先ほどの『部屋』よりももっと部屋らしい空間だった。しかし、あまり人が生活する空間ではない。まるで実験室。ううん、たぶんこれは実験室なんだろう。
部屋の中央にベッドがあった。そのベッドは真っ赤な血にまみれ、その血はベッドの脚を伝って地面に染みを作っていた。まだ赤く新しい血から、黒く変色して固まったものまである。つまり、この血の主は、少なくとも一日や二日ではない長い間、ここで血を流すことをされていたのだ。
そしてその『血の主』は今半裸でベッドに横たわっていた。穿いているのは靴下と下着だけ。剥き出しになった白いお腹や太もも、それに胸や腕には血がべったり付着していた。細い足には足枷が嵌めてあって、その枷は鎖でベッドに繋がれていた。
死んでいると、私は思った。みんなもそう思っただろう。だけど、その血の主──恐らくファティが見たっていう女の子は、安らかな顔をして、小さな寝息を立てていた。規則正しく上下する胸も穏やかで、苦しそうなところはまるでない。
「いや、とにかくこの格好は可哀想だ!」
ルーツが至極もっともなことを言って近付く。待て、と私が言うより先に、ルーツは近くにあった彼女のものと思しき服を取って着せた。ええい、無断で女の子に触れて!
見たこともないデザインの服だった。生地は銀色で、素材はわからなかった。他にも同じ色の布がたくさんあったけど、どうやって着けるものなのかさっぱりわからない。
やがて女の子が目を覚まして、体勢を整えてから、大きな美しい瞳で私たちを見た。二つお下げの、極端に長い水色の髪(血で真っ赤に染まっていたけど)が、ベッドの上にさらりと落ちた。
「あなたたちは?」
あっ……と、私は思わず声を出しそうになった。澄んだ、綺麗な声。私だって普通の若い女の子の可愛い声だけど、それとは根本的に異なる、魅力的な声。
「ただの冒険者です。君は?」
ドンファンも彼女の声に衝撃を受けたのか、珍しく緊張するようにそう尋ねた。
「私はミクです。冒険者ってなんですか?」
ミクというのが名前なのか、それとも私の知らない名詞なのかわからなかった。ただ、名前だと直感した。
「俺たちのことはいいから。それよりミク、ここで何を?」
ウンババの質問に、ミクは少しだけ微笑んで答えた。
「寝てました。今起きました」
少し頭が弱い子なのかもしれない。私はふとそんなことを思ったけど、一旦それは否定した。
何かが違う。この子は根本的に、私の、私たちの知っている常識とは異なる次元にいる。珍しい髪の色、珍しい瞳の色、近未来的な服装、そして人間離れした美しい声。
「君……ミクは、ずっとここでこの鎖で繋がれてるのか?」
「いいえ。時々ご主人様と一緒に外に出ます。そこで歌ったりします」
ああ、やっぱりセマトスさんの家を訪れた旅人さんの聞いた歌声は、この子のだったんだ。そして──
「ご主人様って? 名前は?」
「マウラスさんです。森で迷っていた私を助けてくれました」
「助ける?」
私は言いかけて口を噤んだ。この血、そして棚に置かれたナイフや、見たこともない触れると痛そうな鉄製の器具。明らかに、マウラスはこの子を助けたんじゃない!
「どうして森に? どこから来たんだ?」
ドンファンが聞くと、ミクは困ったような顔をした。そして瞳を閉じて首を振る。
「わかりません。覚えてないんです。私は科学の限界を超えてここに来て、それしか覚えてなくて。気が付いたら森にいたんです」
「科学? それは?」
「えっと……自然を超越したものです。自然を超越した科学をさらに超越してここに来ました。何か青いレーザーのような光に満ちた空間を通って──ワープしたんでしょうか。ディメンションを……あるいはタイムリープ?」
???
