■ Novels


Moment 〜奇跡の一刻〜
「私はこんな【能力】、欲しくない! 普通の女の子でいたいの!」
望まざる予知能力を持って生まれてしまった一人の女子高生の苦悩と、彼女を取り巻く友情を描く。

 曇天の空の下を、千保は額に汗を光らせながら走っていた。
「はぁはぁ……」
 息を切らせて、時々後ろを振り返ってはまた前を見て力一杯疾走する。
 魔の手はすぐそこまで来ていた……もう逃げられない!
「待てこら、千保!」
「も、もうダメぇ」
 よれよれとしゃがみこんだ千保の首をがしっとつかんで、彼女──神名美由希は、そんな千保の頭にぐりぐりと拳の先をねじ込んだ。
「い、痛い痛いっ!」
「うるさい! お前、昨日はよくも逃げてくれたな!」
「ひーん。ごめんなさいっ!」
 ユキが言っているのは、もちろん昨日の帰りのことだった。
 嫌な予感はしていたが、案の定登校早々、ものすごい形相で追いかけ回されて、ついに捕まってしまったのだ。
「だって、二人の恋路を邪魔しちゃ悪いと思って」
「ぬぁにが恋路だ! お前が逃げたせいで、あの後アタシは……」
「アタシは?」
 興味津々に千保がユキを見上げる。
「もしかして、キスとかしちゃったの!? それともそれとも……」
 千保が冗談めかしてそう言うと、ユキは真っ赤になって千保の頭を叩いた。
「そんなことしてねぇ!」
「じゃあ何したの? あの後アタシは?」
 もう一度聞かれて、ユキは困ったように千保の頭を離した。
「いや、別に何でもないけど……」
「何か隠してる?」
「うんにゃ」
「な〜んだ」
 どうやら本当に何もなかったことを悟って、千保はつまらなさそうに声を上げた。
「だったら私、殴られ損じゃん」
「あっ、それはその……」
「いいんだ、い〜〜んだ。どうせ私の頭は、スイカみたいにあんたにポカポカ殴られて、その内ネジが外れて夢の島に捨てられるのよ」
 千保がわけのわからないことを口走ると、ユキにはそれを冗談で返す余裕がなかったらしく、本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
「あの、ホントにごめん……」
「ふんっだ」
 芝居がかった仕草でぷいっと横を向く。そして腕を組んだまま、横目でちらりとユキを見ると、ユキはがっくりと肩を落として項垂れていた。
(まったく、変なところで真面目なんだから)
 千保は心の中で大きく溜め息を吐くと、
「じゃあ、お返し!」
 いきなり大きな声でそう言って、両手でユキの薄い胸を鷲づかみにした。
「きゃっ!」
 驚きに声を上げるユキ。千保はそんなユキの胸を指先でワサワサ揉みながら、
「う〜ん。やっぱり小さいわね〜」
 と、冗談めかしてそう言った。
 ユキはしばらく硬直していたが、その内はっと我に返って怒鳴った。
「ちょっと、お前何してんだよ!」
「何って、胸揉んでんの。おっきくなるかも知れないわよ」
「大きなお世話だ」
 もう一度、ゲシッと千保の頭にユキが拳を入れる。
「痛いっ!」
 どうやらクリーンヒットしたらしく、千保は痛そうに頭を抱えてしゃがみ込んだ。
 ユキはそんな千保を見下ろして、しわくちゃになった制服の胸元をただしながら、頬を赤らめて言った。
「と、とにかく、今日ももしまたあの子がいたら、今度は一緒に逃げてもらうわよ」
「わ、わかったわよ〜」
 涙目で千保が訴えかける。
「よし。じゃあ、教室に戻るぞ。もうホームルーム始まっちまう」
 そう言いながらユキは腕時計を見て……固まった。
「ん? どうしたの?」
 訝しげにユキの時計を覗き込んで……同じように硬直する千保。
 時計の針は、いつの間にか1時間目半ばの時刻を差していた。
 ぽりぽりと頭を掻きながらユキが言った。
「ちょ、ちょ〜っと追いかけっこしてた時間が長かったみたいだな」
「う……うわ〜〜〜ん。遅刻だぁぁ!」
 大袈裟に泣き出した千保の肩をポンと叩いて、ユキは穏やかな瞳で千保を見つめた。
「大丈夫だ、千保」
「ユキ……」
「アタシはもう教室に鞄が置いてあるから、遅刻じゃない」
 ゲシッと、今度はユキの頭に千保のチョップが入った。

