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小さな魔法使い
魔法使いに憧れる少女ユウィルは13歳。湖の街ウィサンに、最近引っ越してきたばかり。湖には化け物が棲んでおり、ユウィルはひょんなことから、たった一人でこれと戦うことになる。

 街に入ったときはもうすでに夕刻だった。本当はもっと湖を眺めていたかったが、スノートウィス湖には、夜になると海蛇の化け物が出るという伝説がある。子供だましではなく、実際にそれに喰われた人もいるというから、信じないわけにはいかない。
 暗い瞳で歩くユウィルを、街の人たちが同情の目で見ていったが、声をかける者はなかった。
 家々から炊煙が立ち上っている。もうそんな時間だ。家では三つ違いの兄と両親が、帰りの遅い娘を心配していることだろう。だが、帰るのが辛い。こんな格好で帰ったら、ただでは済まないだろう。しつこく何があったのか尋問され、最後には自分の両親とミリムの両親で話し合いになるだろう。
 子供の喧嘩に親が出てくるのはもう嫌だ。1週間前、ペコペコとミリムの両親に頭を下げ、お金の包みを渡していた父と母。もう、嫌だ。
 悪いのは自分なのだ。未熟なくせに一人前に魔法など使おうとした自分がいけないのだ。デイディは悪くない。けど……。
 ふと目を落として、ユウィルは瞳に涙を浮かべた。
 自分の右手に握られた一冊の本。もはや原形を留めているのは半分だけだ。
(いくら何でも……ひどいよ……)
 魔法が好きだった。例えミリムに怪我をさせても、デイディに殴られても、魔法だけは捨てられなかった。昔旅の魔法使いに一命を救われたことがあって、それ以来、ずっと魔法使いに憧れていた。魔法の大系を作り上げた遥か昔の偉大なる魔法使いウィルシャに憧れ、その後、独自に魔術の大系を作り出した彼の息子ジェリスに憧れ、これまですべてを捨てて魔法一筋で生きてきた。
 自分には魔法しかない。魔法は生き甲斐であり、何よりも大事なものだった。
(強くなりたい)
 心からそう思った。
 ふと足を止めて、見上げると、自分の前に背の高い円形の塔が建っていた。低い町並みに一つだけ突出したこの建物は、『ウィサン魔法研究所』と呼ばれるもので、この街の数少ない魔法研究員たちが日々魔法の研究に明け暮れている。
 魔法に憧れるユウィルも、かつて一度だけここを訪れたことがあったが、その時は呆気なく門前払いをくって、追い返されてしまった。もっとも、ここはウィサン王家直下の施設なのだから、当然といえば当然である。得体の知れない子供を招き入れる余裕などあるはずがない。
(でも、強くなりたいなぁ。ここで魔法を勉強したい)
 しばらくそうして佇んでいる間にも、建物に幾人かの出入りがあった。日はどんどん落ちて、気が付くとすっかり闇に包まれた街に、ユウィルはぽつりと一人で立っていた。
「あたし……何してるんだろ……」
 帰ろう。そう思って踵を返したとき、ふと、自分の周囲がぽわりと明かりに包まれて、ユウィルは驚いて振り返った。
「どうしたんだい? お嬢ちゃん」
 そこにはいつの間にか、まだ若い、20歳くらいの若者が立っていて、どこまでも深く澄んだ瞳でユウィルを見下ろしていた。彼の周りには光の球が二つほど浮かんでいて、二人の足下を明るく照らし出している。
(魔法!?)
 ユウィルははっとなって顔を上げた。
「あ、あの、あなたは……」
「わたしはタクト・プロザイカ。魔法研究所の者だけど、君の持っているそれは、ジェリスの魔術書だね? しかもティーアハイムかヴェルクで売られているものだ。さらに言うと、正規の王国出版の第3巻。随分ボロボロだけど、何かあったのかい?」
 ユウィルは、にこにこと微笑んだまま早口に畳みかける若者に呆然となって、本を見下ろした。
 魔法の国ヴェルクの、王国出版の第3巻。
 まったくその通りだが、生憎そう書かれた部分は失われている。つまり、目の前の若者は、残されたこの部分だけでそれを判断したのである。
(すごい……)
 純粋にそう思った。そして、そんな若者に声をかけられたことに高揚する自分に気が付いて打ち震えた。
「あの、実は……」
 ぽつりと呟いて、ユウィルは突然現れた若者に何の不信感も抱かず、すべてを包み隠さず話した。友達を魔法で傷つけてしまったこと。その友達の兄に凝力石を取り上げられてしまったこと。そして、今度は大切な本を破られてしまったこと。
 タクトはユウィルが話し終えるまで黙ってそれらを聞いていた。
 すべてを話し終え、ユウィルが最後に、
「でも、悪いのはあたしなんです。あたしが未熟なくせに魔法なんて使ったから……」
 と付け加えると、タクトは少し微笑んで、そっとユウィルの頭を撫でた。
「どうやら君は、魔法を使うのに、二番目に大切なことを学ばなかったようだね」
「二番目に……大切なこと?」
 タクトは大きく頷いて、それから数歩下がってユウィルとの間合いを取った。
「いいかい? 例えばわたしの話だけれど、子供の頃に親からこんなことを教わったことがある。『火が水で消えることを知らないならば、火を使うな。火事になってからでは遅い』ってね。魔法も同じだ」