私は考えるのを止めた。この子はきっと頭が弱いんじゃなくて、きっとすごく頭が良くて、だから私にはついて行けないんだ。だけど、ついて行けないのは私だけじゃなかったみたいで、全員が首を傾げているのを見て、私は少し安心した。異端なのは私たちの方じゃない。
「この血は? ミクはマウラスに何をされたんだ?」
「ナイフで切られました」
淡々と、ミクが答えた。完全な無表情。嬉しいのか悲しいのか、無理をしているのか何とも思っていないのか、まったくわからない。
「手と足を縛り付けて、それからそこのナイフで私の体を割くんです。お腹とか。すごく痛くて、私はいつも気を失ってしまうんですけど、最後には怪我を治してくれるんです。魔法ってすごいですね。科学とはまた別のベクトルに進化した極みだと思います」
そう言って、ミクは笑った。楽しそうに。科学とか魔法とか、そんなことに対して。自分の体が痛めつけられることなんて、まるで気にしてないように。
「そうか!」
やにわにルーツが声を上げた。私たちの視線を受けて、ルーツは慌てて首を振る。
「いや、こっちの話。そうか、切って治して、切って治す。新しい。斬新だ……」
何やらぶつぶつ呟くルーツ。私は絶対にこの人はダークプリーストだと考えてから、マウラスがミクの怪我を魔法で治したことに思い至った。
怪我を治す魔法は、基本的には“キュアー・ウーンズ”と“ヒーリング”しかない。そして“ヒーリング”は女性にしか使えないから、マウラスはプリーストだとわかる。この惨状を見て、マウラスが真っ当な人間とは思えない。従って、彼はダークプリーストだと推測できる。
「なあミク。だけど、痛いんだろ? いつまでこうしてるつもりだ? 逃げようとは思わないのか?」
憐れむようにドンファンが聞く。私たちはそれが当然だと思うけど、この子がどういう常識で生きているのかわからないから、下手な決めつけはできない。あくまで慎重に。
ミクは、やっぱり不思議なことを口にした。
「逃げて、どうするんですか?」
「どうするって……そりゃ、生きるんだろ?」
「よくわかりません。私は確かに考えることができます。意思もあります。自発的に行動することもあります。だけど、基本的には誰かに命令されないと動けません。その人がどんな人だったとしても、私はご主人様について行くんです」
「依存か? 愛か?」
ウンババが難しい質問をする。実際、ドンファンにはよくわからなかったみたいだけど、ミクはやっぱり賢いのだろう。正しく理解した上で答えた。
「愛ではありません。ご主人様はマウラスさんでなくても構いません。依存してるつもりはないですが、自立の反対が依存だと言うなら、依存してます」
む、難しい……。私は頭を捻った。ただ、前半はわかった。この子が求めているのは命令であってマウラス個人じゃない。なるほど、だから依存してないとも言えるし、でも結局誰かの命令を求めてるから、依存してるとも言える。
「じゃあ、一時的に私たちがあなたのご主人様になるわ。だから、一緒にここを出ましょう。命令形の方がいいなら命令するわ。私たちと一緒にここを出なさい」
「いや、それは困るな。せっかくの俺の遊び道具を」
答えたのはミクじゃなかった。声が後ろからして、私たちは振り返った。
心底不快そうな顔をして、若い男──マウラスが立っていた。
いつの間にそこにいたんだろう。
私には気配を感じる能力がないから気付かなかったけど、ひょっとしたらギガンティアは気付いていたのかも知れない。気付いた上で、ファティの時にそうしたように、危険はないと判断して黙っていたのか。少なくとも今はまだ。
ベッドの方に歩いていくマウラスの足は濡れていなかった。入り口が塞がっていて、近くには足跡がなく、さらにここにこうしてミクがいたことから予想はしていたけれど、どうやらここに来るための入り口は二箇所あるらしい。
「なぜ、こんなことをする」
必死に怒りを堪えるよう、努めて冷静にドンファン。だけどその口調は速く、今にも破裂しそうな怒りが見て取れた。
マウラスは、そんなドンファンの神経を逆なでするように、淡々と答えた。
「その子は、不思議な子なんだよ。森で拾ったのが二週間前。それまで一週間、何も食べてなかったと言うから、俺も何も食べさせずにいる。だけど、変わりなく元気だ」
目の前のミクに対して、「その子」という表現を使ったのは、ミクは今ルーツのそばにいるから。正確には、ミクがマウラスの方へ行かないよう、ルーツが押さえている。助ける義理はないけど、人質にされたら後味が悪い。
「それは、人間ではないってことか?」
ウンババが聞く。ドンファンより多少穏やかなのは、彼女に対する興味があるからだろう。もちろんそれは、男女としてでもないし、マウラスが抱いているような好奇心とも違う。いわば普通の疑問。