 6時間目終了のチャイムが鳴って、その日も何事もなく学校が終わった。
 帰りのホームルームが終わると、途端に慌ただしくなる教室。掃除に向かう者、真っ直ぐ家に帰る者、何人かで遊びに出かける者、部活に出ていく者、みんな行く先は様々だけど、この教室のドアから出ていくのだけは変わらない。
 ユキと千保も、いつものように二人揃って教室を出た。
「さてと、今日も拓耶のヤツ、いるかな?」
 鞄ごと両手を頭の後ろに回してそう言ったユキの顔は、どこか楽しげに見えた。
 そんなユキを見て、
「まったく、素直じゃないんだから」
 千保がそう笑うと、ユキが驚いた顔で慌てて否定した。
「ち、違うって。別にアタシは、拓耶なんかと一緒にいたくないぞ」
 両手と一緒にブンブンと首を振るユキの仕草がまた面白くて、千保は今度は声を上げて笑った。
「なんか、いかにも『私は拓耶が好きだけど、そんなこと恥ずかしくて言えません』って感じの言い訳ね」
「ち、違う違う! 怒るぞ、千保」
「わかったわかった。まったくもう」
 2階から1階へ降り、下駄箱で靴を替えて外に出る。
 朝同様、空には一面雲がかかっており、時間的にはまだ明るいはずだったが、外はどんよりと薄暗かった。もっとも、雨が降りそうな天気とはまた違う雲行きなので、その心配はない。
「今日は何があっても逃げるからな。裏切ったらその時は犯してやる」
 物騒なことを言うユキに、千保はやれやれと溜め息を吐いた。大層な言葉を使ったが、千保はユキに「女の子」を「犯す」ことが出来るだけの知識がないことを知っていた。ユキはそういうことをまったく知らないのだ。
 だから思わず、「あんたに犯されるのもいいかも」と茶化してやろうと思ったが、やめておいた。本当にネジが外れるまで殴られては叶わない。
 だから代わりにこう言った。
「それはわかってるけど、じゃあ拓耶君はどうするの? わざわざあんたのこと待っててくれたのに、『用があるからさようなら』って家に帰しちゃうわけ?」
「そ、それは……」
 どうやら図星だったらしく、眉間にしわを寄せて、困ったように唇と尖らせるユキ。恐らく自分でも少しは可哀想だと思っていたのだろう。
 しばらくそうして考え込んだまま、ユキは校門まで歩いた。そして、ようやく決意したように顔を上げて、千保に言う。
「やっぱり今日は千保と帰る。うん。拓耶とは昨日一緒に帰ったから、それでよしとしよう」
 まるで会心の判断だと言わんばかりに、うんうんとユキが頷いて、千保は呆れ返った。
(このコには、3人で帰るっていう選択肢はないのかしら)
 その言葉はやはり心の中にだけとどめておいて、外には出さなかった。これ以上迷わせるのも可哀想だったし、それにもう時間がない。
「あっ、美由希先輩! 望崎さん!」
 校門を出ると同時に、向こうから拓耶が手を振りながら走ってきた。青春ドラマみたいな光景に、周りが笑みを零したが、当の本人はまったく気にならないらしい。困ったものだと千保は頭を掻いた。
「一緒に帰りましょう、美由希先輩」
 元気にそう言った拓耶の笑顔は晴れやかで、千保は少し妬ける思いがした。
 こんなに自分を慕ってくれる男の子がいるというのは、喜ぶべきことだろう。
 千保の価値観ではそうなのだが、しかし隣の少女には違うらしく、ユキは憮然としたまま、冷たく拓耶に言い放った。
「今日はダメだ、拓耶。アタシ、千保と帰るから」
「えっ? そうなんですか?」
 拓耶は一瞬目を大きく見開いたが、すぐに何の問題もないと言わんばかりに言葉を続けた。
「だったら……」
 3人で帰りましょう。
 彼の口からそう言葉が紡がれる前に千保が言った。
「そうなのよ、拓耶君。ごめんね。今日は女の子な話題で盛り上がるつもりだから、せっかくだけどまた今度ね」
「あっ、そうなんですか……」
 先程までの笑顔はどこへやら、途端にしょんぼりと俯いて拓耶が言った。
「それでしたらしょうがないです。美由希先輩、さようなら……」
「あっ、うん……」
 そして拓耶は、背中に哀愁を漂わせながら、一人寂しくトボトボと帰っていった。
