■ Novels


Moment 〜奇跡の一刻〜
「私はこんな【能力】、欲しくない! 普通の女の子でいたいの!」
望まざる予知能力を持って生まれてしまった一人の女子高生の苦悩と、彼女を取り巻く友情を描く。

 夕方……といっても、まだ日は高い。
 西の空から未だに暑いくらいの日差しを投げかける太陽の下で、拓耶はユキを待っていた。
 校門から出ていく学生たちが、学ラン姿の彼を見て不思議そうな顔をして去っていく。
 こうしてユキを待つようになってから、しばらくの間はそんな視線も恥ずかしく思えたが、最近ではすっかり慣れてしまって、もうほとんど気にならなくなっていた。過去に一度だけ不審がられて教員に呼びかけられたが、彼が「姉を待っている」と言ったら、その教員は「殊勝なことだ」と笑って去っていった。
 こうしてのんびりとユキを待っている時間が拓耶は好きだった。元々この水主丘高校は、自分の通っている中学校と同じ方角にあったし、一人で帰ることを思えば、憧れのユキと一緒に帰るためにここに立ち寄る距離など、苦にならなかった。
 いつも通りこの校門からユキが千保と一緒に現れて、拓耶が呼びかける。その時、困ったような、恥ずかしそうな顔をするユキが、拓耶は大好きだった。
 だから拓耶は、今日もここで彼女の帰りを待っていた。
 ところが……。
「あれ?」
 いつもよりも少しだけ早い時間。校門から出てきたのはユキ一人だった。
「美由希……先輩?」
 拓耶が呼びかけると、ユキはつかつかと彼の許に歩み寄り、そのままがしっと彼の腕をつかんで、
「ほら、行くぞ」
 その歩みを止めることなく、彼を引きずり始めた。
 あからさまに機嫌が悪い。元々気の短い性格で、彼女が激しく怒っている姿は拓耶も何度も見たことがあったし、自分自身が怒りの対象になったことさえあったが、こういう静かな怒りを見るのは初めてだった。
(望崎さんと何かあったのかな?)
 直感的にそう思ったが、口には出さなかった。
 出せば自分が死に直結するか、或いはユキを悲しめる。それを拓耶は肌で感じた。
 ユキはその顔から一切の感情を消し、拓耶の方さえ見ることなく、ただ無言で歩いていた。その後ろを、従者の如く拓耶が黙ってついていく。
 やがて、いつもの角を曲がったとき、初めてユキが口を開いた。
「昨日、うちの前の坂道で、車椅子に乗ったおじいさんが転落して救急車で運ばれたんだ」
 少し歩く速度を緩めたユキの隣に並んで、拓耶は彼女の顔を見上げた。
 ユキは未だに冷たい仮面を着けたままだったが、ようやく発した声には隠しようもない怒りが込められていた。
「5時くらいですよね? サイレンが聞こえました」
 その頃拓耶は、自分の部屋で雑誌を見ていた。ユキの家の方角から救急車のサイレンが聞こえてきて、思わず悪い想像をしてしまったからよく覚えている。
 拓耶の可もなく不可もない受け答えに、ユキは淡々と昨日のことを話した。
 坂道で子供が、祖父の乗った車椅子を離してしまったこと。自分がそれを止めようとしたこと。そして、そんな自分を千保が止めたこと。
 すべてを話し終えたとき、ユキは少し涙ぐんでいた。
 人一倍感受性の強い彼女のことだから、きっとその事件を自分の責任のように感じているのだろう。そして、助けようとした自分を阻害した友人を、どうしても許せないのだろう。
 拓耶はユキが言葉を切った後、「そうですか」と無感情に相づちを打った。
