「あれ? 今日は望崎さん、お一人ですか?」
どことなくがっかりした様子を隠せない拓耶を見て、千保はいたずらっぽく微笑んだ。
「ん? 愛しの美由希先輩がいなくて寂しいの?」
「えっ……あ、まあ……」
「否定せい!」
ぱかんと拓耶の頭をはたいて、千保が笑った。
「ユキ、伊藤と魚について語り合ってたから……。まあ、もう少ししたら来るんじゃない?」
「魚……ですか?」
伊藤という人物を知らない拓耶が、首を傾げる。
「そっ。民話の伊藤先生。魚が喋るんですって」
「へぇ。面白いですね」
全然面白くなさそうに拓耶がそう言って、もう一度千保は笑った。
ユキが襲われた翌日。空は高く澄み渡り、もう夕方だと言うのに雲一つない上天気だった。
「ところで拓耶君。昨日はありがとう。ユキを助けてくれて」
急に真面目な顔で千保がそう言うと、それに合わせるようにして、拓耶も顔から微笑みを消した。
「いえ。僕こそ、教えてくれてありがとうございました。先輩、ああ見えてすごく弱い人だから……。大事に至らなくて良かったです」
「そうね……」
千保が何かを含んだ呟きを洩らした。
そんな千保をじっと見つめて、拓耶が口を開いた。
「ところで望崎さん。どうして昨日、先輩が襲われることがわかったんですか?」
そう尋ねた拓耶の顔には、わずかに千保を疑う色があった。
千保が、ユキと拓耶をくっつけるために、わざと誰かにユキを襲わせた。
その可能性を拓耶は疑っているのだ。
それはひどく失礼なことだったが、現実的に考えればその可能性が最も大きいから仕方ない。
千保は一度空を仰ぎ、しばらく考えてから拓耶に視線を戻した。
そして口を開きかけたその時、
「お〜いっ!」
校舎の方から、ユキの大きな声がした。
二人が振り返ると、ユキが短い髪を揺らしながら、大きく手を振って走ってきた。
そして二人の前に来るや否や、ユキは千保の方を見て楽しそうに言った。
「ねえねえ、千保。伊藤先生ね、魚とお話したことがあるんだって!」
「へぇ……」
千保が困ったように相づちを打つと、隣で拓耶が目を見開いて言った。
「ああ。伊藤先生って、前に美由希先輩が話してた、翼の先生ですか?」
どうやら、二日前にユキが家で拓耶に話したらしい。
千保は拓耶に小さく頷いてから、ユキに言った。
「それで、またユキはそれを信じてきたのね?」
「う、うん。だって……」
子供のように唇を尖らせるユキ。
もちろん、その後の言葉は決まっている。
「だって、その方が面白いじゃん」
先に千保が言って、ユキはぐっと言葉を飲み込んだ。
そんな二人のやり取りを見て拓耶が笑った。二人もそれにつられて笑う。
「そうね……。少しくらい不思議なこと、あった方が面白いかな……」
千保がゆっくりと歩き出してそう言うと、ユキがパッと顔を輝かせて千保と並んだ。
「なっ? やっぱり千保もそう思うだろ?」
「まあ……少しは、思わないでもないね」
そう呟く千保の隣に立って、拓耶が無言で千保の顔を覗き込んだ。
千保は始終微笑んでいたけれど、拓耶にはその微笑みが、どこかいつもとは違うような気がした。
もっとも、どこがと言われれば困るのだが、表面上ではない、もっと心の奥底から晴れ渡るような微笑み。
ようやく千保の同意を得られたからか、ユキが嬉しそうに千保に聞いた。
「じゃあさ、千保。前は聞き逃したけど、もし……もし何か自分にも不思議な力があったとしたら、千保は何がいい?」
そう尋ねられて、千保がユキの顔を見ると、ユキは遠くの空に目を遣ってこう付け加えた。
「アタシはやっぱり、伊藤先生みたいに翼が欲しいな」
「そっか……」
呟きながら空を仰ぐ。
先程から比べて、うっすらと細い雲が幾筋か広がるように伸びていたが、まだ夕焼け前の空は、青々として三人を見下ろしていた。
「予知能力なんて……どう?」
空を見上げたまま、ふと千保がそう呟いた。
「予知能力?」
二人がそんな千保の横顔を、不思議そうに見つめる。
「またミステリアスなもん、持ってきたな」
怪しげな英語を使ってユキがそう言うと、千保はそんなユキに小さく笑いかけてから、交互に二人の顔を見つめた。
「便利じゃない? 変えることの出来ない未来を見るんじゃなくて、変えることの出来る未来を見るの」
「…………」
二人が黙って聞いていたから、千保は小さく笑って得意げに続けた。
「もちろんね、自分の力ではどうしても出来ないこともあるだろうし、どう頑張っても好転しないこともあるだろうけど、でも、自分の一番好きな人一人くらいなら、なんとかそれで護ることが出来そうじゃない?」
「そっか……うん。そうだね」
嬉しそうにユキが頷く。
そんなユキとは対称的に、拓耶はしばらく千保の顔を見つめたまま何やら考え込んでいたが、千保がさわやかに微笑みかけると、やがて納得した顔付きで深く頷いた。
「いいですね、望崎さん。それ……」
「でしょ?」
千保は晴れやかに微笑んだ。
誰もが起こらないと思ったことが起こるのが現実ならば、とてもあり得そうもないことが現実に存在するのもいいかも知れない。
隣でユキが楽しそうに微笑んでいる。それを拓耶が眩しそうに見つめている。
あくまで結果論だけど、今こうしている瞬間は、自分の【能力】で得た幸せだ。
現実は、思っていたより悪くない。
「おい、千保。何ぼけーっとしてんだよ」
ユキの声に、千保ははっと我に返った。
見ると、ユキと拓耶が不満げに自分を見つめている。
「えっと、何だった?」
頬を掻きながら聞き返すと、ユキは一瞬納得のいかない顔をしたが、すぐに気を取り直し、何か良からぬことを企んでいるような、ニヤニヤした笑みを浮かべて聞いた。
「千保は、もしその力を手に入れたら、誰を護るんだ? 千保の、い・ち・ば・ん・す・き・な・ひ・と!」
どうやら自分は色恋沙汰には興味がないくせに、他人の恋愛話は聞きたいらしい。
拓耶も興味津々に千保の顔を見つめていた。
そんな二人の視線をまったく気にすることなく、千保はにっこりと微笑んだ。
「そんなの、決まってるじゃない」
「えっ?」
てっきり千保が恥ずかしがるとばかり思っていたユキが、驚いた声を上げる。
そんなユキを、千保が得意のいたずらっぽい目で見つめてこう言った。
「私が護りたい人は、神名美由希、あなたただ一人よ」
わざとウィンクまでサービスすると、よほどおぞましかったのか、ユキが両手で自分の身体を抱き締めて身震いした。
隣では、拓耶が真っ赤になって俯いている。
そんな二人を見て、千保は大きな声で笑った。
「さっ、帰ろっ!」
千保が走り出すと、二人が慌ててその後を追いかけた。
「あっ、ちょっと、千保!」
「あははっ」
千保が振り返ると、ユキと拓耶が笑っていた。
だから、自分も笑っていた。
結構幸せな現実に……。
いつの間にか真っ赤に染まった空の下で、三人は最後まで明るく微笑みながら、やがてそれぞれに帰路に着いた。
Fin
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