 そんな彼の背中を見つめたまま呆然と立ち尽くすユキの背中をポンと叩いて、千保はいたずらっぽくユキを見上げた。
「さすがに可哀想かなって思った?」
「う、うん……。少しだけ……」
 視線を動かさずにユキが答える。
 やがて二人の視界から彼の背中が見えなくなって、千保がユキに笑いかけた。
「じゃ、行こっか?」
「そ、そうだな」
 とりあえず考えても仕方ないと判断したのか、吹っ切れたような笑顔でユキが頷き、そして二人はゆっくりと帰り道を歩き始めた。

 商店街の一角にある、美味しいと評判の店で買ったアイスクリームを舐めながら、二人はのんびりと歩いていた。
 先程からずっとユキが喋り続けている。話題は昨日の拓耶とのことだ。
 もちろん千保が上手に聞き出したのだが、一度話し始めたら、恥ずかしくなくなったのか、それとも初めから話したかったのか、ずっと楽しそうに拓耶の話をし続けている。
「……でな、手当てしてやってから、アタシ、昨日千保と話してたこと、拓耶のヤツにも聞いてみたんだよ」
 昨日の話というのは、翼がどうのという話である。
「で、拓耶君はなんて?」
 ユキが明るく話している時点で、拓耶の反応がどうであったかなどすぐに理解できたが、敢えて興味津々に見せかけて千保が聞いた。
 千保の演技が上手かったのか否か、ユキは得意げにこう答えた。
「おう。拓耶も、そういう不思議なこと、あっても面白いとさ。アタシが信じるって言ったら、拓耶も信じたいって言ってたぞ」
 それを聞いて、千保は思わず吹き出しそうになったが、なんとか持ちこたえた。
 どうやら自分の演技が上手かったのではなく、ユキが単純すぎただけらしい。
(拓耶君も、ユキをおだてるの上手ねぇ)
 千保は内心でそう爆笑しながら、ユキには「良かったね」と優しく微笑んでおいた。
「おう!」
 実に嬉しそうに頷くユキを見て、千保はそれだけで満足だった。
 アイスクリームがなくなる頃、二人はユキの家へ行くための道で折れた。中学校こそ違ったが、元々ユキの家と千保の家はそれほど離れていなかったので、千保は少しユキの家に寄っていくことにしたのだ。
 道を折れた途端に少なくなる人の数。時折買い物に出かける主婦や、自転車で通り過ぎていく学生を見るだけになったが、それでもまだこの時間は人が多い方で、夜になるとこの辺りには、まったくと言っていいほど人がいなくなった。
 延々と続く拓耶の話を聞きながら、千保はふと、道端を車椅子を押しながら歩く子供の姿に目を止めた。
「ん? どうしたんだ?」
 自分の話に急に上の空になった千保に、ユキが訝しげに尋ねる。
 小さな子供が、恐らく祖父だと思われる老人の乗った車椅子を押して歩いていた。
 まあ、何の変哲もないと言えば嘘になるが、それほど珍しい光景でもない。しかし、千保の目は鋭く彼らを見つめたまま離れなかった。
「どうしたんだ? 千保」
 もう一度呼びかけて、初めて千保はユキの方を見て首を振った。
「何でもない。ただ、大変そうだなって思っただけ」
「そうか」
 それからさらにしばらく歩くと、昨日拓耶の躓いた地点までやってきて、ユキが足を止めた。
「ここだぜ、千保。拓耶のバカが転んだとこ」
「あ、うん……」
 緩やかな長い坂の頂上。下の方に幾つかのT字路があって、坂を一番下まで下りたところにユキの家の赤い屋根が見えた。
「まったくあいつは、ドジなんだからよ」
 無事だったことを幸いに、ユキが明るく笑い飛ばした。
 昨日のことは先程までの話でよく聞いていたから、千保はその後起きたことも知っていた。だから、ユキに告げようかと思い……小さく首を左右に振った。
(やめておこう……)
 千保の心の中など、当然ながらユキにわかるはずがなく、ユキは何事もなかったように再び歩き始めた。
 坂を下り、件の事故現場を通り過ぎる。
 千保はそこでユキが何か言ってくるとばかり思っていたが、ユキは無言でその場所を通過した。たぶん、子供が車に轢かれそうになったことなど、思い出したくもないのだろう。
 人一倍怖がりで、心優しいユキらしい。
 だから、千保も何も言わなかった。
 少しずつユキの家が大きくなってきて、やがて二人は坂の麓に辿り着いた。