 それから二人は、右手の小さな広場を越え、電気屋の角を左に曲がって、いつもの坂道まで歩いてきた。そして、坂の上に立ったとき、拓耶が足を止めてそっとユキに話しかけた。
「ねえ、美由希先輩」
 静かな彼の口調に、振り返りながらユキが答えた。
「なんだ?」
 自分に何か言おうとしている拓耶さえをも非難するように、細めた瞼と低い声。しかし、そんなユキをまるで睨み付けるようにじっと見据えて、厳かに拓耶は口を開いた。
「先輩は、どうして望崎さんが先輩を止めたか、それは考えなかったのですか?」
「千保がアタシを止めた理由?」
「そうです。先輩は、最終的に起きた結果だけを見て望崎さんを非難してませんか?」
「……どういう意味だ?」
 わずかに表情を崩してユキが聞き返す。
 そんなユキの仕草に、拓耶はまだユキが心のどこかで、千保と仲直りしたいという思いがあることを察した。だからこそ、敢えて冷たく言い放った。
「つまり、先輩は本当にその車椅子を止めることができたのかってことです」
 ユキが言葉もなく顔をしかめる。恐らく、その可能性は彼女の中にはなかったのだろう。
「この長い坂の上から落ちてきた車椅子を、先輩の力で受け止められたとは思えません。もし僕が望崎さんの立場でも、きっと先輩を止めていたでしょう。たとえそれによって先輩に嫌われてでも、です」
「だ、だけど!」
 ユキは強くそう彼の言葉を遮って、すぐに悲しげに瞳を落とした。
「だけど……」
 ようやく冷静になったのだろう。
 少し考えればわかることなのだが、救急車で人が運ばれるような惨状を目の前で見てしまった少女に、冷静になれというのも酷な話だ。
 だから拓耶は、優しくユキに言った。
「僕も望崎さんも、本当に美由希先輩が好きなんですよ」
「拓耶……」
「先輩が危険な目に遭うくらいなら、たとえ自分が嫌われてでも止めようとするのは当然です。だから先輩。もし良かったら……気持ちの整理がついてからでいいです。どうか望崎さんと仲直りしてください」
 ユキはまるで親に叱られた子供のように、こくりと小さく頷いた。それから不安げに顔を上げて、悲しそうに拓耶に尋ねる。
「でも、許してもらえるかな。アタシ、千保のこと本気で叩いちゃったから……千保、きっと怒ってるよ」
 弱い人だなと、拓耶は思った。だから好きなんだけどと、心で付け足す。
「先輩は、望崎さんに許して欲しいですか?」
「うん。アタシ……頭に血が上ってて……だから……」
 今にも泣き出しそうな顔で、ユキは何度も何度も頷いた。
「じゃあ、謝りに行くしかないですよ。誠心誠意を込めて謝って下さい。結果を恐れるなんて、先輩らしくないです」
 何も考えずに車椅子の前には飛び出せるのに……という余計な一言は、ぐっと飲み込んだ。
 ユキは零れそうになった涙を一度拳で拭ってから、元気に顔を上げた。
「わかった。アタシ、千保に謝ってくる」
 そう言った千保の顔に、もう迷いはなかった。
 感情豊か、単純極まりないこの性格が、彼女の短所でもあり、長所でもある。
「ありがとう、拓耶」
 言うが早いか、ユキはもう千保の家の方に走り出していた。
 そんなユキの背中を見つめたまま、拓耶は苦笑を禁じ得なかった。
「頑張って下さい、先輩!」
 拓耶が大きな声でそう言うと、ユキが遥か向こうで軽く手を振るのが見えた。
 拓耶はしばらく彼女の背中を眺めていたが、やがてその影が見えなくなると、笑顔のまま帰路に着いた。