「不思議だろう? 興味が湧くだろう? だから、解剖してみようと思ったのは、ごく自然な成り行きだ」
マウラスがさも当然というふうにそう言った。側でなるほどと納得したように頷くルーツを、私は心底蔑む目で睨んだ。
「で、何かわかったのか?」
今にも斬りかかりそうな勢いでドンファン。私としてもこの時点でもうGoサインを出してもいい気持ちだったけど、まだ早い。マウラスの話が本当なら──きっと本当で、ミクが人間じゃなかったとしたら、すなわち彼女には「人権」が発生せず、マウラスの行動は罪にならない。となると、無罪のマウラスを「腹が立った」という理由で斬ってしまったら、罪に問われるのは私たちだ。
マウラスは壁を背に腕を組んで、気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「さて。少なくとも体の構造は人間と同じだった。だが、食わずに生きられる人間はいない。感性からして変だし、話す内容も奇妙だ。別世界の、人間に酷似した生物かもな」
マウラスは、やはりミクを人間だとは言わなかった。例えばエルフやドワーフだって人間に酷似した生物で、彼らの場合は殺傷すれば罪になる。ミクだってそれに当てはめることはできるかもしれない。けれど、それもミクが市民の場合だけ。例えば、森のエルフを傷付けても人間の街では罪にならないように、科学の限界とかいうのを超えてきたミクを痛めつけても、やっぱりマウラスは罪にならない。
「彼女をどうする気なの?」
しばらくの沈黙の後、そう聞いたのは、これまでずっと黙っていたギガンティアだった。興味がないとばかり思ってたけど、そうでもなかったのか、人間ではない身としてミクに親近感を抱いたのか。
「どうもしないが。飯を与えなくても生きられるし、痛めつけても俺になついている。いても俺にマイナスになることは何もない」
「私たちが買い取るわ」
「ほう」
マウラスが楽しそうな笑みを浮かべた。けれど、もちろん皮肉っぽさは変わらない。一体ファティはこの人のどこに惹かれたんだろう。私は不思議でならなかった。
「まあ、そろそろ飽きてきたのはある。2万くらいで売ってもいいが」
2万というのは、人間の売買としては決して高い額ではなかった。ましてや、マウラスの話が本当なら、ミクの場合維持費(嫌な表現だ)がかからない。つまり、マウラスは売る気がないわけじゃなくて、本当に手放しても構わないと思っているのだ。
けれど、生憎私たちは全員のお金をかき集めても1万ガメルくらいしかなかった。それに、仮にあったとしてもミクのために全財産を使うつもりはない。
「今は1万ならあるわ。残りは街にある」
ギガンティアが答えた。どういうつもりだろう?
もちろん、街にもお金はない。セマトスさんが払ってくれるかもしれないけど、確実じゃない。つまりこれは、マウラスを街に連れていって、衛兵に突き出すつもりなのだ。
法は法だけど、裁くのは人間。絶対ではない。今、マウラスがミクに対して非人道的な行いをしていた証拠は十分あるから、後はミクの証言次第ではなんとかできるかもしれない。たぶん、ギガンティアの狙いはそこにある。
マウラスもそれがわかったのか、あるいは私たちにお金がないことを悟ったのか、首を横に振った。
「ダメだな。今ここで払えなければそいつは渡せない」
「じゃあ、私たちが街にお金を取りに帰る。お金を持って戻ってくる。それでどう?」
その提案に、マウラスが一瞬鋭い目をした。そして、答えた。
「構わないが」
ギガンティアの次の狙いは、私にもわかった。きっと、パーティーのみんなが理解できた。
彼女は一旦街に戻って、街の衛兵を連れて来る算段だ。この惨状を見れば、誰だってマウラスを「悪」だと判断する。私たちが手を出せないのは冒険者だから。自分たちが法律だと思っている街の衛兵なら、問答無用でマウラスをしょっぴくだろう。
そしてギガンティアは気付かなかった。きっとムカデの毒のせいだ。
マウラスが頷いたのは、私たちがお金を持ってくると思ったからじゃない。ミクを連れて逃げるつもりだ。
気が付いたのは私だけではなかった。ウンババがギガンティアを押し退けて、とうとう剣を抜き放った。
「もう十分だろう。どっちが正しいかの判断は、裁判に委ねても構わない」
「同意だな」
ドンファンもにやりと笑って剣を取る。
ギガンティアには悪いけど、私もそれに賛成だった。この人は真っ当な交渉ができる相手じゃない。命のために戦闘を回避するのは大切だけど、善悪の判断で戦闘を迷っているなら、今回は10対0で私たちが勝てる!
「交渉は決裂だな」
マウラスがめんどくさそうに壁から背中を離して、パチンと指を鳴らした。
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