 後は目の前に見える玄関をくぐって、ユキの部屋に行くだけだ。
 それで、すべてが終わるはずだった。
 そう……。背後から子供の悲鳴を聞くまでは……。
「う、うわあぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 甲高い叫び声に、二人は勢い良く振り返った。
 見ると、坂の上の方から老人の乗った車椅子が落ちてきて、そのさらに上の方で、それを押していた子供が泣いていた。
 車椅子はグングンその速度を上げ、乗っている老人が青ざめた顔で手すりにつかまっていた。
「あ、あのバカ!」
 鞄を放り出して、咄嗟にユキが飛び出す。
「ユキ!」
 千保の悲鳴。
「まったく。昨日といい今日といい、一体どうしちまったんだよ、この坂は!」
 悪態をつきながら、車椅子を受け止めるべく、ユキはグッと両脚に力を入れて両手を前に突き出した。
 そのユキの身体目がけて、車椅子がものすごい速度で迫ってくる。
「よしっ! 来い!」
 大きな声と共に気合いを入れるユキ。
 車椅子はもう目前だった。
 そして、まさに両者がぶつかろうとしたその瞬間──
「えっ……?」
 老人を助けようと踏み止まっていたユキの腕を、千保が思い切り引っ張った。
 唖然とするユキ。
 ビュンッ!
 一秒前、ユキのいたその空間を、風を切って車椅子が滑り落ちていった。
「千保……?」
 時が止まる。
 目を見開いて千保の顔を見つめるユキと、そんなユキを睨み付ける千保。
 ガシャンッ!
 二人の背後で、車椅子が壁に激突するものすごい音がして、ユキははっと我に返った。
「おじいさん!」
 慌ててユキは振り返り、
「っ!」
 その惨状を見て、思わず両手で口を押さえた。
 もはや見ることさえ憚られるような悲劇がそこにあった。
 アスファルトの上に、横向きに倒れた車椅子。空を向いた車輪が、カラカラと音を立てて回っていた。
 そしてそのすぐ横で、先程の老人がうつ伏せになって倒れていた。
「おじいちゃん!」
 坂の上の方から子供の悲鳴。何度も転びながら駆け下りてくる。
 ガクガクと肩を震わすユキ。
「ユキ……」
 そんなユキの肩に触れ、小さく彼女の名を呟いた千保を……、
「この、バカ野郎!」
 ユキが、振り向き様に殴りつけた。
「きゃっ!」
 生まれて初めて本気で人を殴った。
 生まれて初めて本気で人を恨んだ。
 ドサリと地面に崩れ落ちた千保を、ユキは涙を流しながら睨み付け、静かに、冷酷に言い放った。
「最低だよ、お前。見損なった……」
 そしてユキは、もはや千保には目もくれないで、老人の方に走っていった。
 にわかに周囲がざわめき出した。
 千保が頬を押さえて泣きながら蹲っていると、やがて遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
「しっかりしろ! しっかりしてくれ!」
 泣きわめくユキの声が聞こえてくる。
 千保はゆらりと立ち上がると、静かにその場を後にした。
 最後に一度だけユキの方を振り返ったが、彼女は最後まで千保の方を見ることはなかった。

  *  *  *

 膝を抱えて蹲っている私の前に立って、相変わらず無感情な声で彼が言った。
『どうした? 何を泣いている』
 私は顔を上げずに、むしろさらに顔を膝奥に入れて、グッと両腕で太股を引き寄せた。
『今日のことか?』
 もう一度彼の声がして、私は小さく頷いた。
「私……もうイヤだ……。こんな【能力】、欲しくない……」
 向こうで彼が溜め息を吐くのがわかった。
 それでも私が顔を上げないでいると、彼が厳しい口調で言った。
『あの瞬間、お前は何を見た? 何を見たから、あの娘の手を引いたんだ?』
 厳しいと思ったのは、私の心の為したことかも知れない。
 後から思えば、彼はこの時、私に優しかった。
 私は涙で震える声で答えた。
「あのコは……ユキは、あれを止めれなかった。もしあのままあそこにいたら、ユキは車椅子の下敷きになって……救急車で運ばれていたのは、間違いなくユキだった……」
