中を見ながら、拓耶はそろそろ追いつこうかと思い、無言で速度を上げた。
別に体力的にはまったく問題なかったが、このままではユキの家に着いてしまう。
一方のユキは、急に大人しくなった拓耶に身の危険を感じて、さらにスピードを増した。
「あっ!」
背後から拓耶の声。
(そう簡単に捕まるかよ!)
元々本気で疾走していたわけではなかったので、二人ともまだまだ余裕である。
ここからだと、家まで後3分といったところだ。
「先輩、そんなに僕のこと嫌いですか!?」
冗談か本気か、今にも泣き出しそうな拓耶の声に背中を押されて、ユキは走った。
ここから先、緩やかな長い下り坂になる。ユキの家は、その坂を降りたところにあった。
坂の天辺に立つと、下から小学生くらいの子が乗った自転車が2台ほど、ふらふらと坂を上ってくるのが見えた。二人とも立ち漕ぎで、前など見ていない。
ユキはややスピードを落とし、自転車をよけるように少し進路を逸らせた。
その時、
「うわっ!」
いきなり背後から拓耶の悲鳴が上がり、続いてバタッという大きな音がした。
「拓耶!」
急ブレーキをかけて振り返ると、先程まで元気に自分を追いかけていた拓耶が、固いアスファルトの上で倒れて、痛そうに膝を押さえてのたうっていた。
「た、拓耶!」
顔を青くして慌てて駆け寄る。
「い、痛っ……」
「痛っじゃない! なにコケてんのよ、バカ!」
口調は荒いが、ユキの顔は心底心配そうで、拓耶にはそれが少し嬉しかった。
「先輩が逃げるからいけないんです」
拓耶が苦しそうにそう言ったが、ユキはそれを無視して拓耶の足を見た。
膝から少し血が出ているが、怪我自体は大したことなさそうである。
「バカ」
半泣き状態でユキは一度鼻をすすった。そんなユキが可愛くて、拓耶が思わず涙ぐんでいるユキの髪を撫でると、ユキは咄嗟にキッと拓耶の顔を睨み付けた。
そして頬を赤らめ、怒鳴りつけてやろうとした刹那、
キィィィィィィィッ!
背後から、自転車のけたたましいブレーキ音がして、次いで低い車のクラクション。
そして、
ガシャッ!
自転車の転倒する大きな音……。
「えっ?」
思わず顔を見合わせて、二人が坂の先を見ると、すぐ下のT字路で、先程の自転車が1台転がっており、もう一人の少年が倒れた子に駆け寄っていた。
そして、恐らくその角から飛び出したのだと思われる自動車。
二人が見たとき、その車は倒れた二人の少年を無視して、坂の向こうへ走り去って行くところだった。
「こ、交通事故? 轢き……逃げ……?」
ガクガクと身体を震わすユキ。拓耶もまた気が動転して、自分の怪我も忘れて呆然となったが、目の前で震えている少女を見て、何とか心を落ち着けようと大きく深呼吸した。
「大丈夫……大丈夫ですよ、先輩」
何の励みにもならないだろうが、何度も何度もそう言って、ユキの肩をしっかりと抱き締める。
ユキはただコクコクと頷くばかりだった。
本来ならば、駆け寄って救急車の一台でも呼ぶべき立場にあったが、完全に心を乱している二人は、ただ坂の先の少年たちを見つめることしかできなかった。
しかし、そんな二人の心配も杞憂に終わり、やがて転んでいた少年は元気そうに立ち上がって、再び自転車を漕ぎ出した。どうやら、車と直接接触したわけではなかったようだ。
少年たちが自分たちの横を何事もなかったように通り過ぎていって、ユキは大きく一つ息を吐いた。
「よ、良かった……」
それに合わせるように拓耶も肩の力を抜いて、それから二人で顔を見合わせる。
その時、思いの外拓耶の顔が近くにあって、ようやくユキは自分が拓耶に抱き締められていることに気が付いた。
「お、お前はっ!」
途端に顔を真っ赤にして拳を振り上げるユキ。
「ひっ!」
仰天して反射的に固く目を閉じた拓耶に、しかしユキはペチッと軽く頬を叩いただけだった。
「……へっ?」
恐る恐る拓耶が目を開ける。
ユキはまだ耳まで赤くしながらすくりと立ち上がると、拓耶に背を向けたまま言った。
「ほら、行くぞ。怪我の手当てしてやるから、家に来い」
よほど恥ずかしかったのか、ユキは逃げるように歩き始めた。