 会ったらまず何を言おう。怒られたら何と言おう。
 千保の家までやってきたユキだったが、呼びインを前にしてその手が止まった。
 腕を組み、ウロウロしながら、時折2階の千保の部屋の窓に目を遣る。
 けれども、最終的にはただ謝るしかないという結論に至ったとき、思いの外簡単に呼びインを押すことができた。
『はい……』
 インターホンの向こうから千保の声がして、ユキは一度大きく息を吸うと、いつもの元気ではっきりと自分の名を告げた。
「あの、美由希です」
『えっ? ユキ!?』
 意外にも、嬉しそうな千保の声。
『ちょ、ちょっと待っててね!』
 そして、玄関から飛び出すや否や、千保はユキを思い切り抱き締めた。
「お、おい、千保」
「あっ、ごめんごめん。ユキから来てくれるなんて思わなかったから」
 そう言った千保の顔は本当に嬉しそうで、ユキには痛いほどだった。
「あの、その……昨日のことだけど……」
 ユキがやや俯き加減でそう言って、千保は「何?」と、優しく聞き返した。
 もちろん、ユキが謝りに来てくれたことは様子でわかったが、そこは友達として敢えて自分からは言わなかった。
 許すのは簡単だったが、ちゃんと謝った方がユキも楽になるだろう。
 そんなことを考えながら、千保がユキの髪を見つめていると、ユキはさらに深く頭を下げて、大きな声でこう言った。
「あの、昨日はごめんなさい。アタシ、何も考えずに千保のこと殴ったりして。本当にごめんなさい!」
「……いいよ、もう」
 少しだけ間をおいてから、優しく千保がユキの髪を撫でた。
「ホント!?」
「うん」
 特上の笑顔で千保が頷くと、ユキは、
「あ、ありがとうっ!」
 思わず泣き出してしまったから、気が付くと反射的に千保に抱き付いていた。
 千保は一瞬慌てたが、自分の胸の中で泣いているユキを見ている内に思わず微笑みが零れて、
「よしよし」
 冗談めかしてそう言いながら、そんなユキの頭を撫でてやった。
 この二人には、それで十分だった。
「ねっ。少し上がっていきなよ」
 千保にそう言われて、ユキは大きく頷いた。
 そんなユキの笑顔に、千保も満足そうに頷いた。
「よぅし。じゃあ今夜はもう、離さないからね」
 それからユキは、仲直りパーティーと称して、遅くまで千保の家で遊んだ。