『そして老人は奇跡的にも無傷で助かり、神名美由希は病室のベッドの上で思う。何故助けた自分だけがこんな目に遭うのだろう、と……』
 私は一度服の袖で涙を拭いて、鼻をすすった。
『お前はあの娘を助けた。もしもお前にその【能力】がなかったら、お前は決してあの娘を止めることなく、今言った悲劇が現実のものとなっていた』
「わかってる!」
 私は叫んだ。
「わかってるけど……辛いよ……」
 音はなかったけれど、彼が私の前に座ったことが、気配でわかった。そして、優しく私の髪の毛を撫でて、彼が言った。
『助けた自分が、何故こんな目に遭うのか……。お前がそう考えるのはわかる。よくわかる』
「うん……」
 私は子供のように頷く。静かに彼は続けた。
『ではお前は、自分が嫌われてでも神名美由希が無事でいるのと、嫌われはしなくとも、あの娘が重体で病院に担ぎ込まれるのと、どっちが良かったんだ?』
 ひどい質問だと思った。
 どちらの選択肢も私には辛かった。
 もっと他の選択肢は与えられないのだろうか。
 例えば、そう……。
「あんなこと、普通は起こらないよ……」
 それは子供の我が儘だった。無い物ねだりに過ぎない。だけど、今の私には、子供のように駄々をこねるのが……絶望の淵で神にすがるのが精一杯だった。
「あんなこと、マンガやドラマじゃないんだから、普通は起こらないよ……。貴方と対を為すヤツがやったんでしょ? ひどすぎるよ……」
 私は泣いた。
 見ていなかったから彼がどんな顔をしていたのかはわからなかったけど、彼は何も言わなかった。
 呆れられてしまっただろうか。見捨てられてしまっただろうか。
 顔を上げたら、そこにはもう彼の姿はないかも知れない。
 私は一瞬そんな恐怖に駆られたが、しかし彼はいてくれた。私が泣きやむまでずっとそこにいて、優しく私を見つめていてくれた。
 涙を拭い、私が首だけで彼を見上げると、彼は痛いくらい穏やかな瞳で私に言った。
『いいか、千保。これだけは覚えておけ』
「うん……」
 私が頷くと、彼は一呼吸置いてから、厳かにこう告げた。
『誰もが決して起こらないと考えていることが、突然目の前で起こるのが現実だ。その現実から目を背けるな。お前が現実だと考えているものは、ただの理想に過ぎない。そんなものは夢から覚めたら忘れてしまえ』
 どうしてよいのか、正直わからなかった。
 その現実を受け入れることが、自分にとってどういうことなのか。或いは、今ここで首を横に振ることが、一体何を意味するのか。私にはわからなかった。
 私が答えられずにいると、その沈黙を肯定の意で取ったのか、それともそれが私を納得させるための手段だったのか、彼は私の頭をそっと撫でてこう言った。
『千保。お前のとった行動は間違っていない。二日前にも言ったことだが、もっと善いことの方を見てみろ。もしもお前がその【能力】を持っていなければ、或いは持っていたとしても、あそこであの娘を止めていなければ、お前はベッドに横たわるあの娘の姿を見ながら、どうしてあの時止めなかったのだろうと、ずっと後悔したことだろう』
「うん……」
『正しいことが常に正しく認識されるとは限らない。自分がどれだけ多くの人によって助けられているかさえ知らずに生きている奴らばかりの世の中だ。お前も、自分が正しいと思ったことをしたのなら、胸を張って生きろ。あの娘がお前の本当の親友なら、きっとわかってくれるはずだ』
「……うん」
 少しだけ吹っ切れたような気がした。
 いつもなら癪だと思うはずが、さすがに今日だけは素直に聞くことができた。
「ありがとう……」
 だから、そんな言葉も照れずに言うことが出来た。
 彼は照れ臭かったのか、それともくだらないと思ったのか、実に珍しい私の礼にも何も言わずに姿を消した。
「ホントに、ありがとう……」
 もう一度そう言って、私は立ち上がった。
 もう大丈夫。約束通り、あのコを護ろう。この【能力】で、力の限り守り抜こう。
 私は力一杯、眩しい朝に足を踏み出した。

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