■ Novels


小さな魔法使い
魔法使いに憧れる少女ユウィルは13歳。湖の街ウィサンに、最近引っ越してきたばかり。湖には化け物が棲んでおり、ユウィルはひょんなことから、たった一人でこれと戦うことになる。

 凪いでいた。真っ黒な湖面にぽっかりと月が浮かび、星が点々と輝いている。もう一つの空がそこにはあった。遥か島影が黒く静かに佇んでいる。周囲に色はない。黒と明度だけの景色。極かすかに波の音がする。
 そんな砂辺に、デイディは膝を抱えて座っていた。顔は湖面を向いていたが、視線は宙を彷徨っていた。
 孤独。
 その一文字が重く彼の心にのしかかっていた。
「ミリム……」
 呟いた声は、少しだけかすれていた。
 昼に見た、ミリムの怒った顔が目に浮かぶ。自分がユウィルをけなしたときの妹の顔が。
「どうして……ミリム……」
 いつも一緒にいたミリム。兄を慕い、頼り、なついていた妹。けれど、ユウィルが越してきてから、少しだけそんなミリムの様子が変化した。女友達が見つかったからなのだろう。ミリムの心が自分から遠ざかったような気がした。
 ユウィルが憎い。
「……嘘だ」
 ユウィルは憎くない。そして、嫌いでもないと思う。
 何故ユウィルがミリムに怪我させたのかはわからない。自分には、まったく魔法の知識がない。ただ、あのユウィルがいきなりミリムを攻撃するとは思えない。怪我を負わされても、なおミリムはユウィルを好いている。それは間違いない。
 避けられているわけではないが、あの二人の間には、もはや自分の入り込めない領域が出来上がっている。自分の知らないミリムがいる。それが、無性に悲しかった。
 自分はユウィルに妬いている。
「くそっ……」
 自分は嫌なヤツだ。自分でもわからないもやもやした気持ちを、妹とユウィルに叩き付けている。でも二人は、決してそんな自分を嫌うことなく、それを受け止めてくれている。自分はそれに甘えて、また同じことをしてしまう。
 堂々巡りだ。
 このままではいけない。ミリムだっていつまでも子供ではない。ユウィルとも早く仲直りしないと、ユウィルはいつかこの街を嫌いになってしまうだろう。あの魔法好きな少女は、どれだけいじめられても、魔法を心の拠り所にして堪え忍んできた。けれど自分は、そんなユウィルから凝力石を奪い、そして今日、取り返しのつかないことをしてしまった。
 拠り所を失った彼女は、今頃ベッドの上で一人で泣いているかも知れない。自分を怖がって、もう外に出てこなくなるかも知れない。笑うことができなくなってしまったかも知れない。
「……最低だ……」
 どうすればいい。どうすれば……。
 デイディは心の中で叫びながら、顔を上げた。
 大きな丸い月が空に浮かんでいる。散りばめられた星屑。ほのかに照らし出された周囲の風景は、夜闇の中で静かに朝を待っている。
 深い紺の世界が涙でぼやける。 
 スノートウィスの湖は、いつもと変わらず自分の眼前に広がっている。街がいくつも入る、大陸のように大きな湖だ。
 雄大な自然。もしあの空が街で、星が人であったなら、空から見た自分は、この無数の星の中でしっかりと輝いているだろうか。
 一つ一つの小さな生命。それが集まることにより、天の川のように美しく輝くことが出来る。ミリムもユウィルも、すべての人が生き、輝いている。
 そのどの一つとて、欠けてはいけない。欠かしてはいけない。
 少しだけ、元気が出てきた。
「謝ろう。もう、許してくれないかも知れないけど、ユウィルに謝ろう。恨まれても、自分はそれだけのことをしてしまったんだからしょうがない……」
 ようやく吹っ切れた気がする。
「よしっ!」
 デイディは持ち前の元気で立ち上がった。
 少し長くい過ぎたようだ。今頃家で両親が心配しているに違いない。
 デイディは急いで帰ろうとした。その時、ふと気が付いた。
(風が……ない?)
 今までまったく気にならなかった。
 今夜は風が出ていない。木々のざわめく音も、波の音もしない、静寂の世界。
 空には大きな月。満月ではないが、限りなくそれに近い。
「…………」
 その時になって、初めて彼は、自分がいてはいけない時間に湖にいることに気が付いた。月の煌々と輝く凪の夜。過去、神出鬼没の化け物は、すべてこの二つの条件が合わさったときに出現している。
「帰ろう!」
 デイディは青ざめ、慌てて湖に背を向けたが、わずかに遅かった。
 先程まで明るかった自分の周囲が、いつの間にか影に包まれていた。
「雲……じゃ、ねえよな……」
 恐る恐る振り向き、空を見上げると、そこには自分の背丈のゆうに10倍はありそうな巨大な蛇の化け物が、湖の中からまるで塔のように空高くまで首を伸ばして、真っ赤な光を放つ目で彼を見下ろしていた。
「あ……ああ……」
 デイディは尋常ならざる怪物を前に、ヘナヘナと地面に尻をついた。
(ダ、ダメだ……)
 化け物は、特別咆哮したりはしなかった。ただ、人が一人立って入れるほど大きな口を開け、ゆっくりと顔をデイディに近付けてきた。
 覗かせる薄汚れた白い牙に、ねっとりとした唾液と思しき液体が付着していた。
 デイディはもはや動くこと能わず、ただゆっくりと訪れる死を、ビクビクと震えながら待つことしか出来なかった。
 そして、まさにその牙がデイディの身体を引き裂かんとしたその時、
「デイディ!」
 聞き慣れた少女の声と共に、光が一閃し、化け物の口に突き刺さった。
 グォウゥオオォォォォォォオオオォォォォォォォォォォォォォォォ……。
 低い唸り声を上げて、化け物がその首を空に持ち上げた。
「ユ、ユウィル!」
 デイディは振り向き、走ってくる少女の姿を見ながら、両脚でしっかりと砂を踏みしめた。
「デイディ!」
 ユウィルは再び大きな声で彼の名を呼ぶと、化け物の前に立ちはだかった。
「ユウィル」
「逃げて、デイディ!」
 ユウィルは振り向かず、ただ化け物を見据えたまま背後のデイディにそう言って、左手でしっかりと凝力石を握りしめた。

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