「あっ、はい!」
拓耶は慌てて立ち上がると、ややぎこちない歩きでユキの背中を追いかけた。
怪我は痛かったけれど、そのおかげでユキの家に行けるのは、彼には思いもかけない幸運だった。
結局その日は、夕食までご馳走になって、拓耶は神名家を後にした。
* * *
複雑な心境で私は彼と向かい合っていた。
一体どう切り出したものか、私は彼を前にして思案していた。
彼は黙ったまま、ただ無表情で私を見つめている。どうやら、私が口を開くのを待ってくれているらしい。
まったく殊勝な心懸けだこと。
「あのコのことなんだけど……」
あのコ、と言えば、もちろん彼には通じる。彼が自分から私に護れと言ったコのことだ。
『神名美由希のことか?』
彼が一応私に確認してきて、私は大きく頷いた。
「そう。なんていうのか、私、あのコは十分幸せだと思うんだけど……。友達もいるし、可愛い男の子もいるし」
『……それで?』
そう返されて、私は言葉に詰まった。
「いや、だから何ってわけじゃないんだけど……」
それから、もう一度沈黙が訪れる。
昨夜彼が私に言ったこと。それは、神名美由希を、訪れる不幸から護って欲しいということだった。
私の目の前にいる人が、かなり胡散臭いけど自称『幸せを運ぶもの』で、彼と対を為す存在、それが『不幸を運ぶもの』らしい。もちろん、私は彼自身に目を付けられて十分不幸だと感じているから、彼の自称などいかがわしいものだが、状況が状況だけに、戯言だと放っておくわけにもいかなかった。
「例えば今日のことだけど……」
そう切り出して、私はあのコが学校の帰りに坂道で遭遇した事件を話した。
「あれは、確かにあの男の子も、それから自転車の子供たちも怪我をしたり危ない目に遭ったけど、あのコ自身は無事だったし、あの程度のことは不幸っていうほどのことじゃない気がするの」
ちらりと顔を上げると、彼は珍しく厳しい瞳で私を見据えていて、私はビクッと肩をすくめた。
冗談でからかわれることはあっても、彼に怒られることには慣れていない。
自己弁護するように私は続けた。
「えっと、もちろん誰かの不幸が自分にとっても不幸になることはあるんだけど、でも、世の中にはもっともっと不幸な人ってたくさんいるでしょ? だから、あれくらいのことは自分の力で乗り越えられることっていうか、不幸の内にも入らないと思うんだ……」
『そうか……』
彼は一度深く頷き、腕を組んだまま目を閉じた。
私はそんな彼を黙って見つめる。今日の彼は、どこか逆らいがたい威厳を持っていた。
しばらく動かずにそうしていると、やがて彼は、ゆっくりと目を開いてこう言った。
『では、今日もしあの少年があそこで躓いていなかったら?』
「えっ?」
言われて、私は考える。
もしもあそこで彼が転んでいなかったら……恐らくあのコはあのまま走り続け、そして、あの角から飛び出してきた車に……。
私ははっとなって彼の顔を見た。
彼は冷酷な瞳で私を見つめたまま続ける。
『恐らく神名美由希は、あの車に撥ねられて、友島拓耶の前でアスファルトを血に染めていただろうな』
「…………」
『そして、友島拓耶さえいなければ、自分はこんな目には遭わなかったと彼を恨み、自分を間接的に殺すに至った少年の腕の中で死んでいったことだろう』
彼に言われたままの想像をして、私は思わず頭を振った。
そうか……。
どこか一つ歯車が狂えば、今日の何気ないあの一幕が、最高の悲劇に発展していた可能性もあったのだ。
『幸せなど、本当につまらないことで、簡単に消えてしまうものなんだ』
彼の一言に、私は頭を抱えたまま大きく二度頷いた。
『残念ながら私の力は、ヤツよりもずっと弱い。なんとかヤツが飽きるまで、お前があの娘を護ってやってくれ。私は、あの娘が死ぬことによって悲しむお前の姿を見たくない』
私は泣きながらもう一度力強く頷いた。
『頼んだぞ……』
そして、彼は私の夢の中から姿を消した。
気が付くと朝になっていた。
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