 いつの間にか辺りは暗くなり、空には点々と星が輝いていた。
 玄関先まで見送って、千保がユキに微笑みかける。
「今日は楽しかったよ」
「うん!」
 もうすっかり仲直りした二人は、互いに見つめ合って楽しげに声を上げた。
「じゃあ、また明日な、千保」
 そう言って、ユキが帰路に着く。
「うん。また明日」
 千保も背を向けて、二人は別れた。
 千保は後ろ手に玄関を閉めると、ほっと一つ溜め息を吐いた。ユキには余裕の表情を見せ続けていたが、正直ずっとドキドキしていた。
 仲直りできて本当に良かった。結局喧嘩をしていたのはたったの一日だけだったけど、今千保の胸は安らぎと温かさでいっぱいだった。
 スリッパを脱いで家に上がる。
「さてと、これから何しよっかな〜」
 明るく呟いた、その時だった。
(えっ……?)
 突然胸に走った不安と、確信。頭をよぎったビジュアル。
 ドクンドクンドクンドクン……。
 破裂しそうなくらい高鳴る鼓動。緊張に乾き切る口の中。
「ユ……キ……」
 呆然と呟いてから、千保は慌てて家の中に駆け込み、受話器を取った。
(お願い! 間に合って!)

『誰もが決して起こらないと考えていることが、突然目の前で起こるのが現実なんだ……』

 人影のまったくない夜道を、ユキは鼻歌混じりに歩いていた。
 千保と会う前にユキの心を支配していた不安は跡形もなく消え去って、今はただ嬉しさと喜びに包まれていた。
「やっぱり友達っていいなぁ。後で拓耶にも礼を言っとかないと」
 静まり返ったその空間に、ユキの足音だけが響き渡る。
 街灯の明かりに小さな虫がたかっていた。もうそんな季節だ。
 すでにシャッターの降りたとある飲食店の前を通り過ぎたとき、前方から二つほどの足音と、同じ数の話し声が聞こえてきた。
(こんな時間に人なんて珍しい……)
 さらに歩くと、向こうから二十歳ほどの若者が二人、何やら楽しそうにだべりながら歩いてきた。
 何気なく両者が擦れ違った……刹那、
「うっ!」
 いきなりユキの腹部に、若者の一人の拳がめり込んだ。
 そんなことは予想だにしていなかったユキが、腹を押さえたままがくりと膝を折り曲げる。
「ごほっ、げほげほっ!」
 固く目を閉じ、苦しそうにむせ返るユキ。
 そんなユキの背後に回り、一人の男が彼女の両腕をがっしりと抱え込んだ。
「な、何っ!?」
 涙でぼやけた視界に、一人の男の姿が映った。
 にたりと笑う男の顔……イヤらしいその微笑みに、ようやくユキは状況を理解することができた。
「や、やめろ!」
 大声で叫んで身を捩る。
 しかし、後ろで固められた両腕はまったく動かず、何とか蹴りつけた右足も、あっさりと目の前の男につかまれて、ぐっと持ち上げられた。
「いやあぁあああぁぁぁぁあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 絶叫するよりも早く、後ろから口元にタオルのようなものを押し付けられた。そのタオルから、微かに、ユキがかつて嗅いだことのない匂いがした。
 必死に首を左右に振るも、男の手の平は大きく、ユキはその匂いにだんだん意識が薄れていくのを感じた。
「いや……」
 くぐもった声……。
 目の前の男のごつごつとした手の平が、すっとスカートの中に差し込まれて、太股に触れた。
「やめろっ! やめてよっ!」
 思い切り蹴り上げたつもりだったが、足はまったく動かなかった。それが薬品のためか、男に押さえつけられているからかはわからない。
 ただ、ユキの小さな胸を、途方もなく大きな絶望が埋め尽くした。
「う……うぅ……」
 眦から涙が零れて、タオルを湿らせた。
 男の手がショーツに触れたが、もはやユキに抵抗する術はなかった。
 朦朧とする意識。
 後ろの男が腕を解放してユキの胸をつかんだ。
 放たれた腕が、まるで他人のもののようにごとりとアスファルトに落ちる。
(どうして……?)
 最後に、ユキは思った。
(どうして、アタシがこんな目に遭うの……?)
 ユキは絶望と悲しみの中で目を閉じた。
 もはや身体を触られている感覚さえなくなっていた。
 そんな、すべての光を失ったユキに、神が与えた最後の救い……。
「おい、お前ら……」
 辛うじて残っていた意識の中で聞いたその声が、ユキは初め誰のものかわからなかった。
 彼が本気で怒ったのを、彼女は見たことがなかったから……。
(拓耶……)
 自分の身体がどさりと地面に落ちるのがわかった。
 痛みを感じたから、多少感覚が戻ってきたのかも知れない。
 うっすらと目を開けると、目の前に拓耶の顔があった。
「拓耶……」
 声を出すことが出来た。
「拓耶、アタシ……」
 呟くと、次の瞬間、全身に彼の温もりを感じた。
「もう大丈夫ですから……」
 耳元で拓耶の声。
「あいつら、もう逃げていったから……。もう大丈夫ですから、美由希先輩」
「ア、アタシ……」
 もう一度呟くと、涙が零れた。
 悲しみの涙ではなく、安堵の涙……。
「あったかい……」
 だいぶ感覚を取り戻した両腕で、拓耶の背中をしっかりと抱き締める。
 拓耶はそんなユキの髪を何度も何度も撫でながら、優しくこう言った。
「もう大丈夫ですから……。僕が側にいますから……」
「うん……」
 ユキは小さく頷いた。
「じゃあ、もう少しだけ、このままでいて……」
「はい」
 拓耶の温もりに包まれながら、ユキは自分は幸せなんだと、初めて思った。
 千保や拓耶が、日頃からどれだけ自分のことを心配してくれているか、それを肌で感じた。
「ありがとう……」
 そう呟いたつもりだったけど、声になったかはわからなかった。
 拓耶の胸の中があまりにも心地良かったから、ユキはいつの間にか眠ってしまっていた。

←前のページへ 次のページへ→