 そう言って、タクトは両手を前にかざして、魔力を増幅させた。
 凄まじい魔力が集まってくるのがユウィルにもわかった。砂が巻いて、風が起こり、空気が泣くような音を立てた。
「そう。ウィルシャ系古代魔法はこうして魔法の粒を集めて、それを放つ。けれど、それが爆発することがある。その瞬間、術者はしなければならないことがある。それが……これだ!」
 そう言って、彼はふと両手を下ろした。
 ユウィルは目を見張った。
 何も起こらなかった。何も、起こらなかったのだ。
「……魔法は?」
 ユウィルは震えながら尋ねた。タクトは確かに魔法を放たなかった。けれど、集まった膨大な魔法の粒は、爆発することなく消え失せた。
 呆然とするユウィルの許に戻り、もう一度そっと頭を撫でてやりながら、タクトが言った。
「今のがウィルシャ系古代魔法の基本、“受け流し”。集まってきて、爆発しそうになったり、溢れそうになった魔法を、咄嗟に別に形にして放出したり、元あった場所に戻す。素人では仕方ないけれど、わたしたちだと、これが出来ない者は魔法を使うことすら許されていない」
「…………」
 こくこくと、ユウィルは頷いた。
 タクトは再び笑顔を見せると、片膝をついて顔の高さをユウィルに合わせた。そして優しい声音で尋ねる。
「お嬢ちゃん、名前は?」
「あっ、ユ、ユウィル」
「そう。じゃあ、ユウィル。君にこれをあげよう」
 そう言って、タクトはユウィルの小さな手に、大きな石を握らせた。ユウィルは握らされた拳をゆっくりと開き、目を見張った。
「こ、これ、凝力石!」
 手の中には、うっすらと淡い緑色の光を放つ、大きな凝力石があった。前持っていたものの、5倍はある。
「ダ、ダメです。いけません。こんなもの、もらえません!」
 ユウィルがあたふたしながら慌てて返そうとすると、タクトはそっとそんなユウィルの手を取って、
「いいから、取っておくんだ」
 優しくその手を彼女のポケットに入れた。
「勉強のし直しだ。もっともっと勉強して、立派な魔術師になれ。ユウィルは今、一番いてはいけない場所にいる。ちょうど初めて短剣を買ってもらったばかりの子供のようにね」
 ユウィルは真顔で頷いた。タクトは少しだけ悲しそうに続けた。
「短剣も、切れば血が出ることを知らなければいけない。それで人が殺せることを知らなければいけない。上手に使わないと、自分が傷付くことすらあることを知らなければいけない。でも、それで木を削ることが出来る。果物の皮を剥くことが出来る。自分の身を守ることができる。上手に使えば、たくさんの人を助けることができる。わかるね?」
「はい」
「魔法でも、当然同じことが言える。魔法を使うのに一番大切なこと。それは何も魔法だけに限らない。物事の本質を理解し、正しく使う。難しいことじゃない。息を止めていれば人は死ぬ。生きるためにものを食べる。簡単なことだろ?」
 少しだけ冗談めかしてタクトが言うと、ユウィルの強張っていた頬が弛んだ。
「うん……」
「よしっ」
 タクトは満足げに頷いて、やおら立ち上がった。
「まあ、同じ街に住んでいるんだ。また会うこともあるだろう。何かあったらここへ尋ねてきなさい。わたしの名前とユウィルの名前を出せば出入りできるようにしておくよ」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ」
 ユウィルはあまりの嬉しさに、思わず礼を言うのさえ忘れて喜んだ。そして思い出したように何度も何度も頭を下げて、「ありがとうございました」と繰り返した。
「い、いいよいいよ、そんなにも。わたしは大したことはしていない。今言ったことはすべて、どこの国の学院ででも、入った初日に教えてもらえるようなことだよ。そんなに感動されると、わたしの方が怖くなる……」
 そう言って、一瞬タクトが遠い目をした。
「タクト……さん?」
「いや、すまない。ただ、昔を思い出してね。わたしも、君と同じような失敗をしたことがあったから……」
「…………」
 それ以上、タクトは何も語らなかったし、ユウィルも聞かなかった。子供ながらに、それ以上聞いてはいけないと、喉元まで出かかった疑問を奥へ押しやった。
ただ、何故タクトがついさっきまでまったくの見ず知らず他人だった自分に、こんなに構ってくれるのかを、少しだけ理解した。
「タクトさん、あたし、頑張ります!」
 余計な言葉は必要ない。ユウィルは溌剌として、出来る限りの微笑みを浮かべてそう言った。タクトはにっこりと微笑んだ。
「ああ。凝力石、今度は取られるなよ。わたしは友人からただでもらったものだが、買えば高いものだからな」
「は、はい!」
「じゃあ」
 最後に小さく手を振って、タクトは光の球と一緒に歩いていった。
「本当にありがとうございました!」
 ユウィルは大きな声でそう言って、深く頭を下げた。そして、彼の姿が見えなくなるまで、そうしてそこを動かなかった。

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